某の日々是好日

本来無一物。身一つあれば何とでもなる

長久手古戦場

2019年04月13日 18時05分30秒 | 史跡めぐり


天正12年(1584)4月9日、羽柴(後の豊臣)秀吉と徳川家康が唯一直接対決した合戦「小牧・長久手の戦い」がこの地でありました。
本能寺の変で倒れた織田信長の後継者争いに端を発した政争の中で、立場を強めていく秀吉。脅威を感じた信長の次男信雄(のぶかつ)は、織田家同盟者の徳川家康に助けを求め、家康もこれに応じたのです。
3月に挙兵した両軍は、しばらく小牧でにらみ合いましたが、先に動いたのは秀吉軍でした。家康の本拠地岡崎を攻めるため、三好秀次を総大将とする別動隊を送りましたが、その動きを察知した家康も軍を動かし追撃したのです。こうして4月9日、長久手で激しい戦闘がおこりました。
この戦いで、秀吉軍は池田恒興(勝入)・元助(庄九郎)の父子、“鬼武蔵”と呼ばれた森長可など有力な武将を失い、家康軍が勝利しました。しかし、その後、秀吉は信雄と和睦、家康を傘下に入れ、信長の後継者としての地位を確立しました。
なお市内には、長久手合戦ゆかりの地が、国指定史跡(勝入塚、庄九郎塚、武蔵塚、御旗山、色金山、首塚)や市指定史跡として点在しています(色金山歴史公園 古戦場公園パンフレットより)





勝入塚。

池田恒興(1536-84、庄三郎、信輝、勝入斎)の戦死の場所と伝えられています。
恒興は美濃(岐阜県)大垣城主で、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの時は秀吉に味方しました。この戦いの中、小牧山(小牧市)と楽田(犬山市)で家康と秀吉が対峙したとき、家康の本拠地の岡崎攻めを秀吉に進言し、自ら軍を率いて侵攻しました。しかし、途中、岩崎城(日進市)を攻めるのに手間どり、家康軍先遣隊に追撃の機会を与えてしまいました。
結局この地で家康の本隊と会い、仏が根の戦闘で戦死しました。
恒興は、天正8年(1580)入道し、勝入斎と名乗りました。塚名はこの法名にちなむものです(案内板より)。


   





庄九郎塚。

池田之助(1564-84、庄九郎、元助、紀伊守)の戦死の場所と伝えられています。
之助は池田恒興の長男で岐阜城主、天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの時は、父に従って参戦しました。父や義兄(森長可)とともに家康本拠の岡崎奇襲を企てましたが失敗し、戦死しました。残された一子元信は、秀吉の馬廻に取り立てられ、その後秀頼に仕えましたが、大阪城落城前には本家池田輝政(之助の弟)の家来になりました。
塚名は之助の幼名庄九郎にちなんで名付けられたものです(案内板より)。
 





武蔵塚。

森長可(1558-1584、庄蔵、武蔵守)の戦死の場所と伝えられています。
長可は美濃(岐阜県)金山城主で、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの時は、秀吉に味方しました。舅 池田恒興らとともに、家康の本拠地岡崎を突こうとして失敗し、4月9日の仏が根の戦闘で戦死しました。
長可は、天正10年(1582)の本能寺の変で、信長とともに落命した蘭丸の長兄で、勇猛果敢な武将として知られています。
塚名は、長可の異名鬼武蔵にちなんで名付けられたものです(案内板より)。
 

 



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