本日も京都で某母校で哲学対話の授業へ参入。
最初に「黙想&礼」(なんと懐かしい)をおこなった後、
対話の例として私と研究室の子二人で対話を行ったが(今回は問答)、
私の論理の飛躍が明白に甚だしい。
これってそばで記録しているプラトン(筆記役)なら気づくことも多いのだが、話している当人だとどうしても進行中見逃しやすくなる。
今回もこれがまさしく地雷を踏んでしまい、
「どうして~がつらいのか?」という問いに対する問答の途中での答が
「私が心の中で思っているつらいことが・・・だからだ」
といつの間にかトートロジーに。
・・・
・・・・
まあ理由を問われたときに循環論法になることはよくあること!(逃
・・・・・
・・・・・・
それに、トートロジーはある種歴史的に名言として記録されていることが多い気がするし(さらに逃
マロリーの言とか象徴的では無かろうか(厳密には循環してないとかのご意見はアナザーディメンション
また、考えようによっては、いかなる問答も循環にならざるを得ないという見方もできる。
例1、「どうして人はあれこれと指摘することを好むのだろう」
「これだよ。」
例2、「なぜ人間は悲しくなるのだろう」
「悲しいな。」
・・・・
・・・・
「だな。」
「だな。」
な?(どこがトートロジー
最初に「黙想&礼」(なんと懐かしい)をおこなった後、
対話の例として私と研究室の子二人で対話を行ったが(今回は問答)、
私の論理の飛躍が明白に甚だしい。
これってそばで記録しているプラトン(筆記役)なら気づくことも多いのだが、話している当人だとどうしても進行中見逃しやすくなる。
今回もこれがまさしく地雷を踏んでしまい、
「どうして~がつらいのか?」という問いに対する問答の途中での答が
「私が心の中で思っているつらいことが・・・だからだ」
といつの間にかトートロジーに。
・・・
・・・・
まあ理由を問われたときに循環論法になることはよくあること!(逃
・・・・・
・・・・・・
それに、トートロジーはある種歴史的に名言として記録されていることが多い気がするし(さらに逃
マロリーの言とか象徴的では無かろうか(
また、考えようによっては、いかなる問答も循環にならざるを得ないという見方もできる。
例1、「どうして人はあれこれと指摘することを好むのだろう」
「これだよ。」
例2、「なぜ人間は悲しくなるのだろう」
「悲しいな。」
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「だな。」
「だな。」
な?(どこがトートロジー