順風ESSAYS

日々の生活で感じたことを綴っていきます

友情課題

2008年06月04日 | essay
「だって嫌だから…」

好き嫌いが説得力のある理由になるのなら、就職や入試で志望理由をどう書くか苦労することはない。納得のいく説明をするには、さらに「なぜ?」と問うてみて具体化してみる必要がある。

知人が自分のいないところで噂話をしているという事実を嫌う人がいる。今ではゼミの名簿を作るだけでも「プライバシーが…」と言う人がいるくらい自意識が高まっているから、まず自分のことを自分でコントロールできないという点で不愉快になるのだろう。また、自分を過大評価していることが通常だから、マイナスな評価が含まれていた場合、自己イメージが傷つけられ耐えられなくなるのだろう。

しかしそんな嫌がる人でも、他人の噂話をしない人はほとんどいない。ついさっきまで誰かの(時に厳しい)批評をしていたかと思えば、色々噂されて嫌だと嘆く。ただ自分と同じように皆振舞っているだけじゃないかと指摘すると、驚かれる。この相反する態度は、ラッセルも"One of the most universal forms of irrationality"と形容している。

なぜこの当然のことに気がつかないのか。それは多分、特に意識することなく自然と噂話をしてしまうからである。自分と社会関係のある人が敵か味方か判断しようとするのは本能的な行動である。「どういう人かわからない」という状態は警戒感を生み、四六時中警戒しながら暮らしていくのは耐えられないから、親近感を得るためにある程度の情報を集める必要がある。

ここで用いられるのが噂話で、社会秩序の維持にも使われる。そもそも「ゴシップを話すために人間は言語を獲得した」とする説があるくらいだ(ダンバー)。ヒトが毛づくろいではカバーしきれない大集団を形成するにあたって社会関係の維持の道具として発達させたのが言葉だ、ということで、専門外だが私も共感を覚える。だって、意識的に訓練しなかったら、論理的に言葉を操る能力は備わらないでしょう?軽い話題を話すためにあるとみるのが自然だろう。

誰もが噂話をする。基本的な部分は人間誰もが同じである。このことに気がつくと怒りが収まるのが普通だが、それでも許せないとしたら、(1)自分は悪評を立てられない特別な存在であると思っているか、(2)自分については全ての事情を知っているから大目にみるが、他者に対しては違う、ということであろう。これに対しては、先に挙げた嫌悪の原因、高い自意識と自己の過大評価を調節する必要があるだろう。思うに、体力的にも環境的にも自己の万能感が最高潮になるのは大学2年の頃だ。その後就職など将来を明確に意識し始めて調節されていく(もちろん、個人差は大いにある)。

私自身、以上のことに気がついたのは大学3年の秋であり(ブログの記事にしている)一応の整理をつけている。このためだろうか、日常生活は穏やかで、滅多に怒らず、人当たりもまあまあ良くなっている。しかし一方で、噂話を自然なことと思っているがため罪悪感をあまり抱いておらず、だんだん親しくなってきて、飲み会の席などで厳しい(と評価される)ことを言ってしまうこともままある。この二つの態度に以前紹介した「帰属の基本的エラー」(ある行動につき当人の心や性格のせいだと勘違いしてしまうこと)を代入すれば、「表面的には優しいけれど…」ということになってしまう。

「なぜ?」を問い一貫した価値観を作ってみたらとても誉められない状態になってしまう。現状では、まだ完成したとは言えない。


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