昨夜、スーパーで半額になっていたので恵方巻を買って食べた。それでも多く余っていたから廃棄が出るだろう。恵方巻は長持ちせず、廃棄が社会問題になっている。仕掛けている側の理屈は廃棄ロスより機会ロスが大きいということである。そういうことなれば、廃棄ロスを極大化させて機会ロスを上回らせて経済的に見合わなくさせることが考えられないだろうか。廃棄物処理制度において特定企業規模以上の小売店での食品廃棄に数千万とか費用を課すようにしたらどうか。そんなことを思った昼下がり。
春闘の賃上げのニュースで国際競争の観点から簡単には上げられないとの現場のインタビューが出ていた。これを見て、競争といっても人材獲得競争の圧力が低いということなのかなと感じた。外部労働市場活性化については、解雇規制緩和がよく主張される。しかし、これで内部のミスマッチを解消して橋渡しがされればいいものの、メンバーシップ雇用の下他で通用するキャリア形成がされていなかったり、求められる労働者像がそこまで多様でなかったりする中では、大勢の人が放り出されっぱなしになる危険があるように思う。放り出された人たちが何とか自助努力で模索するうちに解消していくという発想は、法曹養成の分野で正に失敗と言われているところである。そこで思ったのは労働者側にとってポジティブな移動である引抜きを活性化することだ。例えば、金銭的に換算された労働条件が1.5倍以上であれば、不正競争防止や種々の契約上の引抜きの制約を免れたり緩められたりするといった感じである。個別の経営上の利益より労働条件の向上が政策的重要性を上回るという価値判断になる。プロ野球のジャイアンツがかつて他チームのエースを高額報酬で引き抜いて弱体化させるといった戦略をとっていたように、人材獲得競争の圧力が高まる。そうすると、中核労働者を始めとして労働条件を上げることが正に競争のために必要になる。金銭的に換算する式で長期雇用保障がある場合のポイント率を上げたり状況に合わせてさじ加減をすることで、柔軟に対応もできるのではないか。個々の労働者も1.5倍転職を重ねることを目標にキャリアアップのモチベーションも上がるかもしれない。そんなことを考えた冬の電車の中。
欧米のニュースサイトで日本に関係するものを見ると、捕鯨を扱うものが目に付く。日本ではほとんど関心が寄せられない話題であり、温度差を感じたものだった。しかし最近では、シーシェパードの妨害活動があり、また、日本の捕鯨を扱った映画「ザ・コーヴ」がアカデミー賞を受賞し、日本で上映するかどうかについて抗議が行われるなど、日本においてもにわかに注目を集めることとなった。
私は、牛を神聖なものとする人たちがいるように鯨を神聖なものとする人たちがいて、傲慢にもその価値観を押し付けてきているだけ、みたいな感じで割り切っていた。しかし、緊張が高まっている現在、相手が何を意図しているかを正確に知り、どうやって説得するかを考えていくことが必要になっている。その手がかりとして、次の雑誌の特集は非常に参考になるものであった。
DAYS JAPAN 2010年8月号 特集「イルカを獲ってなぜ悪いのか」
この特集のタイトルは、ともすれば「捕鯨の悪い部分を解説します!」といった捕鯨反対派からのメッセージのような印象を与えかねない。嫌なものは見たくないのが人間の心情なので、それだけで手に取るのをやめてしまうかもしれない。しかし少し冷静になって見てみよう。タイトルは「」かぎカッコ付きであり、一歩引いた客観的な視点から見ることを意図している。また、表紙の写真は軍人とヒレに機械をつけたイルカの様子であり、イルカの軍事利用というあまり知られていないテーマについて光を当てるものである。特集の記事を見ると、映画に関して、以下の疑問について答えを得ることができる。
「ザ・コーヴ」はどのような内容の映画なのか?
そこでイルカを獲ってはいけない理由はどのように描かれているのか?
映画の構成・制作者の意図にはどのような問題があるのか?
漁民が悪役として描かれるに至る背景には何があったのか?
映画の撮影手法にはどんな問題があるのか?
漁協と町役場が映画の配給を止めるように抗議した理由は何か?
特集では他にも、捕鯨に関わる問題として、イルカの軍事利用が取り上げられている。機雷探知のためロシア・
ドイツ・アメリカ等がイルカを用いているという。イルカの知性を強調し「捕食」を批判するのなら、自らの国が行っているイルカの「強制労働」も同時に批判するべき、といった観点からの取り上げ方であろう。また、捕鯨を推進する日本の方針についても、調査捕鯨を隠れ蓑にしたやり方の問題点、説明不足の点について指摘を加え、映画について一定の評価も与えている。
掲載されている写真については、キャプション(説明文)の効果について考えさせられるものがあった。イルカが真ん中にいて、海の右下が赤く染まっている様子を写した写真がある。この写真が最初に掲載された英ガーディアン紙では、「日本での捕獲時期が到来し、イルカ虐殺で海が真っ赤に」というキャプションがつけられた。DAYS JAPANにおいては、「追い込んで捕獲し、ナイフで殺処理をしたあと、海中でイルカの血抜きを行う漁師」というキャプションがつけられている。この二つの文の違いで、読者が受ける印象というのは大違いである。写真はありのままを写していると思う受け手が多い分、印象操作に対して脆弱である。慎重な読み取り方が必要なことが改めて認識させられる。
この映画に関しては、上映を決めた映画館に対して抗議が行われ、取りやめる映画館が出るなど、大きな問題となった。雑誌の冒頭のTopicsでは抗議活動の様子の写真も掲載されている。取りやめを求める理由については本特集でも取り上げられているので立ち入らない。法的な問題をクリアしていることを前提とした上で言うと、映画を見る動機としては、相手の主張を知り説得的な批判を考えるため、というものがあり、誰もが映画の趣旨に賛同するから見るというわけではないという点は認識されるべきであろう。表現規制の問題でもそうであるが、受け手の判断力を信頼するかしないか、また、問題の相手方に対して議論で説得できることを期待するかしないか、に賛成と反対の分かれ目があるだろう。私はまだ、これらの点について信頼と期待を抱いている。
本雑誌は「ザ・コーヴ」が上映される映画館の中にも配置され購入できるとのことだ(参考)。金欠で出不精な私は映画を観にいく予定はまだないけれども、映画とセットでこの問題について考えることを勧めたい。
【参考リンク】映画「ザ・コーヴ」オフィシャルサイト/ニュース記事(シネマトゥデイ)

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私は、牛を神聖なものとする人たちがいるように鯨を神聖なものとする人たちがいて、傲慢にもその価値観を押し付けてきているだけ、みたいな感じで割り切っていた。しかし、緊張が高まっている現在、相手が何を意図しているかを正確に知り、どうやって説得するかを考えていくことが必要になっている。その手がかりとして、次の雑誌の特集は非常に参考になるものであった。
DAYS JAPAN 2010年8月号 特集「イルカを獲ってなぜ悪いのか」
この特集のタイトルは、ともすれば「捕鯨の悪い部分を解説します!」といった捕鯨反対派からのメッセージのような印象を与えかねない。嫌なものは見たくないのが人間の心情なので、それだけで手に取るのをやめてしまうかもしれない。しかし少し冷静になって見てみよう。タイトルは「」かぎカッコ付きであり、一歩引いた客観的な視点から見ることを意図している。また、表紙の写真は軍人とヒレに機械をつけたイルカの様子であり、イルカの軍事利用というあまり知られていないテーマについて光を当てるものである。特集の記事を見ると、映画に関して、以下の疑問について答えを得ることができる。
「ザ・コーヴ」はどのような内容の映画なのか?
そこでイルカを獲ってはいけない理由はどのように描かれているのか?
映画の構成・制作者の意図にはどのような問題があるのか?
漁民が悪役として描かれるに至る背景には何があったのか?
映画の撮影手法にはどんな問題があるのか?
漁協と町役場が映画の配給を止めるように抗議した理由は何か?
特集では他にも、捕鯨に関わる問題として、イルカの軍事利用が取り上げられている。機雷探知のためロシア・
ドイツ・アメリカ等がイルカを用いているという。イルカの知性を強調し「捕食」を批判するのなら、自らの国が行っているイルカの「強制労働」も同時に批判するべき、といった観点からの取り上げ方であろう。また、捕鯨を推進する日本の方針についても、調査捕鯨を隠れ蓑にしたやり方の問題点、説明不足の点について指摘を加え、映画について一定の評価も与えている。
掲載されている写真については、キャプション(説明文)の効果について考えさせられるものがあった。イルカが真ん中にいて、海の右下が赤く染まっている様子を写した写真がある。この写真が最初に掲載された英ガーディアン紙では、「日本での捕獲時期が到来し、イルカ虐殺で海が真っ赤に」というキャプションがつけられた。DAYS JAPANにおいては、「追い込んで捕獲し、ナイフで殺処理をしたあと、海中でイルカの血抜きを行う漁師」というキャプションがつけられている。この二つの文の違いで、読者が受ける印象というのは大違いである。写真はありのままを写していると思う受け手が多い分、印象操作に対して脆弱である。慎重な読み取り方が必要なことが改めて認識させられる。
この映画に関しては、上映を決めた映画館に対して抗議が行われ、取りやめる映画館が出るなど、大きな問題となった。雑誌の冒頭のTopicsでは抗議活動の様子の写真も掲載されている。取りやめを求める理由については本特集でも取り上げられているので立ち入らない。法的な問題をクリアしていることを前提とした上で言うと、映画を見る動機としては、相手の主張を知り説得的な批判を考えるため、というものがあり、誰もが映画の趣旨に賛同するから見るというわけではないという点は認識されるべきであろう。表現規制の問題でもそうであるが、受け手の判断力を信頼するかしないか、また、問題の相手方に対して議論で説得できることを期待するかしないか、に賛成と反対の分かれ目があるだろう。私はまだ、これらの点について信頼と期待を抱いている。
本雑誌は「ザ・コーヴ」が上映される映画館の中にも配置され購入できるとのことだ(参考)。金欠で出不精な私は映画を観にいく予定はまだないけれども、映画とセットでこの問題について考えることを勧めたい。
【参考リンク】映画「ザ・コーヴ」オフィシャルサイト/ニュース記事(シネマトゥデイ)

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「orz」というのは、人間が落ち込んでる様子を表しているとされる。しかし見ようによっては陸上のクラウチングスタートの態勢に今から入ろうかという様子だとも言えるだろう。物事は成功するに越したことはないが、常に成功するとは限らず、失敗はつきものである。失敗から再びスタートを切れる環境を作ることが大切である。法律は、トラブルを事前に防止するとともに、トラブルを社会的に決着させることにより関係者に再スタートを切るきっかけを提供するものである。
以前日本の選抜システムについての議論を紹介したことがあったが、「学生」の選抜システムは再スタートのチャンスが非常に多い仕組みになっている。受験のメインである一般入試では本番の一発勝負で決まることがほとんどで、どれだけ立派な来歴があって勉強をちゃんとしてもその日の諸事情で落ちることもあれば、来歴では不利でもその日の諸事情で合格を勝ち取ることもある。その結果、いくら勉強しても安心できず無限の努力が求められて受験生の過度なストレスを生むと同時に、一発逆転を狙う希望ある挑戦者が存在している。まとめれば「上下に開かれたランダム性」が存在していると言えよう。
それに対し、「社会人」の競争環境では、就職に際しては来歴で決まる部分が大きくなり、その場での一発逆転というのは難しい。もはや変えることができない過去の穴を突かれて拒絶されることが多く、再スタートは容易でない。その一方で、就職した後は従前の来歴が通用しない学生と同様のランダム性の環境が用意されている。従前であれば就職すれば生活の保障が長期間得られ企業の成長も期待できたが、現在はそういうわけにもいかない。そして、派遣村等で貧困が社会問題化し、脱落への恐怖が非常に高まることとなっている。これをまとめれば「下に開かれたランダム性」が存在していると言えよう。
このような環境の下では、一定の地位を得た者は、脱落への恐怖に脅え、とにかく現状維持の守りの人生を選択し、生活はできているけどどこか空虚で自分の人生を生きた気がしない、でも世界の貧困の現場をみるとこうしていられることが幸せなんだなあとたまに気がつく、といった感じの生活を送る。一方で、脱落してしまった者は、再スタートの道筋が見えず、今さらどうしようもないという諦めに近い感覚を抱くだろう。日本人の幸福度が低いというのはよく話題になるが、こういう背景があるのではないか。みんなそれなりに不幸を抱えているということで平等な社会とも言えるが、ベストな社会のあり方ではないだろう。
ではどうすればいいか、という話になると考えが及んでいないが、上へもランダム性を開くということがひとつの考え方であろう。「友愛」は上から目線の善意で階層の固定化を象徴しているという話があったが(参照)、確かに民主党を支持した人でも自らの地位が脅かされることまでは想定しておらず、危険になると猛烈に反対するということが事業仕分けの議論で見え隠れした。派遣村に頼るしかない人にせめて人並みの生活をという善意によるものであったのだろうが、せいぜい人並みというのは希望をかきたてるには不十分だろう。orzの体勢から再スタートされる全力疾走は、「せめて人並みに走れる」というだけでなく「場合によっては日本記録も生まれる」可能性を秘めたものでなくてはならない。

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「そうして休んでいる間に、男や女を諦めた人達に何歩も先を行かれるってワケね」
北崎拓「さくらんぼシンドローム」3巻より
結婚相手に求める年収というのは、基本的に女性が男性に求めるものとして扱われている。男性の中には、年収で値踏みされることに不愉快に思う人も多いかもしれない。しかし、女性が男性の経済力を条件に挙げるには、そうせざるを得ない事情があるだろう。昔からの労働環境は、私生活を投げ捨てて働く男性(夫)と家庭を全面的に支える女性(妻)という役割分担を前提に設計され、賃金も男性には一家全員を扶養できる額が与えられるが、女性はそうでない、という状態であった。母子家庭が類型的に貧困に陥りやすいのもこれが原因である。こうなると、女性が自力で経済的にいい暮らし得ることが難しく、男性に依存せざるを得なくなり、経済力が男性選びの指標として大きな意味を持つことになる。
もっとも、知的労働が主流となった現在においては、仕事(ジョブ)の遂行能力という点においては、男女で明確な差はなくなっている。法律業の方面では根気強さと表現力が多く求められるので、むしろ女性のほうが強いのでは、と思うくらいだ。しかし現実には、男女の格差というのはなお存在している。既存の男性像に適応した価値観である「仕事>>私生活」はなお強い力を持っており、男女平等が図られているといっても、「男性並みに働く女性」を認めるにとどまることが多い。この環境下では、私生活を投げ出して長時間労働と転勤に対応できる管理しやすいメンバーシップを提供できるかどうかが人材評価で重要な指標となるため、女性にはどうしても人生設計上の無理が出てきてしまう。
そして、男女ともに私生活を投げ出す働き方をすると、子供を育てる余裕がなくなり少子化が引き起こされ、仮に子供を設けても家庭の教育力が下がることになるなど、社会問題につながっていく。したがって、真の意味で平等を図り、個人の能力を有効に社会に役立てる環境を作り、また現在生じている家族問題に希望を見出すには、労働者間の競争のスタンダードをせめて「仕事=私生活」として、男女ともに同じくらい働いて家事をするという関係のあり方が社会に適合しやすいように誘導していく必要があるように思う。もっとも、従前の価値観に立脚して人生設計をしている人たちが多数存在するわけで、どのように調整していくかは非常に困難な問題があり、到底うまくいきそうにない。
このように労働にまつわる制度と価値観は容易に変更することができないが、個人の私生活の中身の次元では、すでに大きな変化が生じている。先日の朝日新聞によれば、草食男子に代表される昨今の「○○男子」は、旧来の「男子かくあるべし」という枠にとらわれない、新しい男性像が広まっていることの象徴として位置づけられるようだ。法科大学院での実務家教員ではワークライフバランスを実践できている先生が学生の人気を強く得るし、「類は友を呼ぶ」だけかもしれないが、男同士の会話で「将来仕事上リスクを背負った決断をするかもしれないし子育ても十分味わいたいし、相手は自立して仕事を続けていける人がいいよね」なんて話になることもあり、自分の身の回りでも旧来の「男子かくあるべし」から離れてきているなと感じる。
こうした新しい価値観は、「男女ともに雑食」を最終的な理想としているだろう。しかしこれが生活全体に定着するためには、先に述べたように、現在の労働環境では男女のどちらかが旧来の男性のような生き方をしないと生活の維持が難しいので、労働環境も変化していくことが条件となる。その変化の過程では、男性側から「結婚相手に求める年収」を強く主張することがあるかもしれない。これを先取りして、「自分は600万くらい、相手は400万くらい稼いで、合わせて1000万の生活が理想」といったことを堂々と公言する男性タレントやTVドラマの主人公・女性向けマンガの男性キャラクターが登場すれば、社会にインパクトを与えることができるのではないだろうか。すぐに実践・実現できる立場にある方、ぜひともそういう売り出しの企画や物語の制作をしてください!

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いつも選挙後に感想を書いているので、今回も書くことにする。
バッファープレイヤーとアナウンスメント効果
大学の政治の授業では日本の有権者の投票行動として「バッファープレイヤー」という用語が使われていた。これは、野党第一党であった社会党に政権をもたせる気はさらさらないが、自民党が政策で失敗をすると懲らしめるつもりで与党の座を追われない程度に議席を減らそう、という行動をする有権者を表したものだ。1990年代から野党の中にも政権担当能力があることをアピールする政党が登場し、今回ようやく国民の期待を得て、政権交代という結末になった。与党にセカンドチョイスが生まれたことで、バッファープレイヤーは消失するだろう。小選挙区制の導入から打たれた布石が15年以上経って結実した。
アナウンスメント効果は、事前の情勢報道をみて投票行動に変化が生じることをいうものだ。今回は「民主党が300議席以上の大勝」が報じられた。揺り戻し―勝ちすぎを警戒した有権者が投票先を変える流れ―は起こらなかった。これは、政権交代という現状の変革を伴う初めての選択をする場合には勇気が出にくいものだが、情勢をみて「望んでるのは自分だけじゃない」と勇気づけられた結果だと思う。そして、民主党が良くも悪くも多様な政策志向を持つ人材を抱えていることから、政策が極端に偏る危険性はないだろう、という安心感があったのではないかと推測する。
今回自民と民主で約200議席が入れ替わったことで、「もし期待を裏切ったなら容赦なく落とすよ!」と言うことができるようになった。これは政権担当者へ緊張感をもたらすだろう。その一方で、政権与党は多数の議席で安定した政権運営をすることができる。個人的にはこれが健全なあり方だと思う。日本は権力に見合った責任が伴わない場面が多いのだが、政治の場面では一歩進んだ感じだ。
ボートマッチと政策選択選挙
過去の選挙と比較すれば、今回は政策志向が一番強い選挙だったと思う。テレビではマニフェストを比較する特集がよく行われていたし、バラマキに批判的な「みんなの党」が比例で予想外の大量得票を得ており、投票した人は政策を見て判断したと推測することができる。読売新聞や毎日新聞のサイトではボートマッチという、主要な政治争点について自分の立場を入力し、その争点についてどれほど重視するかも入力すると、政党が掲げる政策との親和度を表示してくれるサービスが提供されていた。他にも、ポリティカル・コンパスという、自分の政治的立ち位置をみるサービスもあった。
自分の考え方は「財政はスリム化・経済は自由化を基本とすべきだが、社会保障が国民に信頼されていないとうまく機能しないので建て直しが急務」「憲法9条には固執せず核武装もありうるが、反対の人の気持ちもわかるし特に重視しない」「個人の思想や私生活の自由は最大限尊重すべき」という感じで、ボートマッチで判定するとピッタリはないが民主や社民に近く、立ち位置は強めのリベラルと弱めの左派という感じになるようだ。選挙後でも利用できるようなので、試してない方がいたら毎日ボートマッチ(えらぼーと)をどうぞ。自分の投票を振り返ってみるのもいいだろう。
野党としての自民党
首相は衆議院解散の記者会見から民主党の政策を批判するのにかなりの時間を割き(自民党のマニフェストができてなかったこともあるが)、選挙期間中も多くの民主党批判があり、インターネット上でネガティブ・キャンペーンも展開した。本来なら与党が議論の土台となる政策を提示するものだが、まるっきり逆になってしまった。政権ではなく政策を、という自民党のキャッチフレーズがあったが、与党はこれまで政策を実践できる立場にあったのだから「今までの政策に不満だからこうなっているのに」と批判されるのではと思った。
政策と言えば、郵政選挙で「小さな政府」を支持して投票した有権者は麻生首相が掌を返したために離れてしまった。世論の空気を読んで選挙で掲げた根本的な事を改めて選挙をせずに覆すのは包括政党らしさが表れているが、前の選挙で地方の基盤が崩れており、どっちつかずになってしまった。終盤は国旗がどうとか保守的で理念的な問題で勝負をかけたが、これは熱狂的な支持者を得る反面、ゆるい一般的な支持は得にくいものだと思う。国旗を汚されたら気分はよくないものの、当事者を執拗に糾弾するのは行き過ぎじゃないか、という人が多いだろうし、政治課題の中で優先順位は高くないようにみえる。
さて、野党として自民党がどうなるか、保守色を強めるという方向が有力のようだ。小さな政府・構造改革路線継続を志向する議員は軒並み小選挙区で敗れて比例で復活という状態で、主導権をとるのは難しいだろう。そうなると経済・財政・社会保障・雇用という場面では明確な対立点を形成できず、安全保障面で民主党政権の行き過ぎを止める役割を担うのではないかと思う。しかしこれだけでは二大政党と言うには心許ないので、いずれ自由化路線で経済政策を掲げるようになって欲しいと個人的には思う。
投票について
小選挙区では民主党の候補者が圧倒的に強かったので選択の余地はなかった。比例では社民党の名簿1位の保坂展人氏にはこれからも議員を続けて欲しいと思ったので社民党にしたが、議席確保に至らなかった。小選挙区で10万票・比例でも20万票入っていて当選できないとは、少数政党は厳しいなと感じた。

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バッファープレイヤーとアナウンスメント効果
大学の政治の授業では日本の有権者の投票行動として「バッファープレイヤー」という用語が使われていた。これは、野党第一党であった社会党に政権をもたせる気はさらさらないが、自民党が政策で失敗をすると懲らしめるつもりで与党の座を追われない程度に議席を減らそう、という行動をする有権者を表したものだ。1990年代から野党の中にも政権担当能力があることをアピールする政党が登場し、今回ようやく国民の期待を得て、政権交代という結末になった。与党にセカンドチョイスが生まれたことで、バッファープレイヤーは消失するだろう。小選挙区制の導入から打たれた布石が15年以上経って結実した。
アナウンスメント効果は、事前の情勢報道をみて投票行動に変化が生じることをいうものだ。今回は「民主党が300議席以上の大勝」が報じられた。揺り戻し―勝ちすぎを警戒した有権者が投票先を変える流れ―は起こらなかった。これは、政権交代という現状の変革を伴う初めての選択をする場合には勇気が出にくいものだが、情勢をみて「望んでるのは自分だけじゃない」と勇気づけられた結果だと思う。そして、民主党が良くも悪くも多様な政策志向を持つ人材を抱えていることから、政策が極端に偏る危険性はないだろう、という安心感があったのではないかと推測する。
今回自民と民主で約200議席が入れ替わったことで、「もし期待を裏切ったなら容赦なく落とすよ!」と言うことができるようになった。これは政権担当者へ緊張感をもたらすだろう。その一方で、政権与党は多数の議席で安定した政権運営をすることができる。個人的にはこれが健全なあり方だと思う。日本は権力に見合った責任が伴わない場面が多いのだが、政治の場面では一歩進んだ感じだ。
ボートマッチと政策選択選挙
過去の選挙と比較すれば、今回は政策志向が一番強い選挙だったと思う。テレビではマニフェストを比較する特集がよく行われていたし、バラマキに批判的な「みんなの党」が比例で予想外の大量得票を得ており、投票した人は政策を見て判断したと推測することができる。読売新聞や毎日新聞のサイトではボートマッチという、主要な政治争点について自分の立場を入力し、その争点についてどれほど重視するかも入力すると、政党が掲げる政策との親和度を表示してくれるサービスが提供されていた。他にも、ポリティカル・コンパスという、自分の政治的立ち位置をみるサービスもあった。
自分の考え方は「財政はスリム化・経済は自由化を基本とすべきだが、社会保障が国民に信頼されていないとうまく機能しないので建て直しが急務」「憲法9条には固執せず核武装もありうるが、反対の人の気持ちもわかるし特に重視しない」「個人の思想や私生活の自由は最大限尊重すべき」という感じで、ボートマッチで判定するとピッタリはないが民主や社民に近く、立ち位置は強めのリベラルと弱めの左派という感じになるようだ。選挙後でも利用できるようなので、試してない方がいたら毎日ボートマッチ(えらぼーと)をどうぞ。自分の投票を振り返ってみるのもいいだろう。
野党としての自民党
首相は衆議院解散の記者会見から民主党の政策を批判するのにかなりの時間を割き(自民党のマニフェストができてなかったこともあるが)、選挙期間中も多くの民主党批判があり、インターネット上でネガティブ・キャンペーンも展開した。本来なら与党が議論の土台となる政策を提示するものだが、まるっきり逆になってしまった。政権ではなく政策を、という自民党のキャッチフレーズがあったが、与党はこれまで政策を実践できる立場にあったのだから「今までの政策に不満だからこうなっているのに」と批判されるのではと思った。
政策と言えば、郵政選挙で「小さな政府」を支持して投票した有権者は麻生首相が掌を返したために離れてしまった。世論の空気を読んで選挙で掲げた根本的な事を改めて選挙をせずに覆すのは包括政党らしさが表れているが、前の選挙で地方の基盤が崩れており、どっちつかずになってしまった。終盤は国旗がどうとか保守的で理念的な問題で勝負をかけたが、これは熱狂的な支持者を得る反面、ゆるい一般的な支持は得にくいものだと思う。国旗を汚されたら気分はよくないものの、当事者を執拗に糾弾するのは行き過ぎじゃないか、という人が多いだろうし、政治課題の中で優先順位は高くないようにみえる。
さて、野党として自民党がどうなるか、保守色を強めるという方向が有力のようだ。小さな政府・構造改革路線継続を志向する議員は軒並み小選挙区で敗れて比例で復活という状態で、主導権をとるのは難しいだろう。そうなると経済・財政・社会保障・雇用という場面では明確な対立点を形成できず、安全保障面で民主党政権の行き過ぎを止める役割を担うのではないかと思う。しかしこれだけでは二大政党と言うには心許ないので、いずれ自由化路線で経済政策を掲げるようになって欲しいと個人的には思う。
投票について
小選挙区では民主党の候補者が圧倒的に強かったので選択の余地はなかった。比例では社民党の名簿1位の保坂展人氏にはこれからも議員を続けて欲しいと思ったので社民党にしたが、議席確保に至らなかった。小選挙区で10万票・比例でも20万票入っていて当選できないとは、少数政党は厳しいなと感じた。

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以前の記事で予防原則の問題点について書いた。そこでは因果関係を明らかにする努力なしに規制を推進してしまう危険性を指摘したのだが、別の問題点もある。効率を無視した帰結を導きやすいことだ。「備えあれば憂いなし」と言うが、北朝鮮のミサイルに備えて庭に防空壕を掘る人はいない。どこまで備えればいいのか、明確な線引きは難しい。そのために恣意的に使われてしまうのだ。
凍結国道、14路線建設再開へ 判断基準あいまいに(asahi.com)
凍結国道、17路線工事再開へ 国交省が基準を緩和(朝日新聞)
国道凍結解除 許されぬ基準の後出し(東京新聞・社説)
これらのニュースの経緯をまとめると、以下のようになる。
2008年秋、民主党が道路計画の需要予測が過大と指摘
→2009年3月、国交省が新しい基準を設定し18区間の計画を凍結
→2009年7月、監視委員会の下で再検討し、最終的に17区間は計画再開
1年も経たぬうちに計画がひっくり返ったり戻ったり。これは、ニュース記事の見出しにも現れているように、事業計画の評価基準が変わったために生じたものである。凍結の決定にあたっては、走行時間短縮等の便益を金銭的に評価し、これが予定の建設費を上回るかどうかで判断された。それが再検討にあたっては、建設費を削減してもクリアできない場合に災害時の交通確保などの「防災上の観点」を新たに加味して判断された。基準をいきなり変えたことや明確でない基準を加えたことに批判が起こっている。
確かに、道路がないよりあったほうが、道幅が狭いより広いほうが防災に資することは明らかである。しかし、現在問題となっているのは、国の財政が逼迫している中で全体の予算から如何様な配分をなすべきか、ということだ。必要なことでも、それが複数あれば優先順位を考えなくてはならない。特に社会保障制度は国民から信頼を失っており、「将来の生活への備え」について危機感が高まり、生活防衛的な消費行動で経済全体に影を落としている。
同じようにどこまで備えればいいのか考えさせられた出来事としては「住宅用火災報知器設置の義務化」がある。確かに高齢化が進めば早期に火事を認識すべき場合は増えるだろう。設置していたおかげで早く対処できましたという事例も出てくるだろう。しかし全住宅で、台所と寝室全てに設置する義務を課すというのは、ちとやりすぎじゃないかなと感じてしまう。でも、もし本当に火事が起こったらどうするんだと言われたら言い返せない。
設置義務には制裁規定はついておらず、設置しなくても罰せられたりということはない。しかし、事が起こったときにニュースで「この家では消防法の義務に反して火災報知器を設置していませんでした」とか一言加えられるようになったら大変だ。制裁がないが故に裁判所で過剰規制かどうか争う契機も少ない。一方で、この規制により非常に大きな市場が生まれた。薬のネット販売の規制でもそうだが、「安全」の背後で戦わされているビジネス上の争いが増えているように感じる。
安全をどこまで追求すべきか、何を優先すべきか。これらは数式で答えが出るようなものではなく、国民の決断に委ねられるものであり、一度考えてみる必要がありそうだ。安全の推進の裏に別の動機があるかもしれないと注意することも必要だろう。私の場合は、自分の将来に備えてやるべきことを考えるほうが先かもしれないが…。

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凍結国道、14路線建設再開へ 判断基準あいまいに(asahi.com)
凍結国道、17路線工事再開へ 国交省が基準を緩和(朝日新聞)
国道凍結解除 許されぬ基準の後出し(東京新聞・社説)
これらのニュースの経緯をまとめると、以下のようになる。
2008年秋、民主党が道路計画の需要予測が過大と指摘
→2009年3月、国交省が新しい基準を設定し18区間の計画を凍結
→2009年7月、監視委員会の下で再検討し、最終的に17区間は計画再開
1年も経たぬうちに計画がひっくり返ったり戻ったり。これは、ニュース記事の見出しにも現れているように、事業計画の評価基準が変わったために生じたものである。凍結の決定にあたっては、走行時間短縮等の便益を金銭的に評価し、これが予定の建設費を上回るかどうかで判断された。それが再検討にあたっては、建設費を削減してもクリアできない場合に災害時の交通確保などの「防災上の観点」を新たに加味して判断された。基準をいきなり変えたことや明確でない基準を加えたことに批判が起こっている。
確かに、道路がないよりあったほうが、道幅が狭いより広いほうが防災に資することは明らかである。しかし、現在問題となっているのは、国の財政が逼迫している中で全体の予算から如何様な配分をなすべきか、ということだ。必要なことでも、それが複数あれば優先順位を考えなくてはならない。特に社会保障制度は国民から信頼を失っており、「将来の生活への備え」について危機感が高まり、生活防衛的な消費行動で経済全体に影を落としている。
同じようにどこまで備えればいいのか考えさせられた出来事としては「住宅用火災報知器設置の義務化」がある。確かに高齢化が進めば早期に火事を認識すべき場合は増えるだろう。設置していたおかげで早く対処できましたという事例も出てくるだろう。しかし全住宅で、台所と寝室全てに設置する義務を課すというのは、ちとやりすぎじゃないかなと感じてしまう。でも、もし本当に火事が起こったらどうするんだと言われたら言い返せない。
設置義務には制裁規定はついておらず、設置しなくても罰せられたりということはない。しかし、事が起こったときにニュースで「この家では消防法の義務に反して火災報知器を設置していませんでした」とか一言加えられるようになったら大変だ。制裁がないが故に裁判所で過剰規制かどうか争う契機も少ない。一方で、この規制により非常に大きな市場が生まれた。薬のネット販売の規制でもそうだが、「安全」の背後で戦わされているビジネス上の争いが増えているように感じる。
安全をどこまで追求すべきか、何を優先すべきか。これらは数式で答えが出るようなものではなく、国民の決断に委ねられるものであり、一度考えてみる必要がありそうだ。安全の推進の裏に別の動機があるかもしれないと注意することも必要だろう。私の場合は、自分の将来に備えてやるべきことを考えるほうが先かもしれないが…。

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日本の生活保護は、金銭交付が原則となっている。メインとなる生活扶助は、1ヶ月分ごと世帯主に金銭支払いがされる。このような方式の問題点として、1ヶ月分の金銭をギャンブルなどに浪費してしまう、切り詰めて貯蓄に回し資産を形成して後々問題になる(実際に裁判となった例がある)、といったことがある。
アメリカでは、フードスタンプ制度というものがあり、食料品に限定した交換ができる金券が配られる。フードスタンプは比較的要件が緩く受け取ることができるようで、これにより飢えを迫られる危険はある程度回避できる。最近では、利用範囲をコントロールしたクレジットカードを利用したらどうか、という議論もあるようだ。それでも日本が金銭給付の原則を堅持している理由は、受給者にどこで何を買うかという自由を与えることで、非受給者と同様の生活を行い、いち早い自立を進める、ということにあるらしい。
ところで、我が家はずっと昔から生協の宅配サービスを利用している。毎週決まった曜日に前の週に注文した生活用品・食料品が発泡スチロールの箱に入って運ばれてくる。先日も運ばれた物を家に入れて整理していたのだが、そこでふと生活保護にも活用できないかな、と思った。すなわち、世帯ごと毎月の利用限度額を決め(例えば1万円とする)、その範囲で普通に注文をしてもらう。超えたらそれ以降の注文はできなくなる。
このことのメリットとしては、次のようなものが挙げられる。

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アメリカでは、フードスタンプ制度というものがあり、食料品に限定した交換ができる金券が配られる。フードスタンプは比較的要件が緩く受け取ることができるようで、これにより飢えを迫られる危険はある程度回避できる。最近では、利用範囲をコントロールしたクレジットカードを利用したらどうか、という議論もあるようだ。それでも日本が金銭給付の原則を堅持している理由は、受給者にどこで何を買うかという自由を与えることで、非受給者と同様の生活を行い、いち早い自立を進める、ということにあるらしい。
ところで、我が家はずっと昔から生協の宅配サービスを利用している。毎週決まった曜日に前の週に注文した生活用品・食料品が発泡スチロールの箱に入って運ばれてくる。先日も運ばれた物を家に入れて整理していたのだが、そこでふと生活保護にも活用できないかな、と思った。すなわち、世帯ごと毎月の利用限度額を決め(例えば1万円とする)、その範囲で普通に注文をしてもらう。超えたらそれ以降の注文はできなくなる。
このことのメリットとしては、次のようなものが挙げられる。
(1)買える商品を一定の枠に収めることができ、浪費を防止できる。生活に必要なものから転売の危険があるものを除いたような感じか。一方、デメリットとしては次のようなものが挙げられる。
(2)毎月リセットされるので貯金に回すということもない。
(3)宅配係の方が毎週様子を見ることができる。ついでに相談を受けたり、不正受給かどうかのチェックもできる。
(4)宅配係としての雇用が増える。運搬自体は工場で働いていてコミュニケーションが苦手な人でも対応できる。(3)のような追加的な役割を担うならば複数人体制になり、さらに増える。雇われるのは生協職員で、公務員が増えるわけではない。
(1)生活の自己決定という観点からは後退する。クレジットカードより自由が少ない。生活用品を全て生協で調達させるのは現実的でない。うーん、思いついたはいいものの、色々考えてみると難点ばっかりだ。生活保護制度と組み合わせるというより、民間による生活支援ボランティアとして毎月限度額を上限として料金肩代わりをして相談サービスと組み合わせる、という感じで精一杯か。すなわち、生活保護を受けるに際して月5千円限度で生協ができるよと勧誘して任意で加入してもらい(この支援分は資産調査で考慮外にしてもらう)、活用してもらう。5千円を超える額は自分の責任で支出する。こういうかたちにすれば生活設計の自由を格別侵すこともないだろう。行政のケースワーカーは加入しなかった人、利用がない人を中心に訪問調査を行うことで、人手不足に対応する。こういう感じでどうだろう。
(2)制度の認知が広がると宅配=生活保護とのイメージがつき全体的に利用が敬遠されかねない。
(3)宅配係とのコミュニケーションを敬遠する人がいる。

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憲法を学べば必ず出てくる重要判例、麹町中学内申書事件(最判昭和63年7月15日判時1287号65頁)。この原告の中学生は、現在国会議員として活動している保坂展人氏である。国会議員歴は長く、郵政選挙では社民党なのに比例で自民党が枠を使い切ったために何故か当選となったことでも話題になった。保坂氏はgooブログで積極的に情報発信している(参照)。
保坂氏のブログでの最近の話題は、ネット上でも大きな関心を集めている、とある法律の改正論議である。与党案は民主党が指摘するように明らかな過剰規制であり、その他にも様々な疑問・問題点があり、保坂氏も表現の自由・内心の自由という観点から与党案に反対の立場を表明している。しかし、この態度決定をするにあたっては、大きな勇気が必要だったようである。
インターネット上では与党案のような規制には反対で、創作物への規制拡大はもってのほか!という意見が大多数であり、逆の意見を書こうものならば説得的な根拠を述べよと批判が集まるような雰囲気のように感じるのだが、法案を審議する世代の方たちにとっては慎重派が少数のようだ。関連する話題の記事はすべて、注意深く、最初に自分が子供の権利を守るための活動をずっとやってきたと前置きを置いてから論じられている。
従来ならば、保坂氏の心配はもっともなことであった。こういう道徳的に低いものと看做されている表現の規制については、多くの人にとっては大して関係のないことである上、下手に慎重論を唱えれば偏見をもたれてしまう恐れがある。憲法学ですら、今では猥褻規制は過度に広汎な規制であると堂々と教科書に書かれるようになっているが、最初規制に疑問を唱えた学者は偏見や揶揄に耐えねばならなかったようだ。こうした事情があるため、議会では合憲性について適切な考慮が果たされず、とかく過剰規制に陥りがちである。外国では、キリスト教の性のタブーの観念が強いという事情もあるだろうが(カナダでの罪名は「道徳を堕落させる罪」だって!びっくりするね!)、現に立法事実も曖昧なまま規制が進んでいる。
したがって、立法には到底期待できないので、裁判所が少数者の自由を守るために積極的に審査すべき分野だと思っていた。ところが現在、法案審議の段階でインターネット上で圧倒的に規制反対が叫ばれている。この事実は、インターネットという文明の機器が、人々の素朴な疑問を表に出す強力な力を持っていることを明らかにしたものだろう。既存のメディアは、おまけのように表現の自由に配慮が必要としながらも規制に賛成するのがお決まりである。従来だったらこれほど大きな議論にはならなかったはずだ。
もっとも、今回の大きな反対論には他の幸運も重なっている。日本文化の核たる創作表現への規制もセットで議論されていることは、反対の立場表明を容易にする。佐藤優氏の活躍・ライブドア事件・小沢一郎氏の秘書の逮捕で検察は恣意的であるとのイメージが広まったこと、足利事件で警察当局への信頼が揺らぎ今もなお当時の担当者が「謝罪の必要はない」と無反省な発言をしている(参照)ことで顰蹙を買っていることから、規制当局に権限を与えたくないという空気が広まっていることも、有利に働いているだろう。
ネット上では創作物への規制拡大について積極的な反対活動も行われるようになっている。先日の記事のコメント欄でネット上の署名活動が行われていることが紹介された(署名活動のURL)。その具体案は以下のようなものである。
少しコメントすると、2は「前法は後法に劣後する」の原則に照らせば実効的ではないように思う。また、3と7は憲法が反憲法的活動の規制をしない立場をとっていることとの関係でも現実的でないように思う。むしろ、公的機関がちょっと懸念を示しただけで自主規制・私的検閲が行われるように規制手段が巧妙化しているのが問題であるので、「公務員は、その職務に関して、国民の自由な創作活動に不当な影響を与えることがないように努めなければならない」というような規定を含む創作表現擁護基本法といったかたちで具体化するのがいいのではないか。

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保坂氏のブログでの最近の話題は、ネット上でも大きな関心を集めている、とある法律の改正論議である。与党案は民主党が指摘するように明らかな過剰規制であり、その他にも様々な疑問・問題点があり、保坂氏も表現の自由・内心の自由という観点から与党案に反対の立場を表明している。しかし、この態度決定をするにあたっては、大きな勇気が必要だったようである。
昨日の審議の前に意見を聞いたある友人は、「今回の単純所持規制は、明らかにもう大きな流れになっている。選挙前にこの流れに逆らうことはリスキーじゃないか。筋を通すのもいいけど、あまり少数の立場に傾かないでほしい」との忠告だった。「規制慎重派」という烙印を押されると、「この人は規制を邪魔しています」という攻撃対象となることを心配してのことだった。―マンガ太郎の「表現規制」暴走は、なぜ?
インターネット上では与党案のような規制には反対で、創作物への規制拡大はもってのほか!という意見が大多数であり、逆の意見を書こうものならば説得的な根拠を述べよと批判が集まるような雰囲気のように感じるのだが、法案を審議する世代の方たちにとっては慎重派が少数のようだ。関連する話題の記事はすべて、注意深く、最初に自分が子供の権利を守るための活動をずっとやってきたと前置きを置いてから論じられている。
従来ならば、保坂氏の心配はもっともなことであった。こういう道徳的に低いものと看做されている表現の規制については、多くの人にとっては大して関係のないことである上、下手に慎重論を唱えれば偏見をもたれてしまう恐れがある。憲法学ですら、今では猥褻規制は過度に広汎な規制であると堂々と教科書に書かれるようになっているが、最初規制に疑問を唱えた学者は偏見や揶揄に耐えねばならなかったようだ。こうした事情があるため、議会では合憲性について適切な考慮が果たされず、とかく過剰規制に陥りがちである。外国では、キリスト教の性のタブーの観念が強いという事情もあるだろうが(カナダでの罪名は「道徳を堕落させる罪」だって!びっくりするね!)、現に立法事実も曖昧なまま規制が進んでいる。
したがって、立法には到底期待できないので、裁判所が少数者の自由を守るために積極的に審査すべき分野だと思っていた。ところが現在、法案審議の段階でインターネット上で圧倒的に規制反対が叫ばれている。この事実は、インターネットという文明の機器が、人々の素朴な疑問を表に出す強力な力を持っていることを明らかにしたものだろう。既存のメディアは、おまけのように表現の自由に配慮が必要としながらも規制に賛成するのがお決まりである。従来だったらこれほど大きな議論にはならなかったはずだ。
もっとも、今回の大きな反対論には他の幸運も重なっている。日本文化の核たる創作表現への規制もセットで議論されていることは、反対の立場表明を容易にする。佐藤優氏の活躍・ライブドア事件・小沢一郎氏の秘書の逮捕で検察は恣意的であるとのイメージが広まったこと、足利事件で警察当局への信頼が揺らぎ今もなお当時の担当者が「謝罪の必要はない」と無反省な発言をしている(参照)ことで顰蹙を買っていることから、規制当局に権限を与えたくないという空気が広まっていることも、有利に働いているだろう。
ネット上では創作物への規制拡大について積極的な反対活動も行われるようになっている。先日の記事のコメント欄でネット上の署名活動が行われていることが紹介された(署名活動のURL)。その具体案は以下のようなものである。
1:架空創作表現の弾圧を一切行わないことを対外的に表明する
2:架空創作表現に対し、表現することへの規制を行ってはならない
3:表現規制を主張する団体に対しては即時解散を命令する
4:表現内容によるレイディング・ゾーニング等を徹底化する
5:成人向け作品には販売時年齢確認の徹底化を行う
6:メディアリテラシー教育の徹底化を行う
7:架空創作表現弾圧者監視委員会を設け、創作表現の過剰な規制が行われていないかを監視する
少しコメントすると、2は「前法は後法に劣後する」の原則に照らせば実効的ではないように思う。また、3と7は憲法が反憲法的活動の規制をしない立場をとっていることとの関係でも現実的でないように思う。むしろ、公的機関がちょっと懸念を示しただけで自主規制・私的検閲が行われるように規制手段が巧妙化しているのが問題であるので、「公務員は、その職務に関して、国民の自由な創作活動に不当な影響を与えることがないように努めなければならない」というような規定を含む創作表現擁護基本法といったかたちで具体化するのがいいのではないか。

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ソーシャルブックマークとは
ソーシャルブックマークは、オンライン上にwebページをブックマークできるサービスである。これを使えば、パソコンを複数台使い分けている場合にデータを移す必要がなくなる。また、何をブックマークしたか公開し、それが集計されることにより、いま何が注目を浴びているのかがわかる。ネットサーフィンの入り口としても機能することになる。さらに、ブックマークした人が簡単なコメントを残すことで読者の反応や議論の喚起にもつながる。様々な可能性を秘めたサービスである。
gooブログでも先日、各記事に各サービスに簡単にブックマークできるようなボタンが配置された。ソーシャルブックマークは、萌芽期を超え、ウェブサービスの1ジャンルとして確立してきた感がある。日本の代表的なサービスとして、はてなブックマーク、newsing、Yahoo!ブックマーク、gooブックマーク等がある。このうち、はてなブックマークが最も利用者が多く盛り上がっており、他のサービスは未だ独自の文化を形成するには至っていないように見える。
日本のウェブ言論は質が低い?
少し脇道にそれるが、日本のウェブ言論は質が低い、という主張をよくきく。何が「質が高い」かという議論は措いておくが、よく槍玉に挙げられるのは、はてなブックマークのコメント、Yahooニュースのコメント、2ちゃんねるである。しかし、これらはある話題について狭いスペースで即時的に簡単につけたコメントであり、「言論」の代表としてみること自体に問題があるだろう。youtubeの英語コメントでも日本関係は第二次大戦の話題が脈絡なく出てきて、外国でも大して質は高いとは言えない。
したがってニュースサイトやブログをウェブ言論の中心としてみるべきであるが、ブログはスパムも多いしミニブログ的な使われ方をしているので、しっかりとした立論のブログ記事に検索でたどり着くことが難しい。ソーシャルブックマークは質の高い記事を拾い上げる機能をもっているが、未だ十分とは言えないだろう。はてなブックマークでは質の高い記事が上位にも上がってくるが(例えば、この記事は素晴らしいと思う)、newsingでは、運営自らが低俗なネタばかりが上位にランキングされてしまうと嘆いている(参照)。
投稿をオープンにする以上、大衆的な話題が上位に来るのは避けては通れない。視聴率を競う民放のテレビが大衆的な番組に帰着するのと同じである。政治や専門の話題は限られた人としかしないが、こんにゃく娘などの笑い話はどんな人でも雑談など人間関係の潤滑油として用いることができる。日本に来たイギリス人の本で、「最初日本のテレビの質の低さに辟易していたが、何のことはない、数年後イギリスでもテレビが大衆化した結果同じようになった」という一節があった。はてなブックマークは黎明期の理系大学生の文化が残っているために、オープンのままでも一定のレベルの記事が好まれることになると推測される。
オフィシャルブックマーカーという可能性
頑張って書かれた質の高い記事が拾い上げられず、またはネタに埋もれてばっかりでは、頑張って書こうという動機が削がれる危険性がある。この点は、ソーシャルブックマークに少し工夫をすることで改善できるのではないかと思う。第一の工夫は、カテゴリ分けで、専門的な話題について独立したランキングをつくることで多くの人の目に触れる機会が得られる。はてなブックマークが最近リニューアルして導入しており、成果が上がっているように思う。
第二の工夫は、ピックアップ者の制限である。信頼できるピックアップ者のみでランキングを構成する、というものだ。2ちゃんねるでもいわゆる「糞スレ」を排除するためにスレッドを立てる権限に制限を課しているところもある。gooラボ内のgooソーシャルニュースは信頼できる特定のブログの記事しかピックアップされない仕組みを採用した。しかし、参加するブログが多数にならない限り気に入ったブログのRSSを登録したほうが使いやすいので定着しないであろう。それに、ピックアップ者の制限となるとソーシャルブックマークの本来の機能と対立する可能性がある。
そこで注目できるのは、gooブックマークの「目利きさん」の項目である。優れたブックマークをしている人へのリンクがトップページに表示されている。これを応用して、ある人が法律なら法律分野の専門的な話題について質の高い記事を探してブックマークをし、そのブックマークを参考に他の人がブックマークをつけていき、ブックマーク数順に並ぶようにする、という仕組みを作ってはどうか(○○さんの公開ブックマークで新着順と人気順のページを作る)。また、「このカテゴリの専門ブックマーカー」へのリンクを目に付くところに表示して誘導する。
そして、著名なブックマーカーに取り上げられると多くの人が見て多数のブックマークが集まり、上位に表示されやすくなるというサイクルが機能すれば、それを目指して記事を書く人が増えるであろうし、自薦や他薦の情報がブックマーカーに集まることになる。可能ならば、ブックマーカーがピックアップした理由と読解のために必要な知識や簡単な解説をコメントで付け加えるとよいだろう。このようなサイクルの結果として、ウェブ全体のコンテンツの充実度を上げ、ウェブ言論の向上につなげることができないだろうか。
はてなブックマークでは既にアルファブックマーカーと呼ばれる有名ブックマーカーが存在し、少なくない人が自分の感覚に合うアルファブックマーカーのRSSをもとに情報収集をしているという。もっとも、アルファブックマーカーへの記事の推薦といったサイクルは生まれていないようである。はてなのように既に多数の参加者と熱心なブックマーカーを集めているところは十分であろうが、後発のサービスや軌道修正をしたいサービスは、オフィシャルでブックマーカーを設けて、たくさん質の高い記事をブックマークをしてもらって、ネットサーフィンの入り口として有用であることをアピールしたらどうだろうか。
根本は「ボランティアの限界」
では、これが機能するにはどのような条件が必要だろうか。人材としては、まずは有名人がとっつきやすい。いわゆる高学歴難民、高い学位を得ておきながらマッチする仕事がない人たちも有望である。他には、メディア不況の下で提供先がなくなったジャーナリストやライターも有望であろう。前者は専門知識に基づいた判断ができ、後者は取材力や解説力が高いという特徴がある。
もっとも、この人たちの参加が実現し、さらに継続的に機能させるためには、(1)見合う報酬が得られること、(2)作業への社会的評価が高まること、が必要であると考えられる。これらはブックマーク作業だけではなく質の高い記事を書くインセンティブを高めるためにも重要な条件であるが、未だ確立しているとは言い難い。ボランティアでは、公平性の点では望ましいかもしれないが、やはり生活の糧を得る活動に劣後してしまい継続性が損なわれてしまう。
(1)については、最初はソーシャルブックマークサービスを提供している会社が支払う仕組みをとることになる。収益との釣り合いがとれるかという点では大きな疑問があるだろう。(2)については、ネットでは他人が作った記事を集めて紹介するだけのブログは批判されがちであるが、法学では裁判所が書いた判例を体系だてて並べただけの本も結構高額な値段で出版されているように、既存の情報を編集する作業はもっと評価されていい。ブックマーカー自身が、作業の中で根気強くブログ検索を続けて得た注目ニュースへの世間の反応を整理してまとめた記事を作ってもいいかもしれない。
次に信頼性の確保であるが、既に信頼されるブログを運営している人ならばネット上の人格で参加してもよいだろうが、そうでない場合は経歴等を明かし専門分野への知見があることを示さなければならないだろう。したがって、プロフィールページを作り、情報窓口とともに表示する必要があるだろう。ネット上の活動への社会の理解は未だ進んでいるとは言えず、匿名の排除はネックになるかもしれない。
ということで難点だらけであるが、自宅で勉強とネットサーフィンを続けて、その活動が言論の向上と社会の発展につながる、実生活との両立もできる。これが現実になったら、どんなに素晴らしいことだろう。

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ソーシャルブックマークは、オンライン上にwebページをブックマークできるサービスである。これを使えば、パソコンを複数台使い分けている場合にデータを移す必要がなくなる。また、何をブックマークしたか公開し、それが集計されることにより、いま何が注目を浴びているのかがわかる。ネットサーフィンの入り口としても機能することになる。さらに、ブックマークした人が簡単なコメントを残すことで読者の反応や議論の喚起にもつながる。様々な可能性を秘めたサービスである。
gooブログでも先日、各記事に各サービスに簡単にブックマークできるようなボタンが配置された。ソーシャルブックマークは、萌芽期を超え、ウェブサービスの1ジャンルとして確立してきた感がある。日本の代表的なサービスとして、はてなブックマーク、newsing、Yahoo!ブックマーク、gooブックマーク等がある。このうち、はてなブックマークが最も利用者が多く盛り上がっており、他のサービスは未だ独自の文化を形成するには至っていないように見える。
日本のウェブ言論は質が低い?
少し脇道にそれるが、日本のウェブ言論は質が低い、という主張をよくきく。何が「質が高い」かという議論は措いておくが、よく槍玉に挙げられるのは、はてなブックマークのコメント、Yahooニュースのコメント、2ちゃんねるである。しかし、これらはある話題について狭いスペースで即時的に簡単につけたコメントであり、「言論」の代表としてみること自体に問題があるだろう。youtubeの英語コメントでも日本関係は第二次大戦の話題が脈絡なく出てきて、外国でも大して質は高いとは言えない。
したがってニュースサイトやブログをウェブ言論の中心としてみるべきであるが、ブログはスパムも多いしミニブログ的な使われ方をしているので、しっかりとした立論のブログ記事に検索でたどり着くことが難しい。ソーシャルブックマークは質の高い記事を拾い上げる機能をもっているが、未だ十分とは言えないだろう。はてなブックマークでは質の高い記事が上位にも上がってくるが(例えば、この記事は素晴らしいと思う)、newsingでは、運営自らが低俗なネタばかりが上位にランキングされてしまうと嘆いている(参照)。
投稿をオープンにする以上、大衆的な話題が上位に来るのは避けては通れない。視聴率を競う民放のテレビが大衆的な番組に帰着するのと同じである。政治や専門の話題は限られた人としかしないが、こんにゃく娘などの笑い話はどんな人でも雑談など人間関係の潤滑油として用いることができる。日本に来たイギリス人の本で、「最初日本のテレビの質の低さに辟易していたが、何のことはない、数年後イギリスでもテレビが大衆化した結果同じようになった」という一節があった。はてなブックマークは黎明期の理系大学生の文化が残っているために、オープンのままでも一定のレベルの記事が好まれることになると推測される。
オフィシャルブックマーカーという可能性
頑張って書かれた質の高い記事が拾い上げられず、またはネタに埋もれてばっかりでは、頑張って書こうという動機が削がれる危険性がある。この点は、ソーシャルブックマークに少し工夫をすることで改善できるのではないかと思う。第一の工夫は、カテゴリ分けで、専門的な話題について独立したランキングをつくることで多くの人の目に触れる機会が得られる。はてなブックマークが最近リニューアルして導入しており、成果が上がっているように思う。
第二の工夫は、ピックアップ者の制限である。信頼できるピックアップ者のみでランキングを構成する、というものだ。2ちゃんねるでもいわゆる「糞スレ」を排除するためにスレッドを立てる権限に制限を課しているところもある。gooラボ内のgooソーシャルニュースは信頼できる特定のブログの記事しかピックアップされない仕組みを採用した。しかし、参加するブログが多数にならない限り気に入ったブログのRSSを登録したほうが使いやすいので定着しないであろう。それに、ピックアップ者の制限となるとソーシャルブックマークの本来の機能と対立する可能性がある。
そこで注目できるのは、gooブックマークの「目利きさん」の項目である。優れたブックマークをしている人へのリンクがトップページに表示されている。これを応用して、ある人が法律なら法律分野の専門的な話題について質の高い記事を探してブックマークをし、そのブックマークを参考に他の人がブックマークをつけていき、ブックマーク数順に並ぶようにする、という仕組みを作ってはどうか(○○さんの公開ブックマークで新着順と人気順のページを作る)。また、「このカテゴリの専門ブックマーカー」へのリンクを目に付くところに表示して誘導する。
そして、著名なブックマーカーに取り上げられると多くの人が見て多数のブックマークが集まり、上位に表示されやすくなるというサイクルが機能すれば、それを目指して記事を書く人が増えるであろうし、自薦や他薦の情報がブックマーカーに集まることになる。可能ならば、ブックマーカーがピックアップした理由と読解のために必要な知識や簡単な解説をコメントで付け加えるとよいだろう。このようなサイクルの結果として、ウェブ全体のコンテンツの充実度を上げ、ウェブ言論の向上につなげることができないだろうか。
はてなブックマークでは既にアルファブックマーカーと呼ばれる有名ブックマーカーが存在し、少なくない人が自分の感覚に合うアルファブックマーカーのRSSをもとに情報収集をしているという。もっとも、アルファブックマーカーへの記事の推薦といったサイクルは生まれていないようである。はてなのように既に多数の参加者と熱心なブックマーカーを集めているところは十分であろうが、後発のサービスや軌道修正をしたいサービスは、オフィシャルでブックマーカーを設けて、たくさん質の高い記事をブックマークをしてもらって、ネットサーフィンの入り口として有用であることをアピールしたらどうだろうか。
根本は「ボランティアの限界」
では、これが機能するにはどのような条件が必要だろうか。人材としては、まずは有名人がとっつきやすい。いわゆる高学歴難民、高い学位を得ておきながらマッチする仕事がない人たちも有望である。他には、メディア不況の下で提供先がなくなったジャーナリストやライターも有望であろう。前者は専門知識に基づいた判断ができ、後者は取材力や解説力が高いという特徴がある。
もっとも、この人たちの参加が実現し、さらに継続的に機能させるためには、(1)見合う報酬が得られること、(2)作業への社会的評価が高まること、が必要であると考えられる。これらはブックマーク作業だけではなく質の高い記事を書くインセンティブを高めるためにも重要な条件であるが、未だ確立しているとは言い難い。ボランティアでは、公平性の点では望ましいかもしれないが、やはり生活の糧を得る活動に劣後してしまい継続性が損なわれてしまう。
(1)については、最初はソーシャルブックマークサービスを提供している会社が支払う仕組みをとることになる。収益との釣り合いがとれるかという点では大きな疑問があるだろう。(2)については、ネットでは他人が作った記事を集めて紹介するだけのブログは批判されがちであるが、法学では裁判所が書いた判例を体系だてて並べただけの本も結構高額な値段で出版されているように、既存の情報を編集する作業はもっと評価されていい。ブックマーカー自身が、作業の中で根気強くブログ検索を続けて得た注目ニュースへの世間の反応を整理してまとめた記事を作ってもいいかもしれない。
次に信頼性の確保であるが、既に信頼されるブログを運営している人ならばネット上の人格で参加してもよいだろうが、そうでない場合は経歴等を明かし専門分野への知見があることを示さなければならないだろう。したがって、プロフィールページを作り、情報窓口とともに表示する必要があるだろう。ネット上の活動への社会の理解は未だ進んでいるとは言えず、匿名の排除はネックになるかもしれない。
ということで難点だらけであるが、自宅で勉強とネットサーフィンを続けて、その活動が言論の向上と社会の発展につながる、実生活との両立もできる。これが現実になったら、どんなに素晴らしいことだろう。

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1 「足利事件」捜査の元県警幹部ブログが炎上 「謝罪しろ」コメント殺到(ITmedia/2009.6.5)
今回の炎上事件は、司法関係者個人に対しても冤罪を生んだことへの社会の批判が強いということが明らかになったことで、司法に携わる者の意識を改めて正すきっかけになるのではないかと思う。公務員は国家賠償法上、直接請求の当事者になることもなく、法的な責任追及はされにくい存在であるが、社会の目線はそういうわけにはいかない。自分も模擬裁判で検察官役をやったことがあるが、勝ち負けの意識があり、弁護側に負けたくないという意識が強くなってしまった。裁判の目的は自分の勝ち負けではないということを忘れてはいけないと思う。事件の経緯をみると、第一審の弁護人も相当ひどい弁護活動をしている。自白事件ね、情状弁護ね、と安易に考えてはいけないと肝に命じなくてはならない。
ところで、炎上したブログはgooブログを利用していた。今回の経緯をみると、gooブログは炎上対策にはなかなか難しい感じがした。(1)はてなダイアリーのように一括してプライベートモードにすることはできず、各カテゴリの設定を非公開にする必要があること、(2)ブログを削除しても画像ファイルは当然には消えないこと、(3)メールアドレスのIDとブログIDが共通しており、ブログを削除してもアカウント削除しない限りブログID@mail.goo.ne.jp宛に批判コメントが続く可能性があること、が具体的に挙げられる。gooあしあとも相手のログを消せない仕様になっており、炎上を記録するブログである炎上blogにブログ主があしあとを残していて(参照・moririn317さん)、何だか涙を誘う。逃げずに真摯に対応することが一番の炎上対策というのが本当のところであろうが、しばらく間をおかないと冷静に判断できないものだ。
2 「米軍違憲」破棄へ圧力 砂川事件、公文書で判明(共同通信/2008.4.29)
一年以上前の記事であるが、知らなかった自分へ反省を込めて取り上げる。司法権の独立が問題となった事例としては、浦和事件・平賀書簡事件が有名であるが、特殊な時代背景があったはいえ、砂川事件最高裁判決にもこのような事情があったということはもっと強調されてよいであろう。また、こういう重大な事実が日本からではなく外国から出てくるというのは少し情けない感じがする。
3 弱る太陽 活動200年ぶりの低水準(朝日新聞/2009.6.1)
私は買い物に空のバッグを持っていきレジ袋を断ることもあるが、不必要なものを使うのは勿体ないなという感覚でしているだけで、地球温暖化について個人的には否定的な考えをもっている。といっても専門ではないので説得力のある理由はもっておらず、いまの4倍以上の二酸化炭素濃度だった時代でも恐竜が闊歩して生物が繁栄していたのだし、地球全部が海に覆われていたわけでもなし、という感じである。寒冷化は温暖化以上に人類に悪影響であり、とくに食糧危機が起こると日本にとって致命的である。
高校生のころ「沈黙の春」や「奪われし未来」に接して大学1年に環境系の授業を多くとったのだが、公害のような人体に直接害のある問題は解決の枠組みはほぼ完成されていてこの分野には将来性はないだろうなーと直感し、人に優しくするのが先だろうと労働や社会保障に興味をもった。今のところどちらも喫緊の政策課題になっているが、すでにIPCCの将来気温予測から実測値は大きく下回っており気温低下の傾向が当分続く根拠も見えているのだから、やっぱり人に優しくするほうがいいと思う。
【6月27日追記】「gooあしあと」は一度つけた足あとを後から消すことができるとのことです。訂正します。

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「足利事件」で無罪が確定的となった菅家利和さんが釈放された6月4日、事件当時に捜査を陣頭指揮した元栃木県警幹部(75)のブログに批判コメントが殺到し、「炎上」状態になった。元幹部は昨年、菅家さんの再審請求が棄却された際、「最善の捜査を尽くしたもので、誤りでないことを再確認していただいた」などとブログで感想を述べ、これに対し批判コメントが集まっていた。現在、ブログは削除されている。
炎上したブログは、元幹部が退職後の日々をつづる内容。昨年2月13日付けの記事で、足利事件の再審請求を宇都宮地裁が棄却したことに触れ、「捜査に携わった者として、感慨無量であります。当時として、最高、最善の捜査を尽くしたものであり、誤りでないことを再確認していただいたものと思っております」などと棄却を歓迎する感想を記し、新聞記事を複製した画像も掲載した。このブログ記事に対し、「謝罪すべきだ」「自白強要が最高最善の捜査なのか」「人の人生をメチャメチャにした責任を取れ」といったコメントが1000件以上殺到。現在、ブログは削除され、閲覧できない状態になっている。
今回の炎上事件は、司法関係者個人に対しても冤罪を生んだことへの社会の批判が強いということが明らかになったことで、司法に携わる者の意識を改めて正すきっかけになるのではないかと思う。公務員は国家賠償法上、直接請求の当事者になることもなく、法的な責任追及はされにくい存在であるが、社会の目線はそういうわけにはいかない。自分も模擬裁判で検察官役をやったことがあるが、勝ち負けの意識があり、弁護側に負けたくないという意識が強くなってしまった。裁判の目的は自分の勝ち負けではないということを忘れてはいけないと思う。事件の経緯をみると、第一審の弁護人も相当ひどい弁護活動をしている。自白事件ね、情状弁護ね、と安易に考えてはいけないと肝に命じなくてはならない。
ところで、炎上したブログはgooブログを利用していた。今回の経緯をみると、gooブログは炎上対策にはなかなか難しい感じがした。(1)はてなダイアリーのように一括してプライベートモードにすることはできず、各カテゴリの設定を非公開にする必要があること、(2)ブログを削除しても画像ファイルは当然には消えないこと、(3)メールアドレスのIDとブログIDが共通しており、ブログを削除してもアカウント削除しない限りブログID@mail.goo.ne.jp宛に批判コメントが続く可能性があること、が具体的に挙げられる。
2 「米軍違憲」破棄へ圧力 砂川事件、公文書で判明(共同通信/2008.4.29)
米軍の旧立川基地の拡張計画に絡む「砂川事件」をめぐり、1959年3月に出された「米軍駐留は憲法違反」との東京地裁判決(伊達判決)に衝撃を受けたマッカーサー駐日米大使(当時、以下同)が、同判決の破棄を狙って藤山愛一郎外相に最高裁への「跳躍上告」を促す外交圧力をかけたり、最高裁長官と密談するなど露骨な介入を行っていたことが29日、機密指定を解除された米公文書から分かった。
「米軍駐留違憲判決」を受け、米政府が破棄へ向けた秘密工作を進めていた真相が初めて明らかになった。内政干渉の疑いが色濃く、当時のいびつな日米関係の内実を示している。最高裁はこの後、審理を行い、同年12月16日に1審判決を破棄、差し戻す判決を下した。公文書は日米関係史を長年研究する専門家の新原昭治氏が今月、米国立公文書館で発見した。
一年以上前の記事であるが、知らなかった自分へ反省を込めて取り上げる。司法権の独立が問題となった事例としては、浦和事件・平賀書簡事件が有名であるが、特殊な時代背景があったはいえ、砂川事件最高裁判決にもこのような事情があったということはもっと強調されてよいであろう。また、こういう重大な事実が日本からではなく外国から出てくるというのは少し情けない感じがする。
3 弱る太陽 活動200年ぶりの低水準(朝日新聞/2009.6.1)
太陽の活動が200年ぶりの低水準にまで落ち込んでいる。これまでのパターンだと再来年には活動の極大期を迎えるはずなのに、活発さの指標となる黒点がほとんど現れない。研究者も「このままだと地球はミニ氷河期に入る可能性がある」と慌て始めた。(中略)
太陽活動には数百年周期の変動も知られる。17~18世紀には約70年間、黒点がほぼ消え、欧州では英国のテムズ川が凍るなど「ミニ氷河期」に陥った。東京大宇宙線研究所の宮原ひろ子特任助教は「ここ1千年でも活動の極小期が5回あり、前回が1800年ごろ。歴史的には、そろそろ次の極小期に入ってもおかしくない」と指摘する。国立天文台の常田佐久教授は「X線や光も弱まっている。今後、再び黒点が増えても、従来のような活発さになると考える太陽研究者は少ない」と話す。
私は買い物に空のバッグを持っていきレジ袋を断ることもあるが、不必要なものを使うのは勿体ないなという感覚でしているだけで、地球温暖化について個人的には否定的な考えをもっている。といっても専門ではないので説得力のある理由はもっておらず、いまの4倍以上の二酸化炭素濃度だった時代でも恐竜が闊歩して生物が繁栄していたのだし、地球全部が海に覆われていたわけでもなし、という感じである。寒冷化は温暖化以上に人類に悪影響であり、とくに食糧危機が起こると日本にとって致命的である。
高校生のころ「沈黙の春」や「奪われし未来」に接して大学1年に環境系の授業を多くとったのだが、公害のような人体に直接害のある問題は解決の枠組みはほぼ完成されていてこの分野には将来性はないだろうなーと直感し、人に優しくするのが先だろうと労働や社会保障に興味をもった。今のところどちらも喫緊の政策課題になっているが、すでにIPCCの将来気温予測から実測値は大きく下回っており気温低下の傾向が当分続く根拠も見えているのだから、やっぱり人に優しくするほうがいいと思う。
【6月27日追記】「gooあしあと」は一度つけた足あとを後から消すことができるとのことです。訂正します。

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小泉政権時代には、靖国参拝が外交問題として大きく取り上げられた。これは単に外交問題だけではなく、法律学においても憲法20条3項の政教分離違反ではないかが問題となるものである。実際に多数の訴訟が提起されている。しかし、請求を認めた裁判例は存在していない。
なぜ請求が認められないかというと、裁判所は原則として具体的な権利が侵害された場合でなければ救済を行わず、仮に違法行為があったとしても原告の権利が侵害されてないならば請求棄却となるからである。小泉参拝に関する最高裁判決(最判平成18年6月23日判時1940号122頁)も、「他人が特定の神社に参拝することによって、自己の信条ないし宗教上の感情が害されたとし、不快の念を抱いたとしても、これを被侵害利益としてただちに損害賠償を求めることはできない」として、参拝行為が政教分離に違反するか検討することなく請求を棄却している。
下級審裁判例では、審理で争点になったことに鑑みて政教分離違反かどうか検討したものがあり、その中で違反であると明言したものもある。しかし、これは「傍論」として判決の結論には関わりがなく法的な意義としては薄いものとなる上、国の側は全部勝訴判決であるため不服申し立てをすることができず当該判断を更に争うチャンスがなく不公平な事態を招くものである。実際、大阪高裁で出された違憲判断について原告側は上訴せず当該判決を確定させ、「高裁判決を無視するのか」という利用の仕方をしていた。
このように法律的に複雑な問題があるのだが、仮に靖国参拝を地方自治体の長が行った場合、話が異なってくる。地方自治法上の制度として住民訴訟があり、権利侵害がなくとも争うことができるのである。最高裁も、愛媛県が靖国神社の例大祭に際して玉串料を支出した行為について明確に政教分離違反の判断をしている(最判平成9年4月2日民集51巻4号1673頁)。もっとも、住民訴訟は財務会計上の行為を争うものであり、公金支出がなければ用いることができず、万能ではない。石原東京都知事は毎年参拝をしているようであるが、私が調べる限り住民訴訟が提起されていないところをみると、争われないように公金支出をしていないと思われる(こういう点について明確にしたニュース記事がない)。
地方公務員なら裁判所で違法かどうか判断されるのに国家公務員なら判断されないといった状況はアンバランスのようにも思えるが、それが現在の制度の仕組みであり、その変更は容易くない。しかし現在の制度を前提として、地方レベルでならば争うことができる、と視点を変えて事件を作ることができるのではないだろうか。すなわち、どこかの自治体の長に「敬愛する○○首相に倣います!」と言って首相と全く同じ態様と方法で靖国参拝をしてもらうのである。過去に靖国参拝をした中曽根元首相は3万円の公金支出をしており、小泉元首相は公用車を利用していたというから、裁判所は憲法判断から逃げられないであろう。違憲判断が出れば、「自治体の長ですら違憲なのだから首相などなおさら」という批判ができる。参拝は信条に関わるもので容易に協力してくれる首長は現れないだろうし裁判所に対して不誠実であることは確かであり、現実に行われるということはないであろうが、裁判所がどのように判断するか興味がある。
靖国参拝というと、戦没者の慰霊の仕方や外交問題といった法律論とは別の議論が入ってきて錯綜してしまうのが常である。日本では習俗を超えて明確な宗教意識をもつ人は少なく政教分離の話について意義を見出しがたいようにもみえるが、国家が特定の宗教との係わり合いを断ち中立的になることで、それまで明け暮れていた宗教対立・紛争をひとまず措き、社会・経済の発展に寄与した世界史的な発明とも言える原則である。今でも宗教と政治権力が結びつき宗教を理由とした争いが絶えず停滞している国をみると、その重要さが見出されるように思う。また、多様な価値観をもつ人が社会を構成している中、少数になってしまう人でも肩身の狭い思いをせずその人らしく生きるためにも重要なものである。靖国訴訟のニュースをみるときは、裁判ではこういうことが争われているのだということを頭に留めておいてほしい。

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なぜ請求が認められないかというと、裁判所は原則として具体的な権利が侵害された場合でなければ救済を行わず、仮に違法行為があったとしても原告の権利が侵害されてないならば請求棄却となるからである。小泉参拝に関する最高裁判決(最判平成18年6月23日判時1940号122頁)も、「他人が特定の神社に参拝することによって、自己の信条ないし宗教上の感情が害されたとし、不快の念を抱いたとしても、これを被侵害利益としてただちに損害賠償を求めることはできない」として、参拝行為が政教分離に違反するか検討することなく請求を棄却している。
下級審裁判例では、審理で争点になったことに鑑みて政教分離違反かどうか検討したものがあり、その中で違反であると明言したものもある。しかし、これは「傍論」として判決の結論には関わりがなく法的な意義としては薄いものとなる上、国の側は全部勝訴判決であるため不服申し立てをすることができず当該判断を更に争うチャンスがなく不公平な事態を招くものである。実際、大阪高裁で出された違憲判断について原告側は上訴せず当該判決を確定させ、「高裁判決を無視するのか」という利用の仕方をしていた。
このように法律的に複雑な問題があるのだが、仮に靖国参拝を地方自治体の長が行った場合、話が異なってくる。地方自治法上の制度として住民訴訟があり、権利侵害がなくとも争うことができるのである。最高裁も、愛媛県が靖国神社の例大祭に際して玉串料を支出した行為について明確に政教分離違反の判断をしている(最判平成9年4月2日民集51巻4号1673頁)。もっとも、住民訴訟は財務会計上の行為を争うものであり、公金支出がなければ用いることができず、万能ではない。石原東京都知事は毎年参拝をしているようであるが、私が調べる限り住民訴訟が提起されていないところをみると、争われないように公金支出をしていないと思われる(こういう点について明確にしたニュース記事がない)。
地方公務員なら裁判所で違法かどうか判断されるのに国家公務員なら判断されないといった状況はアンバランスのようにも思えるが、それが現在の制度の仕組みであり、その変更は容易くない。しかし現在の制度を前提として、地方レベルでならば争うことができる、と視点を変えて事件を作ることができるのではないだろうか。すなわち、どこかの自治体の長に「敬愛する○○首相に倣います!」と言って首相と全く同じ態様と方法で靖国参拝をしてもらうのである。過去に靖国参拝をした中曽根元首相は3万円の公金支出をしており、小泉元首相は公用車を利用していたというから、裁判所は憲法判断から逃げられないであろう。違憲判断が出れば、「自治体の長ですら違憲なのだから首相などなおさら」という批判ができる。参拝は信条に関わるもので容易に協力してくれる首長は現れないだろうし裁判所に対して不誠実であることは確かであり、現実に行われるということはないであろうが、裁判所がどのように判断するか興味がある。
靖国参拝というと、戦没者の慰霊の仕方や外交問題といった法律論とは別の議論が入ってきて錯綜してしまうのが常である。日本では習俗を超えて明確な宗教意識をもつ人は少なく政教分離の話について意義を見出しがたいようにもみえるが、国家が特定の宗教との係わり合いを断ち中立的になることで、それまで明け暮れていた宗教対立・紛争をひとまず措き、社会・経済の発展に寄与した世界史的な発明とも言える原則である。今でも宗教と政治権力が結びつき宗教を理由とした争いが絶えず停滞している国をみると、その重要さが見出されるように思う。また、多様な価値観をもつ人が社会を構成している中、少数になってしまう人でも肩身の狭い思いをせずその人らしく生きるためにも重要なものである。靖国訴訟のニュースをみるときは、裁判ではこういうことが争われているのだということを頭に留めておいてほしい。

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以前、救急車の有料化が問題になって、出動1回当たり4万円から5万円かかっているという話があった。これは、救急に係る総費用から出動回数を割って算出しているらしい。しかし、この算出方法だとじゃんじゃん呼んだほうが1回あたりのコストが下がることになるのではないか。車両の維持費や人件費といった固定費は呼んでも呼ばなくてもかかるものだからだ。本来的に必要な救急体制の維持に係る固定費は差し引いた上で算出すべきではなかろうか。
この問題は、医療の知識がない人にとっては、緊急性の判断が難しい上、どの病院に行けばいいのかもわからない(救急車だと病院探しをしてくれる)という事情があるように思う。警察の#9110のような緊急性がない場合の相談のためのダイヤル(小児については#8000があるらしい)をもっと普及させるか、119の担当者が内容を聞いて緊急性がないと判断した場合に最善の対応を教えてくれるサービスに転送を行うのがいいと思う。

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この問題は、医療の知識がない人にとっては、緊急性の判断が難しい上、どの病院に行けばいいのかもわからない(救急車だと病院探しをしてくれる)という事情があるように思う。警察の#9110のような緊急性がない場合の相談のためのダイヤル(小児については#8000があるらしい)をもっと普及させるか、119の担当者が内容を聞いて緊急性がないと判断した場合に最善の対応を教えてくれるサービスに転送を行うのがいいと思う。

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小中学生が学校に携帯電話を持ち込むことを禁止すべきか、ということが話題になっている。色々と議論があるが、少なくとも小学生は禁止になるであろう。まだ学生の私でも携帯電話が普及したのは中3から高2にかけてで、携帯電話のある小学校生活というのが想像できず、学業への支障がないか不安を拭えないからである。
私が小学生のころは「ねりけし」や「ドラゴンクエスト・バトル鉛筆」が存在していたが、いま思うと「学用品」という名目で持ち込み禁止をくぐり抜けた玩具であった。いかに持ち込み禁止を回避するか、昔から子供は基本的な法解釈の課題に知らず知らず取り組んできたのである。面白い。
さて、携帯電話の持ち込み禁止をくぐり抜ける方法を考えてみると、上の例と同様に学用品の一部にしてしまう、というのが最も簡単である。そして、携帯電話と一緒になれる学用品はペンケースくらいしかない。くっつけるとなると、上下開きのペンケースの片方にソフトバンクの922SHを搭載した感じの商品になるであろう。
+ 
きっと小中学生はメールがメインで通話はあまり使わないだろうから、いっそのこと通話機能も削ってしまう。メールとiモード・iアプリを使用できるかたちにする。進化すれば電子辞書や計算機・スケジュールの機能もつくだろう。これにより「これは携帯電話ではない(たしかに電話機能がない)」「これはペンケースだ(メール機能はおまけにすぎない)」という言い訳が可能になる。商品名指しで禁止になるまで数ヶ月間は堂々と持ち込めるだろう。
以上、電車の中で思い浮かんだ冗談でした。
追記:似たようなものをみつけました。
私が小学生のころは「ねりけし」や「ドラゴンクエスト・バトル鉛筆」が存在していたが、いま思うと「学用品」という名目で持ち込み禁止をくぐり抜けた玩具であった。いかに持ち込み禁止を回避するか、昔から子供は基本的な法解釈の課題に知らず知らず取り組んできたのである。面白い。
さて、携帯電話の持ち込み禁止をくぐり抜ける方法を考えてみると、上の例と同様に学用品の一部にしてしまう、というのが最も簡単である。そして、携帯電話と一緒になれる学用品はペンケースくらいしかない。くっつけるとなると、上下開きのペンケースの片方にソフトバンクの922SHを搭載した感じの商品になるであろう。


きっと小中学生はメールがメインで通話はあまり使わないだろうから、いっそのこと通話機能も削ってしまう。メールとiモード・iアプリを使用できるかたちにする。進化すれば電子辞書や計算機・スケジュールの機能もつくだろう。これにより「これは携帯電話ではない(たしかに電話機能がない)」「これはペンケースだ(メール機能はおまけにすぎない)」という言い訳が可能になる。商品名指しで禁止になるまで数ヶ月間は堂々と持ち込めるだろう。
以上、電車の中で思い浮かんだ冗談でした。
追記:似たようなものをみつけました。
最近「空気を読む」という言葉が流行している。その時々において周囲から期待されている言動をするかしないかという問題で、表現はともかくそのような配慮は誰もが常に行っている。突飛な行動をとってみるのもひとつの面白さで、まあ、その肯否は場合によるという曖昧な答えに落ち着くだろう。
私は大学に入るまで一度しかカラオケに行ったことがなかったのだが、大学で仲のよくなった友人がカラオケ好きでよく連れて行ってもらった結果、今では結構なカラオケ好きになっている。今でもこの友人と一対一でひたすら曲を入れあって歌いつくすというやり方は一番の楽しいやり方だ。
当然、他の集団でカラオケに行くときもあるが、そのときに強く感じるのは「みんなが知ってる曲を歌え」という「空気」である。しかし、どんな曲でも一メロと一サビをきけばその後それなりに一緒に歌えるし、知らない曲を新しく紹介してくれるのも楽しみのひとつだと思うので、個人的にはあまり好きではない。知らない曲だと楽しめないというのは、結局のところ歌うのがすごい好きかそれほどでもないかという違いによるのだろう。
この「空気」を優先するか、自分の考えを優先するかは、先にも述べたように場面ごとに考えることになる。結果的に判断を誤ったと思うときもある。一方で、誰かが知らない曲を入れても歓迎して一緒に歌おうとすれば、少なからず「空気」は変わる。「空気」は勝手に出来ていて各人が粛々と守るだけではなく、作っていくものでもある。法律もそうだ。

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私は大学に入るまで一度しかカラオケに行ったことがなかったのだが、大学で仲のよくなった友人がカラオケ好きでよく連れて行ってもらった結果、今では結構なカラオケ好きになっている。今でもこの友人と一対一でひたすら曲を入れあって歌いつくすというやり方は一番の楽しいやり方だ。
当然、他の集団でカラオケに行くときもあるが、そのときに強く感じるのは「みんなが知ってる曲を歌え」という「空気」である。しかし、どんな曲でも一メロと一サビをきけばその後それなりに一緒に歌えるし、知らない曲を新しく紹介してくれるのも楽しみのひとつだと思うので、個人的にはあまり好きではない。知らない曲だと楽しめないというのは、結局のところ歌うのがすごい好きかそれほどでもないかという違いによるのだろう。
この「空気」を優先するか、自分の考えを優先するかは、先にも述べたように場面ごとに考えることになる。結果的に判断を誤ったと思うときもある。一方で、誰かが知らない曲を入れても歓迎して一緒に歌おうとすれば、少なからず「空気」は変わる。「空気」は勝手に出来ていて各人が粛々と守るだけではなく、作っていくものでもある。法律もそうだ。

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