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美術鑑賞:南健吾展

2009年01月28日 | 紹介

(画像は不都合があれば削除いたします)/概要はこちら※2010年の感想はこちら

美術にはあまり馴染みがないが、ちょっとした縁で観に行ったので感想を記すことにする。


作品について

今回展示されるのは1作品で、上記画像の絵画と、それを部屋全体を使って立体的に表現したものである。赤い屋根の家、外に置かれる扉、外の光景として街とそれを破壊する抽象的な人物とテレビ塔が描かれている。作品の意味については概要のページに書かれており、簡単にまとめれば、人は自分の生活圏内とメディアに映る情報しか認知しておらず、その他の部分は認識しないままである、ということである。したがって、右下と左にある、外の世界を不自然に切り取る灰色一色の部分が、作品の意図を語る中心部分であると言えよう。

今回展示されている立体作品は、家と扉と街が直線的でシンメトリックに配置され、絵画が斜めの視点から描かれているのと較べ受ける印象が異なる。また、テレビの配置が扉と向かい合うかたちになっているという点も異なる。これにより、テレビを観ると扉と外の世界に対して背を向けていることになる。作者の意図としてはこれが本来の姿で、絵画での配置は平面に描く上での制約であったとのことだ。


大きさの対比

立体作品をみて私が思ったのは、家と扉と街の大きさの関係である。家と扉は2メートルほどの高さで、人がそのまま中に入っていける、ほぼ等身大の大きさである。そのために家の赤い屋根とアンテナは省略されている。対して外の町はテレビ塔が1メートルほどの高さで、比較的小さくなっている。

仮に街の大きさに比して家と扉を小さく作ったならば、日常生活の範囲が狭く外の世界が広大であることを表わすことができるように思う。しかし一方で、作品の配置だと、家の中の椅子からみて背後の扉で外の世界が全て隠れることになり、日常と外の世界との断絶が強調され、テレビで見る外の世界も実際より矮小化されたものだと感じることができる。両者を較べてみると、やはり現在の配置の方が効果的であろう。


テレビ塔は壊されるか

続いて思ったのは、外の世界がテレビ塔と怪物と破壊された街である必然性である。この怪物は街を破壊したあと、テレビ塔と対面している。テレビ塔は街の破壊を全国に向けて発信している。果たして怪物はこの次の行動として、テレビ塔を壊すだろうか。破壊されれば、家のアンテナは電波を受信できず、テレビは消えてしまう。

怪物はおそらく世間に注目されることもなければ、他者の日常生活とのかかわりも少ない「グレーゾーン」から来た者であろう。顔の表情もない無個性な存在である。いわば生きる証として、反社会的な行動をして社会の注目を一斉に浴びる。最近は「劇場型犯罪」という言葉が使われるが、これに駆り立てられた者の感情というのは如何なるものであろうか。自分の姿をもっと見てくれと願うだろうか。それとも自暴自棄で見苦しい自分の姿を隠したいと思うだろうか。どちらとも言いがたい。画中の怪物も逡巡しているように見える。

このように、自分の生活圏内・メディアに映る世界・その他の部分が絡まり合い、外の世界に映される世相を個人的に感じるに至った。


肖像権と表現

ギャラリーでの話で、私が法律を学んでいるということもあり、街の風景の写真を撮影する際に人が写りんだときの肖像権の話題が上った。法的には、肖像権は人格権の枠内で捉えられており、人格権はかなり強力な保護を受ける傾向にある。芸術的表現との調整には難しい問題があるだろう。このことを問題提起するために、仕込みにはなるが、穏やかな街の風景―写り込む全ての人が白いボードでカメラに向けて顔を隠している以外は―という作品を作ってみたら面白いのではないかと感じた。


この個展は1月31日まで行われている。
http://www.gallery-58.com/


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