順風ESSAYS

日々の生活で感じたことを綴っていきます

競争嫌い

2009年10月27日 | essay

私は競争嫌いである。誰もがそうであるように負けるのは嫌であるが、他人に勝ちたいという意欲がないので、なるべく競争状態を作らないようにしている。法学部は競争意識が非常に強いところで、こういう部分は結構ストレスになる。自分は競争関係を持ちこんでいないつもりであっても、時々競争意識を基にした発言をされることがあり、内心驚くことも多い。先日、自分がどうして競争嫌いなのか考えてみたところ、ふと少年サッカーの経験が背景にあるのでは、と思った。

私は幼稚園から小学校4年生終わりまで地域の少年サッカークラブに入っていたのだが、全く活躍できなかった。具体的には、勝ち試合の終盤にDFで出させてもらう感じで、終に1ゴールも決めることがなかった。一番印象に残っているのは、相手からボールを奪い前に離れていた味方にインサイドで早いパスを通した一度のプレーだ。もっとも、小中高と学校の体育の授業などではそれなりに点を入れて活躍できるくらいの技術は身についたので、悪いことばかりではなかった。

両親もインドアな遊びを好む自分に運動をさせ、体育で恥ずかしい思いをさせないことが目的だったようで、もともと他の子どもとの競争を煽ることはしなかったこともあって、活躍できなくても何も言われなかった。そのため長い間続けることになったのだが、勝ち負けのはっきりするスポーツで幼少期にずっと負けを味わい続けたことは、競争自体を嫌う性質を生む原因となっただろう。その一方で、先日の記事のように他人の「できない」に寛容で、甘えてもいいんじゃないの?という感覚の形成の一因にもなっているだろう。

まあ幼少期はどうであれ、大人になれば自ら自己を形成していくことができるので大したことではない。といっても、私は競争嫌いは克服すべき対象とは思っておらず、むしろ過剰な競争心を修正すべきものと考えている。現代の過剰な競争は、(1)「自分が満たされてこそ他人に気をかけることができる」という命題を前提として、半永久的に自分が満たされているという感覚を奪うもので人間の精神の次元を低いままにする、(2)メメント・モリ(死を想え)―例えば、明日人生が終わるとしたら何をするかという質問に対して「他人に勝つこと」を望む人はほとんどいないだろう、根源的な欲求に根ざしたものではないのでは、といった点で全面的には与し得ないと思うからである。資本主義社会の下での経済成長のために適応的な価値観であるとして、その限りで自分に採用すべきもので、頭の天辺からつま先まで染まるようなものではない。

ということで、自分に合った環境を探す中で、他者との関係ではなく知識に存在基盤をもつ専門家として生きていきたいと計画していたのだが、その目論見が達成されるかは、危うい。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
初めまして (けい)
2009-11-08 21:06:32

多分、ずいぶんと私が年上だとは思いますがコメントさせていただきました。

競争嫌いが幼少期の影響も少しはあったのかもとのお話と受け取りました。私はお優しい性格から来た競争嫌いとお見受けしたのですが、。そして競争しても良いものと、競争が必要なものなのかを判別出来てらっしゃるのではないのでしょうか。

私も競争は苦手なものですからちょっとお邪魔してしまいました。
コメントありがとうございます (追い風)
2009-11-09 00:38:20
初めまして。コメントありがとうございます。

私は気をかけるのが負担になりそうな方とは距離を置いてしまうので優しい性格と言えるのかはわかりません。法学の分野は競争が激しく、法科大学院では学年順位が、資格試験も順位が数字で渡されます。そんな環境の中で競争にどう取り組むかの判断力が鈍ってくるのを感じます。

競争嫌いを正当化するようなことを書いてあまり受け入れられないかと思ったのですが、友人にも同調して下さる方がいて安心しました。競争嫌いでも上手くやっていけるようになればいいですね。

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