HAPPY LIFE ~月のリズムで暮らす ゆるりゆるりと~

Lokah Samastah Sukhino Bhavantu
全ての人が自由で平等にしあわせでありますように☆

一粒の宇宙 130億年のいのち

2012-10-30 21:05:09 | 日記

先日お寺で、食禅を学ばせて頂きました。とてもとても、ゆたかな、こころ満たされる時間でした。

自分の目の前に、いのちを差し出してくれているいのちに感謝して、両の手を合わせていただく。

そして、つくってくださった方が料理のためにさいてくださった、時間・いのちもいただく。

食べるって、「いのちの移し替え」なのだと思います。食事をした回数だけ、私たちの中にはいのちの連なりがあって。たくさんのいのちに支えられて今ここにある。そう思うと、自分の中に連なるたくさんのいのちを大切にするために、自分自身も大切にしなくてはと改めて背筋が伸びる思いがします。自分は決して一人で生きているわけではないから。

和尚さまが、「いのちの始まりにどんどんさかのぼっていくと、そこには130億年の時間があって。どこかでいのちが途絶えていたら今ここでこうして、話をしたり、ともに時間を過ごすことはなかった。あなたの中にも、私の中にも、みんな130億年の時が詰まっている」というようなことをお話しくださって。自分の中にあるものすごく大きないのちの時間こと、考えました。

その時ふと頭に浮かんだのが、「一粒の宇宙 130億年のいのち」という言葉。

お豆や、お米や。穀物の種や実は、その一粒の中に、いのちをつないでいくために必要なものをぎっしりと詰めて。土に根付けば新しいいのちを実らせ。食物になれば食べた人のいのちを支える。素敵ですね。

一粒の種や実には、宇宙といういのちが生まれてからの130億年という時間が詰まっている。だから種って、とってもパワフルなんだな、と改めて実感です。

樹齢2000年の楠の大木も、元をたどれば一粒の小さな実から。

そして、130億年という気が遠くなるほどの時の流れから見たら2000年だって、きっとほんの一瞬のこと。

地球の時間、いのちの時間で物事を考えていったら、もっといろいろなことが変わっていくような気がします。

天気も、自然も、季節も、いのちはいつも変化していく。けれど、その変化は確実だけれどとてもゆっくり進む。

 

「けれどこの日から、何かが確実に変わり始めた。本当の変化がすべてそうであるように、それは草木の変化にも似て静かにゆっくり進んでいった」。(M・エンデ「はてしない物語」)

 

ゆっくりとした変化を待つことができるように。

待つ、ということのベースには「信頼」があるような気がします。

いつか芽が出ると信じて種を植える。きっと大丈夫、と信じて待つ。

いのちの変化がゆっくりなのは、私たちに信じて待つということを教えてくれようとしてくれているからなのかもしれません。

いま苦しいことや悲しいことがあっても。きっと超えていけるから大丈夫。

わたしたちの中にあるいのちは、は130億年という時間を生き抜いていまここでいのちを生きているんだから。

自分自身と、自分のいのちを信頼して。

こころの中に佳きことの種まきをしたら、信じて待つこと。日々を丁寧に紡ぐこと。

一つ一つの所作に心をこめて、「いまここ」にいつもこころを留め置いておくこと。

一粒の宇宙に学ぶ、このごろの信条です。

 

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秋空に想うこと

2012-10-18 22:33:29 | 日記

秋の澄んだ空気や高く晴れあがった空を見ていると、ふと鬼籍の人を思い出すことがある。30歳という若さで急逝した友人、がんで亡くなった父と何人かの年上の近しい人たち、祖父母、曾祖父母、恩師。気が付けばいつの間にか、両手では足りないほどの人を見送った。

 

がんで亡くなった年上の友人の1人は、実家近くで小さなバーを営むマスターだった。

小さな扉をくぐって入るその秘密基地みたいなバーは、7人も入れば満員で。とても親密な空間だった。

客と一緒に自分も杯を重ねる習慣のあった彼と、いくつもの夜一緒にグラスを合わせた。一人でボーっとしたいとき、何となくまっすぐ家に帰りたくない時。そこで知り合った人たちと、朝まで飲んだこともあったりして。そのバーで過ごす時間はちょっとした旅のような自由で気ままな時間で。なんだかすごく大人になったような、そんな気がした。

ほかのお客さんが誰も来ない時には、いつもはカウンター越しにお酒を飲むマスターが横に来て、二人でしみじみ並んでお酒を飲むこともしばしばあった。

 closeの札が出る夜が続いた後、久しぶりに小窓に明かりが灯った夜。扉をくぐるとマスターはちょっと浮かない顔で。いつものようにつきだしの料理をお皿に盛りながら「ちょっと具合が悪くて検査入院してたんだけど。思っていたよりも悪くてね。・・・がんの末期みたいなんだよね・・・」と、さらりと言った。

 手術前に送ったメールや写真、手紙や差し入れの本をことのほか喜んでくれたこと。病院をこっそり抜け出したマスターと、神社の杜を手をつないで散歩して、お茶を飲んだりしたこと。30歳ほども年の離れた人だったけれど、子供のように無邪気で。頑固でさみしがり屋で。まっすぐで、チャーミングで、器用で、でもとっても不器用な人だった。

20代半ばだった私は、彼がその生の終わりにむけてくれたあまりにもまっすぐな思いを受け止めきれなくて。中途半端に心を開かせて、中途半端にその手を放してしまったな、というほろ苦い気持ちとともに、ふと思い出したりする。例えば、街角で思いがけず金木犀の香りがただよってきた時なんかに。

秋は空が高く遠くなる分、心の隅にしまっているいろいろな思い出がそっと近くに降りてくるような、そんな気がする。

次の満月が来たら、冴え冴えと光る月を見上げて。あの頃よく飲んでいたアマレットソーダを作って。

マスターの面影と乾杯しよう。

あの頃、まるで子どもだった君も、少しは大人になったね、なんて笑ってくれたらいいんだけれど。

  

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