最近ある社会学者の話を聞いて、ふと思い出すと考えているテーマがある。
それは「聴くことの力」そして、「絶望」と「希望」ということ。
その先生曰く、「絶望」とは将来の時間や空間が閉ざされてしまい、かつ、過去にも戻ることができないという状態。そして、希望とはそれらが開かれている状態、とのこと。
今はここにいるのだとしても、いまここがどんつきの目的地なのではなくて、あくまで通過点に過ぎないと思えた時、人は希望を持つことができる。だからこそ、その「希望」に至った人たちをまた「絶望」に戻してはならない。そのためにco-presence(ともにある、傍らにいる)ということを考え続けていく必要がある、というお話を自身の阪神大震災の研究調査での関わりから話してくれた。そして、関わるということには責任が伴い、研究者はどれだけの覚悟を持って、調査者に関わっていくのか、という問いを立てられた。「社会学」が、そういう苦しいところにある人たちにどのように役に立てるのか、とも。
このことは、むかし人類学でフィールドワークをした時も、保健師として仕事について、人々の悩みや不安を聞く中でも自分に問い続けてきたことだったから、聴くこと、関わること、希望、絶望をめぐるテーマをこのところぐるぐると考えている。
presentという言葉の語源はまさに、その人の現前にある、ということだという言葉を耳にしたことがある。つまり、プレゼント、とは、もともとはものを送るという行為ではなく、存在を贈り合う、ということだったのだ、と。
存在を贈り合うためには、信頼関係が必要になる。
人の話を聴いていくうちに、聴くことで相手がとても無防備になる瞬間、というのがあることに気がつく。「今までこんなこと誰にも言ったことがなかったけど・・・」とか「こんなことまで話してごめんなさい。でも、やっぱり聴いてほしくて、つい…」という言葉がふと相手の方からこぼれおちてくる。
そういう、こぼれおちる言葉を大事に拾い集めて、その人の言葉だけではなくて、やむにやまれずそういう言葉を紡ぎだすに至ったその人の存在そのものを受け止めるといこと、それが聴くということだと思う。だから聴くということには大きな責任を伴う。
こころを開いて話をして、その話がきちんと受け止めれられなかったと感じる時、人はとても傷つき、振り子のように開いた分だけ逆にまた閉じてしまう。だから聴く人は、その人全体を受け止め、関わっていく覚悟を持って聴くという行為に臨む必要があるのだと思う。それぐらい、聴くということはエネルギッシュで責任を伴う行為だ。
いままで、思いがけず、その人の深くから出てきた言葉を聴く場面に何度も出会い、初めのうちはとても戸惑った。深い話を聴くと、こちらも揺り動かされてしまうから。でも、聴き手が揺り動かされてばかりいては、話し手の話や想いが受け止められずこぼれおちていってしまう。揺り動かされながらも、巻き込まれずに、適度な距離を保ちながら一緒にいること。それはまるで、マラソンの走者と伴走者の関係のようなものだ。
走るのは、その人自身でしかないのだけれど、絶対に離れずに道中を共にして身を持って励ましてくれる存在になるということ。きっとそれが、聴くことの力であり、存在を送り合うこと、なのだと思う。
ここまで考えて、先生がくれた最初の問いに戻る。
社会学は、現実の事象に対して無力なのか、という問い。人類学を学部で専攻していた時、私はこの問いに人類学は『無力である』という回答をもっていて、だからこそ、もっと積極的に人の傍らにたたずんで、かかわり、役立ちそうな医療の世界に入ってみた。その中でいろいろと模索するうちに、いまの私は社会学も人類学も決して無力ではない、と思うようになった。たとえば、授業やゼミを通じて、このような問いを立てること、そのことでその問いに出会った人たちが考え、行動を始めること。
それは、種をまくような行為で、とても意味のあることだと思う。種をまかなければ、芽は出ないし、いのちは育たない。その一番大切な種をまく、ということに関われることは素敵なことだ。
だから、学問をして社会のいろいろな現象に問いを立てる、というのは決して無力なことではないし、意味にないことではない。もちろん、問いを立てるだけではなくて、行動も必要だけれど。
2年ほど前のブログでも紹介したけれど、西村 佳哲さんのHPで紹介されていて、読んだらすごく心に響いた、カーム・クローネンバーグ・ムトゥの『共同と孤立に関する14章』の一説を、このテーマを考えていてふと思い出したので再びのシェアを。
聴くことの力、は、存在を贈りあう、つまりともにあるということにあるのだと思うから。
『“ともにある”ということは、私たちの中に、また私たちの周囲に現実に存在するものを、見たり、聴いたり、それに触れたり、味わったりすることだ。
思考・感情・空想といった、個人に与えられた能力を結集することだ。
つまり人格としての自己に、面と向かうことである。
“ともにある”ということは、ささやかなものに心を寄せることだ。
…… 一枚の草の葉、飛び回る虫、ふくらみゆくつぼみ、巣立ったばかりの小鳥など。
“ともにある”ということは、美しい旋律に耳傾けることでもあるが、それと同時に、聞き慣れた音にも注意を向けることだ。
…… 吹きすさぶ風の声、軒端打つ雨の響き、道行く人の足音、幼子の泣き声などに。
“ともにある”ということは、彩り豊かな絵画に接することでもあるが、それと同時に、ありふれたものの姿に美を見いだすことだ。
…… バラの花の赤さ、思いにふける顔、新緑のみずみずしさなどに。
“ともにある”ということは、たがいに耳を傾けあうことだ。友情をもって接するとき、自分には役割があるという、生き甲斐が感じられてくるのである。
“ともにある”ということは、自己と他者の織りなす世界に関わることだから、一人楽しむ想像の世界にかくれ込んだりはしない。むしろ、人々の苦悩と努力に力を合わせるのだ。
“ともにある”ことの秘訣は、昨日と今日、今日と明日をつないでいる何げない出来事を、一つ一つしっかりと生き抜けるようになることだ。』
カーム・クローネンバーグ・ムトウ著
『共同と孤立に関する14章』より