HAPPY LIFE ~月のリズムで暮らす ゆるりゆるりと~

Lokah Samastah Sukhino Bhavantu
全ての人が自由で平等にしあわせでありますように☆

THE GARDEN

2011-10-12 22:39:50 | 日記

 年を重ねて好きになったものの一つに「庭」という言葉がある。

 日本語の中で庭が、一番多く登場するのは「家庭」、という単語で。庭も家庭も

 ただ種をまいて放っておけばいい、というものではなくて。

 気にかけて手を入れてはじめて美しく整えられて育っていく。

 

 家庭を守る女性たちは、代々、すぐれた庭師としての素質も持っていたのかもしれない。

 自分の中にも、そういう、護り慈しみ育てていくことにつながる流れがあることがとてもうれしいし、女性として生を受けて良かったなと思う。

 

 最近知ったのだけれど、石庭の石の3分の2以上は土の中に埋まっていて、私たちが目にしているのは氷山の一角なのだという。

 そして多分、あの石庭の静寂と美しさを支えているのは、その見えない部分なのだ。

 

 なんだか、とても大切な秘密を知ってしまった気がする。

 最近は「効率化」やら「見える化」とかいう言葉がやたらと独り歩きをして。暗いところのないように隈なく明かりを当てて。

 日本という国はとても生きていきにくい国になってしまった、と思っていたから。

 

 見えないものをみるとか。見えないところにあるものをお推し量るとか。

 陰翳礼讃という言葉をもつ、素晴らしい文化を持っていた日本はいつしか見えるところ明るいところにしか意識を向けない

 国になってきてしまったように思う。

 

 けれど、土中の根がしっかりと支えているからこそ木は成長できるし。表面には見えない体の中のいろいろな機能が動いていてくれるからこそ、私たちは今日も生きながらえることができる。

 

 庭という場所は、そういうものを思い出させる。

 いのちの源に帰らせてくれる一番身近な場所なのかも知れない。

 

 さて、私と夫のひとまずは二人きりの家庭という庭。

 嵐が来ても、虫がついても多少のことにはへこたれない草花たちがすくすく育つ、いのちあふれる庭にしていきたいな、と思う。

 

 元来大雑把な私。

 英国風のきっちり整ったガーデニングには、やや不向きかもないかもしれないけれど、丹精込めて味のある庭を作っていきたい。

 

 人も動物も植物も、すべてのいのちが、深々と気持ちのいい深呼吸をして、ゆっくりくつろぎたくなるような庭を。

 種を植えて、水をやり、手をかけて心を込めて育てよう。

 

 

 心の中で、そんな願いを持ち始めた時から自分の中の庭が育ち始めている。そんな気もする。

 

 

 

 

 

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大きなナラの木の下で

2011-10-11 21:12:32 | 旅行

石狩地方を旅していて、偶然3本の樹齢800年のナラの樹に出会った。

堂々として、天高くその枝を伸ばして気持ちよさそうに風に葉を揺らしてた3本の巨樹。

ここは、浜益村の魚つきの森。

昔から海の魚が豊かな森のあるところに集まってくることは、古くから経験的に知られていて、江戸時代には、そうした海岸近くの森林や山のことを魚付林、網付林、網代山などと呼びならわしており、藩によっては、禁伐とされていたとか。

 北海道では「北の魚つき森」といって、漁場近くの原生林を大切に護っているところが多くある。

 

ここもそんな森の一つで、眼下には美しいブルーの海が広がる。

3本のナラの木には、〆縄が巻かれ、たくさんの願いを記したしゃもじがお供えされている。

 

そっと幹に手を当てると、長い時間を感じさせるごつごつとした手触り。

樹のなかにある800年という時間を思うと、その壮大な時間の流れに圧倒されてしまう。

 

 

樹は動かずにずっとそこにあるのだけれど、人や動物や虫や、いろいろな来訪者の記憶をもっていて、居ながらにして長い長い旅をしているような知恵ある存在だ、とも思う。

 

春には芽吹き、夏には茂らせた葉で木陰を作り、秋には美しく彩った葉を惜しげもなく地面に落とし、土に栄養を与える。

そしてまるで枯れてしまったかのような冬の姿を越えて、また春には美しい芽ぶきの季節を迎える。

木々たちはなんて、シンプルで無駄がなくて美しく季節を巡るんだろう、と、いつもその潔さに勇気づけられる思いがする。

 

絵本の葉っぱのフレディの中に

「僕たちは、葉っぱに生まれて葉っぱの仕事は全部やった。太陽や月から光をもらい、樹のためにも人のためにも立派に役割を果たしたのさ。だから引っ越すのだよ 」

という一説がある。

 

散ることを恐れるフレディに親友のダニエルが言った言葉。

冬の訪れとともに、役目を終えて土に還っていく葉っぱが教えてくれるいのちの循環。

 

森を訪れることで、私たちはそのいのちの循環を思い出し、自分がいまここにいる意味を確認できる

ような気がする。

 

「森には封印した魂を生き返らせる力があるのかもしれない」という言葉が誰のものだったか定かではないけれど、本当にそんな力がある、と私も思う。

 

なぜなら、私たちは海から生まれ、森を通って、いまのライフスタイルにたどりついた生き物だから。

自分の中に、自分の魂を回復させるための深い森をもつこと。美しく深い湖をもつこと。

  大地にしっかりとグラウンディングし、揺らがない自分の芯を作っていくこと。

 台風や雨風に、その枝を揺らしても倒れない巨樹のように。

 しなやかに、たくましく、凛として。

 

そんな風に、この人生を生きていけたら幸福だろうな、と思う。

 

大きなナラの樹の下で。そんなことをふと思った。

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めぐるいのち

2011-10-11 19:51:22 | 旅行

秋から初冬へと季節がめぐりはじめている10月の北海道。 

石狩地方の暑寒別川で鮭の遡上の風景に出会いました。

 

急流の中、ただひたすらに生まれ育った川をさかのぼっていこうとするその姿にただただ胸がいっぱいになります。

鮭たちは生まれた川のにおいを覚えていて戻ってくるのだという。

力いっぱいにひれを動かして、いのちの限り、次の世代をつなぐために力を尽くす。

 

川の中流には地元漁師が網を張っていて、必死に遡上する鮭たちを文字通り一網打尽にしようと待ち構えている。漁師たちにも生活があり、この季節を待ち望んでいたということは百も承知で、網を破ってとにかく鮭たちを登らせてあげたい気持ちでいっぱいになってしまいました。

「お願いだから、川を上らせてほしい」と。

 

ぐるぐると円環するいのち。

一つのいのちは死ぬけれど、いのちそのものは死なず、巡り続けるということが自然を見ているとよくわかる。

目の前の鮭たちは寿命を果たして死んでいくけれど、それは新しいいのちの始まりでもあるから。

 

 

食べ物を頂くということは、なにかを殺してそのいのちを頂く。いのちの移し替えの行為だ。だからこそ、日本人は両の手を胸の前で合わせて「いただきます」と頭を垂れる。

その感性を私はとても美しいと思うし、素晴らしいと思のです。

 

今日の私のいのちは他のいのちを頂いてこそ、在るのだから。

 

自分の中に無数のいのちの連なりがあるということを自覚した時、人は強くなれるような気がします。

自分の前に自分のいのちを投げだしてくれた植物や動物たちのことを思うと、自分自身を粗末にすることなんてできなくなるから。

 

いのちはいのちによって生かされていて、そして、いのちは一つに繋がっている。

 

自然の中で生きている時、人はそのことをよく知っていたのだと思う。自分自身がその一部であるということも。

 

あらゆるものに神様が宿っていて、天地人の感覚をもっていた古人はきっと、自分以外のあらゆるいのちも区別せず大切にしていたのだと思う。だからこそ神話が生まれ、漁師たちは獲物たちの魂に祈りをささげた。

 

自分以外のいのちに思いを馳せるということ。現在の私たちの社会の中ではなかなか見えにくくなってしまったけれど、見えないものを見る勇気やいのちの脆さやはかなさに思いを至らせるということを忘れないでいたいのです。

 

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