秋の澄んだ空気や高く晴れあがった空を見ていると、ふと鬼籍の人を思い出すことがある。30歳という若さで急逝した友人、がんで亡くなった父と何人かの年上の近しい人たち、祖父母、曾祖父母、恩師。気が付けばいつの間にか、両手では足りないほどの人を見送った。
がんで亡くなった年上の友人の1人は、実家近くで小さなバーを営むマスターだった。
小さな扉をくぐって入るその秘密基地みたいなバーは、7人も入れば満員で。とても親密な空間だった。
客と一緒に自分も杯を重ねる習慣のあった彼と、いくつもの夜一緒にグラスを合わせた。一人でボーっとしたいとき、何となくまっすぐ家に帰りたくない時。そこで知り合った人たちと、朝まで飲んだこともあったりして。そのバーで過ごす時間はちょっとした旅のような自由で気ままな時間で。なんだかすごく大人になったような、そんな気がした。
ほかのお客さんが誰も来ない時には、いつもはカウンター越しにお酒を飲むマスターが横に来て、二人でしみじみ並んでお酒を飲むこともしばしばあった。
closeの札が出る夜が続いた後、久しぶりに小窓に明かりが灯った夜。扉をくぐるとマスターはちょっと浮かない顔で。いつものようにつきだしの料理をお皿に盛りながら「ちょっと具合が悪くて検査入院してたんだけど。思っていたよりも悪くてね。・・・がんの末期みたいなんだよね・・・」と、さらりと言った。
手術前に送ったメールや写真、手紙や差し入れの本をことのほか喜んでくれたこと。病院をこっそり抜け出したマスターと、神社の杜を手をつないで散歩して、お茶を飲んだりしたこと。30歳ほども年の離れた人だったけれど、子供のように無邪気で。頑固でさみしがり屋で。まっすぐで、チャーミングで、器用で、でもとっても不器用な人だった。
20代半ばだった私は、彼がその生の終わりにむけてくれたあまりにもまっすぐな思いを受け止めきれなくて。中途半端に心を開かせて、中途半端にその手を放してしまったな、というほろ苦い気持ちとともに、ふと思い出したりする。例えば、街角で思いがけず金木犀の香りがただよってきた時なんかに。
秋は空が高く遠くなる分、心の隅にしまっているいろいろな思い出がそっと近くに降りてくるような、そんな気がする。
次の満月が来たら、冴え冴えと光る月を見上げて。あの頃よく飲んでいたアマレットソーダを作って。
マスターの面影と乾杯しよう。
あの頃、まるで子どもだった君も、少しは大人になったね、なんて笑ってくれたらいいんだけれど。