桝野俊明さんの禅の言葉に学ぶ「ていねいな暮らしと美しい人生」を拝読。
この2年半ぐらい続いてきた生活が2013年にはまた新しい形を迎えそうで、またまた大きな変化の時に差し掛かっているような気がするいま、響く言葉がたくさん散りばめられていた。
もちろん、日々の中でも小さな変化は毎日起きていて、自分自身の身体だって、日々生まれ変わっているのだけど。大きな変化というのは、やっぱりそれに向かう覚悟とか、受け入れる気持ちの余裕みたいなものが必要だと思う。
でもきっと、変化が起こるときというのは、自分でもどこかでそれを知っていたり、求めていたりするような気もして。自分が求めて起こすのではない変化もきっと、何か大きな流れの中での計らいのような気もしたりもする。
種の状態で土の中にいることが心地よいから。花として日の光を浴びているのは、気持ちがいいから。そこから変化することをやめてしまえば実をつけることは決してできないように。
生きもののすることは、たぶん、その本質というか芯みたいなものは保ちながらも変容していくこと、なのだと思う。
「ていねいな暮らしと美しい人生」の中の「不退転」(ふたいてん)という禅語のくだり。
「変えようのない事実というのはあります。悩もうが恨もうがそれを変えることはできません。流れゆく時間の中で、自分自身の心の持ちようを変えていくしかないのです。
元に戻らないという信念。
元に戻れないという覚悟。その両方が人生には必要です。
過去を振り返ることなく、いまという時間の中で生き切る。大切なのは今だということを知る。それが人間に与えられた使命であり、宿命でもあるのです」
紅葉した葉が緑色に戻ることはない。色づいたらもう戻れず、紅葉してしまったら、その先は散るのだ、ということがわかっていてもただひたすらに、突き進んでいくしかない。
色彩が美しいということ以上に、そのひたむきさ、真摯さに心打たれるから、日本人は紅葉をことのほか愛してきたのではないかと、思ったりもする。
気温が下がって季節が巡れば葉は必ず色づき。時が来れば枝から離れ、土に還り。その養分がまた木々の新しいいのちにかわる。樹々は文句も言わずに、ひたすらに淡々とその営みを紡ぐ。
私たちは毎日同じような日常を繰り返しているつもりでいるけれど、本当は毎日毎日変化していて。いつも一瞬も戻ることのできない「いま」を日々刻み続けている、ということを季節のめぐりによって気が付いたりもする。
そういういのちの約束みたいなものを、覆い隠そうとしたわたしたちの社会は、そのことによって逆に生きる意味みたいなものを見えにくくして、息苦しくなってしまったように思う。
もう戻れない、ということを覚悟としてもつこと。
そして、そうやっていま自分が刻み続けている「いま」というときも終わるときが来るということを意識して生きる。
終わりがあるということを知っているからこそ、見えたり気づくことがある。
夜は朝につながっているし、冬の終わりは春の訪れを告げる。
何かが終わる、ということは、何かが始まる、ということだ。
もう戻れない、ということは悲しいことではない。それはいのちの理(ことわり)だから。
不退転、という言葉はそんないのちの理をすっと腹に落とし込んでくれるような。
凛として潔い、美しい言葉だと思う。
12月13日は2012年最後の新月。
また新しい月のめぐりに、こころの棚卸しもして、新しい変化の時に備えよう。
毎日毎日何かが終わり、何かが始まる。今日という日はいつも、オワリでハジマリ。
今日という日に何が始まり、何が終わったのか。眠りにつく前のひと時、そっと思いを馳せてみる。
そうして目覚める明日はまた、新しいわたしの始まり。