最近、ある本を読んでいて、ふと「しあわせ」ということについて考えた。
(最近、比較的時間があることもあり、本を1日に3冊ぐらい読むこともあったり。すっかり本の虫です^^;なんだか学生時代に戻ったみたいだなぁ。テレビは、眺めているだけで、どんどん勝手に進んで行ってしまうけれど。本は傍らにゆるりと寄り添ってくれるから好き。心に響く言葉を繰り返しなぞってみたり。そこからゆるゆると思考を巡らせていく時間も好きで、そういう時間が地層のように積み重なって、私は今日まで育ってきた気がします)
さて、その本の中の著者の言葉。
「人が人として幸せであるために最低限必要なもの。それは自由であること、なんじゃないか。自由だけでは幸せになることはできないにしろ、少なくとも自由を奪われた状態では、たとえほかの何を持っていようと人は心底幸せになることなんてできないのではないか。
(中略)人間、自由であることを突き詰めれば孤独であることにも耐えなくてはならない。でもそうして、自分だけの足で独りで立つことができてこそ、人は本当の意味でほかの誰かとかかわることができるようになるんじゃないか。そうすることで初めて、何物にも惑わされないじぶんだけのしあわせをみつけることができるんじゃないか」。
そして、こうも言う。「幸福とは呼べぬ、幸せもあるのかもしれない」。
年を重ねて、親の死に立ち会ったり、自分よりも年若い友人の死に出会ったりしているうちに、ふとこれだけみんな違うように見えて、実のところ人はみんな同じなんだなという思いが、このごろふと心の中をよぎる。
大好きで敬愛してやまない写真家の故星野道夫さんが「どれだけ違う世界に生まれ育っても、私たちはある共通した土俵の上に立っている。それは、ただ一度の人生をよりよく生きたいという共通の願いなのだ」という言葉を残しているけれど、そういうようなこと。
多分、私たち人間はひとつなのだ。同じ時代に生まれて、生きて個々を生きる存在でありながら、深くつながりあう一つのいのち。
大きな木の根が地下深くでしっかりとつながりあっているように。私たちの個々の生は、ほかのいのちに深く支えられつながりあっている。
「それが何であれ、あなたが自分のものだと思っているものはすべて本当はあなたのものではない。だからあなたは、じぶんが手にしたものを、みなとわかちあわなくてはならない」という言葉に出会ったのはいつどこでだったのか忘れてしまったけれど。本当はそうなのだと思う。だって、自然や動物たちは私たちに自分のもっているものを、いつも惜しみなく与えてくれる。
自分の身体の中に、小さないのちを宿し、産み育てていく女性たちは、そのことを本能として深く理解しているような気がする。それは素敵なことだ。
数日前の新聞に、ルワンダのジェノサイドのの際に性的暴行を受けた女性と、そのさいに宿した子供たちを追った写真集の記事を読んだ。子供を見るたびに、その当時の記憶がよみがえり、子供を遠ざける女性。ようやく、子供には罪はないのだという思いを少しずつ、持てるようになったという女性…。
すべてのいのちが、明るく歓迎されてこの世に生を受けてくるのではないということを、この年まで生きてくれば少なからず思わずにはいられないけれど。それでもやっぱり、生まれてくるいのちには意味があって。そしてまた、亡くなっていくいのちにも意味があって。
「一般的な」尺度で見たら「幸福」とは呼べない幸せ、でもそれも幸せの一つの形なのだと信じてみたい、と思う。その時のやるせなさや哀しさは生涯消えることなく彼女たちの中に巣くってしまうのだろうけれど。同じ女性として彼女たちの痛みを理解しようとすることはできても、本当の意味で理解したりその悲しい経験を共有することはできないと思うけれど。
それでも、彼らに暖かな春の陽だまりのように心安らぐ時があると、いいなと思う。彼女たちが、子供たちが「ああ、やっぱり生まれてきて良かった」とふと思えるような時間を過ごせる日が来ることを願わずにはいられないのだ。
幸せ、ということに思いを巡らせているうちに、なんだかずいぶん遠くまで来てしまったけれど。英語を話す、とか海外に仕事で行くとか、そういうことではなくて、1枚の写真や小さな記事から思いをつないでいくこと、がグローバルということなんじゃないかなんて、思ったりもする。
だって、私たちは同じ一つのいのちとしていまこの時を共有しているのだから。
自分の幸せを心から願うように、人の幸せを心から願える人間でありたいな、と思う。