HAPPY LIFE ~月のリズムで暮らす ゆるりゆるりと~

Lokah Samastah Sukhino Bhavantu
全ての人が自由で平等にしあわせでありますように☆

BIRTH

2013-08-06 18:11:48 | 日記

 胎動が活発になるからなのか、このところ午前2時過ぎと4時半ごろに必ず目が覚めることが多くなりました。今朝ふと目が覚めたのは午前415分。まだ薄暗闇の中、窓の外からは、秋の到来を告げる虫の音が耳に心地よく響きます。

 4時半になり、少しあたりが明るくなって、新聞配達の方のバイクの音が聞こえるようになると、鳥の声と蝉の声にバトンタッチ。
 ほんの15分の間に、秋の気配の始まりと夏の気配の両方を感じて。

夏と秋の季節の境目の淡いに一人たたずんで、巡る季節の環の中に入り込んでしまったような、時間が緩やかにたゆたう不思議な時間でした。

 夜明けに誕生や旅立ちが多いのもなんだかわかるような気がします。なにかがこう、かちりと切り替わる時間帯なのですね。

 妊婦になって早7ヶ月。1010日(とつきとおか)って長いようで、なんだかあっという間です。

でも、こんなふうに身体がどんどん変化していくことを感じて、向き合って、自分のなかにあるいのちというか野性と向き合うことができる時間を持つことができるのは、とても幸せなことのような気がします。1番大きな変化は、先のことをを心配し過ぎたり、自分はどんなふうにこれから先働いて生きていきたいんだろうとかを思い悩んだりする時間が少なくなったことと、PCに向かう時間が減ったこと。

休日お散歩することは日課にしていますが、遠くやイベント、お店などへの外出は各段に減りました。ほとんどが徒歩圏内で回る生活。心も体も「いまここ」にいる(ある)ことが自然で、それがすべてという感じがします。

ほんとは生活って、とてもシンプルなものなのかも。身土不二って、難しいことではなくて、やっぱりそれがいのちにとって、1番健やかで自然なことのような気がします。遠く遠くへ、ではなくて。道は近きにこそあるのかもしれません。

 疲れやすくて、何かというとすぐ眠くなってしまうこともあるので、出勤して働いて。帰宅の途中で買い物をして、食事の支度をして洗濯して片づけなどして、お風呂入ってストレッチをしたらもう、1日の終わり。6年ぐらいヨガをしてきたけれど、身体の動きもままならず、あまりスタジオにも通えていないいまが、実は1番ヨガな暮らしができているような気がしたりもして。

 もちろん、これまでヨガをしてきたからこそ、身体に向き合うとか呼吸とかそういうことをより意識できるのだと思うのですが、自分の意志に関わらずどんどん変化していくこの身体やいのちから教えてもらうことは本当にとてもダイナミック。

いのちって、すごいですね。「身体は何でも知っている」、本当にそう思います。

  

バースコーディネーターの大場ナナコさんの本「BIRTHは、そんないのちのあたたかさやダイナミックさ、自然とのつながりや自分の中にある野性、生かされていまあるということを思い出させてくれます。写真と併せたメッセージ本なので、、ぜひ本を手にとって屋久島の美しい森の写真と一緒にみて頂けたらと思うのですが、文章だけでもとてもとても素敵で響くものがあると思うので。

ここでは、私の撮った写真と併せて、その文章をご紹介です。

 

「すべての機が熟した「その時」こそが、あなたが生まれた日。

 あなたがいいと

 あなたを待っていた人たちがいる

 母たちは、何千年、何万年もの間繰り返してきた

 次のいのちのために、このいのちを使おうと

 わたしもそう、なれるだろうか?

  

 誰もがかつては小さな種。生きながら大きな樹になる。

 根を張り、幹を太くし、枝を伸ばし、葉を茂らせ、そして花を咲かせる。

 

 あなたは「自分」という1本の樹。根は外からは見えないあなたの本質。

 幹は周囲から見えるあなたの姿。

 枝葉は、母、妻、一人の女性としての営み。

 

 枝先の花や果実は、あなたという樹のこどもたち。

 あなたが送るいのちの力で、子どもは実る。

 

 無理をするのが上手で 甘えることが下手なあなた。

 あなたに大切なのはゆるむこと

 

 本当の自分をゆるそう

 ゆるもう ゆるもう

 ゆるむと真実が見えてくる

 ゆるもう ゆるそう

 ゆるむことはゆるすこと

 

 あなたでいいと、あたながいいと、やってきたいのち

 育ててはいけないいのちを身ごもることはない。

 

 泣いてる?怒ってる?

 感じてはいけない感情はない

 からだの声を聞いて、こころの声に耳を澄ませて

 からだが変わると、こころが変わる。

 

 あなたの根っこに水を注ごう

 あなたが嬉しいと思う生き方をしてこそ、その子は潤う

 

 あなたがあなたのままでいいと自分を喜べたら

 それが、その子にとって最高のギフト

 

 つかれたら休む

 さみしい時は「たすけて」と声にする  かんたんなこと

 

  赤いしずくは、いのちのはじまり

 おぼえている?なつかしい水の中

 そう、私たちはかつて、水に守られていた

 

 空や大地、森羅万象のすべてがいのちをめぐらせる

 満ちては還る いのちのしずく

 

 愛する強さを得るためにあった いままでの悲しみ

 涙のしずくは、いのちを育む樹液に変わる

 傷ついた心さえ、誰かを助ける力になる

 なにひとつ、むだなことはないのだから

 

 受け入れて与える喜びを知るために

 与えて ただ与えて すべてを手放したとき

 抱きしめるべきものに気づくはず

 

 ほら、つぼみがほどけてゆるむ時

 いのちの道が開いていく

 ゆっくりと ゆっくりと

 

 私は私だと、そう思えるように大地にしっかりと根をはろう

 どんな嵐にも決してぶれない母なる樹を目指して いのちのしずくをめぐらせよう

 

 子供は未来の大人

 母として 女性として 人として 新しい未来とともに自分も新しくなる

 こころが透明になる

  愛する人にしてあげたい

 与える 待つ ゆるす つつむ ほほえむ

 

 だいじょうぶ  だいじょうぶ

 あなたはあなたのままでいい

 いのちにやさしい母のような

 しずくあふれる大きな樹に いつかきっと、なれる    」       (大場ナナコ著 「BIRTH」より文章抜粋)

 

 

 やさしく、おおきく枝を広げて木陰をつくる母なる樹。

 いのちに優しく寄り添って、育み続ける樹のようにどっしり深く根を張って。生きられたらいいなぁ。

 

 ゆるゆると、ゆるむことを教えてくれている、新しいいのちに感謝をして。日々を丁寧に。

 いのちあることは、あたりまえでなくて、かけがえのない、ありがたいこと。

 わたしにつながるたくさんのいのちに、今日もありがとう。

 年々、荒々しくなっている気候や、まだまだ課題ばかりの原発のこと。。。

 決して明るい話題ばかりではないいまのこの時代の日本に、生まれてくることを決めてくれた勇気ある小さいいのちを

 まずは元気にこの世界に送り出して上げられるようがんばりたいと思います(*^-^*)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ごはん~家族になる時間~

2013-02-25 23:28:53 | 日記

 

「生きる過程で、何かを発見したり達成したり夢をかなえる機会があるだろう。

大切なものを失う日もあるだろう。

嬉しかった日も、悲しかった日も、人生の途中である。

それよりも大切なのは、繰り返す日々そのものである。

ごはんがおいしかったとか、誰かと笑いあったとか。そういう一瞬の中にしあわせはある」

(阿古真理「昭和の洋食 平成のカフェ飯 家庭料理の80年」)

夫が単身赴任から帰ってきて嬉しいのだけど、以来なんだか自分の時間がない。

朝お弁当を作って、出勤して仕事をして、帰りがけに買い物をして帰ってきて、というペースに変わりはないのに、なぜか朝も夜も時間がない。そう思っていました。

何に時間を使うのかというと、ごはんの算段と後片付け、掃除洗濯などの暮らしのあれやこれやに。

一人だと、ちゃんと作っているつもりでも、だいぶ算段を飛ばして簡略化していたことに気付く。初めのうちは、一人暮らしの自由と気ままさを懐かしく思っていたりもしたのだけれど。

 でも、自分にとって、生きていくことの嬉しさや幸せって、作ったご飯を食べてくれる人がいて、一緒に食卓を囲めることだとあらためて思ってから、暮らしのあれやこれやに費やされる時間がいとおしくなってきました。

 ドラマのように、私たちの人生には毎日ドラマチックなことが起こるわけではないから。大切なのは繰り返す毎日を丁寧に紡ぐこと。つい雑になるあれやこれやを反省してみたりして。

そんな風に思えるようになったら、こぼれおちていくと思っていた時間がまた、自分に還ってくるような感じがするから時間って不思議。

台所で立ち働いてお湯を沸かす時間、魚が焼きあがるまでの時間。食材と向き合う時間は、実は自分自身と向き合う時間にもなったりして。そう考えると、時間はたっぷり自分の両の手の中にある。

台所仕事の楽しさは、時間をかけるということの愉悦や待つことのゆたかさ、なのかもしれない。台所では、麹や味噌が発酵したり。スープが煮込まれたり。待つ、ということが折々に必要になる。それはきっと、日本や東洋の文化のまん中にある、大事なもの。

 

かつて調理をするということは家の中に残された最後の野生だったのだと思う。

魚をさばく、鳥をさばく、そうしていのちあるものが「食べ物」として供されていくまでの過程をつぶさに見守る。みながいろりやかまどに集まり、燃える火や、鍋から立ち上る湯気を眺めながら、食べ物が煮炊きされていくのを共に待つ。

 そこで醸成されて、発酵しているのは煮炊きされている食べ物だけでなく、共に待つという時間や関係性でもある。

 すべての関係性の真ん中に食べるということがあって、人もいのちも時間も空間も全部、まあるくお皿の上で繋がっていた。それが、かつての日本の食卓。家族のきずなを強くつないでいたのは、いまは無き、かまどやいろり、だったのではと思うことも。

 

料理には、色や音や光や時間がたっぷり含まれて味を添えている。切り口がちょっと不格好でも。味が薄かったり、濃すぎたりしても。美味しいのはそこに、手間暇と愛情が込められていて、そういうものも一緒に受け取っているから。

ごはんを作って、ごはんを食べる。それは生活そのもの。だから、ごはんはいつも、毎日できるだけ手づくりで新鮮なものを。

 働いて、ごはんを作って。両の手を合わせてご飯を頂いて。また次の日の仕度をして、床につく。

そういうシンプルな当たり前のことが、実はとても大切で。そういうものこそが生活を支えているのだと思う。毎日、毎日積み重ねてゆくもの。

一緒に暮らす人が「家族」になるのは血のつながりではなくて多分、そういうごはんの時間をどれだけ一緒に重ねてきたか、ということのような気もする。

 いろいろあっても、やっぱり結婚してよかったなと思うのは、まったく違う家で育って生活してきた二人がそんな風に時間を積み重ねて家族になっていく感じを体験できるから。

 家庭って、家の庭って書くぐらいだから。お庭のように丹精込めて、手入れをしながら育てていくものなのでしょう。台所はその活動の最前線。おまかせ頂いた最前線を、愛情込めて今日も元気に護ります(*^-^*)のどが痛いという夫の風邪退治に今日は免疫アップメニューを♪

 

 ・豚肉の梅肉せいろ蒸し 白髪ねぎ添え

 ・しょうがごはん

 ・新物わかめとネギとショウガのお味噌汁

 ・ゼンマイの五目煮

 

  Get well soon☆  やっぱり夢は、いつか自分の「カモメ食堂」を♪人生もお料理も味わって。楽しもう♪

 ちなみに、今回のおいしそうな写真は、北海道東川町のGood NEWS カフェにて。とっても美味しくて心地よい時間の流れる場所、なのです。

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オワリハジマリ

2012-12-11 21:51:16 | 日記

桝野俊明さんの禅の言葉に学ぶ「ていねいな暮らしと美しい人生」を拝読。

この2年半ぐらい続いてきた生活が2013年にはまた新しい形を迎えそうで、またまた大きな変化の時に差し掛かっているような気がするいま、響く言葉がたくさん散りばめられていた。

もちろん、日々の中でも小さな変化は毎日起きていて、自分自身の身体だって、日々生まれ変わっているのだけど。大きな変化というのは、やっぱりそれに向かう覚悟とか、受け入れる気持ちの余裕みたいなものが必要だと思う。

でもきっと、変化が起こるときというのは、自分でもどこかでそれを知っていたり、求めていたりするような気もして。自分が求めて起こすのではない変化もきっと、何か大きな流れの中での計らいのような気もしたりもする。

種の状態で土の中にいることが心地よいから。花として日の光を浴びているのは、気持ちがいいから。そこから変化することをやめてしまえば実をつけることは決してできないように。

生きもののすることは、たぶん、その本質というか芯みたいなものは保ちながらも変容していくこと、なのだと思う。

 「ていねいな暮らしと美しい人生」の中の「不退転」(ふたいてん)という禅語のくだり。

 「変えようのない事実というのはあります。悩もうが恨もうがそれを変えることはできません。流れゆく時間の中で、自分自身の心の持ちようを変えていくしかないのです。 

 元に戻らないという信念。

 元に戻れないという覚悟。その両方が人生には必要です。

 過去を振り返ることなく、いまという時間の中で生き切る。大切なのは今だということを知る。それが人間に与えられた使命であり、宿命でもあるのです」

 紅葉した葉が緑色に戻ることはない。色づいたらもう戻れず、紅葉してしまったら、その先は散るのだ、ということがわかっていてもただひたすらに、突き進んでいくしかない。    

 色彩が美しいということ以上に、そのひたむきさ、真摯さに心打たれるから、日本人は紅葉をことのほか愛してきたのではないかと、思ったりもする。

気温が下がって季節が巡れば葉は必ず色づき。時が来れば枝から離れ、土に還り。その養分がまた木々の新しいいのちにかわる。樹々は文句も言わずに、ひたすらに淡々とその営みを紡ぐ。

 私たちは毎日同じような日常を繰り返しているつもりでいるけれど、本当は毎日毎日変化していて。いつも一瞬も戻ることのできない「いま」を日々刻み続けている、ということを季節のめぐりによって気が付いたりもする。

 そういういのちの約束みたいなものを、覆い隠そうとしたわたしたちの社会は、そのことによって逆に生きる意味みたいなものを見えにくくして、息苦しくなってしまったように思う。

もう戻れない、ということを覚悟としてもつこと。

そして、そうやっていま自分が刻み続けている「いま」というときも終わるときが来るということを意識して生きる。

終わりがあるということを知っているからこそ、見えたり気づくことがある。

 夜は朝につながっているし、冬の終わりは春の訪れを告げる。

 何かが終わる、ということは、何かが始まる、ということだ。

 もう戻れない、ということは悲しいことではない。それはいのちの理(ことわり)だから。

不退転、という言葉はそんないのちの理をすっと腹に落とし込んでくれるような。

凛として潔い、美しい言葉だと思う。

12月13日は2012年最後の新月。

また新しい月のめぐりに、こころの棚卸しもして、新しい変化の時に備えよう。

 毎日毎日何かが終わり、何かが始まる。今日という日はいつも、オワリでハジマリ。

 今日という日に何が始まり、何が終わったのか。眠りにつく前のひと時、そっと思いを馳せてみる。

そうして目覚める明日はまた、新しいわたしの始まり。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一粒の宇宙 130億年のいのち

2012-10-30 21:05:09 | 日記

先日お寺で、食禅を学ばせて頂きました。とてもとても、ゆたかな、こころ満たされる時間でした。

自分の目の前に、いのちを差し出してくれているいのちに感謝して、両の手を合わせていただく。

そして、つくってくださった方が料理のためにさいてくださった、時間・いのちもいただく。

食べるって、「いのちの移し替え」なのだと思います。食事をした回数だけ、私たちの中にはいのちの連なりがあって。たくさんのいのちに支えられて今ここにある。そう思うと、自分の中に連なるたくさんのいのちを大切にするために、自分自身も大切にしなくてはと改めて背筋が伸びる思いがします。自分は決して一人で生きているわけではないから。

和尚さまが、「いのちの始まりにどんどんさかのぼっていくと、そこには130億年の時間があって。どこかでいのちが途絶えていたら今ここでこうして、話をしたり、ともに時間を過ごすことはなかった。あなたの中にも、私の中にも、みんな130億年の時が詰まっている」というようなことをお話しくださって。自分の中にあるものすごく大きないのちの時間こと、考えました。

その時ふと頭に浮かんだのが、「一粒の宇宙 130億年のいのち」という言葉。

お豆や、お米や。穀物の種や実は、その一粒の中に、いのちをつないでいくために必要なものをぎっしりと詰めて。土に根付けば新しいいのちを実らせ。食物になれば食べた人のいのちを支える。素敵ですね。

一粒の種や実には、宇宙といういのちが生まれてからの130億年という時間が詰まっている。だから種って、とってもパワフルなんだな、と改めて実感です。

樹齢2000年の楠の大木も、元をたどれば一粒の小さな実から。

そして、130億年という気が遠くなるほどの時の流れから見たら2000年だって、きっとほんの一瞬のこと。

地球の時間、いのちの時間で物事を考えていったら、もっといろいろなことが変わっていくような気がします。

天気も、自然も、季節も、いのちはいつも変化していく。けれど、その変化は確実だけれどとてもゆっくり進む。

 

「けれどこの日から、何かが確実に変わり始めた。本当の変化がすべてそうであるように、それは草木の変化にも似て静かにゆっくり進んでいった」。(M・エンデ「はてしない物語」)

 

ゆっくりとした変化を待つことができるように。

待つ、ということのベースには「信頼」があるような気がします。

いつか芽が出ると信じて種を植える。きっと大丈夫、と信じて待つ。

いのちの変化がゆっくりなのは、私たちに信じて待つということを教えてくれようとしてくれているからなのかもしれません。

いま苦しいことや悲しいことがあっても。きっと超えていけるから大丈夫。

わたしたちの中にあるいのちは、は130億年という時間を生き抜いていまここでいのちを生きているんだから。

自分自身と、自分のいのちを信頼して。

こころの中に佳きことの種まきをしたら、信じて待つこと。日々を丁寧に紡ぐこと。

一つ一つの所作に心をこめて、「いまここ」にいつもこころを留め置いておくこと。

一粒の宇宙に学ぶ、このごろの信条です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋空に想うこと

2012-10-18 22:33:29 | 日記

秋の澄んだ空気や高く晴れあがった空を見ていると、ふと鬼籍の人を思い出すことがある。30歳という若さで急逝した友人、がんで亡くなった父と何人かの年上の近しい人たち、祖父母、曾祖父母、恩師。気が付けばいつの間にか、両手では足りないほどの人を見送った。

 

がんで亡くなった年上の友人の1人は、実家近くで小さなバーを営むマスターだった。

小さな扉をくぐって入るその秘密基地みたいなバーは、7人も入れば満員で。とても親密な空間だった。

客と一緒に自分も杯を重ねる習慣のあった彼と、いくつもの夜一緒にグラスを合わせた。一人でボーっとしたいとき、何となくまっすぐ家に帰りたくない時。そこで知り合った人たちと、朝まで飲んだこともあったりして。そのバーで過ごす時間はちょっとした旅のような自由で気ままな時間で。なんだかすごく大人になったような、そんな気がした。

ほかのお客さんが誰も来ない時には、いつもはカウンター越しにお酒を飲むマスターが横に来て、二人でしみじみ並んでお酒を飲むこともしばしばあった。

 closeの札が出る夜が続いた後、久しぶりに小窓に明かりが灯った夜。扉をくぐるとマスターはちょっと浮かない顔で。いつものようにつきだしの料理をお皿に盛りながら「ちょっと具合が悪くて検査入院してたんだけど。思っていたよりも悪くてね。・・・がんの末期みたいなんだよね・・・」と、さらりと言った。

 手術前に送ったメールや写真、手紙や差し入れの本をことのほか喜んでくれたこと。病院をこっそり抜け出したマスターと、神社の杜を手をつないで散歩して、お茶を飲んだりしたこと。30歳ほども年の離れた人だったけれど、子供のように無邪気で。頑固でさみしがり屋で。まっすぐで、チャーミングで、器用で、でもとっても不器用な人だった。

20代半ばだった私は、彼がその生の終わりにむけてくれたあまりにもまっすぐな思いを受け止めきれなくて。中途半端に心を開かせて、中途半端にその手を放してしまったな、というほろ苦い気持ちとともに、ふと思い出したりする。例えば、街角で思いがけず金木犀の香りがただよってきた時なんかに。

秋は空が高く遠くなる分、心の隅にしまっているいろいろな思い出がそっと近くに降りてくるような、そんな気がする。

次の満月が来たら、冴え冴えと光る月を見上げて。あの頃よく飲んでいたアマレットソーダを作って。

マスターの面影と乾杯しよう。

あの頃、まるで子どもだった君も、少しは大人になったね、なんて笑ってくれたらいいんだけれど。

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする