年を重ねて好きになったものの一つに「庭」という言葉がある。
日本語の中で庭が、一番多く登場するのは「家庭」、という単語で。庭も家庭も
ただ種をまいて放っておけばいい、というものではなくて。
気にかけて手を入れてはじめて美しく整えられて育っていく。
家庭を守る女性たちは、代々、すぐれた庭師としての素質も持っていたのかもしれない。
自分の中にも、そういう、護り慈しみ育てていくことにつながる流れがあることがとてもうれしいし、女性として生を受けて良かったなと思う。
最近知ったのだけれど、石庭の石の3分の2以上は土の中に埋まっていて、私たちが目にしているのは氷山の一角なのだという。
そして多分、あの石庭の静寂と美しさを支えているのは、その見えない部分なのだ。
なんだか、とても大切な秘密を知ってしまった気がする。
最近は「効率化」やら「見える化」とかいう言葉がやたらと独り歩きをして。暗いところのないように隈なく明かりを当てて。
日本という国はとても生きていきにくい国になってしまった、と思っていたから。
見えないものをみるとか。見えないところにあるものをお推し量るとか。
陰翳礼讃という言葉をもつ、素晴らしい文化を持っていた日本はいつしか見えるところ明るいところにしか意識を向けない
国になってきてしまったように思う。
けれど、土中の根がしっかりと支えているからこそ木は成長できるし。表面には見えない体の中のいろいろな機能が動いていてくれるからこそ、私たちは今日も生きながらえることができる。
庭という場所は、そういうものを思い出させる。
いのちの源に帰らせてくれる一番身近な場所なのかも知れない。
さて、私と夫のひとまずは二人きりの家庭という庭。
嵐が来ても、虫がついても多少のことにはへこたれない草花たちがすくすく育つ、いのちあふれる庭にしていきたいな、と思う。
元来大雑把な私。
英国風のきっちり整ったガーデニングには、やや不向きかもないかもしれないけれど、丹精込めて味のある庭を作っていきたい。
人も動物も植物も、すべてのいのちが、深々と気持ちのいい深呼吸をして、ゆっくりくつろぎたくなるような庭を。
種を植えて、水をやり、手をかけて心を込めて育てよう。
心の中で、そんな願いを持ち始めた時から自分の中の庭が育ち始めている。そんな気もする。