「生きる過程で、何かを発見したり達成したり夢をかなえる機会があるだろう。
大切なものを失う日もあるだろう。
嬉しかった日も、悲しかった日も、人生の途中である。
それよりも大切なのは、繰り返す日々そのものである。
ごはんがおいしかったとか、誰かと笑いあったとか。そういう一瞬の中にしあわせはある」
(阿古真理「昭和の洋食 平成のカフェ飯 家庭料理の80年」)
夫が単身赴任から帰ってきて嬉しいのだけど、以来なんだか自分の時間がない。
朝お弁当を作って、出勤して仕事をして、帰りがけに買い物をして帰ってきて、というペースに変わりはないのに、なぜか朝も夜も時間がない。そう思っていました。
何に時間を使うのかというと、ごはんの算段と後片付け、掃除洗濯などの暮らしのあれやこれやに。
一人だと、ちゃんと作っているつもりでも、だいぶ算段を飛ばして簡略化していたことに気付く。初めのうちは、一人暮らしの自由と気ままさを懐かしく思っていたりもしたのだけれど。
でも、自分にとって、生きていくことの嬉しさや幸せって、作ったご飯を食べてくれる人がいて、一緒に食卓を囲めることだとあらためて思ってから、暮らしのあれやこれやに費やされる時間がいとおしくなってきました。
ドラマのように、私たちの人生には毎日ドラマチックなことが起こるわけではないから。大切なのは繰り返す毎日を丁寧に紡ぐこと。つい雑になるあれやこれやを反省してみたりして。
そんな風に思えるようになったら、こぼれおちていくと思っていた時間がまた、自分に還ってくるような感じがするから時間って不思議。
台所で立ち働いてお湯を沸かす時間、魚が焼きあがるまでの時間。食材と向き合う時間は、実は自分自身と向き合う時間にもなったりして。そう考えると、時間はたっぷり自分の両の手の中にある。
台所仕事の楽しさは、時間をかけるということの愉悦や待つことのゆたかさ、なのかもしれない。台所では、麹や味噌が発酵したり。スープが煮込まれたり。待つ、ということが折々に必要になる。それはきっと、日本や東洋の文化のまん中にある、大事なもの。
かつて調理をするということは家の中に残された最後の野生だったのだと思う。
魚をさばく、鳥をさばく、そうしていのちあるものが「食べ物」として供されていくまでの過程をつぶさに見守る。みながいろりやかまどに集まり、燃える火や、鍋から立ち上る湯気を眺めながら、食べ物が煮炊きされていくのを共に待つ。
そこで醸成されて、発酵しているのは煮炊きされている食べ物だけでなく、共に待つという時間や関係性でもある。
すべての関係性の真ん中に食べるということがあって、人もいのちも時間も空間も全部、まあるくお皿の上で繋がっていた。それが、かつての日本の食卓。家族のきずなを強くつないでいたのは、いまは無き、かまどやいろり、だったのではと思うことも。
料理には、色や音や光や時間がたっぷり含まれて味を添えている。切り口がちょっと不格好でも。味が薄かったり、濃すぎたりしても。美味しいのはそこに、手間暇と愛情が込められていて、そういうものも一緒に受け取っているから。
ごはんを作って、ごはんを食べる。それは生活そのもの。だから、ごはんはいつも、毎日できるだけ手づくりで新鮮なものを。
働いて、ごはんを作って。両の手を合わせてご飯を頂いて。また次の日の仕度をして、床につく。
そういうシンプルな当たり前のことが、実はとても大切で。そういうものこそが生活を支えているのだと思う。毎日、毎日積み重ねてゆくもの。
一緒に暮らす人が「家族」になるのは血のつながりではなくて多分、そういうごはんの時間をどれだけ一緒に重ねてきたか、ということのような気もする。
いろいろあっても、やっぱり結婚してよかったなと思うのは、まったく違う家で育って生活してきた二人がそんな風に時間を積み重ねて家族になっていく感じを体験できるから。
家庭って、家の庭って書くぐらいだから。お庭のように丹精込めて、手入れをしながら育てていくものなのでしょう。台所はその活動の最前線。おまかせ頂いた最前線を、愛情込めて今日も元気に護ります(*^-^*)のどが痛いという夫の風邪退治に今日は免疫アップメニューを♪
・豚肉の梅肉せいろ蒸し 白髪ねぎ添え
・しょうがごはん
・新物わかめとネギとショウガのお味噌汁
・ゼンマイの五目煮
Get well soon☆ やっぱり夢は、いつか自分の「カモメ食堂」を♪人生もお料理も味わって。楽しもう♪
ちなみに、今回のおいしそうな写真は、北海道東川町のGood NEWS カフェにて。とっても美味しくて心地よい時間の流れる場所、なのです。