鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

石垣山城登城・後編~総石垣の一夜城

2020-11-29 | 城郭【続日本100名城】


令 和 2 年 ( 2 0 2 0 年 ) 8 月 7 日 ( 金 )

午 後 3 時 1 7 分

神 奈 川 県 小 田 原 市

石 垣 山 一 夜 城 歴 史 公 園



約2キロ続いた急坂を上り、石垣山城【国指定史跡】へ。



続100名城スタンプを逆さまに押してしまうという大失態まで犯すほど、疲労困憊に陥ってしまいました。



石垣山城のお隣で甘いものをいただき、



呼吸を整えて石垣山一夜城歴史公園へ。




入口から、早くも豪快な石垣がお出迎え。
こちらは、南曲輪を取り囲む石垣です。
関東でこれだけごろごろと石を用いて普請された城郭は、それほど多くありません。
しかし、ここ石垣山城の築城主は、天下人・豊臣秀吉
秀吉の権威と財力により、東国では最初の総石垣の城郭が築かれたのですね。



石垣の石は、自然石をそのまま用いた野面(のづら)積みで構成されています。
石垣の隅は、長方体の石を交互に組んだ算木積みでしょうか。

秀吉軍が連れてきた石垣普請のプロ集団・穴太(あのう)による見事な仕事・・・という割には、石垣が崩れています。
これは城割りといって、城が不要となった時にその一部を壊した痕跡なのです。



それにしてもなかなかに大きな石です。
築城当時の豪奢な石垣が思い起こされます。
そんな石垣が全面的に備えられた城郭が、突如として近隣に現れる・・・小田原に籠城する者たちは、さぞや仰天したでしょう。




少し進んで、東曲輪へ。
石垣「山城」というくらいですから、ハイキングコースが続くものかと思っていたのですが、城内はゆったりとした?公園のような感じ。
朝に登ってきた滝山城よりも、空間に余裕のある公園のような趣きですね。



東曲輪から下っていくと、二の丸東側石垣が見えてきます。
こちらは割合小ぶりの石が用いられています・・・といっても十分に大きいのですが。





案内看板によると、ここの石垣は延長約67メートル、高低差約6メートル、傾斜は約60度だそうです。
二の丸東側石垣を見ながら上り坂を進んでいくと、



二の丸に到達。
山城とは思えないほどの広い空間で、この画像だけ見せられて「これは運動公園です」と言われたら納得してしまうほどです。



小田原攻めのための一時的な城のはずですが、この容量。
さすがは天下人の城、というべきでしょうか。



二の丸のはずれの方にある櫓台跡
ここは視界を樹木が遮っていますが、少し歩いたところから・・・



小田原の市街地を見下ろすことができます。



小田原城天守も見えます。
現在の小田原城は市街地の中に埋没していて、探すのがやっとといったところ。
しかし戦国時代の小田原城は、眼下の市街地をそのまま土塁と堀で囲んでいたという巨大な城で、総構え(惣構え)の城だったのです。



石垣で囲まれた空間が見えますが、後回しにして・・・



二の丸の突端にある展望台へ。



小田原の街は、ここからはよく見えませんね。
小田原城の天守も見えませんでした。



展望台は西を向いているので、箱根の山々がよく見えました。
秀吉が石垣山城を築く前は、箱根の早雲寺に本陣を構えていました。




それでは、先ほどの石垣で囲われた曲輪に戻ります。
石垣山城のメインディッシュといっても過言ではありません。

 

 

谷を石垣でぐるりと取り囲んでしまった井戸曲輪
その名のとおりここには井戸があり、秀吉の側室・茶々(淀殿)がこの水を用いたということから「淀君化粧の井戸」と呼ばれています。
ふつう井戸といえば穴を掘って、その周りを石で固めるものです。
しかし井戸曲輪は谷を丸ごと石垣で囲ってしまい、巨大な「井戸」としてしまったもの・・・天下人のぶっ飛んだ発想のたまものなのでしょうか。



続100名城スタンプの絵柄は、この井戸曲輪で間違いなさそうです。
では、画角は?

 

ここでしょうか???
絵柄の下半分の「凹」形の区画が、草地の部分?
「凹」左側の「XXX」が、柵になっている?
しかし、ここからだと左の木が視界を遮っていますし、石垣の背後にある樹木が映っていません。

 

もうひとつの候補と考えたのが、こちら。
井戸曲輪の底、井戸の前です。
石の大きさの比率が、スタンプのそれと合っているように思えます。
石垣中央に生えている草が、スタンプのそれと似たような位置に描かれている?
ただ、こちらは「凹」の角度が大きくズレています。

スタンプの画角は・・・今回はわからなかったです。



井戸曲輪の案内看板付近からなのか?



あの木の根元からなのか?



結論は出ないまま、井戸曲輪から出ました。




とても広い二の丸まで戻りました。

 

背後の石垣は、本丸石垣です。
このあたりの石垣は、20メートルを超える高低差を誇っていました。
小田原の北条軍に対面する方角なので、秀吉もこの石垣の普請には相当力を入れていたと思われます。


小田原の北条氏を攻める豊臣秀吉は、天正18年(1590年)3月1日に京都を出発。
4月3日、秀吉方の軍勢が小田原城の包囲を開始します。
秀吉自身は4月6日に箱根の早雲寺を本陣とし、その日のうちに笠懸山に登って小田原城を眺めました。
小田原の力攻めは難しいと判断した秀吉は、笠懸山に城を築くことと定めて長期戦の構えをとります。

普請は急いで進められ、5月14日には石垣ができました。
広間や天守が建築されている中、6月9日と10日には降伏した伊達政宗が秀吉に伺候しました。
このとき政宗は、前日にはなかった白壁を「紙を貼ったもの」と見破り、秀吉軍の諸将に賞賛されたのだそうです。

6月26日、石垣山城は完成し、秀吉は本陣を移しました。
そして小田原城との視界を遮る大木をことごとく切り倒し、北条方に城の完成を誇示したのだといいます。
このさまを見た北条軍は「関白(秀吉)は天狗か神か?! 一夜のうちにこんな城を造るとは!」と驚いたそうです。





本丸へと上りました。



天守台跡まで到達し、石垣山城の登城達成です!
「ニッポン城めぐり」を起動して、



続日本100名城・第126番、石垣山城攻略!
築城主のはずの秀吉さんには、ここではお会いできませんでした。





石垣山から小田原の街と相模湾を眺めて、石垣山城の登城は〆。




午 後 4 時 0 7 分

一 夜 城 ヨ ロ イ ヅ カ フ ァ ー ム


さて、帰り道は・・・・・・



「一夜城ヨロイヅカファーム」の中にあるタクシー会社直通電話の受話器を手に取りました。



帰りはあっさり、10分もかからずに早川駅に到着。
タクシー料金は、ジャスト1,000円でした。






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