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鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

根室半島チャシ跡群・最終章~ヲンネモトチャシ

2017-06-23 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 6 年 9 月 1 9 日 ( 敬 老 の 日 )

午 前 9 時 5 3 分

北 海 道 根 室 市

ノ ツ カ マ フ チ ャ シ 跡 付 近



JR根室駅から、



レンタサイクル「黒雲」にまたがり約11km。



ノツカマフチャシ跡【国指定史跡】の入口まで到達しましたが、



草ぼうぼうの小路に恐れをなし、



遠目で見て終了!・・・という醜態をさらしてしまった私。


根室市観光協会のサイト(ヲンネモトチャシ跡・ノツカマフチャシ跡 詳細MAP)【PDFファイル】より引用)

さらに東にあるヲンネモトチャシ跡【国指定史跡】をめざして、ちゃりんこ旅を再開します。
ヲンネモトチャシへ向かう途中にもチャシ跡があるので、なるべく取りこぼしのないよう地図と照らし合わせつつ進んでいきます。



荒涼とした原野の中を、東の果てまで伸びている北海道道35号・根室半島線



そして突如現れる、



返せ! 北方領土のかわいらしい意見広告。
そんなんじゃプーさんになめられちゃうんじゃねぇのか?
それに北方領土を不法占拠しているのはロシアなんだから、こういう主張こそロシア語も併記すべきでは?



「返せ!北方領土」へのツッコミを誰もいない空の下でつぶやきながら、進むこと約5km。



海沿いの小さな集落が見えてきました。
向こうに見える、海に突き出ているのはサンコタン岬というそうです。



サンコタン橋という橋を渡ります。
流れているのはサンコタン川という小さな川。



湿原に流れる小さな川と、雄大なる根室湾。
後から調べたところ、この付近にはサンコタンチャシ【国指定史跡】があったそうです。



サンコタンチャシの跡地はこのあたりらしいです。





さらに東に進み、本土最東端・納沙布岬まで7.5km。



進行方向右手に、湿原に囲まれた沼地が見えてきました。



ここでちゃりんこライダーの私にとって、悲しいお知らせ。
歩行者なんてほぼ皆無であるにもかかわらず整備されていた歩道が、ここで途絶えてしまいました。
北海道はドライバーがスピードを出しまくるゆえに事故が多い、というイメージを抱いている私にとっては、ここから緊張の時間をむかえます。
数分おきに通る自動車の動きに注意しつつ、東をめざして進みます。



広めの川が現れます。
いや、広い沼が川となって出ていますね。
この川にかかる赤い橋を渡ることになりそうです。



進行方向左側。
小さな灯台のあたりが河口となっているようです。



赤い橋は、協力橋というそうです。
ネーミングの由来はわかりません・・・・・・日本人とアイヌ人が協力してかけた橋なんでしょうか。
勝手な想像をめぐらしつつ、橋を渡ります。



先ほどから見えていた水場は、トウサムポロ沼というそうです。

 

協力橋から、進行方向左手を望みます。
トウサムポロ沼は、その水路が直接根室湾に通じており、淡水と海水の混じる汽水湖ということになります。



反対側。
北海道でないと見られない、水と緑の雄大な景色。
手前には、漁撈用の小舟でしょうか。



汽水湖といえば良い漁場となるのですが、このトウサムポロ沼一帯は禁漁区域になっているようです。



雄大な景色をもう一度。
地図を見ると、このあたりはチャシ跡が密集している地域・・・ということは、沼のむこうのモッコリがチャシなのでは!?



こんな具合で進んできました。
この記事を執筆した時に確認したところ・・・



協力橋をちょうど渡ったあたりに、トウサムポロ2号チャシ跡



灯台の立つ埠頭の対岸に、トウシャム2号チャシ跡(トーサムポロR1西チャシ跡)【国指定史跡】、



協力橋からさらに上流側にトウシャム1号チャシ跡



漁港のすぐそばにヒリヲカタチャシ跡【国指定史跡】があるようです。



チャシ跡が集中するトウサムポロ沼を過ぎると、



ほどなく歩道は復活。



少し進んだところにある、とあるバス停。
停留所名はとくになく、「スクールバス専用」と表示されているだけ。
そしてその時刻が、7時15分の1本だけ!
みうらじゅん氏のいう「地獄表」が掲載されています。
(※氏のいう「地獄表」とは、地獄にはまって出られないくらいのおそろしく本数の少ない時刻表をいうそうです)
行き先は歯舞(はぼまい)小中学校、日本最東端の小中学校です。


さらに進むと、



遠くの彼方に望郷の塔(オーロラタワー)が見えてきました。
本土最東端・納沙布岬に近づいてきています。



再び小規模な「返せ!北方領土」コール。


協力橋から約1.5km。

 

ヲンネモトチャシ跡の方向を示す看板が現れました!
ここで県道35号を外れます。



漁港のある集落が見えてきました。
このあたりは温根元地区というそうです。



漁港が近くなってきたところで、ヲンネモトチャシ跡付近の駐車場に到達しました。



【今回の行程記録】



[A}ノツカマフチャシ跡  9時53分発
サンコタン橋(サンコタンチャシ跡)・協力橋(トウサムポロ沼)経由
[B]ヲンネモトチャシ跡  10時56分着

*所要時間 1時間03分
*移動距離 約10km




午 前 1 0 時 5 3 分

ヲ ン ネ モ ト チ ャ シ 跡


ヲンネモトチャシ跡。
100名城の旅「北日本完全制覇!?」、この旅の一番の目的といっていいでしょう。
100名城の第1番にして、最難関の場所といえる地に、今回はビシッと足を踏み入れます。



チャシ跡の駐車場。
ここに「黒雲」を停めていきます。
チャシのそばには、「温根元野鳥観察舎」なる小屋があるようです。



駐車場からチャシまでは約220メートル。



立看板どおりに進めば、迷うことなく到達できます。



草地の中を、チャシへと続く砂利道がのびています。

 

砂利道のつき当たりに、案内板が設置されています。


チャシ跡は、アイヌ文化期(13~19世紀)の砦跡とされていますが、チャシ跡の築造は18世紀までとされています。
砦のほかにも見張場、整地、祭祀場などの使われ方をしたようで、その規模や形状は様々です。
北海道内には500ヶ所以上のチャシ跡が確認されています。
根室市内にはチャシ跡が32ヶ所現存していて、そのほとんどが根室湾を臨む海岸段丘上に造られています。
根室半島チャシ跡群は保存状態が良好なこと、分泌密度が高いこと、寛政元年(1789年)のクナシリ・メナシの戦いと関連性が高いことから、24ヶ所のチャシ跡が昭和58年に国指定の史跡となっています。

ヲンネモトチャシ跡は、湾に突出した岬の上に盛り土を行い、壕で区画し、盛り土の頂上に平坦面を2ヶ所造り出しています。
近隣の温根元漁港から側面を見ると「お供え餅」のように見え、形の良好なチャシ跡として知られています。

(案内看板の記述を編集して記載)


案内看板の丁字路を右に曲がると、ヲンネモトチャシ跡へと続きます。



もとの地面からは、約2メートルほどの高低差があります。
現在は階段が据えられていて、それを上ると史跡区域内のチャシ跡に入ります。



チャシに上りました。
根室湾と温根元漁港を望むことができます。



チャシ自体は、荒れるに任せた草地です。
私のような観光客がよく来るためか、踏み分け道がくっきりとできています。



チャシの中腹部。
少々見づらいですが、先端部との間にくぼみがあります。
先端部とを分ける壕です。



チャシ先端部。
案内板の記述どおり、地表はなめらかな平坦面で造成されています。



先端に立つ標柱。



先端部からさらに海側には、三角形の区画があるようです。
あまりにも草ぼうぼうなので、私は立ち入りませんでしたが。



チャシの先端部から、本土最東端の納沙布岬方面を望みます。



方向を変えて、根室湾の沖合に浮かぶ小島を眺めます。
この日はよく見えませんでしたが、天気が良ければはるか国後島まで見えるようです。


私の旅も、いよいよ最果ての地に来たんだなぁ・・・・・・。

しばし感慨にふけっていました。



いったん駐車場に戻りました。
今度は側面からヲンネモトチャシを眺めます。



案内板には「歯舞漁港」とありますが、こちらが温根元漁港
歯舞漁港は太平洋側にあるので、この看板は間違っているのではないでしょうか?



温根元漁港の入口。
こちらの看板はきっちり「温根元漁港」と表示されています。
ますます「歯舞漁港」がナゾです。



漁船が居並ぶ中を突き進んでいきます。
当時は漁も終わったのか誰もいませんでしたが、まさに漁師たちの仕事場を正面切って突き進む格好になります。
くれぐれも漁師さんの仕事の邪魔はしないように注意したいところです。





側面からのヲンネモトチャシ跡です。
潮位がやや引き気味であるためか、書籍でもおなじみの姿とはちょっと違うかな。



100名城スタンプの絵柄も、側面のヲオネモトチャシ跡です。
スタンプの方も、潮位は満ち潮のようですね(^_^;)



午前11時26分、温根元漁港を出ました。
日本最東端の登城は、これにて終了。





根室半島チャシ跡群・第2章~ノツカマフチャシ

2017-04-30 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 6 年 9 月 1 9 日 ( 敬 老 の 日 )

午 前 8 時 4 6 分

北 海 道 根 室 市

喫 茶 ど り あ ん 前



根室半島チャシ跡めぐりは、喫茶「どりあん」前からスタート。





この日の愛馬「黒雲」にまたがり、東の果てへと向かいます。


出発してすぐの信号機にて。



北方領土に近い根室のお土地柄でしょうか、交差点の表示は日・英・露の3か国語表示です。
根室にはよくロシア人がやってくるのでしょうか?
そういえばまだ道歩く人を見ていません。早朝だからでしょうけど。


どりあんから根室港へ坂道を下り、北海道道35号・根室半島線に入りました。



あとは道道35号をひたすら東へと進むだけ。
このあたりの市街地を過ぎると、商店はまったくなくなります。
納沙布岬までお店はま~~ったくありません。
トイレはなるべくこのあたりで済ませましょう。たしかセイコーマートがあったかと。

・・・キツネやエゾシカたちとともに用を足すこともできますけど。




市街地を出て、荒涼とした草原に一筋走る道道。
どうでもいいことですが、「道道」ってやっぱり「ど~ど~」と読むんですね。


さて今回の登城旅では、手荷物を最小限にしつつも、チャシ跡群に関する資料を持参して来ました。


根室市観光協会のサイト(ヲンネモトチャシ跡・ノツカマフチャシ跡 詳細MAP)【PDFファイル】より引用)

この地図の点のところにチャシ跡があるとのことです。
これをもとに、チャシっぽいものを片っ端からカメラに収めるという作戦をとっていきます。



あの膨らみ・・・チャシっぽいような???
あの立っている棒は、標柱でしょうか???

(後日調べたら、ここはチャシ跡ではありませんでした)





喫茶どりあんから約3km。
須藤牧場という広大な牧場が、道道沿いに現れました。



「ダーツの旅」の第1村人じゃないけど、根室の第1動物ってことで、ウシさんをカメラに収めます。
すると、背後から感じる視線・・・(・_・;)



キタキツネだ!
彼とは数秒目が合いましたが、彼はきびすを返して走り去っていきました。

こんなところでもキツネが出るのか・・・・・・
人生初のキツネとの出会いに感動していた私は、1分もしないうちに恐れを感じるようになりました。

これって、ヒグマも普通にでるんじゃねぇの?

いちおう根室市のクマ目撃情報をチェックし、これから向かう先では目撃情報は出ていないと確認済みではありましたが、このキツネとの出会いで「もしかしたら・・・」という疑念がふつふつと湧いてきてしまったのです。



サイクリング再開。



キツネの次は、お馬さんです。

地図によると、この牧場の近くにチャシ跡があるそうなのですが・・・



これかな~?・・・・・・それにしても草原と海って、実はなかなか見られない組合せのようにも思えます。



この盛り上がり・・・アヤシイ?




キツネと出会った須藤牧場から約900m。



道道から遠くの海近くに立っている、白い標柱らしきものが見えました。
これはおそらくチャシ跡に違いありません!

(後日調べたら、ここはシエナハウシチャシ跡【国指定史跡】でした!)



少し進んで、海側から見たシエナハウシチャシ跡。
このくぼんでいるのが、なんとなくチャシっぽいかな?



私と「黒雲」は、さらに東へ。



根室湾と、根室半島の草原がおりなす、素晴らしい風景です。
切り立ったガケというわけでもない、なだらかな緑の台座のようにも見えます。

行く先に2基の風力発電機が見えてきました。
ノツカマフチャシは、この2基の発電機の近くにあります。





シエナハウシチャシ跡から約1kmほど進むと、



小さな漁港のある集落が見えてきました。
このあたりは、コタンケシ川という小さな川が根室湾に注いでいます。

手持ちの資料によると、このあたりにもチャシ跡があるようです。



まさか、この供え餅みたいなのがチャシか?!

(正解! 後日調べたら、ここはコタンケシ3号チャシ【国指定史跡】でした)



その後も、海と草原を見ながら、東の果てへと進んでいきます。



根室湾沿いは集落が少なく、本当に最果てに来たという感覚を味わうことができました。
しかしながら、「ここでチャリがパンクしたらどうしよう??」という恐怖とも隣り合わせです。



海とは反対側の進行方向右側は、ときおり森が茂っています。
植生が本州のものとは異なるのも、なかなかに趣深い・・・のですが、やっぱり出そう・・・。


東の果てへと続く、一筋の道道。



「返せ!北方領土」の広告がぽつぽつと据えつけてあります。
根室市の意見広告のようですが、ここでこれを見る人はそんなにいないでしょう。
(納沙布岬まで、道を歩いている人は1人もいませんでした。通行する車もまばらでした)
そのためか、赤福山田家のような連呼はなく、「返せ」コールは5回くらいで止んでしまいました。


私と「黒雲」は、道道35号をひたすら進み、



初お目見えから約25分、ようやく風力発電機のたもとまでやってきました。
その近くには、ノツカマップ灯台の案内表示があります!
ようやくノツカマフチャシの近くまで到達したようです。



海のそばに立つシマシマの棒が、ノツカマップ灯台のようです。





コタンケシ3号チャシから約5km進み、



ついにノツカマフチャシ跡【国指定史跡】に到達しました!



え? こんなところを進むの?
整備されているって聞いていたのに・・・草むらじゃないか・・・。


ここでよみがえる野生動物の恐怖・・・。
こりゃ何か出そうだ・・・・・・やめよう。

ノツカマフチャシは遠くからながめることにして、実際に足を踏み入れるのはヲンネモトチャシでいいや。







海側からノツカマフ1号チャシ跡をながめ、ノツカマフは終了。



私と「黒雲」はさらなるチャシを求め、東の果てをめざしたのでした。



【今回の行程記録】



[A}喫茶どりあん  8時46分発
須藤牧場・シエナハウシチャシ跡・コタンケシ3号チャシ跡経由
[B]ノツカマフチャシ跡  9時49分着

*所要時間 1時間03分
*移動距離 約10km





根室半島チャシ跡群・第1章~出陣

2017-04-21 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 6 年 9 月 1 9 日 ( 敬 老 の 日 )

午 前 8 時 0 5 分

J R 根 室 駅



ついに本土最東端のまち・根室にやってきました。



本土最東端の有人駅・JR根室駅から、めざすは日本最北&最東の100名城・根室半島チャシ跡群です。

「チャシ」はアイヌ語で「柵で囲った場所」というニュアンスの言葉です。
アイヌは文字をもたなかったため、チャシは文献に残っておらず、チャシが何のために造営されたかはよくわかっておりません。
諸説によれば、砦のような軍事施設であったとも、神殿のような祭祀施設であったともいい、現代の我々の想像する「城」とは異なるものだったそうです。


今回の旅に出る前に、私は入念な準備を重ねました。
根室半島チャシ跡群についての予習も、当然行いました・・・といっても、検索したサイトを閲覧しただけですが(^_^;)
なかでも根室市観光協会のサイトのチャシに関するページをプリントアウトして、手持ちの資料とさせていただきました。

根室市内には32ヶ所のチャシ跡があり、そのうち24ヶ所は「根室半島チャシ跡群」として国の史跡に指定されています。
そのうち見学ができるチャシ跡は、ヲンネモトチャシノツカマフ1号・2号チャシの2ヶ所となっています。


根室市観光協会のサイト(ヲンネモトチャシ跡・ノツカマフチャシ跡 詳細MAP)【PDFファイル】より引用)

根室半島のチャシ跡は、海を臨むガケの上に面して造成された面崖(めんがい)式」のものが多く、そのほとんどが半島北岸の根室湾ぞいにあります。
ヲンネモトチャシは、本土最東端の納沙布岬から歩いて2kmほどなのですが、ノツカマフチャシは納沙布岬からはかなりの距離があります。

納沙布岬までのアクセスは、路線バスとなります。
納沙布岬は根室随一の観光地でもあるので、バスは多くはないにしろそれなりの本数があります。
しかしバスは、集落のある半島南岸の太平洋側を進みます。
バスで行くなら、ヲンネモトチャシまでは行けそうですが、ノツカマフチャシへ行くことは諦めなければなりません。





そこで根室駅に着いた私が、まず急いで向かった先は・・・駅のそばにある根室観光インフォメーションセンター
ここは根室交通根室駅前ターミナルが併設されていますが・・・



ここでレンタサイクル(1日1,000円)をゲット。
今回は、漆黒で統一されたスタイリッシュなチャリ・・・ということで、武田信玄の愛馬にちなんで「黒雲」と命名しましょうか(^^♪


今回の旅では、この「黒雲」が命綱ともいうべき存在でした。
というのも、根室まで来てレンタサイクルを借りることができないとなると、今回の旅の計画が破たんしてしまいます。
実はレンタサイクルを利用すると決心した私は、旅に出る前、観光インフォメーションセンターを管轄している根室市観光協会にあらかじめ連絡し、レンタサイクルについて問い合わせたのです。
観光協会によると、保有する自転車はわずか3台(平成28年当時)ということでした。
それならば予約はできないか尋ねると、レンタサイクルの予約はできないということでした。すなわち早い者勝ちということです。
根室を旅する日は敬老の日、すなわちシルバーウィークの最終日。
3台の自転車がすべて借りられてしまっては大問題です。
そこで、観光インフォメーションセンターが営業を始める午前8時に根室駅に到着するように調整し、そして根室駅に着くやいなや速攻でインフォメーションセンターに駆け込み、レンタサイクルの申請書【PDFファイル】もプリントアウトしておいて必要事項を記入しておいたのでした。

・・・あらかじめ用意したレンタサイクルの申請書に、借りる日付を9月18日と間違えて記入してしまったのでしたが、係員の方は「別にかまいません」ということで、難なく「黒雲」を借りることができました。


それでは「黒雲」にまたがって東の果てへ!
その前に・・・



1番! 根室半島チャシ跡群!!
ついに私は、最難関の1番札所?のスタンプを押印しました。
絵柄は、根室半島チャシ跡群の代表ともいえるヲンネモトチャシだと思われます。
スタンプ帳によると、スタンプ設置場所は根室市歴史と自然の資料館で、根室駅からはかなり離れているのですが・・・
なんと駅近くの観光インフォメーションセンターでもスタンプが押せるようじゃ、便利な世の中になったものよのぅ。



スタンプを早々にゲットした私は、根室半島をチャリで回るべく、「黒雲」にまたがり出陣。



まずは根室ならではの朝食をとるべく、あらかじめチェックしておいたお店に向かったのでした。





函館五稜郭・最終章~★の中心核

2017-03-13 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 6 年 9 月 1 7 日 ( 土 )

午 後 1 2 時 2 7 分

五 稜 郭 ・ 箱 館 奉 行 所



★の中心核・箱館奉行所へ。



★に入るまでは無料ですが、箱館奉行所に入るには大人500円の入場料が必要です。
玄関(右側)で靴を脱いで、中へと入ります。

ところで、建物への出入りは玄関(表玄関)が使われることはまれで、普段は左側の内玄関(勝手口)が使われていました。
箱館奉行所の表玄関は、奉行が交代するときの送り迎えや、江戸幕府から明治政府への引き継ぎなどにのみ使われたそうです。


玄関から入ると、まずは使者之間へ。



その名のとおり、使者が奉行らにお目通りする際の控えとなる部屋です。



旧幕府軍の指導者・榎本武揚(たけあき)が詠んだ詩。
この掛け軸は詩書(榎本武揚筆)【函館市指定文化財】の複製で・・・

   健武帯刀前後行  籃輿羅網失窓明
   山河百戦恍如夢  獨仰皇裁向玉城
     就囚赴東京途中作  武揚

読めない・・・
武をナントカし刀を帯びて前後を行き、●◎※★▼□?? 山河で百戦し恍とすること夢のごとし? ひとり皇裁を仰ぐべく玉城に向かふ・・・かな?
榎本が箱館戦争で敗れて明治政府軍の捕虜となり、東京へ護送されるときに書いたものといいます。

なお榎本は、箱館戦争で明治政府軍を率いた黒田清隆(のちの2代内閣総理大臣)に才能を認められ、黒田の嘆願により助命されました。
のちに明治政府に登用され、黒田内閣では逓信(ていしん)大臣を務めるなど、大臣を歴任しました。




使者之間の隣りには、当時のトイレが再現されています。
もちろん現在は使用禁止です。



使者之間を出ると、まっすぐのびる畳敷きの廊下。



その廊下ぞいにあるのが大広間です。
常時使用される部屋ではなく、年中行事などで使用されていたようです。
大広間はふすまで4部屋に区切られていて、役職の格によって入れる部屋が決まっていたようです。
ここは最格下の四之間



ひとつランクアップして参之間



さらに格上の弐之間



最上の壹之間です。
床の間、違い棚、付け書院がある格式高い部屋です。
床の間の掛け軸は、2代箱館奉行・利煕(としひろ)筆の複製です。



壹之間から四之間方向を見てみました。
なんとなく広く見えるのは気のせいでしょうか。


大広間のさらに奥、



武器置所には刀、槍、弓矢や洋式銃がしまわれていました。



表座敷です。
奉行が執務を行っていた場所で、最も格式が高い場所といえます。
隣りにある武器置所は、非常時に備えて表座敷の脇にあったのでしょう。
こちらの掛け軸は、箱館奉行・杉浦誠の手によるものの複製。
杉浦は箱館奉行所を朝廷に引き渡し、江戸幕府における最後の箱館奉行となりました。


表座敷から戻って、



中庭に出ました。
中庭は採光と雨水処理のために造られたそうです。
中庭からの太鼓櫓がいい感じ。


奉行所で最も大きい部屋・御役所調役
奉行、組頭に次ぐ地位の調役の執務室であり、現在では展示スペースになっています。

 

幕末人物列伝の展示。
人物のコマを中央にのせると、その人物の列伝が表示されます。
ペリーをのせたらペリーの列伝が表示されました。


中庭から見た太鼓櫓は、このようになっています。

 

たぶん建築法令のために、現在は入れません。



内玄関から出ました。



五稜郭を出る前に3つの蔵へ。



売店となっている板蔵で、箱館奉行所のスタンプをゲット。
ここには100名城スタンプも置いてありました。



午後1時18分、★から出ました。



五稜郭タワーで出会った「にしおかすみこ」とも、ここでお別れです。





函館五稜郭・第2章~★の中へ

2017-03-13 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 6 年 9 月 1 7 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 5 9 分

五 稜 郭 タ ワ ー を 出 る



五稜郭タワーを下りたところの自販機にて。



「ハコダテニ キテクダ サイダー」??? なんともナメたネーミング。



買ってしまいました・・・(^_^;)
よく読めば、"The soda pop made from grandwater of Mt.Hakodate"(函館山の地下水を使ったソーダ水)とありますが、そんなことは関係なく、のどが渇いていたので普通においしくいただきました。





いよいよ★へ。



水濠の対岸が★。
くるわの下半分に石垣が施されている腰巻石垣です。
それでは★に上陸・・・



その前に▼(半月堡)を見てみましょう。
出撃拠点である馬出の役割を果たす半月堡にも、高い土塁が築かれています。
その土塁には石が隙間なく敷き詰められ、また上部には武者返しとよばれる出っ張りが施されています。



半月堡の土塁に上ってみました。
なかなかの高さがあります。



★に入る前に、橋から振り返った半月堡の姿。
このように、土塁にも簡単に上がることができます。


さて、ようやく★に入ります。



箱館奉行所の表門が再現されています。



堅牢な本塁です。
周囲はほとんどが土塁ですが、表門付近には石垣が造成されています。
石が成形されていて隙間なく敷き詰められている切込接ぎです。



上部には武者返しが施されています。



みごとな切込接ぎの石垣です。



表門に入ると、かつては門番所がありました。


ここからまっすぐ奉行所には向かわず、本塁に上がってみました。





表門付近の本塁。





本塁から半月堡(▼)を眺めます。







門から離れると、石垣はなくなり土塁に。
それにしても桜の木が多いです。
五稜郭は、北海道を代表する桜の名所になっています。


本塁から下りて、★の真ん中へ。



武田斐三郎(あやさぶろう)先生顕彰碑です。
昭和39年(1964年)、五稜郭が竣工して100年にあたる年に、函館市が建てた碑文です。
なお、この碑文の周りにはロープが張られていて、あまり近づくことができませんでした。
なんでも、折れた枝が落ちてくるから近づくな、とのこと。



奉行所の西側にある3つの建物。



左の建物は土蔵(兵糧庫)【現存】。
郭内で唯一現存している建物で、いつしか「兵糧庫」と呼ばれるようになったとか。



右の建物も、土蔵【復元】。
土壁造りの建物で、現在は管理事務所になっています。

真ん中の建物は、板蔵【復元】で、こちらは板壁造り。
現在はお土産物屋さんが入っています。


そして、★の中心・箱館奉行所【復元】へ。





見事に古写真と同じアングルです(*^_^*)
平成22年(2010年)に復元された奉行所は、古写真と比べればわかるように、建物の一部にとどまります。
それでも、当時の技術をそのまま復元に用いたようで、古写真のそれと見事に一致しています。




★の中心核・奉行所の中へと入っていきます。





函館五稜郭・第1章~★を眺める

2017-03-10 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 6 年 9 月 1 7 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 0 2 分

函 館 市 電 ・ 五 稜 郭 停 留 場



「コーヒーハウスきくち」ひとりソフトクリーム対決をしてきた私は、市電で五稜郭停留場まで移動しました。



停留場から函館の市街地を歩くこと数分、ビルの谷間を抜けて五稜郭タワーが見えてきました。
五稜郭の中に入る前に、まずはタワーから五稜郭を眺めることとします。
入場料・大人840円を支払い・・・



2番、五稜郭!
スタンプ帳にはスタンプの設置場所が「五稜郭公園管理事務所」とありますが、こちらの五稜郭タワーのチケット売り場で押印することができました。



北海道らしい熊の木彫りが安置されている男性トイレで用を足し、いよいよ展望室へ。




★です。
五稜郭といえば★を見下ろすこのアングルですね(*^_^*)

★の中央に箱館奉行所【復元】。
また左側にある3つの蔵は手前から土蔵(兵糧庫)【現存】、板蔵【復元】、土蔵【復元】で、それぞれ文書や物品を保管していたそうです。
▼にある赤い屋根は、ボート乗り場・・・・・・幕末当時の姿を復元している中で、これだけきわめて異質です。


五稜郭は幕末に造られた、箱館奉行所が置かれた城郭です。

はじめ箱館奉行所は、箱館開港後に現在の元町公園のある場所に建てられましたが、海から近く砲撃を受ける恐れがある、外国人が自由に行き来できる函館山から見下ろされる(内側が見えてしまう)という欠点がありました。
そこで幕府は箱館奉行所を移転することとし、武田斐三郎(あやさぶろう)の設計により、元治元年(1864年)に竣工。
慶応2年(1866年)にすべての工事が完了しました。

「星型要塞」とよばれる城郭は、ヨーロッパの城郭技術を取り入れたもので、城内側面からの射撃で死角をなくす工夫です。
また火砲による攻撃を想定し、衝撃をブロックしやすい土塁を前面に築いています。
★の下から1ヶ所だけ飛び出ている▼は、半月()といい、出撃拠点となるものでした。かつての城郭の馬出しの役割を果たします。
当初は5ヶ所に造られる計画だった▼は、予算がなかったために1ヶ所だけになってしまったそうです。

築城当時は国内最先端の城郭だったのですが、ヨーロッパではりゅう弾による戦闘が主流となってきました。
弾を高速でぶっ放して破壊するものから、弾自体が爆発して破壊するものへと変わったのです。
そのためにこの★は、ヨーロッパではもはや時代遅れのものになりつつあったといいます。





こちらが箱館奉行所
蝦夷地の政治の中心となり、戊辰戦争(箱館戦争)においては旧幕府軍の本拠にもなりました。



五稜郭の表入口。土塁には石垣が施されています。
このあたりには入口を監視する番所がありました。



★の左下のトンガリ。
表入口から離れると、このように石垣はなく土塁だけ。
石も費用も節約されています。


五稜郭タワーからの眺めは五稜郭だけでなく、



函館山も見事に見渡せます。
箱館奉行所が五稜郭に移る前は、山のふもとにある元町公園のあたりに置かれていました。



函館湾と、その向こうの松前半島
松前城は、あの山の向こう側にあるんだろうな~。



タワーによくある、真下が見える床。
真下よりも、自分の履いている靴のボロさが気になってしまいます(^_^;)
ちなみにこの靴は、この旅をもって引退いたしました。




展望室は、五稜郭の築城に関する資料や、箱館戦争(五稜郭の戦い)に関する資料も豊富に展示されています。
そのひとつ?が、土方歳三之像
旧幕府軍の指導者のひとりで、新選組の生き残りである土方は、箱館の地で戦死するのですが・・・

戦死するのですが・・・・・・



この中国人がどいてくれないので、一緒に撮影してやりました!
こちらの♀はにしおかすみこ似のなかなかの美人でした。



「にしおかすみこ」がどいてくれたので、じっくりと土方歳三之像とご対面。



さてタワーからの眺めを楽しみ、展示も軽くですがひととおり見たので、タワーを下りようとしたところ・・・



こんなものを見つけてしまいました。
スタンプラリーは貫徹しなければ気が済まない私。



このとおりです(^^♪




旧幕府軍の指導者であった榎本武揚(たけあき)之像をもって、五稜郭タワーは〆とします。



次は★の中へと入っていきます。





松前城・後章~あっさりとした登城

2017-01-26 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 6 年 9 月 1 6 日 ( 金 )

午 前 1 0 時 3 4 分

北 海 道 松 前 郡 松 前 町

国 道 2 2 8 号 ・ 松 城 バ ス 停



北海道最初の100名城は、松前城【国指定史跡】です。

松前城の最寄りとなるJR木古内駅から約1時間半。



松城停留所より、松前城の登城が始まります。



バス停のある国道229号から小道に入ります。
近くの案内看板と遠くの天守閣が道しるべとなって、松前城に導かれます。



おそらくは国道の旧道であろう松前城下通りから、松前城へと入ります。

 

城の入口。「史跡 福山城跡」の石標が植栽の陰にひっそりとたたずんでいます。
ここから正面の石畳を歩くのではなく、案内看板にしたがって右折すると・・・



あれ? ここは天守のすぐそばでは・・・?
あっさりと着いてしまいました。
垂れ幕の家紋は松前家の家紋ですが、似た家紋を見たことがあります。
山梨県のほうとか、あと八戸でもついこのあいだ目にしたような・・・。


松前城が築城されたのは幕末の嘉永2年(1849年)です。
それまでは福山館という陣屋が置かれていました。

松前城は、蝦夷地にロシアの艦隊が来航して以来、北方警備を目的として築城されました。
築城前は、函館山に新たな城を造ることも検討されましたが、交易の城下町・松前の衰退が危惧されたこと、そして築城の資金がまかなえなかったことから、福山館を改修して城郭にすることとなったのです。



いつもなら三の丸、二の丸と順を追って記述する登城記ですが、今回は道を進んでいっただけで本丸の手前まで着いてしまいました。
なんともあっさりとした登城記となっています。

そういえばこの日は受付の建物前でどこぞの学生がアンケートをしていました。
内容を見てみると、松前の観光振興のためのアンケートのようで、松前を観光してみた感想などを答えるもの。
たった今松前に着いたばかりの私が、このようなアンケートに答えるのは筋違いというもの。
アンケートに答えるなら松前城を出てからにすべきであろう・・・学生にはそのように伝え、アンケートは保留とさせていただきました。


ともかく受付へ。入城料は大人360円。
ほかに松前藩屋敷という江戸時代の松前城下を再現したテーマパークとの共通券が630円でしたが、今回は松前城のみの入場券を購入。

そして100名城スタンプも受付に置かれていました。



3番、松前城!
北海道最初の100名城スタンプ、絵柄は復興天守でした。


さて受付を通過すれば、城門があって、本丸に入って、天守があって、中に入っていく。
普通の城ならこのような順序ですが、松前城は違いました。
順路案内にしたがって進んでいくと、なにやら資料館のようなところへ。



アイヌが着用した「熊の爪つき冠」
この熊の爪がかなりの大きさ。
こんなのに襲われたらひとたまりもなさそうだなぁ~、そういえばこの旅で熊に遭うなんてことはないよなぁ~。



アイヌが着用した着物のようです。
「アツシ」という人物が着用していたのだとか。

松前の歴史、すなわち北海道の歴史は、先住民アイヌとの交流が主です。
そのためここの資料館はアイヌに関する史料が豊富に展示されています。



江戸時代中期の松前の様子を描いた松前屏風【松前町指定文化財】です。
このころは松前城はなく、福山館という陣屋がありました。
この屏風でもわかるように、また海のそばにあるバス停から歩いてきても実感しますが、ここは本当に海に近いです。
海から艦隊が攻め込んできたことを想定すると、並大抵の防御機構では防ぐことはできないことがわかります。



銅雀台の瓦硯(がげん)【松前町指定文化財】。
瓦硯とは、屋根の瓦を書道の(すずり)に転用したもの。
そして銅雀台は、三国志の英雄で魏の大王・曹操が建てた屋敷です。
こんなものがなんで松前にあるんだろうとは思いましたが、たぶん銅雀台というのはただの売り文句みたいなものなのでしょう。
この瓦硯はサハリン方面から伝来したものが、松前家の家宝となったものなのだそうです。


そういえばこの資料館は3階建てのようですな・・・まさか!?



最上階からはすぐ眼下に松前の海、はるか彼方には本州。



資料館の外に出ると・・・やっぱりここは天守【復興】でした。
ということは今いるところは本丸です。
本丸はなかなか広そうなのですが、工事のためか発掘調査のためか木塀で立入が制限されていました。





本丸側から城門をくぐります。すなわち退城。



福山城(松前城)本丸御門【国指定重要文化財】。
松前城で現存する数少ない遺構です。
文化財を所管する文化庁では、松前城ではなく福山城という名称で登録されています。
しかし広島県にも福山城があるので、お城業界では松前城という名称をよく用いています。



さきほどの資料館、福山城(松前城)復興天守は右隣に建ちます。



城門と天守の屋根は、銅葺きです。
通常の土製の屋根瓦だと、冬の寒さによる温度差に耐えられず割れてしまうため、銅を用いています。
この点は青森県の弘前城も同様です。

また石垣は、幕末当時最先端の切込接ぎという積み方です。
石をノミで丹念に成型し、隙間なく積み上げたものです。
松前は寒冷地なので、冬季には土が凍りついてしまいます。
温かくなって凍りついた土が解け、水とともに石垣の隙間から流れ出ることを防ぐねらいがありました。

石垣の石は、付近で採掘された緑色凝灰岩でできています。
凝灰岩は火山灰の堆積岩なので、柔らかく加工がしやすいという特徴があります。

そしてこの石垣ですが、じつは砲撃の痕がところどころにあるそうです。
私はスルーしてしまいましたが(^_^;)




受付前に戻ってきました。
アンケートをとっていた学生たちはいなくなっていました。まぁいいか~。



松前家の歴代当主が記載されている案内看板。
松前家のルーツは武田氏にあるそうです。


松前氏は、もとは蠣崎(かきざき)氏と名乗っていました。
蠣崎氏は下北半島の豪族でしたが、北海道に移住して居館を建て、アイヌとの交易を行っていました。
当時はそのような居館が12ほどあり、「道南十二館」と称されていました。

長禄元年(1457年)交易上のトラブルからコシャマインの戦いが勃発。
道南十二館のうちの10館が攻め落とされましたが、蠣崎氏のもとにいた武田信広の活躍で鎮圧されました。
この武田信広は若狭武田氏出身の人物で、この後蠣崎氏に婿養子として迎えられます。

戦国時代末期、蠣崎慶広(よしひろ)は上洛して天下人・豊臣秀吉に拝謁。
秀吉死後は徳川家康に接近し、命脈を保ちました。
慶長4年、姓を「蠣崎」からアイヌ語の「マトゥマエ」に由来する「松前」に改めました。



だから松前家の家紋は割菱なんですね。
甲斐武田氏は晴信(信玄)の代で最盛期を迎えますが、子の勝頼の代で織田信長に滅ぼされました。
若狭武田氏は織田信長に降伏していましたが、武田元明が本能寺の変で明智光秀についたため滅亡へ。
安芸武田氏も毛利元就によって滅ぼされましたが、傍流の松前家や南部家が現在も命脈を保っているのです。


戻りは別ルートで退城。



城の東側、搦め手を守護していた搦手二の門【復元】。
残っていた古写真をもとに復元されました。
高さ6.4メートルほどの高麗門だったそうです。



搦手二の門の前にはなかなか見事な三本松。
その前を水濠が通っていて、木橋で渡れるようになっていました。
そして木橋の脇に、通行人をチェックする番所が設けられていたそうです。



かつて番所があった所には、松前城の俯瞰図が配置されています。
外国艦隊の来航に対する警備のための城郭なので、海側に対しての備えは万全のように見えます。
実際に城内には、海に向けての砲台が多く備えられていました。
しかし・・・


松前城は幕末から明治維新までという短期間のみ機能した城郭なのですが、激しい戦闘を経験しています。
戊辰戦争で明治新政府軍は東北地方を平定し、榎本武揚らが率いる旧幕府軍の艦隊は蝦夷地まで落ち延びました。
榎本らは函館の五稜郭を占拠、さらに新政府に与する松前藩を攻撃しました。
榎本率いる艦隊が海から、そして新選組の生き残り・土方歳三率いる数百の兵が陸から攻めかかります。
松前城は海からの備えは万全でしたが、山側に対する備えは手薄だったので、わずか数時間で陥落してしまったのです。





帰りは天神坂門【復元】から出ました。



松前城にあった砲台のひとつ・五番台場



砲台が向いていたであろう海。
本州がよく見えます。



あっさりですが、これにて松前城の登城はおしまい。





松前城・前章~遥かなるバス旅

2017-01-19 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 6 年 9 月 1 6 日 ( 金 )

午 前 8 時 5 7 分

北 海 道 上 磯 郡 木 古 内 町

J R 木 古 内 駅



北海道最初の下車駅は、JR木古内駅です。



この木古内駅は、これから登城する松前城の最寄駅。
これよりバスに乗って、松前まで足を運びます。





※今回の登城記は、「松前城・前章」と銘打ってはいますが、松前城はほぼ登場しません。
 単なる「バス旅日記」になっていますが、悪しからず。





さて今回乗車するバスは・・・



9時05分発 函館バス 松前出張所行きです。

車窓からの海を愉しみたい私は、前方の左座席に着席しました。
この日の乗客は私を除いてたったのひとり。
おそらくこの方も松前城へ行くのかな・・・そう思いつつ、ほぼ貸切状態のバスは定刻どおりに発車しました。



木古内駅を発ったバスは、しばらく木古内の市街地を走り、海沿いの国道228号・松前街道へ。



国道228号に入った直後の青看。
目的地の松前までは54Kmもあります。
ちなみに7Km先にあるのは知内町です。





左の車窓から津軽海峡がよく見えます。



木古内町の隣り・知内町に入り、海とはいったんお別れ。



知内川を渡り、バスと私は内陸の方へ。



名も知らぬ山のすそ野に広がる田園。



松前=海 というイメージとは裏腹に、行く先には山。
そしてカーブもそこそこ増えてくる道なのに、函館ナンバーの車が平気でバスを追い抜いていきます。
いちおうバスも気を利かせて、(というよりも時間調整?)無人のバス停で停車しているのですが・・・。



国道228号に架かる跨道橋。まぎれもなく北海道新幹線の線路です。
新幹線開業前は、ここに知内駅という津軽海峡線の駅がありました。



北海道新幹線の跨道橋からほどなく、知内橋を渡ります。
おや、向こうに見えるのは青函トンネルか!?

じつは青函トンネルではなく第1湯の里トンネルという、(北海道側からすれば)前座のトンネルだそうです。
ですがこの2つのトンネルは間隔がとても短くシェルターで覆われているので、画像のトンネルが事実上の青函トンネルの入口となっています。
「青函隧道」の扁額もあるそうです。




国道228号はさらに山中に入り、隣町・福島町へ。





福島町に入りしばらくは山の中を進みますが・・・



山を下って、街中へ。



青函トンネル記念館が進行方向左側に、



横綱千代の山・千代の富士記念館が右側に。
福島町は横綱を二人も輩出している「横綱の里」といえます。
そういえばここの手前にあった道の駅は、道の駅 横綱の里ふくしまなんてネーミングがされています。


福島町の市街地を過ぎると、車窓よりふたたび津軽海峡が見えてきました。















小さな漁港と集落を通っていきます。



集落もなくなり、津軽海峡に迫る断崖。
国道228号は断崖をぬうように、時として海に張り出すように通っています。
トンネル連続区間、というより断崖から落石を防ぐシェルターで覆われた区間に入り、いよいよ松前町へ。



松前町に入り、海の景色は荒々しさを増していきます。
このバスの車窓は見ていてまったく飽きません。









遥か彼方に見えるのは津軽半島か?



振り返ると先ほどの福島町。
山々がこんなにも張り出しています。



本州側を見やると、あのでっぱりはおそらく竜飛崎
(・・・だと当時は考えていましたが、地図と照らし合わせると、おそらくは小泊岬のようです)



今度はうっすらと見える島の影・・・あれは奥尻島か?
(これも当時の考えで、地図を見るとどうも渡島大島(松前大島)らしいです。奥尻島のわけがありません(^_^;))


断崖絶壁をぬうように進んでいた国道は大きくカーブし、海岸線が穏やかになってきました。



向こう側に松前の城下町が見えてきました。
松前城天守【復興】も心なしか見えてきたかな?





バスは相変わらず海ぎわを進んでいきます。



いよいよ素晴らしき車窓とお別れの時を迎えます。


午前10時34分、松前城の最寄となるバス停・松城停留所に到着。



海に張り出したバス停。
ここより、松前城の本当の登城は始まります。



【今回のバス乗車記録】

木古内駅前 1番のりば 9時05分発
函館バス 松前・木古内線 松前出張所行き
松城停留所 10時34分着

*所要時間 1時間29分
*移動距離 55.9km   *運賃 1,250円





弘前城・最終章~弘前公園ひとまわり

2016-11-10 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 6 年 9 月 1 5 日 ( 木 )

午 後 4 時 1 7 分

青 森 県 弘 前 市

弘 前 城 北 の 郭





弘前公園の有料ゾーンである本丸北の郭を出ました。



西の郭へと通じる道。
「桜のトンネル」とも呼ばれ、左右に桜並木が続きます。
さすがは日本有数の桜の名所。



「桜のトンネル」と城外を結ぶ春陽橋



春陽橋のかかる西濠です。
橋から南側を眺めてみると、左側(城内側)の「桜のトンネル」だけでなく、右側(城外)にも桜並木が続いています。



春陽橋から城内に引き返して、次は北の郭のさらに北の郭、四の丸へ。



四の丸の半分は、青森県護国神社の境内になっています。

この鳥居も護国神社の鳥居なのですが、どうも立ち位置がよろしくなかったようです。
鳥居の正面に植栽が植わっていて、あまりくぐろうという気が起きない、そんな鳥居です。
しかし足元をよく見ると、小径ができています。
この鳥居をなんとしてもくぐろうという、私のような人が少なからずいるようですね。



こちらの鳥居は表側の鳥居。
先ほどの鳥居は、裏側の参道に立っているもの。
私は裏側から境内に入りました。



護国神社の本殿(拝殿)へ。
いつもどおり、明日のお天気と、大事な方のご加護を祈願します。
(神道では「ご加護」って言うのかな?)



表参道の鳥居から、境内を出ました。
鳥居の向こうから燦々と輝く日輪。
明日もその輝きを見せてほしいものです。


護国神社の鳥居からは、南北への分かれ道が伸びています。
まずはその北の道をたどると、

 

北門(北の郭北門)【国指定重要文化財】が構えています。



北門の外側。
というわけでこの門は、弘前城で現存する最古の城門だそうです。
この門だけは三角形、四角形の矢狭間鉄砲狭間がついていません。

弘前城を築城した津軽信枚は、先代・為信が着手して中断していた事業を1年ほどで完成にもっていきました。
急ピッチでこしらえた弘前城は、建物に近隣の廃城のものを移築させて用いるこ
とも多く、この北門もそのひとつで、大光寺城の城門を移築したものです。



城門に残る矢じりの痕。
大光寺城は南部氏との戦いや、為信死後のお家騒動でも戦闘を経験しています。
弘前城は戦闘に巻き込まれたことはないので、現存する遺構で戦闘経験があるのはこの門だけ。
また当時は北側が表口で、この門は「追手門」でした。



北門から引き返して、こんどは南方向へ歩きます。



土塁のみで形成された枡形
ここは賀田(よしだ)門跡で、為信の最初の居城である大浦城から移築された門がありました。
賀田門の先は三の丸です。


三の丸に入るとすぐ目の前、



お濠の向こうに二の丸丑寅(うしとら)【国指定重要文化財】が建っています。



賀田門跡から続く土橋で、二の丸へ。
二の丸丑寅櫓を別角度から望みます。



丑寅櫓付近は児童公園になっています。



花壇越しの丑寅櫓・・・イマイチ?



二の丸と、本丸や北の郭を隔てる内濠沿いを歩きます。
お濠の向かいは北の郭で、土塁の下がわずかに石垣が造成してある腰巻石垣になっています。



お濠沿いを進んでいくと、お濠の対面は本丸になります。
郭の側面は腰巻石垣から総石垣になります。
この石垣の修復のため、天守が移動しているのです。



内濠から離れます。



城門の目の前に建っている建物は、二の丸東門与力番所【現存】。
中にある梁の墨書きから、江戸時代中期のものと推定されています。
明治に入りいったん曳家で城外に移築され、昭和54年に再び城内に戻されたそうです。



番所が守護した二の丸東門(東内門)【国指定重要文化財】。

 

外に出ます。



門の外にある中濠
中濠にかかる東内門外橋という、ちょっとわけがわからなくなりそうな橋を渡って、ふたたび三の丸へ。
この東内門外橋は、弘前城唯一の石橋なのだそうです。


そして、



弘前城の東を守る三の丸東門【国指定重要文化財】をくぐり、



弘前公園の外へ出ました。

これにて弘前城の登城は終了です。



三の丸東門の向かいにある弘前文化センターにて。
近くにある弘前中央高校の演劇部と思われるJKが、台詞回しの練習をしていました。
私は無言の圧力でこやつらをどかし・・・




津軽為信公像をしばし仰ぎ見ます。


津軽為信の出自はよくわかっていないのですが、大浦氏の出とも、久慈氏の出ともいいます。
双方とも、北東北を支配した南部氏の一族で、その宗家当主南部晴政を盟主とする連合体の一員でした。
永禄10年(1567年)ごろ、大浦為則の養子となって、津軽の大浦城主となりました。

元亀2年(1571年)晴政の叔父・石川高信を、大浦城から距離もない石川城に攻め、自害に追い込みます。
これより為信は南部宗家に反旗を翻し、津軽地方を攻略していきました。
(異説では、晴政と、その娘婿で石川高信の子・信直が後継をめぐる対立が先鋭化し、晴政が為信に対し石川城攻めを指示したともいいます)
その後南部晴政は死去。その嫡男であった晴継も直後に謎の死を遂げ、南部宗家はくだんの信直が当主となりました。
信直にとって為信は父の仇、津軽に攻め入ろうとしますが、後継を争った九戸氏の警戒のため積極的に動けませんでした。
こういった南部家の内紛を尻目に、為信は容易に勢力を拡大していきました。

中央で豊臣秀吉が台頭すると、天正17年(1589年)の小田原征伐に参陣し、本領安堵を勝ち得ました。
このときに窓口を担当したのが石田三成です。
その後で南部信直が小田原に参陣、為信の所業を訴えたため一時は討伐の対象になりかけますが、このときも石田三成らが取り成し、為信は大名と認められたのでした。

豊臣政権下に、姓を「大浦」から「津軽」に改めました。

秀吉死後の関ヶ原の戦いでは、三男の信枚とともに東軍につきましたが、嫡男の信建は大坂城に控えていました。
これは真田氏のように一族を東西両軍に分け、どちらが勝っても津軽家が生き残るように画策したといいます。

戦後、居城を鷹岡(のちの弘前城)に移すべく築城を始めますが、工事は進まないまま、慶長12年(1607年)京都で病死しました。
嫡男の信建の死を看取ってから2か月後の死でした。
津軽家の家督は、お家騒動の後に三男の信枚が継ぎました。





為信は立派なひげをたくわえており、肖像画にもその様子が描かれています。
三国志の武将・関羽に憧れていたといいます。



これにて本当に弘前城の登城、了。





弘前城・第2章~動く天守

2016-11-05 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 6 年 9 月 1 5 日 ( 木 )

午 後 3 時 2 7 分

青 森 県 弘 前 市

弘 前 城 本 丸



晴天の下にあるべきはずの天守はなく、



堅固な構えの天守台のみが残された弘前城。
最北の現存天守はいずこに??



二の丸と本丸を隔てる内濠には、かりそめの通路が設置されています。

そうです・・・この旅日記おなじみの工事です。

弘前城本丸の石垣に(はら)と呼ばれる出っ張りが出てきてしまったのです。
その影響は孕みの部分から少し離れた天守にも現れ、傾きが微妙に出てきてしまったとか。
こうなっては石垣だけでなく、天守も根本的に工事するしかないそうです。
しかし弘前城の天守は、我が国に12基しかない江戸時代からの現存天守。そうそう安易にぶっ壊すわけにはいきません。
そこで天守を地面から切り離してそのまま動かす曳家(ひきや)の手法を用いたということです。


 

本丸からは有料区域で、入城時刻にも制限があります。
そのため八戸の根城の登城をほどほどに済ませたのですが・・・
この時期はどうも青海に揺らぐ「幻想天守」なるイベントが午後9時まで開催されていたようです。
だったらそんなに急いで来なくてもよかったのですね・・・。

ともかく入城料は大人310円、通常の入城時刻は午前9時から午後5時です。



とりあえず本丸に入りましょうか。



本丸への入口。
これまで通ってきた城門のように土塁による枡形ではなく、本丸の入口は石垣の枡形です。
おや・・・石垣の背後に見えるのはもしや・・・?



本丸外郭の石垣。
カドの部分に使われている巨石は「亀石」と呼ばれています。



「亀石」だけに限らず、なかなかの巨石がふんだんに用いられています。
画像奥に見えるシダレザクラは「御滝桜」と呼ばれ、天守の脇を彩る見事な桜だそうです。



晴天、石垣、シダレザクラ、そして移動した天守【国指定重要文化財】。
この光景が見られるのは、工事期間中の約10年間だけだそうです。
期間限定・・・そう考えれば、工事中の登城というのも悪くない・・・かな。


本丸に入りました。



晴天の下、天守台では修復事業が行われています。
その間天守は、



本丸の真ん中に鎮座しています。
津軽の秀峰・岩木山とともに見える箇所に、建物の向きも変えて移動したそうです。



仮天守台に鎮座する天守、また良し!


弘前城は、弘前藩の藩祖・津軽為信が築城を計画したものを、その嫡男で2代藩主・信枚(のぶひら)が完成させました。
信枚は慶長14年(1609年)、為信の死で中断していた築城を再開すると、1年でほぼ完成させてしまいます。
もとは鷹岡の地にあったので、「鷹岡城」と呼ばれていました。

その天守は5層6階という豪勢なもの、領地の石高4万7千石には破格ともいうべきものでした。
これは津軽が北辺警護の要所であったため、また藩主・信枚が「黒衣の宰相」の異名を持つ天海僧正を仏門の師としており、そのつてで幕府が特別に許可したともいいます。
しかし寛永4年(1627年)落雷による火災で天守、御殿などが焼失してしまいます。
この後約200年ほど天守のない時代が続きます。

この災害に際し、藩主・信枚は、その師・天海僧正に相談しました。
すると天海僧正は地名の変更を提案、もとはその地名から「鷹岡城」という名でしたが、これを「弘前」と改めました。

文化7年(1810年)9代藩主・津軽寧親(やすちか)の代に、蝦夷地の警護の功績を幕府に認められ、隅櫓を天守に改築する許可が出ました。
翌年天守は完成し、これが現存しています。

明治になり廃城、御殿などが取壊しとなりましたが、明治28年(1895年)弘前公園として一般に開放され、現在に至っています。



弘前城天守を別角度から。



天守の足下を注意深く見ると、



青くか弱い光が見えます。
これがどうやらイルミネーションイベントの青色LEDのようです。

天守をぐるりとひと回りし、



天守の入口へ。

中に入ると、今回の工事に関する資料パネルが掲示してありました。



「平成の本丸石垣修理」
昭和58年に起こった日本海中部地震後、本丸東面石垣の定点観測を開始。
平成16年度に石垣修理計画を策定し、平成19年度から石垣修理事業の基礎調査に着手。
その結果、東面の石垣が、内濠側に約1m孕む(膨らむ)と共に、天守が北東隅で約30cm沈下し、全体的に傾斜していることが判明し、石垣の積み直し修理に着手しました。
これに伴い、その上にそびえ立っていた天守の移動(曳屋 ひきや)が必要になったものです。

(原文ママ)



「重要文化財 弘前城天守曳屋工事」のパネル。
曳屋工事の過程を年表形式で表示しています。

これによると、天守の移動にかかった作業日数は、休日を除くと70日。
まず初日に、天守を地面から切り離す地切りの作業。
そして移動のために、天守を40cmジャッキアップ(持ち上げる)のに9日間もかかっています。
おそらく工事に携わった人々にとっては経験のない工事、最初の持ち上げがいかに緊張の連続であったかが数字にも表れているようにみえます。
あとの1次移動、ジャッキダウン(持ち下ろし)、回転移動などにはさほどの日数がかかっていません。

これらの工事の末に、現在は仮天守台に着座しています。

1層目には土産物の売店があり、100名城のスタンプもここのおねいさんが預かっています。



4番、弘前城!
絵柄はもちろん、移動前の天守です。



スタンプを回収したところで、天守を上ります。
櫓の必須設備というべき石落し



天守内の階段。
平安な時代に築かれたせいなのか、戦国期の天守に比べると階段はあまり急ではありません。



天守からの眺め、その壱。
弘前公園は桜が多いですねぇ。我が国有数の桜の名所というのも納得です。
なお天守の屋根は銅葺き。雪に強いものとなっています。



天守からの眺め、その弐。
本丸と西の郭を隔てる蓮池には、ハスの葉でぎっしり。



天守からの眺め、その参。
「お岩木山」に雲がかかってきましたね。


天守から出ました。



本丸南西部、本丸未申(ひつじさる)櫓跡です。
かつてはここに5層6階の天守がそびえていましたが、焼失。
その後は隅櫓が建っていました。



本丸北西部、本丸戌亥(いぬい)櫓跡
現在はあずまやが建っていますが、ここにも隅櫓があったそうです。
ここの櫓からは、隣接する北の郭への連絡通路があったといいます。



本丸を出ました。



鷹丘橋を渡り、北の郭に入りました。

北の郭には、兵糧を保管していた籾蔵跡とともに、弘前城の守り神を祀っていた館神跡があります。
館神にはごく限られた者しか立ち入ることができなかったそうです。
それもそのはず、ここで祀っていたのは幕府にとっては敵にあたる豊臣秀吉の木像だったのです。


弘前藩の藩祖・大浦(津軽)為信は、のちに盛岡藩の藩祖となる南部信直に反旗を翻し独立、津軽地方を切り取って領地としました。
そして天下統一を進めていた豊臣秀吉に、その腹心・石田三成を通じて謁見。
南部家に先んじて津軽地方の本領を安堵され、これにより大浦家は南部家とは独立した大名と認められたのです。
そのことを恩義に感じた大浦家(のち津軽家)は、幕府に睨まれることを承知の上で、秀吉の木像を祀っていたそうです





現在北の郭に遺構はなく、武徳殿休憩所があるだけです。
中は案内所、喫茶店、売店が備わっています。
ここで絵はがきと、本日のお夜食を購入し、



本丸・北の郭の有料ゾーンを後にしました。