石ころ

神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
その方は聖霊と火とのバプテスマをお授けになります

幼子のように聞く (マタイ18章)

2018-04-19 17:20:46 | Weblog



「あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。(出エジプト17:6)

モーセは主に命じられた通りに「岩を打つ」ことで、イスラエルの民に水を飲ませた。
二度目は「岩に命じ」と主は言われたが、彼は経験によって岩を打ったことで、主は「あなたはわたしを信ぜず」と言われた。
此処まで主に従って来たモーセなのに、民を引き連れてカナンに入る事は叶わなくなった。

しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。(民数記20:12)

過去の経験に拠ることに今日の信仰はいらない。どれほど献身的な過去があっても、今日の信仰がなければ、今日という日が主のお喜びとはならない。

 みことばはどれほど繰り返し読んでも日々新しい。それは霊の書物の証拠である。このような本は他には無い。
聖霊の導きによって、いつも新鮮に絶妙なタイミングで、その人に向かって語られる神のことばを、幼子が母の声を聞くときのように目を輝かせて聴き入るのである。

まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。(マタイ18:3)
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木の芽時の薬

2018-04-18 18:21:20 | Weblog




 この季節は忙しい。猫の額に庭木はごちゃごちゃと植えてしまったから・・。窓の外に目をやる度に若枝は猛烈な勢いで伸びていて、「もたもたしていると年寄りの手に負えなくなるぞ~」と急かされる。

剪定が手遅れになと大変困ったことになるのだ。蜂の巣や毛虫の発生、見通しが悪くなる防犯上の問題。枝が育ち過ぎると切ることも困難で、嵩張るから後始末がやっかいなことになる。
主人が居る時はなんとも思わなかったことに、後家の頑張りが必要となった。感謝もあるけれど「こんなに植えたのは間違っているよ~」という恨み節も少し混じる。

 のこぎりや剪定ばさみを振りかざして背伸びをしたり、崩れの石に登ったり・・夜には足が攣ったり・・アハハ
でも鬱蒼と被さっていた紅葉が、赤い新芽の柔らかな枝が風の通る姿に変わる時は、清々しくて楽しいから辛いだけではないけれど・・。
金木犀をギコギコ、ギコギコ・・と軒先越えて伸びた枝を数本切ったけれど、一本は半分引きかけで撤退、息子が帰って来た時に頼む他なく・・無念だけれど「負けた」

 淡いピンクの八重咲きチューリップが乙女のように咲き出した。かなりおくてでハラハラしたけれど、雨にも負けず風にも負けぬはいじらしい。グラジオラスの球根は植えて夏を待つばかり・・。
今年はオクラの種や、トマトの種蒔きセットを買ってみた。土が届いたら直ぐに蒔くぞ~。またぞろ「大丈夫かな」と鉢を覗き込むのは、まったくペットの楽しみ。私にはこれらすべてのドタバタが、木の芽時の薬になっている気がしている。
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春雨

2018-04-18 12:10:34 | Weblog




新緑は 音無く庭を 分かち合い

くまがい草 春雨にさえ うつむきぬ

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霊にも魂にも体にもたまわる印 (マタイ17章)

2018-04-17 11:29:23 | Weblog



イエスさまがやがて起こる十字架のことを話されたとき、ペテロはそれを受け入れることができなかった。彼の心にある祝福の計画とは、あまりにも話しが違っていたからである。
そこはサタンの足台となる。たしかにサタンは人の計画に罠を設けようする。だからイエスさまは「下がれ。サタン」と一喝して彼の計画を退けてくださった。

神の祝福はいつも人の計画とはあまりにも違う。だから、祝福を受けるためには、心の中の計画を捨てることから始めなければならない。空っぽにして、人が見たことも聞いたこともない、真っ新な永遠の計画を注いで頂くために・・。

それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。

見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。(マタイ17:1~2.5)


ペテロたちには、十字架を通った先にあるイエスさまの勝利の姿を目に焼き付けてくださった。父なる神さまの御声も聞かせて、みことばに聞き従うことの保証を与えてくださった。
人は、先祖代々あまりにも狭い魂に閉じ込められて来たので、神のご計画の大きさは想像することさえできなくなっている。

主によって霊が開かれ、魂も新しくされ、体に焼き付けられるほどの印が与えられることによって、平安のうちに神のご計画を受け入れ、信頼して働くことができるのである。
主はペテロたちの必要を備えて導いてくださる。そして私たちにも・・。

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「あなたは、生ける神の御子キリストです」(マタイ16章)

2018-04-16 13:28:34 | Weblog



イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。(マタイ16:15~17)


歴史上のイエス・キリストを、神の御子キリストと教えてくださるのは「人間ではなく、天にいますわたしの父でず」とイエスさまは言われた。
イエスさまを信じる信仰は、聖霊によって示されたみことばによることで、人に教えられて得た信仰ではない。人は福音を指し示すことはできるけれど、それを信じる信仰は天から与えられるものであり此処に平安がある。

ペテロは大きな祝福を頂いた。それは主のご計画によって賜ったものである。だからそれは取り消されることのない永遠の約束であり聖いものなのである。
それでも何度も失敗を繰り返す。人の失敗によって主のご計画が挫折することはない。イエスさまはすべてを益に祈り備えご自身の中で完成しておられるからである。

ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。(マタイ16:18~19)


権威はキリストに在り、みことばの約束によってみこころを行うのである。ペテロの資質によるものではない。此処に人の平安はあり、ただ神の選びに拠って自分自身を差し出す者である。

ペテロは主の厳しいことばを聞いた時も、ゲッセマネの祈りに眠りこけてしまう弱さを暴露しても、恐れに囚われて「知らない」と主を3度も否んで号泣することがあっても、約束のみことばに戻って其処から迷い出ることはしなかった。
ペテロは唯一の望みである「神のキリスト」に拠り頼み続けた。今も教会の望みはキリストの祈りの中にある。

しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:32)

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ほっこり

2018-04-13 17:11:47 | Weblog



老人も 靴抱え座す 麗らかな
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パン種 (マタイ16章)

2018-04-13 12:36:21 | Weblog



弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。
イエスは彼らに言われた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」(マタイ16:5~6)


イエスさまは「パリサイ人とサドカイ人のパン種」に対して警告をしておられるのだ。パン種が悪いということではない。

イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」(マタイ13:33)


福音は豊かな恵みと喜びである。養って余りあるほどに増え広がり膨らんで行く神の豊かさである。それを忘れず奪われないように守るのである。

また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。
わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」(マタイ16:10~11)


イエスさまはパン種のことを二度重ねて注意しておられる。御国はパン種の祝福である。その福音に混ぜものが蔓延って、豊かな喜びが失われてゆくことへの警告である。
ふわふわパンで聖餐式をするなといいうことではない。形式だけ種を除いたパンで安心することはイエスさまの警告に対応していない。

形式を整えるとき実体には鈍感になる。危機感を失うからである。大切な事は福音に混ぜものをしていないか、純粋なキリストの福音がこの場に在るのかという吟味である。
福音というふわふわパンはとても美味しく豊かで人を無限に養うものである。私たちはそれを賜っている。此処に安息しなさいと主は言われる。

どこにも逃げなくてもよい救いの民は、キリストのあがないの内に安住して、主の恵みを謳歌するのである。
ただ、キリストの御救いに混ぜものが持ち込まれないように、日曜日だけでなく常に霊の目を見開いて見張り、美味しい恵みのパンの養いに留まれ。
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ただひとつの望み (マタイ15章)

2018-04-12 13:50:47 | Weblog



 「娘を助けてください」というカナンの女の叫びに、イエスさまは沈黙された。彼女は叫びつつ何処までも付いて来た。
イエスさまは群衆の求めに対して、数々の癒しをいとも簡単に行われている。即座に叶えられる願いと、じっくり時間をかけられる願いがあるのは、信頼関係によるように見える。

主は人の心にあるものをすでに知って居られる。必ず女が付いてくることを知っておられる。群衆の一人のようにその場で癒されなかったのは、交わりによって彼女を導きその信仰をほめたかったからである。

娘を救うことができるのは、イエスさまのおことばだけであることを女は知っていた。
だから主は、人の目前でどんどん交わりの深みに導いて行かれる。付いて行く女も深みに入り込んで行く。もう後戻りなどできないほどに・・。

すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。
しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
すると、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。(マタイ15:26~28)


 信仰生活の中で、主が祈りに答えをくださらないと感じることがある。それでも主の他に寄る辺のない者は何処までも付いて行く。
その力は、主のみことばだけが唯一の望みだと知っているからである。その時はどんなに厳しい言葉にも耐えることができるのだ。その人を主は通りすがりの群衆とは分けて育ててくださる。

みことばをいただいた者は必死で追っていたものが、ある時振り返ると自分を追ってくるのを発見するようになる。

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(詩編23:6)
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追伸

2018-04-11 19:57:26 | Weblog
コメントにとても大切な事を書き忘れていました。聖霊のバプテスマを受けた時、私は台所で福音のテープを聞きながら食事の準備をしていました。あの頃、イエスさまのことを知りたくて、聖書も福音書も片っ端から貪るように・・
私が求めていたのは主を知ることでした。それは今も同じですが・・。
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安かれ わが心よ

2018-04-10 19:34:32 | Weblog



ちょっとここの所、思い込みによる間違いや、そそつかしい勘違いなど連続していた。
確かに、わずかなことに対しても持久力がなくて集中が続かない。好きなことでも直ぐに飽きてしまって我慢できないことなどがある。
一つの文を仕上げるにも数え切れないくらい中断しては、庭にでて気分転換をしなければならなかったり、言葉はいっぱい詰まっているのに遅々として進まなかったり・・。

もちろん一方には「すべては主の備えによること」という平安もあるのだが、
「歳なのかな・・」という言葉に抗いつつ、「それが露わになったときに私はどうするのだろう」という今まで感じたことのない不安もあった。

そんな中で勘違いコメントを書き込んだ時、やわらかい言葉でそれとなく教えてくださった方があった。添えてくださったのが、シベリウスのカンタータ「フィンランディア」終章(合唱付)だった。
それは、まさに慰めの賛美歌・・賛美しながらイエスさまと人の愛に胸がいっぱいになった。

3 安かれ わが心よ
  月日の 移ろいなき
  御国は やがて来たらん
  憂いは 永久に消えて
  輝く 御顔仰ぐ
  命の 幸をぞ受けん  アーメン 
コメント (7)
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