石ころ

神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
その方は聖霊と火とのバプテスマをお授けになります

すべてを祝福の備えとして

2018-10-15 16:06:03 | Weblog



主は、現在も警告や導きのために預言させなさることがある。以前、教会の取るに足りない者を用いなさった。主から出た言葉はすべて、何年か後にその通りになった。
一部始終を見た者は、たとえ不都合な事であっても、その事実を伝える責任がある。

パリサイ人や律法学者がそうしたように、不都合を見なかった事にしてはならない。それはイエスさまを知らないと言うことであるから・・。
その時、「わたしはあなたを、全然知らない」とイエスさまは言わなければならなくなる。

どんな立場にあろうと生きている今なら間に合う。誰であろうと明日はわからない。
なぜ主は掘り返すように過ぎたことを語らせなさるのか、それは唯一、主だけが未来に起こる事を知っておられる証であるからなのだ。

それに、良い実を結ぶにまだ間に合うからであり、叱責のためではない。人は失敗をする者であり、主は私たちの失敗が起こる前からご存じなのである。
イエスさまは失敗を覆ってすべてを益とするために、真実な交わりを待っておられるのである。

わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。(ルカ12:9)

ペテロがイエスさまを3度知らないと言ったとき、イエスさまは彼のために、あらかじめの祈りによって守っていてくださった。彼は失敗の経験の上に教会を建てたのだ。

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夕日より発つ

2018-10-14 19:11:18 | Weblog



山に入る夕日より発つコントレール
空を切り裂き海を越え行け
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弟子は主の帰りを待つ (ルカ12章)

2018-10-13 12:21:25 | Weblog



「あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
そして、自分のたましいにこう言おう。『たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。』」
しかし神は彼に言われた。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」(ルカ12:18~20)


持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。
あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。(ルカ12:33~34)


食べきれない収穫物を施しとすることは、自分のために朽ちない天に移すことなのだ。だからそれは偽善とはならない。
その宝と共に彼の心も天に移り、このことは金持ちに対する救いの備えである。

腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。
帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。(ルカ12:35~37)


真理の帯を締めみことばの光の中で、昼も夜も主を待つ心は、すべての望みが主に在って、その愛に満ち足りているのである。
その時、天のふるまいである御国のいのちをたまわっている。主が準備してくださる食卓は、愛を分かち合う交わりの場である。

あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのですから。
そこで、ペテロが言った。「主よ。このたとえは私たちのために話してくださるのですか。それともみなのためなのですか。」
(ルカ12:40~41)


主人の現れる思いがけないときを待ち望むのは誰か・・、主人の心を知って行う事を切望するのは誰か・・、それは弟子であろう。
再臨を待ち望んでいるのが弟子である。しかし私たちはもう今、霊に在って神の子とされ主と共に住んでいる。

わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。(ルカ12:44)

神の全財産をたまわる者は神の子である。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。(ルカ12:47)


十字架の犠牲と愛を知っていながら、主を愛する愛もなく、御わざを信じた者の栄光の経験もなく、みこころを願い求める祈りもないままに・・、
主が血潮を流して買い取られた者が、ムチをうけることはイエスさまの悲しみである。

わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。
しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。(ルカ12:49~50)


十字架で主が完成してくださった救いは、ひとり一人に今日の信仰を問うものである。熱くも冷たくもなくまったりと生温い日々に、キリストのご計画があろうはずはない。

あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。
今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。(ルカ12:51~52)


家族ということで自動的に救われるのではなく、そこに働かれる主のわざを真っ直ぐに見る者が、自分の判断によって救われるのだ。信仰はひとり一人が選び取るものであり、終わりの時にはそれがあきらかにされて行く。

偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。
また、なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか。(ルカ12:56~57)

家族の間も信仰によって聖め別けられて行く。主が何をしてくださったのか、家族の間に起こった事を真っ直ぐに見て、イエスさまを礼拝するなら救われ、拒絶するなら永遠に続くゲヘナの苦しみが待っているのである。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)

このみことばは家族の信仰の自由を否定する言葉ではない。神は御子を十字架にたまわるほどに人の自由を尊重された。しかし自由には責任が伴うのである。

あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。(ルカ12:58)


救いをたまわる命のある間に、神さまと和解しなさいと言われている。

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弟子の思い煩い (ルカ12章)

2018-10-11 22:35:09 | Weblog



そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(ルカ12:15)

何年も遊んで暮らせるほどのものを溜め込んでも、命は神さまから一日分ずつたまわるものであり、衣食住の心配がなくなることで、命の心配がなくなると思うのは勘違いである。この勘違いによって、人は大切な時間を費やしてしまう。

それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。
いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。(ルカ12:22~23)


このことは弟子に話されている。世の欲から聖別されて平安を得るために、主の備えのを確信する必要があるのだ。

烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。
ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。(ルカ12:24.27)


ゆりの花は美しいけれど、人は王宮の衣の豪華さに価値を見るだろう。それは人を威圧してひれ伏させるけれど、ゆりの花にひれ伏す者などいない。
ただ、花は神の養いによる命によって存在している。着物はどれほど豪華であっても朽ちて行く物であり、人の栄華も同じである。

しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。
何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。(ルカ12:28.31)


一時の花にさえある神の備え、まして弟子には御国の永遠のいのちの約束がある者。そのことを自分のこととして受け取るなら、世に振り回されることなどないのだ。

何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。(ルカ12:31)

神の国を求めることが、すべてを与えられる条件である。しかし、「求める」という内容に対して、「・・を行うことによって」「・・という資格によって」等という条件は付けられていない。

ただ、「いま持っているものを神の前に置いて・・」ということである。
神さまは心を知っていてくださるのだから、このままこの身に神の国を求めて良いのだ。

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金木犀

2018-10-08 17:50:15 | Weblog




金木犀ここを先途とこぼれ咲き
墨色に溶けぬ風の冷たさ 
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聖霊を汚す者 (ルカ12章)

2018-10-07 20:04:06 | Weblog



 五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。
それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(ルカ12:6~7)


髪の毛の数さえも数えられているとは・・、大げさに感じたことがあった。抜け落ちて変化し続ける数をと思ったけれど、人の心はもっと変化するものであった。
信仰があろうが無かろうが、相手の顔色一つで心が揺れる頼りない者。時々刻々移ろう心をも見ておられる主に在って、すべては知られているのだ。

イエスさまはキリスト者のうちに在って、常に親しく「友よ」と呼んで責任を取っていてくださるから、示されたことは何でもできるのである。

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(イザヤ41:10)

 昨日は孫のお誕生日だった。「10歳おめでとう」と言ったら、「11歳だよ」と教えられた。まったく私はとんちんかん・・。
間違いを教えて貰ったらしっかり記憶できる。もっとも私の事だから来年また「11歳おめでとう」と言わないとも限らないけれど・・。

私のとんちんかんは例外にしても、人は間違いを犯す者である。
だから聖霊に聞いた言葉を語る時は、間違いに対する恐れを覚える。しかし、知り尽くしておられる方に用いられる時、その恐れは主を敬っての恐れではなく不信仰から出るものなのだ。そこに嵌ると前に進めなくなって、タルシシュ行きの舟の中となってしまう。

人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。
言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。(ルカ12:11~12)

 聖霊に直接教えられる時はみことばの全体像が見えなくて、物足りなさを抱え主に問い続ける中で、在る瞬間にはっきり見るのだけれど、ただ、それを正確に書くことや話すことは肉を通す作業となり・・、それが結構恐いことである。

分かったことに満足してサッサと次に進みたくなるけれど、主は誰のために教えてくださったかが分かっているので、それが許されるわけもなく・・。拠って立つ所は、「主は私の使い方を間違えなさらない」という信頼だけである。

たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。(ルカ12:10

 聴く人は、聖霊を通して聖書に照らして、確認することができるわけであり、主は真実に求める人を守られる。
誰が語ろうともみことばに関しては、聖霊に拠らずに受け入れることは間違っている。
「神は霊」だから、神さまは学問や言い伝えではなく、聖霊の導きに拠って礼拝するのである。「聖霊を汚す」とは、聖霊以外のものに拠ることなのだ。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)

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家の中でささやいている言葉(ルカ12章)

2018-10-05 13:12:37 | Weblog



あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。(ルカ12:3)

 人の知らない暗やみで、また家の中でささやいたことが屋上で言い広められると・・、それは、不信仰で裏表のある言葉を口にしている者には恐れだけれど、いつも一つ覚えのようにみことばを語っている者には好都合である。
出掛けて行って相手を選びながら、語る必要がないからである。

しかし自分自身に信じてもいない言葉を語ることはない。自分に何を語っているか・・家族で何を語るか・・、そこで聞いておられるイエスさまによって、口にした言葉の通りに成るのだ。それも主のご真実のゆえである。

そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。
しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。(ルカ12:8~9)


目の前の権力者よりもみことばを恐れるのは、キリストに拠って生きているからである。ゲヘナを恐れることはキリスト信仰の故である。信じていない者とっては、ゲヘナよりも今日のやり繰りの方が重要である。キリスト者の吟味は此処にある。

しかし、聖霊に拠らなければ永遠への思いには至らない。明確な永遠への思いのないキリスト者は、ゴールのわからない走り方をしていることになる。
世の苦難に耐える信仰には御国の望みが見えている。嘆いてばかりの信仰は世で迷子になっているからである。

ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。(Ⅰコリント9:26)


年寄りであっても、若くても信仰のゴールは目の前に見ているものである。キリスト者にとってそれは明日、いや、次の瞬間に迎え入れられる栄光への脱出だからであり、その希望をいつも自分自身に語り続けるのである。
そのことばが、「言い広められる」とイエスさまが約束してくださっていることは、宣教の備えとしてなんと祝福なことであろうか。

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自由 (2018.10.3)

2018-10-03 20:18:44 | Weblog



 コーヒーが切れかけていた。出来るだけ新しくて好みのものを選びたいから、大型スーパーに行こうと先日から考えていた。
時々バイクを走らせないと、オンボロゆえに動かなくなってしまうのだ。まあ、エンジンが掛かればとても調子よく走ってくれるのだけれど・・。
しばらく放ってあったので動かすのに手間取るし、パンク事故以来いくらかの恐怖心も残っている。
どうしても今日コーヒーを買いに行く必要があるわけではなく、少し待てば生協で配達してもらうことができるのだ。免許にしても手間とお金をかけてこだわるほどのものなのか・・という思いも頭をかすめる。

 それでも躊躇する思いを振り払って走ろうとするのは、それらを天秤に掛けても自由を失いたくないからである。
まあ、金木犀の香りが流れるこんなに気持ちの良い季節でさえ気が重いのだから、冬になったらどうなるのか・・わからないけれど。

どんな自由も能動的に動かないと守れない。自由には必ず何らかのリスクが伴う。それでもそれは生きているということ。その価値はいのちの長さではなく重さで量るもの。
私には歳を取ってから初めて手にした自由が幾つかある。たとえ命を引き替えることになっても、惜しい歳ではないことは最強なのだ。
それでも勇気は必要でドキドキする。まあ、他に胸のときめくようなことは何も無いのだから貴重なのかもしれない。
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「怒りな」(2018.10.2)

2018-10-02 18:11:08 | Weblog



 テレビを見ていて独り言を言うのも一人暮らしの老人には呆け防止らしいけれど、思わず怒りや苛立ちの言葉が出る事もある。
そんな時「怒りな(怒るのは止めなさい)」となだめる主人の声が聞こえる。天国に行ってもう4年になるのに・・以前と同じように聞こえる。

一緒に暮らしていた時から、ちょっと間の抜けた調子で「怒りな」と言われると、気が抜けたしまって「そうだね。まあいいっか・・」と心がすぐに切り替わった。夫婦ってそういうものなんだろう。だから今も夫婦をしているのだろうと思う。

 4年前の今日は、主人の愛車を手放す話しが纏まった日。いつも自動車の面倒をみてくれていた人が、メロンをもって夫婦で見舞ってくれた。主人は彼を信頼していたので「全部任しとく」と言った。彼は主人の枕元でいっぱい笑わせてくれた・・。

車で帰って来る息子の助けも度々必要になるだろうと、駐車場を開けて置きたくて相談した時、すぐに処分した方がよいと勧めてくれたのだった。
それはまったくその通りだった。もし、思い出いっぱいの車だけが残されたら、どれほど悲しい思いをしたことか知れず、手放す機会を無くしただろうから・・。

 事ある毎に日記を取り出しては、その日の事をまざまざと思い返す。まあ、これが出来るようになったのは、安心して現実を受け入れるだけの時間が経ったということだけれど・・。

主人は召される日まで、普通にコミュニケーションが取れていた。そのことに今も平安を覚える。何度も「ありがとう。ありがとう。もうええ。もうええ。」と言ってくれたことに・・。
私も、最後までこんなに感謝を残せるのだろうか・・自信はない。主人は我慢強かったけれど、私は痛みや苦痛には弱いから・・。

「怒りな」穏やかに何気なくなだめてくれた言葉を今も聞いている・・。私は自分に「偉そうに怒りな」と付け加えるけれど、主人はそんな言葉を付け加えたことはなかった・・もう4年。

主が私の手を 取ってくださいます
どうして怖がったり 逃げたりするでしょう
優しい主の手に すべてを任せて
旅ができるとは なんたる恵みでしょう

誰もがたどり着く 大川も平気です
主がついておれば わけなく越えましょう
優しい主の手に すべてを任せて
旅ができるとは なんたる恵みでしょう (聖歌651)
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気づかれない墓(ルカ11章)

2018-10-01 19:40:08 | Weblog



わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。
わざわいだ。おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。(ルカ11:43~44)


死を意識する事は、人に永遠への思いを起こさせるために重要である。墓はそれを思い出させる場所、しかし彼らの墓は何の記念にもならなかった。
彼らはそのことを語らず、彼らを通して知る人もなく、滅びからの脱出の道であるイエスさまの御わざもねじ曲げて悟らず、世の高みで満足していたからである。

災害などか終末に近付くほど激しくなるのは、イエスさまがいのちの備えをうながすために、愛する人の心の戸を叩いておられるのである。
「福音を受け入れて永遠への備えをしなさい。わたしが十字架であなたの救いを完成したことを信じなさい。」と知らせてくださっているのである。

死は生まれた者すべてのゴール。しかし生きている間なら選び取る事の出来る、永遠の救いがあることを知って欲しい。死んでしまっては手遅れになる。
就活や婚活どころじゃない。死をもっと真正面から見つめ欲しいと願うのは、十字架ですべての人の罪を負ってくださったイエスさまの願いによることなのだ。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

死を誤魔化さないで、目を背けないで、今のとても貴重な時間を永遠の備えとして欲しい。防災のことも健康のことも到る所で繰り返し教えられるが、人の命はそれでも守れない。日々の営みに埋没して目の前だけを見て終えてはならないのだ。

イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。(ルカ11:46)

仕えるために来られたイエスさまから、彼らはもっとも遠い存在であった。律法の専門家なら、律法をただおひとり成就される方に恥じ入ったはずである。彼らはイエスさまの良い行いを見ても悟らなかった。
イエスさまは私たちの罪の重荷を十字架で負って、処罰から解放してくださったのである。

わざわいだ。律法の専門家たち。おまえたちは知識のかぎを持ち去り、自分も入らず、入ろうとする人々をも妨げたのです。(ルカ11:52)

主を知る知識のかぎは求めるすべての人が用いるべきである。しかし彼らはそれを隠して知らせず、自分たちも用いて知ろうとはしなかった。
今も主を知ろうとする人に制限を加えるものがある。主を知ることは聖霊に信頼して解き放つべきことである。キリスト者の一人ひとりが、直接聴いた言葉をあらゆる所で語るために。

兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(ガラテヤ1:11~12)

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