石ころ

神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
その方は聖霊と火とのバプテスマをお授けになります

後に続く者のために受けるムチ(使徒16章)

2019-03-23 20:54:56 | Weblog




何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。
真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。(使徒16:23~25)


パウロが、女の占いの霊を追いだしたことで、占いの利益を失った人たちに、パウロとシラスは訴えられ、何度もむちで打たれて牢に入れられた。

女が付き纏って叫び続けた言葉は、
「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」(使徒16:17)
「ほめ殺し」という言葉があるが、それが事実であっても悪霊から出るものは汚れている。
イエスさまも悪霊が証することは許されなかった。
「私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」(ルカ4:34)という言葉に「黙れ!」と言われた。

主を礼拝し、賛美し、証しすることはキリスト者の特権であって、うちにおられる聖霊によることである。

 パウロとシラスは、その理不尽に心乱されることもなく、祈りと賛美の中にいた。その恵みは牢の中に広がって行った。

ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。
目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。
看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。(使徒16:26~29)

「みなここにいる」とは誰も逃げなかったということ。賛美には主の臨在があり、みな平安の中にあったのだ。
牢の中であっても、大地震が起こっても、平安の中に居る者は何処にも逃げない。

そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。
ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。(使徒16:30~31)

このみことばに、どれほど多くのキリスト者が平安を頂いたことだろう。一人先に救われて、家族の救いを切に求めるようになった時、この御約束に信頼して静かに待つことが出来た。みことばにとどまって、救いの希望と安息を頂いて、普通に暮らす事が出来たのだ。
後に続く私たちのために、パウロとシラスがムチを受けて下さったと思う。そう、この看守の家族と、後に続くキリスト者の家族のためのムチである。

看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。
それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。(使徒16:33~34)


看守は自殺しようとしたときに、世での命に対しては死んだ。だから彼はどんな責任を問われることも恐れなかった。
本当に恐れるべきお方、いのちの主を知ったからである。その時、それがどんな環境であっても、彼は救いの喜びに満たされたのである。しかも家族そろって!
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勝利の秘訣はひとつ(使徒15章)

2019-03-22 13:59:37 | Weblog



 ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。(使徒15:1~2)


イエスさまのことば、福音を真っ直ぐに聴いておらず、聖霊によって生まれ変わっていな時は、慣習や人の善悪によって互いに重荷を負わせ、救いの無い所に縛りつけ合っている。しかし、みことばによって新しく生まれた者はイエスさまの救いを楽しみ喜ぶ者。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:30)

ただ、そのためにはみことばを思いに刻みつけて、恵みにとどまり続けるための戦いもある。

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ5:1)

 アダムに善悪の知識の木の実を食べさせて、人を善悪の中に閉じ込めたサタンから、解放してくださった十字架のあがないを頂いた者は、恵みを無駄に受けないために、的を射た働きをしなければならない。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)


キリスト者の敵は人ではない。イエスさまに続くための十字架を負って、人のためには祈り続け執り成しの祈りに留まる者である。

 彼らは教会の人々に見送られ、フェニキヤとサマリヤを通る道々で、異邦人の改宗のことを詳しく話したので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。(使徒15:3)

信仰の論争の中に、いわば戦いに行くパウロたちが話していたのは論争相手のことではなく、異邦人が救われた主の御わざの喜びだった。
キリスト者が知るべきは敵のことではなく、主を知る事である。それはすべての敵に勝利する秘訣、戦われるのは主だからである。

「なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。
私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」
すると、全会衆は沈黙してしまった。そして、バルナバとパウロが、彼らを通して神が異邦人の間で行われたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けた。(使徒15:10~12)


ペテロを成長させ、完璧に時を備えて語らせてくださる聖霊。主の備えてくださることばを語る時、沈黙を備えて聴く耳を準備してくださる。

聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。(使徒15:28)

「聖霊と私たちは」と主の権威に拠ることが、1番上に明記されていることは深いことである。この選択が主にあってなされたことが分かるからである。

すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。(使徒15:29)


聖霊の内住に拠れば不要な決めごとも、教会は色々な信仰の段階の人が集まる所であり、それぞれに皆成長の途上であって、ユダヤ人にも親切な言葉になっている。
すべては、成長させてくださる主に委ねてのことである。
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春だね~(俳句)

2019-03-21 17:13:07 | Weblog



スマホ越し土筆坊やの背伸びかな
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春だね~(短歌)

2019-03-21 15:31:04 | Weblog



生温き春一番に溝そうじ
低血圧に勝って清しく
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日々新しく聴く (使徒14章)

2019-03-19 20:13:02 | Weblog



こうして、主のみことばは、この地方全体に広まった。
ところが、ユダヤ人たちは、神を敬う貴婦人たちや町の有力者たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出した。

ふたりは、彼らに対して足のちりを払い落として、イコニオムへ行った。
弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。(使徒13:49~52)


貴婦人たちや町の有力者には、「神は高貴な私たちのもの。外国人や身分の卑しい者に汚されるな」なのだろう・・。
しかし、聖霊の導きの中では、迫害によって弟子が気落ちすることも後退することもない。彼らに迫害は火に油を注ぐようなもので、ますます心燃やされ喜びは満たされるのだ。

イコニオムでも、ふたりは連れ立ってユダヤ人の会堂に入り、話をすると、ユダヤ人もギリシヤ人も大ぜいの人々が信仰に入った。
しかし、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに対し悪意を抱かせた。

それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。主は、彼らの手にしるしと不思議なわざを行わせ、御恵みのことばの証明をされた。(使徒14:1~3)


ユダヤ人もギリシャ人も大勢の人々が救われる中で、信じない人々の執拗な迫害も付き纏う。信仰に対する執拗な妨害はサタンの恐れであり、それは弟子の大成功の証である。

それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。主は、彼らの手にしるしと不思議なわざを行わせ、御恵みのことばの証明をされた。
ところが、町の人々は二派に分かれ、ある者はユダヤ人の側につき、ある者は使徒たちの側についた。(使徒14:3~4)


町はイエスさまを信じる者と信じ無い者に分裂した。

あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。(ルカ12:51)


イエスさまが来られる時、仮初めの平和は崩される。すべての人は、キリストを信じる者と信じ無い者に分けられ、必ず訪れる死は「永遠の滅び」か「永遠のいのち」のどちらかとなる。命のある間に永遠の救いを得させるために、不信仰があぶり出されるのである。

異邦人とユダヤ人が彼らの指導者たちといっしょになって、使徒たちをはずかしめて、石打ちにしようと企てた(使徒14:5)

此処ではパウロは石打ちを逃れるが、

アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。(使徒14:19)


ルステラでは、足の萎えた人を癒したパウロたちを拝もうとする人々に、その行為を止めさせたあと、迫害者に抱き込まれた群衆はパウロを「死んだ」と見えるまで石打にした。

しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町に入って行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。(使徒14:20)


パウロが傷ひとつ受けなかったのは天使の守りである。
彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。(詩編91:12)

しかし、ステパノは石に打たれて殉教し神の栄光を現した。聖書には決まったパターンはなく、マニュアルもない。生きる時も死ぬ時も、すべての時に主がともに居てくださった証があるだけである。

日毎に新しく主に聴くことだけがみこころを行う導きである。キリスト者は日々聖霊の導きによって成長し、主はその日にぴったりと身の丈に合ったものを、準備していてくださるのである。

先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。(イザヤ43:18)


これから起こる事に昔の経験を重ねてはならない。主は日々新しく造り変えて、まだ見た事のない道を行かせてくださる。
その時、聖書がただの文字ではなく、何時までも古びる事のない霊に拠ることを知って行くのだ。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)


主に在る経験の素晴らしさは、主と共に生きた記憶であって、みことばが真実であることの体験であり、手段の習得ではないのだ。

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神の恵みにとどまる(使徒13章)

2019-03-18 22:41:25 | Weblog



 兄弟の方々、アブラハムの子孫の方々、ならびに皆さんの中で神を恐れかしこむ方々。この救いのことばは、私たちに送られているのです。(使徒13:26)

御子イエスさまは、約束の民であるユダヤ人に送られた。しかし彼らには、イエスさまが理解できなかった。それは、与えられた神の戒めに多くの言葉を付け加え、互いに訴え合う生き方の中で、神のことばから遠くなってしまっていたからである。

そうして、「おまえたちに、どんなに説明しても、とうてい信じられないほどのこと」(使徒13:41)が起こり、イエスさまが仕える者の姿をとって来られた時、受け入れることができずに預言がなったのである。
しかし、ご真実な主の御愛は変わる事がない。

「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ主は仰せられる。(イザヤ54:10)


 復活のイエスさまに出会った者の言葉には力がある。だから真っ直ぐにパウロのメッセージを聞いた人々は、恵みのことばへの渇きを覚えた。

ふたりが会堂を出るとき、人々は、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ。(使徒13:42)


真っ直ぐに福音を聞いた人々は、「同じこと」をもっと聞きたくなった。みことばは繰り返し繰り返し聴き続けて身に付けて行くもの。神の恵みにとどまるとはそういうこと。
その時聴いた言葉を、聖霊は自分の言葉としてくださる。みことばに同化して、神のご支配に移されて行くときは聖霊の助けがある。

堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちが、パウロとバルナバについて来たので、ふたりは彼らと話し合って、いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めた。(使徒13:43)

いつまでも神の恵みにとどまっているために、まず、福音は常に自分自身に語るものであり、自分の中に何を見ても、心から何を聞いても、みことばの約束を選び取って、イエスさまとの平安の中に住む。成就するのはみことばだからである。
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幸せは

2019-03-17 12:53:27 | Weblog



落ち葉の影に スミレの花を見つけたこと

移り変わる空の下で タオルが乾いたこと

雨上がりの5000歩 風が心地良かったこと

息子のお土産 カニ寿司の美味しかったこと

それらのすべてに 
イエスさまの眼差しを知っていること
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断食して求めたもの(使徒13章)

2019-03-16 18:50:52 | Weblog



使徒たちを迫害して、ヤコブを殺したヘロデ王は、「神の声だ」とおもねて叫ぶ人の声の中で、虫に喰われて死んだ。王でも虫けらに殺されるのは神の裁き、主の弟子が戦う相手では無いと分かる。
主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った。(使徒12:24)

彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。(使徒13:2)


すべての出発点は、神である「わたしのために」であり、神から発したことばは神が成就なさる。
使徒たちが断食をして求めたものは、主がご計画を成就なさることばであった。キリスト者には、みことばだけが武器であり力である。

すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:36)

キリスト者が戦うべきは、「主のまっすぐな道を曲げる」言葉に対してである。パウロは、信仰を妨げる偽預言者に立ち向かって、神の権威によって命じた。

「ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。
見よ。主の御手が今、おまえの上にある。おまえは盲目になって、しばらくの間、日の光を見ることができなくなる」と言った。するとたちまち、かすみとやみが彼をおおったので、彼は手を引いてくれる人を捜し回った。(使徒13:10~11)

戦いの武器であるみことばの備えがなければ、剣を持たない戦士である。
驚嘆するような福音を届ける時、みことばはその人の内に宿り、永遠に主を喜び続けるようになる。

この出来事を見た総督は、主の教えに驚嘆して信仰に入った。(使徒13:12)

偽預言者は十字架の言葉を曲げて語る。混ぜ物をして人の言葉を語り、十字架の血潮の聖さを汚す者である。
偽物と本物の違いは、十字架の御救いに留まっているかどうかで見分けることができる。
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春雷 

2019-03-16 10:03:09 | Weblog



ウグイスの声に目覚めて 地響きの雷に驚き
みぞれ混じりの雨に震え 干し大根縮む
春は以外に乱暴で ドカンドカンとやって来る

それは北陸のあの日を想わせて・・
歓迎セレモニーは 豪快な雷と土砂降りで
たどり着いた宿では 誰も驚いていなかったこと
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聖なる寝ぼけ眼(使徒12章)

2019-03-12 15:52:51 | Weblog



教会を迫害するヘロデ王はヤコブを殺し、それがユダヤ人の気に入ったのを見て、ペテロをも殺すために捕らえ牢に入れた。

ヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。
すると突然、主の御使いが現れ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。
そして御使いが、「帯を締めて、くつをはきなさい」と言うので、彼はそのとおりにした。すると、「上着を着て、私について来なさい」と言った。(使徒12:6~8)


主がご計画を行なわせさる時、人はその始めから終わりまでを知らず理解もできない。そのようなことは、人類がかって経験したことが無いからである。
だから主の良きご計画が成就するために、みことばのままに立ち上がり力を抜いて従うだけである。

手足を鎖に繋がれ、明日の死が迫る中で熟睡していることは、キリストの平安に拠る事である。また、人はその危機から救い出される時も、わけが分からず寝ぼけ眼で導かれて行くような者である。
キリスト者がそんなに正気でいることに拘る必要はないのだ。神の深みは何時でも常識が通用しない所なのだから・・。

彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。
そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。」(使徒12:10~11)


主が何をしてくださったのかは後で知る事である。日々みことばを通して、些細な事柄に臨在を現していてくださるから、その経験を元に従って行くだけである。
そのような完全な守りを経験する場所は、試練の中にある。主は試練の中ででも熟睡させてくださることを知るのだ。

「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。」(ピリピ1:29)新改訳2017

弟子たちは熱心祈っていても、ペテロの姿を見た時は非常に驚いた。人の信仰などたかが知れている。聖霊によって導かれなければ、主の良いご計画を受け取る備えはできない。霊のうちにおられるキリストの信仰を、従順の中で身に着けて行くだけの者である。
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