石ころ

神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
その方は聖霊と火とのバプテスマをお授けになります

世の終わりの備え①(ルカ21章)

2018-11-14 18:13:33 | Weblog



ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。
それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。
みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」(ルカ21:2~4)


21章に書かれている終わりの時代にも、彼女のようである者は何ひとつ失うことはない。主だけがすべてであり、世に何も持っていない者の祝福である。

宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイエスはこう言われた。
「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」(ルカ21:5~6)


世にあるすべての物は滅びる。立派な神殿も石垣ごと崩される。
ただ、このお方だけが永遠に残るものを持っておられる。脆い土の器のようなからだをもって、神が人となって来てくださったイエス・キリストである。しかし、人は弟子さえもそのことには気づかない。

イエスさまは、人が殺すことさえできるからだの内に、すべてのいのちを包含して来てくださった。それも無力な赤子となって・・、それこそ究極の謙遜である。
その神の謙遜のゆえに、人はイエスさまを礼拝することが困難なのである。そのような謙遜を、人は見たことも聞いたこともないからである。

イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私がそれだ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。」(ルカ21:8)


イエスさまの交わりにあるのキリスト者は、御声をいつも聞いている。その日にキリスト者を守るものは、聞き続けたみことばである。主の呼ぶ声を知っている者が、他のものに付いて行くことは決してない。

島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ。【主】は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。(イザヤ49:1)


偽キリストは王のようだろう。輝かしく神々しく見えるであろう。
しかし、救い主は無実の罪によって十字架で殺されるお方であった。死んで墓に葬られたお方である。
そのようにして、すべての人の罪を神の前にあがなった三日後に墓は空であった。
救いを成し遂げてくださって、今は天の父の右の座におられる。また、不思議なことに、霊に置いては信じる者の内に居てくださるのだ。

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罠から守るものはみことばの剣

2018-11-13 13:21:43 | Weblog



 世でクリスチャンを告白する時、身に着けていなければならない二振りの剣がある、それは聖書に書かれていることばの記憶と、聖霊によってその時の必要を備えられるみことばである。

彼らは言った。「主よ。このとおり、ここに剣が二振りあります。」イエスは彼らに、「それで十分」と言われた。(ルカ22:38)

他に何も要らない、組織も肩書きも才能も力も見栄えも要らない。それで十分だとイエスさまが保証された。なぜならみことばの約束によって、神がすべてを満たされるからである。
世は、クリスチャンであることを聞くと「それはすばらしい。その愛で何をしてくれるのか」と、要求を次々と突きつけてくるだろう。

イエスさまは荒野での試みに、サタンの言葉に何一つ応じられることはなかった。ただ、みことばを語り続けられた。
イエスさまは、ご自分の証明をご自分ではなさらず、ただ神のみこころを行われた。此処に習うべきである。

語るべきみことばを持たずに世で証することは、手ぶらで戦場の真ん中に立つようなもので、二振りの剣を持たないことは、戦法を知らず武器も無いという状態である。
世と同じ道具を使うなら、手段を選ぶ必要の無い世の方が圧倒的に有利であって、世の要求をすべて行ったところで、なぶられて時をすり減らし、消耗して行くだけなのだ。

イエスさまは罠にはまらない、キリスト者も主に在って罠にはまる者ではない。ただみことばを語り、みこころを行う者である。
人が救われるのは神のご計画によることである。キリスト者はそれを実行する者なのだ。すべて主から供給されるものによって勝利し、主の栄光とする者である。
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追い越された

2018-11-11 21:09:01 | Weblog


若者の尻ぷりぷりと追い越され
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復活の様子をはっきりと知る(ルカ20章)

2018-11-11 17:19:53 | Weblog



イエスさまは悪に対して悪で返すことはなさらない。意地悪に対して意地悪く返すこともお出来にならない。それは神が愛だからである。
サドカイ人の罠に対しても、私たちに素晴らしい復活の様子を教えてくださった。

モーセは私たちのためにこう書いています。「もし、ある人の兄が妻をめとって死に、しかも子がなかった場合は、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。」(ルカ20:28)
次々と死んで行く七人の兄弟の妻になった女は、復活では誰の妻かという意地悪な質問であったが、

イエスは彼らに言われた。「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、
次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。
彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。」(ルカ20:34~36)


イエスさまは此処で教えてくださったことによって、今復活後の様子をリアルに想い描くことができる。
また、二度とは死のない永遠の中で、神の子であることを明確に教えてくださった。
イエスさまの素晴らしいお答えを知った喜びで、馬鹿げた質問をしたサドカイ人に感謝したいくらいである。

死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んで、このことを示しました。
神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。(ルカ20:37~38)


復活によって死なない者とされたのだから、永遠の中で生きている者の生ける神である。とても分かり易い。
主は今もキリスト者と共に生きていてくださる。それをこの世の日々に経験することで、次の世への確信となるのだ。
みことばが真実なことを経験しているから、永遠の約束であると、そのまま信じることができるのである。

イエスさまを知った者には責任がある。聞いた者がみことばを軽んじて、不信仰の中で曖昧に世を生きることは恐ろしい。
今は誰にも聖書が与えられ、深みを求めること、捜すこと、たたくことができる。それをせずにみことばに対してのあいまいは、十字架のいのちをたまわった主の悲しみである。

盲人に盲人の手引きができるでしょうか。ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか。(ルカ6:39)

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カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。(ルカ20章)

2018-11-10 17:22:46 | Weblog



さて、機会をねらっていた彼らは、義人を装った間者を送り、イエスのことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエスを引き渡そう、と計った。(ルカ20:20)


イエスさまにわなを設けることは不可能である。同じように主に在るキリスト者を罠を掛けようとすることも無駄である。

どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。(ルカ21:15)

それゆえ、全知全能の主に在って、造り主なる神さま以外のものを恐れて、みことばを語らなくなることは不信仰である。

「私たちが、カイザルに税金を納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」
イエスはそのたくらみを見抜いて彼らに言われた。
「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです」と言った。
すると彼らに言われた。「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」(ルカ20:22~25)


「支配者に組するべきか」と問う罠に、カイザルの肖像が刻まれた世のものは世に与えよと答えられ、彼らが盗み取っている神の権威は、神に返せと言われた。

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記1:27)


人は、初めに創造主なる神のかたちに造られた神さまのものである。人の心には造り主なる神さまの肖像を記されてあり、人のいのちには神の銘が刻まれている。それゆえ人は神さまに拠って生き地上での生涯を終えたら、神さまの元に帰ることで、与えられたいのちを全うするのである。
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今日は病気だった 2018年11月9日

2018-11-10 00:23:19 | Weblog



私の身体も生ものだったようで、目覚めと同時に吐き気を感じて、朝から激しく吐き続ける。何も入っていないので水ばかり・・、繰り返し繰り返し口からドット流れ出て、「まるでマーライオンみたい、こんなに大量の水が何処にあるのだろう」などと思った。

頭を動かしただけで・・、水を一口飲んだだけで・・洪水。さすがにふらついて、出る物も苦いヨモギのジュースになり、ジュレのようになり・・、腹ワタを捻るようにして出てくる。「これは、胆汁というものだろう・・」などと心が分析していた。

身動きできなくて、一日座イスでうつらうつら・・夕方になると吐くことは治まって来たので、ふらふらと近くの医院に行く。少しばかりの元気が必要なのだ。途中吐き気がしたときのために、ビニール袋を持って・・。

お薬をいただいて様子を見ながら、まずはゆっくり白湯を飲んでみた。大丈夫。
野菜を放り込んでスープを作り、ぬるめのものをゆっくり飲んでみた。ok大丈夫。
一握り足らずの米を鍋に入れ薄いお粥をつくり、玉子を一個落として、今日初めての食事を取ると、それだけで身体が温かくなってシャンとした。

原因?それは生きものだからだ。病気を一日で終了してくださったイエスさまに感謝。明日は元気が待っている。
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ありがとう

2018-11-09 17:55:04 | Weblog


手渡さるCD聞き居て日は落ちぬ
男性コーラス主の喜びよ
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礎の石 (ルカ19~20章)

2018-11-08 13:58:54 | Weblog



エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。
「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。(ルカ19:41~42)

イエスさまはエルサレムを愛して、涙を流された。神の訪れを悟ることのない宗教者、平和の君を殺してしまう盲目を嘆かれた。

おまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」(ルカ19:44)

その町が破壊されるときに、流される子どもたちの血のために泣かれた。神殿は形骸化され、神の権威は宗教者に盗み取られていた。

「わたしの家は、祈りの家でなければならない」と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。(ルカ19:46)

信仰を商売にする者はイエスを殺す強盗である。みことばを自分たちの言葉にすり替え、神の権威を盗んでいるのだ。

農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。「あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。」(ルカ20:14)


神の訪れの日を知らず、神の息子を殺して強奪した権威である。しかし、彼らの拠り頼む人の権威は、人を恐れ人に縛られ滅びに至るものである。
神の権威の下に身を置く者は、ただ神のみを恐れ人に縛られれることはなく、平和の内にいのちを得るのである。

イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。
この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」(ルカ20:17~18)


救いの礎はイエス・キリスト。この方に自分から落ちた者は砕かれ、悔い改めのいのちを得る。
しかし、裁き日にこの石が落ちて来た者は、神の国から遠く吹き飛ばされて滅びるのである。
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とんびの歌

2018-11-07 13:36:16 | Weblog


抜けるような青空を
トンビがゆ~ったり回った
いつも余裕たっぷりだなぁ
お前の心が欲しいよ

トルコ石色の空から
何を見ているのだろう
極彩色の柿の葉っぱかな
風に揺れる白い洗濯ものかな

トンビを見たから
「とんび」の歌を唄った
今日は、鳴き声も立てないから
代わりに私が唄ってやった
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私の1ミナ (ルカ19章)

2018-11-06 16:56:50 | Weblog



私の1ミナは、1983年に出会った聖書から出発したみことば。
みことばを預ける銀行は、ブログ「石ころ」これは叫ぶ石。

すり切れた聖書には、主に賜った恵みが、いっぱい書き込まれていて、
「聖書を、お隣の人に見せてあげて・・」と言われたとき困ったものだった。
始めて出会った方を、散らかった居間に迎え入れるような戸惑い。
祈りの部屋も、家庭集会も、居間だったのだけれど・・。

イエスさまは、普段の生活の中におられるから居間だった。
祈りの部屋など無く、何時でも何処ででも祈るから・・、
呼吸を意識しないように、祈りを意識することもない。

主に声に出して話す時も、心の中で訴える時も、霊による祈りも・・。
胸が詰まる思いで、ひとこと「イエスさま」と呼ぶ時も、
それはどれも同じで、主に在るということ。

「石ころ」は、みことばや、魂の歌や、ただの日記など色々あって
どれも、主に生かされているということ。
何もできない者だから、この銀行に預けて置く。何を預けても名義はイエスさま。

イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、
こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」
イエスは答えて言われた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」(ルカ19:37~38.40)


(秋空に桜が咲いていたそうです。)
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