石ころ

神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
その方は聖霊と火とのバプテスマをお授けになります

石斛(セッコク)

2018-05-19 11:03:19 | Weblog


黄昏に 仄かに香る セッコクは
  夫(つま)の細工を 覆いて白し
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今朝の賛美 (詩編8章.9章)

2018-05-18 10:58:56 | Weblog

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私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。
あなたのご威光は天でたたえられています。

あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。
それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。

あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。

あなたは、人を、神よりもいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れとの冠をかぶらせました。

あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。
すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。

私たちの主、主よ。あなたの御名は全知にわたり、なんと力強いことでしょう。

私は心を尽くして主に感謝します。あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。
私は、あなたを喜び誇ります。いと高き方よ。あたなの御名をほめ歌います。
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主よ。来てください③ (マタイ25章)

2018-05-17 14:31:19 | Weblog




人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。(マタイ25:31~33)


 羊はみことばによって永遠の救いを語り、山羊は人の言い伝えを語って滅びをもたらす。羊と山羊の違いは主の必要を満たすことにある。

「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25:45)

主の必要は最も小さな者の必要を満たすことであり、最も小さい者に目を止めることは肉の目には出来ない。ましてその必要を知ることなどできるわけがない。

神は霊だからそれを知るには霊に拠るほかない。だから肉は、主の必要を満たしていることにも、満たしていないことにも気付かず「何時私がそんなことをしましたか」と言うのである。

「空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、渇いていたとき、わたしに飲ませ・・」
霊の飢え渇く者に何の代償も求めず、みことばを語って食べさせ聖霊の豊かないのちの泉に導き、

「わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し・・」
心空しくさまよう者に、見返りを求めず天にある永遠の住まいを知らせ、

「わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え・・」
恥に悩む者に、キリストの完全なあがないによって覆われる平安を知らせ、

「わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い・・」
命の終わりをおびえる人に、執り成しの祈りをもって永遠のいのちを知らせ、

「わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」
言い伝えの中に閉じ込められている者に主の解放を告げ、屠られたキリストの肉を食べ、十字架で流された血を飲むようにして救われなさいと伝える。

 偉大な神の御子は、最も小さく仕える者なって来てくださり、すべての律法を成し遂げて、罪の重荷から解放してくださった。

辛子種のように小さく、パン種のように小さなものは見過ごされる。しかし辛子は小さな種を食べるもの。種から生長した木に集まる鳥を取って食べることは、主のみこころである。それは「神がきよめたもの」とペテロに言われたものである。

永遠のいのちを得る価値あるものは、聖霊によって導かれる。聖霊は蓄えられたみことばを思い出させて、みことばの約束を成就させてくださるのである。

終わりの日に備えて、水にパンを撒くようにみことばを語ろう。資格も無学もこの世のものには関係なく、持論でもなく、主が備えて話させてくださるとおりに語るのだ。
それは「あなたがたに」とあるように、多くの人がたまわっているものである。

どんな反対者も、反論も、反証もできないようなことばと知恵を、わたしはあなたがたに与えます。(ルカ21:15)


聖霊はみことばを思い出させてくださるから、常にみことばに親しみ留まっていることは必要であるけれど、主は時を備えて語る言葉に導いてくださる。

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2018年5月16日

2018-05-16 19:31:02 | Weblog



 ここの所の暑さで、トマトの種まきセットに蒔いた種から1㎜程の芽が出て、1㎝程になり小さな本葉が覗いた。
何時もいつも見つめているから、恥ずかしがり屋さんは出てこられないのか・・と思うほどゆっくりペース・・こればかりはひたすら待つしかないのだ。「おいしい野菜の土」を二袋も買ってスタンバイしているのに・・。

初ホトトギスの声を聞いた。暑さに胸苦しくて体はだるく・・身の置き所がないときがあるのに、ホトトギスの声を聞くと元気づけられる。
それはなぜか気だるい夏の夜の懐かしさと、子育てに賑やかだった頃の雰囲気を私に連れて来るのだ・・。

 今日のテレビで、とても身近でちょっと嬉しいニュースを聞いた。吉野にフリーゲージトレインが走る計画があるという・・。
日本初とか・・私は結構新しい技術とか好きだから興味津々。ちょっと恐いようなドキドキする話しである。
第一とても便利になるのだ。乗り換えに、階段を登り下りして荷物を持って走るのが大変だったから。
「走り出したらもっと出掛ける?」う~ん、それは・・とにかくちょっと自慢出来る?
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「主よ。来てください。」② (マタイ25章)

2018-05-15 13:53:56 | Weblog


 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。(マタイ25:14~15)


 タラントは能力に応じて与えられるとある。能力は造り主が備えられたものであり、人がその多少を問われることはない。主はその個性にある弱さに対しては、信頼関係のうちに助けを備えてくださってある。

しかし主を知ろうともせずに恐れる者には、どのような備えも助けとはならず、関係を拒絶された時は助けようもないのだ。信じて一歩を踏み出していれば発見できる備えも、踏み出さない者の信仰は育てようもなく、その機会が失われているのである。

 タラントを用いない者は、不信仰者共通の主人を責める言葉を持っている。
働いたしもべの「ご覧下さい」という言葉は、主人の喜びを喜びとする言葉である。そのとき主人は最大限の評価をもって、働きの量にはよらず喜ばれるのである。

主は、信仰者の人生にそれぞれの能力に応じたサプライズを備えてくださり、共に喜ぶ舞台設定を準備していてくださる。
だから、5タラントの者も2タラントの者も同じように成功するのである。そもそも信仰者の成功は「やらせ」のようなものである。主は母が子を育てるように、喜びを経験さて育ててくださるお方である。

それは深い信頼関係の中で、喜びつつ神と共に働く者に成長させて下さるためである。タラントを用いないことは、その良いご計画を土に埋めたのである。主は喜びを共有するために帰って来られる。
心を知ろうともせず、主から身を守ろうとすることほど悲しいことは無い。
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主よ。来てください ① (マタイ25章)

2018-05-14 12:51:02 | Weblog


 

そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。(マタイ25:1.5)


 花婿の来るのが遅れるのは祈りに拠ることである。イエスさまは再び来てくださる。「主よ。来てください」という祈りは、「主よ。もう少し待ってください」という言葉と共にある。共に御救いに預かりたい人があるのだ。だから・・もう少し・・と。

花婿なるキリストの来られるのは、肉は何も出来ない眠りの中に在る夜である。神は霊だから霊の備えは霊の中にある。肉には眠ることが必要だが、霊は肉が眠って居ても起きていてもすべてに備えている。キリストの十字架の御救いによって、目覚めた霊は眠ることがない。

 花嫁は婚礼によって花婿の打ち傷を見る。救いのために支払われたものの大きさに、花嫁は己が相応しい者ではないことを知って耐えられなくなる。
ただ、彼女の持って居る油はその傷みを覆って癒す。花嫁は絶えず覆う聖霊の油によって安息するのである。

油の備えのない娘に、天の戸は直ぐに閉じられた。
油は、みこころを行いたい願いの中でただで買うことができる。先祖以来の言い伝えには拠らず、主に在って成したい願いにたまわる助けである。
そうして、すべての願いを主に委ねて「主よ。来てください。」と心から祈ることができる。
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この天地は滅び去ります(マタイ24章)

2018-05-12 16:52:34 | Weblog




 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。(マタイ24:35)


滅びの時のしるしは偽キリストが現れ人の心を惑わし、世界に戦争や戦争のうわさ、民族紛争や飢饉や地震が起こるが、それは産みの苦しみのはじめだと書かれてあり、非常に困難な時代となる。

そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。(マタイ24:21)

マタイ24章にはその時のしるしが詳しく書かれてあるが、
人は、滅びの時を待たなくても一度死ぬことと、死後の裁きを通ることがさだめられているとある。
それは、御子イエス・キリストの十字架のあがないを、信じ受け入れなかった罪を問われるのである。十字架はすべての罪をあがなうものであるから、罪が問われるのはイエスさまの十字架を信じないことだけなのである。

また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)


神はご自身が創造された人を愛し、御子イエスさまの十字架に置いて、すべての罪をあがなってくださった。「滅びのゲヘナに行くな、私の元に帰って来いと・・。」

イエスさまは父なる神のご計画を完全に成し遂げて、十字架で人の罪を負って取りなし、ムチと嘲りとののしりを受け負われた罪の故に、罪を見過ごしにできない御父に捨てられ究極の孤独を通ってくださった。

罪の無いイエスさまが十字架で死刑とされ、墓に葬られ、三日目によみがえって、当時の人々500人以上に現われて天に帰られた。歴史的なこの事実を感謝して受け入れるなら、永遠の苦しみから免れ神の子として天に迎えられる。

イエスさまは今、天の御父の右の座におられて、祈る者のために取りなしていてくださる。イエスさまは人の世と人の弱さをよくよくご存じだからである。
しかし、御救いは死後のことだけではなく、今信じた瞬間に、父なる神さまと御子イエスさまと聖霊は私と共にいてくださる。

だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。(Ⅰヨハネ4:15)


 この世を生きる間もすべての助けによって、天の前味を味わう時となる。信じたときから天の御国は身近なものとなり、何時か死んだら行くのだろう・・という曖昧なことではないのだ。

死がゴールという事実から目を背けて生きるなら、人は生きる目標に迷い・・病むだろう。目の前の人参だけを見て走るようには、人は創造されていないのだから・・。

すべての人には裁きの時があり、永遠のいのちか、不信仰の結果の終わらぬ苦しみかが待っている。それを選ぶことができるのは、今生きているこの時間だけである。「今は恵みの日」なのだ。
この天地は滅び去り、今の命にも限りがある。

救いのためのすべての必要は父なる神の愛によって、御子イエスさまを犠牲にして準備してくださった。今、へりくだって永遠のいのちを受け、終わりのない火の苦しみを免れるようにとイエスさまが待っていてくださる。

こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。(Ⅱコリント5:20)

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胸射す午後は

2018-05-11 15:19:12 | Weblog





掃き清め ひとり座敷に 所在なし
    照り葉鋭く 胸射す午後は
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2018年5月10日

2018-05-10 21:40:05 | Weblog



 雨の日々は緑濃くなった山裾に、白糸ような途切れぬ雨をガラス越しに眺めてはため息していた。

雨が降ります 雨が降る
遊びに行きたし 傘はなし
紅緒のかっこの緒も切れた

あ~あ・・つぶやくように歌ったり、声を上げて歌ったり・・すると、遠い日の雨を思い出した。
あの頃は、子供が差して遊びに行くような余分な傘はなかった。それも重い番傘で、コウモリ傘などは子供のものではなく・・。

下駄も盆正月に買ってもらうくらいで余分にはなかった。桐下駄は軽いけれどチビって、鼻緒はよく切れたものだった。
雨の日は家に居るのがあたり前、日が暮れたら外に出ないのも当たり前。
窮屈なはずのそんな遠い日は、なぜか道に跳ねる雨の香りを覚えているほど生き生きしていた。

 今は傘など何処の家でも色々あって、それでも新しい物を買う。でも・・新しい傘にそれほど感動することはない。
人は物に感動するのではなく、それを手に入れるまでのストーリィに感動するのだろう。

願い続け・・待ち続けて、沢山の優しさや、思いやりや、苦労があったことに感動するのだ。
だからどんなに物が増えてもそれで楽しくなったり、幸せになったりすることはなく、そのようなストーリィが今では一番の贅沢になってしまった。


 今日は五月晴れ。体は重くても、心と足取りはそれなりに軽く久しぶりのウオーキング。
ウグイスの鳴き声に立ち止まり、見上げた栗の木のギザギザ葉っぱが瑞々しくて驚いた。ウグイスは、まあめったに見つけることがないけれど・・。

諦めてしばらく行くとまた頭の真上で鳴いた。立ち止まっては姿を求めて木々を見上げて、鳴き方が微妙に違うなぁ・・と聞きつつ歩いた。「ウグイスは合計何羽いたでしょう。」ふふふ
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兄弟にある教会の守り (マタイ23章)

2018-05-09 12:40:40 | Weblog



あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。(マタイ23:8)


一方的に語る役割から解き放つみことばであり、そこに発生する不足を満たす備えのためである。
キリストを頭とする交わりによって、みことばを分かち合い主の備えの中で語るようになるなら、どれほどにか豊かに、また危険からも守られることであろうに。

聞く耳がなければ、主が兄弟の間に備えられた言葉を受け取ることはできない。兄弟でなければ語れない言葉がある。それは主の警告や守りのための備えであるけれど、聞く耳の備えがなければ受け入れることの出来ない言葉だからである。

それは形の問題ではなく、みことばに対する信仰の問題である。常に覚えて備えていなければならない重大なことことである。
それというのも主は、人には取るに足りないと思える者を用いなさるからである。聞き逃すなら主の備えは無駄になり、教会は大きな損失を被ることになるからである。

ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。(マタイ23:37)

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