石ころ

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしの所に来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。イエス・キリスト

神の大能の力によって(エペソ6章)③

2019-07-20 16:30:21 | Weblog

 

救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。(エペソ6:17)



キリスト者は福音印の兜。それを隠さずに分かり易い存在でいること。主が備えられたのは、裏表無く取り繕いもいらない存在である。


御霊の与える剣はみことば。日々に親しみ浸って居るなら、聖霊は時に叶って相応しいことばを思い出させてくださり、キリスト者を誤りなく導いてくださる。
それは、策略や罠の正体を見破り、嵐の中でも平安をもたらせるために、備えられた神の知恵に満ちている。


神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル4:12)


すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ6:18)


すべての聖徒のために祈ることは、うちに居られるキリストと共に成すわざである。祈りには忍耐が必要であって、みこころの祈りが人の感情に逆らうことも多い。感情は霊ではなく魂にあるからである。

人は皆違う。神がそのように造られたからである。キリストの体なるキリスト者も、皆が同じ器官ではない。タラントも役割も違う。だから互いを完全に理解することはない。でも、忍耐と寛容をもって受け入れることはできる。キリストと一つであれば・・。


キリストの愛がある中に、欠けと思える部分を祈ることを示される。霊の目がはっきり見えるようにと祈りつつ、その願いの成就を待つ望みが与えられる。
投げ出さず、逃げ出さずに、怒らずに祈れるのは、キリストの忍耐と希望をたまわってのことである。


祈るべき事は主から示されることがある。聞いたらすぐに祈る。何処ででも、何をしていてもその場で祈る。
それは、ゲッセマネでイエスさまが弟子に求められたように、今も私たちに求めて下さる、主に在る者の光栄である。


信仰に伴う、平安と愛が、父なる神と主イエス・キリストから、兄弟たちにありますように。(エペソ6:23)新改訳2017


「信仰に伴う、平安と愛」は、漫然とした平和や、人のやり繰りの中では経験しない。
あり得ない所に生まれ出るものであり、激しい霊の戦いの真ん中に、主によって備えられるものである。


また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。(エペソ6:19)


パウロも祈りを求めている。それは、今もパウロの働きをしている人々の、必要を満たす祈りである。
「二つのものを一つにする働き」のための祈りでもある。

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2019.7.19

2019-07-19 21:00:37 | Weblog

 

クチナシの花散り敷いて白糸の
雨降り止まず片す間もなし

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神の大能の力によって(エペソ6章)②

2019-07-19 09:23:56 | Weblog

 

 

いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。

では、しっかりと立ちなさい。(エペソ6:14~16)


腰には真理の帯を締め、

神の真理のことばを食べ続け、それを自分自身としてしまうこと。それは、真理への渇きによって消化されて、その人の身に付いてゆく。


胸には正義の胸当てを着け、

すべての時を義なる方、キリストと共に生きることによる。「生きることはキリスト」それは正義を着ていることである。


足には平和の福音の備えをはきなさい。

行くところ何処ででも、みことばを語る備えを持っていて、キリスト者とはそれを寝ても覚めても、手放さない者である。


これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。

うちに居られるキリストの信仰にあって、どんな時も安息しており、その安息は大盾である。

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神の大能の力によって(エペソ6章)①

2019-07-18 10:34:18 | Weblog

 

終わりにいいます。主にあって、その大能の力によって強められなさい。(エペソ6:10)


欺きの言葉や世のやり繰りに疎いキリスト者は、狼の中に放り出された羊のようである。強められ守られる方法はただ一つ、主の大能の力に拠り頼むことである。


悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:11~12)


悪魔は私たちの肉や感情に罠を仕掛けて進入し、心を支配して神のものを攻撃するために用いる。
悪魔に心を占領されてしまう悲劇は、祈り祈られ愛し愛されている人をも攻撃して、自らを神の敵としてしまうことである。


ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。(エペソ6:13)

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子どもを怒らせない教育(エペソ6章)

2019-07-17 18:05:45 | Weblog

 

子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。
父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。(エペソ6:1~4)

 

聖書は子どもにも、妻にも、奴隷にも、主に在って従うべき人を教えている。
また、従わせる権威を持っている父には、子育ての責任を持たせている。主の教育と訓戒によって子を育てるのは、母ではなく父に課せられている。


家庭の秩序は、父が語る神の言葉に拠って堅く立てられ、それはどんな時代にも変わることのない永遠の価値があり、家族に神の救いをもたらせることになる。
みことばに従うということは、主がその責任を負ってくださることであるから。


時代の波に弄ばれるような教育をするなら、やがて子ども達が成長し、その時代に合わない選択を恨み、父に怒りをぶちまけるようになるだろう。誰でも最善を子どもに願ものだけれど、人には先のことはわからないのである。
また、どれほど良い選択に見えても、主を知らなければ、限りある命は滅びをもたらせるのだ。


しかし、親に従わない子は育てられない。だから幸せのために「両親に従え」と教えられる。
同じように主さえも、従わない者を導くことはできない。みことばに従わない者を、御国に入れることができないのは、人は否む自由を持っているからである。

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2019.7.17

2019-07-17 11:20:09 | Weblog

 

 

久しぶりのおひいさん
くもの巣も虹色


額の汗も拭かんと
草ボウボウで忙しないこと


なんぼ頑張っても
あした生える草は
きょう引かれへんのに・・


明日の洗濯もんは
きょう洗われへんのに・・


そのこと感謝しょう
もう、ゆっくり聖書よもう

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従順の守り(エペソ5章)

2019-07-16 13:05:03 | Weblog

 

お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(エペソ4:32)
ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。(エペソ5:1)


倣うとは完成者であるキリストに留まり、何時も「私の主」を意識していることである。キリストの真似はできず、してもそれは偽物だが、信仰者はキリストの霊を頂いる。聖霊はみことばを用いて、従順する者を日々に導いてゆかれる。此処に完成される望みがある。


また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。(エペソ5:2)


主の完成してくださったうちに在って、私たちも完成される。私たちの捧げものはキリストを愛して捧げる感謝の賛美である。キリストを喜ぶ喜びの絶えざる賛美であり、その捧げものは私たちに安息をたまわる。


あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。(エペソ5:3)


悪い言葉は、聖霊を無視することで口にできることであり、それは自らを汚す結果となる。そもそもこれらのものが入ってくるのは、心が空しくなっているからで、キリストの臨在を意識せず、みことばを住まわせていない、霊の無防備による。


あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者──これが偶像礼拝者です、──こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。(エペソ5:5)

此処にはっきりと、「神の国を相続することはない」と書かれてある。


むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。
ですから、彼らの仲間になってはいけません。(エペソ5:6~7)


空しい言葉を聞いて同意してはいけない。否むことによって聖さに保つことができるが、近づかないことが最善なのである。「誘惑は避けなさい」といわれてある。議論は仲間のすることなのでそれさえ避けるべきである。


あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
──光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです──
そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。(エペソ5:8~10)


光の子どもは、キリストに在って暗やみから、光の中に移された者として、証のためのレーマを持っている。それをしっかり握っているなら揺り動かされることはない。主の喜びの中にいるからである。


妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。
なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。(エペソ5:22~23)


信仰に入って間もなく、信仰の上で主人にどう接して行けば良いのか戸惑うことも多く、宣教師の先生に質問をしたことがあった。
その時に聖書を開かせて読ませ、一言で「このようにしてください」と教えてくださった。


その単純な言葉に私は安心した。それは、「従う」以外の責任を課せられてはいなかったからである。
主人に「俺を折伏するな」と命じられていたからであり、説き伏せる必要がないなら幸いであった。30年後に、イエスさまは主人を洗礼に導いて、救の証を立てさせてくださった。


私の信仰の初めにみことばは学びではなく、ただ暗記するものでもなく、お守りでもなく、従順するものであり、身を避ける所であることを、教えて頂いたことはとても幸いなことであった。


詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。(エペソ5:19~20)

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2019.7.14

2019-07-14 14:10:33 | Weblog

 

梅雨の香はくちなし洗いたての白


あっという間に7月も半ばになっていた。梅雨寒が続いていて、7月という感覚はあまり無い。

今日は集会所でお掃除の奉仕。たまに多くの人と話しつつ働くのは楽しいこと。そんな時、本当は人恋しいのだ・・と知るけれど必要に迫られないと出掛けない。お掃除はたかだか30分くらいだけれど、サークルで半日は困る。


色々なことに興味がなくなるのは「呆け」の初めと聞いたけれど、無くなったのではなく、元々無い「心の貧しい者」。寸暇を惜しんで何かをしているわけではないけれど、何時も聖霊に聞き耳を立てて、すぐに反応できる状態で居たい。

趣味は聖書、娯楽は聖書。ドキドキ・・ワクワクするものは聖書。他の何を手に取ってもすぐに飽きてしまうのに・・。


聖書は、まだ知らないことだらけだから、開く度にワクワクする。聴く時はドキドキする。こんなこと面と向かって人に話せない。すご~く白けることが分かっている・・ふふふ
これがキリストの奴隷状態なら、キリストの奴隷って最高に居心地がいい。好きなことをさせていてくださる主に感謝が尽きない。


心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(マタイ5:3)


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悪いことば(エペソ4章)

2019-07-13 14:40:30 | Weblog

 

 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。(エペソ4:29)


キリスト者にとって悪い言葉とは、みことばを否定する不信仰な言葉。それは主を悲しませる。
また、霊や魂を汚す他人の悪口や噂話などがある。人がそれを口にするのは、公の場所や目上の人に会っている時ではなく、最も多くの時間を過ごす家庭や友人の間である。


だから、そのような習慣を家庭に持ち込むと、気を許す中で互いに罪の感覚は鈍くなり、聖霊の臨在を妨げて祝福を失って行くことになる。
また、それはサタンの足台となって絶えず良心を責められ、家庭には平安が無くなってゆくのだ。

主は家族ぐるみを祝福される。最も長い時間を過ごす家族の中に、聖霊は働いていてくださり、日夜語りあうみことばのご真実を、共に経験させて信仰を成長させてくださる聖なる場所である。


神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。(エペソ4:30)


 なぜ人の悪口をいうことがいけないのか、そのことが聖霊を悲しませてみことばを否定する行為であり、敵につけいる隙を与えて祝福の時を失うからである。
人が悪口を言うのは、無意識に自分の正しさを証明しよとしてのことであるが、神によってすでに聖とされている者には、何人とも比べる必要はないのだ。


ただ、恵みを与えるみことばを語り合い、主を賛美する大いなる恵みの時間を、敵に奪われてはならない。
戦うべき敵を間違えてはならない。悪を裁かれるのは主であり私たちは裁判官ではない。ただ同じ事をしなければ良いのであるが、それさえも語り合う必要は無く、聖霊のバリヤーの中に在れば悪に染まることはないのである。


祝福を受けた家庭であるのに、みことばを排除し聖霊を閉め出して、世の楽しみを持ち込むなら、どうしてそこに主の礼拝が存在できるだろう。何処に、みことばの感謝と賛美の祭壇を据えることができるだろう。


そのことで最も深い傷を受けるのは弱い子ども達である。大人なら遮って黙らせ、自分を守ることもできるが、未熟な子どもたちは、耳の汚れの中に居続けなければならないのである。
夜に悪口を言っていた相手に、昼には笑顔で話す姿は卑しい。そのような偽りの姿を見せられる子は不幸である。


舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。(ヤコブ3:6)


言葉はキリスト者を絶えず試している。主の祝福も、サタンのわなもそこにある。
敵に家族を持ち去られないために、しっかり戸締まりをするべきは口であり、人を貶める舌である。貶められているのは話している自分自身であり、聞かされる家族だからである。


神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。(エペソ4:30)

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キリストのからだを見る日まで(エペソ4章)

2019-07-12 12:19:10 | Weblog

 

私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。(エペソ4:7)


キリストのからだとなる私たちは、ジグソーパズルの1ピースのような存在で、その一つひとつは、神によって完全な形に造られてあっても、自分の姿だけを見ていては、キリストのかたちは見えず、「私は何をしているのだろう」と気落ちすることになる。


その私というピースは、他のピースと組み合わされて完成した時にのみ、自分の役割を知るのである。
また、働きに在って劣っていると悩んでいた部分も、取り囲む回りのピースによって補完されてあり、たまわった自分の形のままに、安息しておれば良かったことも知るのである。
一個のピースはみんなのピースのためにあり、みんなは一個のピースを助けているのだ。


聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。(エペソ4:12~13)


神よりたまわった賜物を、みことばに照らして思い巡らせる中で、その日その時の成すべき事が導かれ、それが全体のための働きであったことを、後に知るのである。
計画の完成図を知っておられる、聖霊の導きによって活動することがなければ、キリストのからだを見ることができない。


あなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。(エペソ4:23~24)


御国で、麗しいキリストのからだを見て共に歓喜する日まで、忍耐と渇きの中にあることは事実であって、それはイエスさまが世で味わってくださったものであり、主の御足跡を辿ることは光栄なことである。
互いに組み合わされて行くための、聖霊の激しい働きの中で、私たちは日々新しい導きを、ひとり一人が聴かなければならない。

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