石ころ

神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
その方は聖霊と火とのバプテスマをお授けになります

お疲れさま

2018-08-19 18:38:25 | Weblog



「気を付けて」送り出したる蝉時雨
酷暑生かされ日はかたぶきぬ
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羊飼いの宿(ルカ2章)

2018-08-17 13:28:08 | Weblog



さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。(ルカ2:8~9)


主の栄光を見ると人はパニックになる。イエスさまの栄光のお姿を見たペテロもそうだった。常識ではあり得ない光景は人を恐れさせるものだから・・。
羊飼いたちが恐れつつもこの光景を真っ直ぐに受け止めることが出来たのは、それが彼らの居場所で起こったことだからである。

イエスさまが大工のヨセフの家に来られたように、御使いたちと天の大軍勢は、名も無き羊飼いの野の宿に現れ来た。
羊飼いは自分たちの宿の価値に、この時までは気付いていなかっただろうけれど・・、野に天の軍勢の賛美が溢れる雄大な光景は、どんなにか素晴らしい様子であろうか。

天を裂くようにして降りて来た御使いたちや天の軍勢が、救い主の誕生を知らせのロケーションとしては、王宮よりも神殿よりも遙かに勝って、天が開けている野が似合っている。
主の栄光を見ることは、どれほどの豊かさをもたらせることだろう。どれほどの喜びと感動と確信をもたらせることだろう。

そのとき、人は「もう何も要らない」と完全に満ち足りて安息するのだ。だからすべてを置いて心からの礼拝のために出掛けて行く。
今、キリスト者のうちに居られる主の栄光を見られないはずがない。けれど、日々の喧噪と、守りの高い垣を巡らせることで空を狭苦しくし、惑わす世の光に目を奪われてしまっているから、主の栄光を知ることができないのではないか・・。

あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。
「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」(ルカ2:12~15)
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恐れてはならない。気落ちしてはならない。

2018-08-16 20:08:39 | Weblog



 お盆は家族親族が集まる時、キリスト者には楽しみと喜びと・・、そうして痛みも感じる時である。親族のすべてがイエスさまを信じている恵まれた家族は、日本ではそうそうないことだろうから。

人はキリストを信じる自由と、拒絶する自由をたまわっている。「どちらでもない」という位置はない。
それでも、キリスト者は家族の救いの約束のことばを持っている。目に見える状況には拠らずみことばに留まり、イエスさまに信頼して待つ事は先に救われた者の責任でもある。
「神にはどんなことでもできる」この望みに安息して、主がどんなに良い事をしてくださるかと楽しみつつ待つ期間でもある。

私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。(ローマ8:24)

 キリスト者が交わる人の救いを願い続けるのは、自分の目的や熱心や感情ではなく、内に居られるキリストのみこころに拠ることなのである。
主は礼拝者を求めておられる。すべての出来事を通して感じるのは、信仰へと導かれる神の熱心である。

 ただ、人は選択の自由の中でしばらく苦しむ。それは先に救われた者の苦しみでもある。
ひとり暮らしも4年近くになった。主人が居た時は、日常生活において仕えることは普通のことであり、すべてのペースは主人が中心であった。
その箍(たが)が外れた気ままな暮らしで、体も心も堪え性がなくなり鈍(なま)ってしまったようだ。良い行いによってキリストを証することは絶望的である。

私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。(ローマ8:16)

老いは確実に忍び寄り、堪え性がなくて癇癪を起こしてしまう。「ああ、呆けの始まりかな・・」なんて、心の中で分析していたりするけれど・・それでどうにかなることではない。
「心は燃えていても体は弱い」イエスさまは、頑強な漁師のペテロにこう言われた。なおさら・・である。

内に居てくださる主のお導きと自身の老いによるアンバランスに、最近は戸惑うことも多いが・・私に何ができるだろう。
マリヤが身に覚えなく身籠もった10ヶ月を、神さまに委ねて過ごしたように・・、ただ「みこころがなりますように」である。

 主は、ひとりの御子をたまわるほどに愛してくださったお方であるから・・、ただ良い事を計画しておられ、いかなる時も救いの備えがあることは知っている。沢山経験させてくださっている。
愛する者に救いを成就してくださるのは十字架のことばであり、主の御真実に拠ることである。霊の戦いは必ずあるけれど戦われるのは主である。

あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。(Ⅱ歴代20:15)

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望み

2018-08-15 13:54:48 | Weblog



朝顔の戦場に咲く平和かな


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ひとみのように見守り

2018-08-14 06:33:10 | Weblog



いのちはなんのためのもの
平和はどこにあるもの

いのちは造られた方のためのもの
流れに任せるものじゃない

平和はキリストからのたまわりもの
妥協が作る平和は偽り

いのちは目的のためにあり
平和はいのちの目的のためにある
嵐の日も心に在る平和

世のいのちは用いるためにあり
生き生きと消費するためにある

キリストの平和はとても静かだけれど
そこは、誰も踏み込めない聖域

主が、ひとみのように見守り、
御翼の陰にかくまってくださっているところ。
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里帰り

2018-08-13 00:29:01 | Weblog



楽しげな孫の汗拭く恵みかな

ふくれ面つられて婆もふくれ面 つかの間の里夜風のいやし
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どうしてそのようなことに (ルカ1章))

2018-08-12 16:48:35 | Weblog



 御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。
そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」

人々はザカリヤを待っていたが、神殿であまり暇取るので不思議に思った。
やがて彼は出て来たが、人々に話すことができなかった。それで、彼は神殿で幻を見たのだとわかった。ザカリヤは、彼らに合図を続けるだけで、口がきけないままであった。(ルカ1:13.18.21~22)


ザカリヤの口が利けなくなったのは、主の備えであった。信仰がないときは黙って聞くことがよい。
不信仰な言葉を口にしないためであり、不信仰によって言葉を曲げないためである。主が黙らせてくださることは祝福である。
人の信仰が及ばないときでも、主はご計画を成し遂げられる。だから、みことばに聴き続けることは大切なことである。自分の信仰には拠らず、主に聴き入ることが必要なのである。

 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」(ルカ1:28.31~34)

マリヤはみつかいの言葉をまっすぐに聞いている。婚約中であれば結婚後に起こることと、言葉をすり替えることもできるし、賢い理解によって曲げることもできるからである。しかし、それは人の混ぜもので汚れている。

霊の言葉はそのまま受け入れて、マリヤのように問えばよいのである。そうして、
マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。(ルカ1:38)

自分の理解を脇に置いて主に告白してマリヤは祝福を受け、その信仰によって人類が祝福を受けた。神のなさることは人の理解を超えている。
イサク、バプテスマのヨハネの誕生も、イエスさまの誕生も神さまのわざによることであり、主のご計画にひれ伏した人々への祝福に拠ることである。

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明日から夏季休暇 俳句 短歌 川柳

2018-08-10 10:42:01 | Weblog



孫迎え主婦に戻りてトマト切る

朝空に轟音残してコントレール 休暇ぶら下げ飛ぶサラリーマン

強者(つわもの)が揃って怯える枯れ尾花

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信じなさい(マルコ16章)

2018-08-09 09:18:29 | Weblog




信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

信じる人々には次のようなしるしが伴います。
すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。

うちに生きておられるキリストの信仰によって、アーメン
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キリストが私のうちに生きておられる(マルコ15章)

2018-08-08 12:36:02 | Weblog




それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。(マルコ15:24)


イエスさまは、人々への癒しも、群衆が聴き入ったメッセージも給食も、すべての栄光を罪人として奪い取られ、着物さえも剥ぎ取って十字架に掛けられた。
それは、この世には何の痕跡も残らないほどの剥ぎ取り方で、弟子が「イエス」の名によって語ることさえ禁じて御名をも奪った。此処までがサタンの限界である。

使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。(使徒5:40)


しかし、残されたものはクジ引かれた着物だけではなかった。
あのトンチンカンで弱虫の弟子たちにの中にみことばの種が残され、復活された遍在の主によって、みことばを権威をもって力強く語り出すようになったのだ。

そう、サタンに勝利してみことばを語る者たちである。その内に居られるのはよみがえりのイエスさま。助け主である聖霊を受けて彼らは、世界中でイエス・キリストの十字架の言葉を告げ知らせ、今やキリストを知らない国はない。

花嫁である信仰者は花婿キリストのことばを宿している。時が満ちるとそれを大胆に語り出し、それはもうサタンにも止められない。イエスさまが十字架で神のご計画を完了されたのだ。救いはいのちに満ちて増え広がってゆく。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。(ヨハネ12:24)


サタンの謀略も、人の悪意も妬みによるあらゆる妨げも、救いの完成者であるイエスさまの前にはなんの効き目もない。私たちの内に居られる方は全知全能である。
恐れるべきは主ただおひとりであるが、その方は信仰者の内に居てくださり、弱点も取り柄も知り尽くしてくださっている。その親しさは一日中御声を聞き続けているのである。
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