石ころ

イエスの時 ④(ヨハネの福音書7章)

 

そこで、イエスは言われた。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。
あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」(33)

 

此処に神の綿密なご計画の下にイエスの十字架の時があるとわかる。
そうして「わたしを探しますが・・」とあり、そのとき彼らはイエスに何を求めて捜すのだろう。世の王を求めてなのか、飢えを満たすパンを求めてなのか、限りある命の癒やしを求めてなのか、それともみことばを求めているのか。

 

みことばは使徒からキリスト者にまで語り継がれ、神の知識に渇いてみことばを求める者には、聖霊の助けの中で、永遠に至るすべての必要が満たされる。

 

ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには見つからないとは、あの人はどこへ行くつもりなのか。まさか、ギリシア人の中に離散している人々のところに行って、ギリシア人を教えるつもりではあるまい。(35)

 

どれほど賢い人も知識のある学者でも、人は小さな小さな脳の中ですべてのことを判断する。
しかし、聖霊によらなければ天地を創造された神のことばを判断することは出来ない。このことを謙遜によって弁えるとき、主を知る知識に飢え渇いて御名を呼んでひれ伏し、上からの知識に満たされるのである。

 

「あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません」とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。(36)

 

キリストに抱かれて十字架を通り、すべての罪を贖われて「アバ父」と祈る時に、神の子らはみこころの一つひとつ知るようになる。

神から生まれて、永遠のいのちに導かれ行く者であることを知るので、彼らは歓喜して御名をほめたたえるようになる。

 

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。(37)

 

イエスは「渇いている者は誰でも」と言われた。しかし、イエスはイスラエルに遣わされた救い主ではなかったか。
イスラエルが、キリストを否定して殺す者となった時、恵みはすべての人に及んで何の区別も無くなったのである。確かに主はすべての人の造り主なのである。

 

ユダヤ人とギリシャ人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。(ローマ10:12)

 

わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(38)

 

キリストを信じる者のうちには、御霊よるいのちの水の川は絶えず溢れ出て、すべてのことを教え命の必要を満たして、キリストの平安に守っていてくださる。

 

あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。(Ⅰヨハネ2:27)

 

イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。(39)

 

イエスは聖い御身を聖なる捧げものとし、十字架で死んで人類の罪をあがなって神のみこころを完成された。そうして三日目に墓よりよみがえられたとき、アダム由来の罪の結果である滅びの死は打ち破られた。


死に勝利されたイエスは神の栄光を受けられた。イエスは御霊に満ちて復活の御姿を使徒たちに現され、彼らに聖霊を注がれたとき、使徒たちはイエスの御霊を受けて、みこころを成す力を得たのである。

 

このことばを聞いて、群衆の中には、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいた。
別の人たちは「この方はキリストだ」と言った。しかし、このように言う人たちもいた。「キリストはガリラヤから出るだろうか。」(40~41)

 

群衆の中で「預言者だ」「キリストだ」と言った人たちには、「あなたはどうするのか」ということが問われる。知ったことには責任伴うからである。
自分の知識の中でつぶやく人は救い主を間近にしていながら、いのちを選び取るチャンスを、その頑なさのゆえに失った。

 

「キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」
こうして、イエスのことで群衆の間に分裂が生じた。(42~43)

 

聖書のことばはすべて実現する。確かにイエスはベツレヘムでお生まれになったのだ。彼らがイエスのすべてを知らないだけである。人の知識は不完全であることをわきまえる時に、その謙遜のうちに受けた御わざや恵みを知って救いを得るのだ。

 

彼らの中にはイエスを捕らえたいと思う人たちもいたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。(44)

 

イエスの時は神の計画の中に在り人の事情には拠らない。イエスはその日その時まで自由であり、サタンの企みも、ローマ人もユダヤ人も、その命に指一本触れることは出来ない。

 

キリスト者の命も、人生も、神の良きご計画の中に在る。ある時、イエスが憎まれたように憎まれることがあっても、驚くことも命の心配をする必要も無い。

命をたまわるほどのキリストの愛の中に居て、永遠のいのちに留まり、天の住まいを持っている神の子だからである。

 

わたしの名のために、すべての人に憎まれます。
しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはありません。
あなたがたは、忍耐することによって自分のいのちを勝ち取りなさい。(ルカ21:17~19)


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