ババジ関連記事 翻訳版

ババジのクリヤーヨーガジャーナルなどに掲載された記事などを翻訳し、クリヤーヨーガの修行者の参考にして頂くものです。

7. ババジの教え

2018-05-30 10:52:24 | スピリチュアル
ヴォイス・オブ・ババジ(以下、同書)のBook第三章に記載された「ババジの教え」の要点。以下、同書からの引用。

普遍的な展望
宗教改革者の今日的な任務は多くの点で困難である。最初で最重要な仕事は、宗教(信仰)なくして幸せにはなれないことを世界に知らしめなければならないことだ。彼はその信念を両面から強固なものにしなければならない、つまり如何に宗教が人類を救済するために現れたのかのみならず、高度な文明が宗教を基盤とすることなく、退化し、腐敗させる「時」の影響によって一掃されてしまったのかをも示すことによって。現代においては、単に「真理」を語るだけでは十分ではない。全ての個別の宗教において、普遍的な展望を導きださなければならない。過去の叡智のエッセンスを、それ以上簡単に出来ない処まで抜き出して、統合し、一つにしなければならない。金の砂をふるいにかけ、全ての宗教に対して本質的なものと非本質的なものの価値を確立しなければならない。(教義の)独占を排除して、権利の乱用や搾取を最小化しなければならない。霊性に対する理解の一般的な水準と神聖な知識、簡素な生活と高邁な理想に対する理解を高める必要がある。文化的、そして道徳的背景を強化する必要がある。宗教の名のもとに行われる全ての弊害を根絶する必要がある。最善で最も効果的な生活のルーティーンを示し、湧き上がってくる新たな切迫した問題に対する最良の解決策を考えなければならない。

時が経つにつれ、社会と家庭生活の統治に対する安全弁とブレーキを導入する必要があることは云うに及ばず、様々な喉の渇きや飢餓も考慮しなければならない。様々な情熱のエネルギーを昇華させて、異常な人口の増加を防ぐため、人生の段階ごとに何らかの基準を設けることによって生活の水準を均等化する方策を提案しなければならない。どんな規律であれ、それがなくなることは、荒れ狂う不満、反抗、不均衡、堕落への突入という結果をもたらす。この世界と天界に対する配慮を織り交ぜるため、創造主、被造物、創造の認識を創り出さなければならない。一人ひとりすべての人を活性化させることで世界中の「眼」を「一つの生活」に対して開かなければならない。現代世界に適する宗教の理想は、人類全体を包み込むものでなければならない。宗教は、良心、道理、経験、科学を敬い、それを自由に追求させるものであるべきで、全ての者が良い人生を送ることを許容すると同時に、他人が良い人生を送ることをも許容することを教える必要がある。この宗教は全ての魂が、それぞれ独自の方法で救いを達成するための完全な自由を保障するだろう。宗教は平衡感覚を維持するとともに、本質的なものと非本質的なものの価値を見極めるものでなければならない。それはある固定化された「価値」によってではなく、その行為と行為者が基本的な真理を満たしているかを試すことによって、全ての行為と行為者を判断する能力を発達させるだろう。それは脅しとか精神的な奴隷化抜きで、(人々の行為を)導くだろう。それは人間同士の優越性や劣等感の信念(思い込み)から人を解放するだろう。最後に、宗教の改革者は、実践的な姉妹愛、兄弟愛を日々の生活のルーティーンの中で発展させることになるだろう。現代風の考え方に適した大衆向きの宗教は、次のような特徴を持つべきだ。(1)宗教は明確な形を伴うものであるべきで、単なる理想論や混乱を招く、理解しがたく空虚で軽率なものであってはならない。(2)宗教は迷信の源泉となってはならない。(3)人間関係は何層倍も良くなければならない。宗教はまず我々を人間らしくし、兄弟とし、然る後ただ信仰心の篤い人間を(現在形で)作らなければならない。 (4)宗教は生きる生活の本質であり、経験を意味するものと考えられなければならない。 (5) すべての者は「神」から直接守られて導かれる権利があり、そうあるべきだと考えられねばならない。(6)説教師は信者であるべきであり、法律家や教授(学者)であってはならない。 (7)神に対する概念と、無邪気で害意がなく自由な規則(があり)、男性と女性の生活に対して課される制限は最低限とすべきである。(8)すべての(祭儀に関わる?)装飾品と付加物は、それらが障害であると判る段階に達するや否や徐々に緩和されるか、むしろ取り除かれるべきである。(9)宗教は受容性があり、魅力的、建設的、進歩的であるべきだ。それは代々(庭の植木のように)剪定を実施しなければならない。

個人の宗教
クリヤーヨーガはあらゆる宗教の、もしくは無宗教者の、カースト、心情あるいは肌の色を問わない一人ひとりすべての者に対する心理学的な宗教だ。クリヤーバン(クリヤーヨーギ)はヒンドゥー教徒でも回教徒でもクリスチャンその他でも構わない。クリヤーババジの宗教は、生まれついた祖先からの宗教ではなく、判断能力が生じてから受け入れられるべき個人の宗教でもある。このヨーガのもとでは、すべてのクリヤーバンはすべての女性を、大母神を代表する形として尊敬することを期待されているので、女性の男性に対する服従の余地や、型通りの宗教による非難はない。以下は、クリヤーヨーガの基本的な信条である。(1) すべての宗教の統合。(2)一つの家族の構成員としての、全人類の宇宙的な繋がり。 (3)自民族中心主義、愛郷心、国粋主義、民族主義の否定。 (4)クリヤームーラグル(ババジ)の愛、恵み、献身、慈悲を受けるためには、日々のクリヤーのサーダナと、姉妹愛は言うに及ばず兄弟愛の実践は不可欠の要件。 (5)自身の進化の方向性を選ぶ権利をすべての人が持つこと。 (6)基本的で永遠の真理という試金石によって信仰の本質的なことと非本質的な事を精確に評価すること。 (7)宗教は分裂、支配、偏見、搾取あるいは迷信の大義として許されるものではなく、科学、道理、良心、経験、人間心理、個人の長所と短所に対する尊敬をないがしろにすべきではない。(8)個々人の優越性は僅かで、一過性で、付随的で、独力で手に入れたものではないと考えるべきだ。(9)高いものにも低いものにもほとんど差はなく、そうしたことはしばしば偏見に基づくかほとんどの場合想像上のものに過ぎない。(10)クリヤーババジの恩寵のもと、修復不能なもの、達成不能なものは何もないが、陽気さは決して失われるべきものではない。(11)常に楽観的でありなさい。人々の間の最も大きな違いも、サットグルデーヴァの恩寵が(何ごとであれ)瞬時に可能にすることと比べれば無に等しい。(12)破壊は建設の為、疑いは信仰の為、悪は善の為、罪深いことは潔白のために存在する。

すべての迷信を超えて立ち上がりなさい。真のクリヤー・ヨーギにとってオーム・クリヤーババジ・ナマ・オームのジャパ(復唱)、ババジの恩寵、大母神の慈悲、最高の努力、世界への同情こそあれ、神隠しや手品のようなものは何もない。クリヤーバンの最も高い基礎は、「神」の「母性愛」と「普遍性」であり、その人生の最高の格言は愛、奉仕、献身、そしてババジの神聖な「御心」に対する無条件で快い明け渡しである。クリヤーバンの幾つかの尺度は、あらゆる名前または形の神、そして聖者、預言者に対する祈りの実施(グループ瞑想)、バジャン(献身歌)、キルタン(聖歌斉唱)を共に実施すること、講話の実施、一般的で霊的な成長をもたらすツアーを引き受けること、クリヤーババジの集会(サンガ)を設立し、開催し、奨励することである。クリヤーバンは、宗教と関連する一般的な書籍を普及させ、全ての宗教に関する研究を奨励し、貧しい、あるいは保護者を失った家庭と有望な生徒を援助し、日々の生活の中で普遍的な姉妹愛と兄弟愛を発展させることに関わるべきである。クリヤーヨーガは民族的、国粋主義的、地方主義的、社会的、宗教的な偏見を廃止することと、名誉ある平和、公正な妥協、端的には友愛、団結、既成事実をもたらすための友好的な協議を提唱すべきである。

サットグル、クリヤーババジの信者が、恩寵と慈悲を達成する進化のプロセスは次の通りである。ジャパ、礼拝、慈善、献身の実施によって得る功徳は、先ずは(信者を)合法的かつ道徳的な願望の充足に導き、次にそれは忍耐となり、三番目には高徳で信心深く、神聖な人達と彼らの生活方式に対する理解をもたらす。修練により一旦、愛、奉仕、献身、明け渡しの行為と特性が熟成すれば、信者がその日々のルーティーンと俗世の生活から持ち上げられ、高徳で信心深く、献身的で神聖な人々との交友の輪へと導かれるよう、サットグルデーヴァがその環境と機会をもたらしてくれる。

自我(エゴ)と「至高の真我」が接近するにつれ、全ての手配の中に、「神」の御手が感じられる。我々は、「神」がお喜びになる時、「神」または大師を見るようになり、大師と同調していることを感じ始め、自己の明け渡しと(神に)受け容れられたことに対する内面の満足感を感じる。我々は「神」と大師との永続的な関係を築き始め、ババジが喜んで与えて下さる力や愛と共に、大師の壮大な仕事において手助けをするようになる。大事なことを言い忘れていたが、我々はクリヤーババジに合体しはじめる。あなたのハートの中心において、あなたの信仰を最も単純で、簡潔で、安全で、最小でありながら最も確実なクリヤーヨーガにしなさい。

若しあなたがただ一つの言葉からなる信仰を欲するのであれば、それはババジに対する「明け渡し」だ。大師に深く集中し、常に彼について瞑想しなさい。それが出来ないのであれば、少なくとも彼の使命に関わり、世界の最も遠い片隅までも彼の福音を広めなさい。そしてそれが出来ないとしても、少なくとも彼の名を讃え、彼に対する感謝を表現しなさい。ここまでは、行動と活動に関する話だ。あなたの想念に関しては、謙譲を旨としなさい。あなたの著作権とか、肩書き、所有権といったその考えを、心の中で捨て去りなさい。それを記憶にすら留めてはいけない。以下のような三つの考えを十分に発達させなさい。(1)私は何もしていない。(2)私のものは何もない。(3)私は何をする能力も持たない。信仰は人間のためのものだ、いやそれ以上に、人は信仰の為に存在する。信仰の究極的の目標は、人をより良く、そしてより幸福にすることだ。

以上

6.愛は神なり Anbu Sivam

2018-05-06 11:28:00 | スピリチュアル
BKYJ 2018 Spring
By M.G.サッチダナンダ



愛は神なり、(Anbu Sivam)

 私の人生の目的は何なのか? どうして私は苦しんでいるのか? 私という存在は誰なのか? いつかはすべての者がこれらの基本的で「存在」に関する疑問に直面しなければなりません。これらの質問は、我々一人ひとりを、人間の性質に関わる制限から解放する動機になるということをヨーガは教えます。これらの質問に対する答えを見出すことは叡智或いはジニャーナ・ヨーガです。ヨーガの修練を実践する者、即ちサーダカは、人間の性質の限界を克服し、シッディとして知られる潜在する完成の域に達したシッダの叡智の教えを理解することで恩恵を享受します。

 シッダ達は、我々人間の性質は、マーラーとして知られている三つの汚れまたは足枷の支配下にあると教えています。その第一は、アーナヴァ・マーラーとして知られている、我々の本当の正体を見誤っていること、或いはエゴイズムであり、その第二はマーヤー即ち精神的な錯覚であり、その第三は過去の想念、言葉そして行為の結果としてのカルマです。ヨーガとは我々の持つこれらの三つの汚れを浄化するプロセスだと彼らは教えています。それにより、我々は苦しみの源である苦痛の種を弱め、真我実現に至ります。パタンジャリはヨーガスートラ(以後、YS)で次のように言います。「無知、エゴイズム、執着、反感そして生への執着が五つの苦痛の種である」(YSⅡ-3) 「これらの精妙な形での苦痛の種は、その原因まで遡ることで破壊される」(YSⅡ-10)「動的な状態にあり、意識の中から生じるこれらの心の揺らぎは瞑想によって破壊される」(YSⅡ-11) 五つの苦痛の種が我々の誤った自己認識と、真我からの分離を維持しています。(意識の)精妙なレベルで、それらは潜在意識下の印象(サンスカーラ)として存在します。これらは、その間あなたが繰り返し真我と同一化する様々なレベルのサマーディ(認識作用の没入)を通じてその源にまで戻ることによってのみ取り除くことができます。小さな自我(偽我)は徐々に偉大な「真我」に包摂され、それにつれて潜在意識下の印象は溶けていきます。YSⅠ-12でパタンジャリは、その手段を我々に教えていますが、それは「無執着の継続的な練習によって(達成される)」ということです。自分自身に聞いて見なさい、誰が執着しているのか、だれが苦しんでいるのか、誰が反感を持っているのかを。パタンジャリは続けてカルマについて説きます。「苦痛の種の中に根を持つカルマの貯蔵庫は、現在現れている人生と、将来の未だ現れていない人生の中で経験される」(YSⅡ-12)「その根が存在する限り、その果実もまた存在する、即ち誕生(再生)とその(人生での)経験である」(YSⅡ-13) 「有徳と不徳のカルマの為、それに対応する歓びと苦痛に満ちた結果がある」(YSⅡ-14) 彼はクリヤーヨーガを定義付けて、その目的をYSⅡ-1で次のように語ります。即ち、「苦行(厳しい修練)、自己探求(聖典読誦なども含む)、『神』への献身がクリヤーヨーガを構成する」 「これらはあらゆる苦痛の種を弱めてサマーディを育むために用いられる(手法である)」(YSⅡ-2) 無想三昧(アサンプラジュニャータ・サマーディ)として知られる悟りの状態に到達するためとして、パタンジャリは次のように言います。「それ以外のヨーギンにとって、無想三昧の前に、強烈な献身、勇気、正念正知、サマーディ(三昧)そして真の洞察力(叡智)が現れる」(YSⅠ-20)

これらの章節に対する説明については、私の本、『パタンジャリとシッダのクリヤーヨーガ・スートラ』(訳注:日本語版は現時点で未刊)の第1章と第2章を読みなさい。

愛はクリヤーヨーガの手段であり、目的地です 
叡智と明確な目的を持たないヨーガの実習者にとっては、物質的な文化の価値、即ち競争、名誉、見せかけ、個人主義、健康、富、成功によって動かされてしまうことが簡単に起こります。ヨーガといえども、ある者によって、このような物質的な目的を達成する手段として売り込まれることがあります。そのような道を辿ることは、前述したような苦痛の種、即ちエゴイズムの汚れ、錯覚そしてカルマからあなたを解放しないでしょう。それ故、あなたのヨーガの修練の目的を真の目的に沿ったものにしなさい。その目的を愛そのものとして定義づけることから始めなさい。あなたがそのようにすれば、愛があなたを変えるでしょう。愛があなたの目的となった時、愛に対するあなたの理解は深まるでしょう。それは無条件のものになります。愛はクリヤーヨーガの手段であり、目的地となるでしょう。愛とは全ての存在の魂の中にある神聖な火花です。それは、無私の性質、慈悲深さ、そして生きとし生けるものに対する同情の中に現れます。真の愛はエゴを犠牲にすることです。それは魂の中に組み込まれた神の光です。魂がそれを見る時、「真我」は愛によって圧倒されます。ティルムラルは” Anbu Sivam”即ち、愛はシヴァ(「神」)なりと私たちに告げています。

無知なる者は「愛」と「シヴァ」は異なると言う
「愛」は「シヴァ」なることを彼らは知らない
「愛」は「シヴァ」なりとひとたび知れば
「愛」は「シヴァ」として(そこに)とどまる

神の恩寵は愛の最高の形であり、純粋で汚れがありません。その唯一の関心事は魂のためです。神の恩寵は、全ての俗世の出来事を通じて魂がそれ自体を学び、(自身を)取戻し、神の至高の愛を体験し、それと一つになることを可能にします。神は我々に愛する力を与えましたが、魂はそれによってそれ自体を「シヴァ」の世界に押し上げます。愛は我々をより神に近付けます。他の宗教では「神は愛なり」と教えるかも知れませんが、ティルムラルは「愛は神なり」と教えます。この神聖な一節は、本質的に神秘主義的であり、真に理解するためには経験されなければなりません。

 ヨーガの全ての主たる形式(バクティ、カルマ、ラージャ、ジニャーナ)とタントラ(人間的な性質の神性への変換手法)において、愛はヨーガの基礎です。YSⅡ-30で、愛は八支分のヨーガの禁戒に表されています。それらは非暴力、誠実、不盗、純潔(不邪淫)、そして不貪です。これら五つの社会的な制約は、我々の社会生活を律し、調和させるとともに、修練の基盤を作り上げます。

 愛は、あなた自身を愛することから始まります。もしあなた自身を愛せないなら、どうして他人を愛することが出来るでしょうか? あなたはどんな方法で自身を愛することが出来ますか? 肉体的に、感情的に、精神的に、知性的に、そして霊的に・・・。

あなたはどのように自身を肉体的に愛せますか?
 この質問に答えるに際し、私があなたに与えることのできる最良の助言は、あなたの人生の中で食べ物が果たす役割にますます気付き、意識して食事することです。観察者でありなさい。食事も含め、全ての行動の間、意識していなさい。あなたの食べる者が有る無しに拘わらず、それが美味しいかどうかに拘わらず、ニッティヤーナンダ・クリヤー(訳注:第二イニシエーションで明かされる技法)の修練をしなさい。気づきと平衡(静けさ)を養いなさい。本能の奴隷になってはなりません。研修を受け、本を読み、完全で美味しく健康によい簡素なヴェジタリアンの食事を試しなさい。消化の具合に注意しなさい。あなたを元気づけ、あなたを支配しているドーシャのバランスに役立つ食べ物を選びなさい。

 あなた自身を肉体的に愛するということは、疲れた時に休息することも含んでいます。真我の気付きの妨げとなる疲労困憊を避けなさい。あなたの腺が十分なエンドルフィンを分泌し、あなたの内なる様々なシステムが健康を維持するよう十分肉体的な運動を行いなさい。ストレスの影響を制御するために、クリヤーヨーガの五重の道の修練を行いなさい。定期的な18のポーズとプラーナヤーマと瞑想の修練はこれに十分なはずですが、それらを補うために他の運動を行うことも歓迎します。

あなたはどのように自身を感情的に愛せますか?
 自身の感情を蚊のように扱う者もいますが、感情はメッセンジャーなのです。我々はそれらを殺したり抑圧したりしようとするより、メッセンジャーが運ぶものを理解しようと努めるべきです。あなたが怒り、心配、恐れ、憂鬱を感じる時にはいつも、自身に「何故なのか?」を問いなさい。四番目の瞑想の技法を使い、その感情が湧き起こり、それがあなたに何を教えようとしているか熟考しなさい。あなたが感情的になった時、その状況をコントロールしたいのか、それとも愛されたいのかを自身に問いかけなさい。そして「誰がそれを望んでいるのか」、「私という存在は誰なのか」と問いかけるのです。執着によって愛が汚れた時、あなたの期待通りにならなかったとき、あなたは苦しみます。無執着により、即ち他者から何かを得ようとの期待を手放すことにより、あなたは苦しみを避け、エゴイズムからも自由な、無条件の愛を経験することができます。

 聖歌や献身の歌、儀式や巡礼といったバクティ・ヨーガの実践を通じてあなたは否定的な感情に関わるエネルギーを肯定的な感情に変換することができます。例えば、あなたが落ち込んでいると感じるとき、感情を込めて聖歌を歌いなさい。これは厄介な感情を解放するのみならず、あなたのハートを愛と献身で高揚させることでしょう。これは否定的な感情を過食、飲酒、喫煙または他の中毒症になりやすい行動を通じて解消することより遥かに勝ります。感情はあなたの友とも敵ともなりえます。すべてあなたがそれらをどのように扱うかにかかっています。

あなたはどのように自身を精神的に愛せますか?
 このレベルにおいて、我々は五感を通じてあなたのマインドに入ってくるものについて気にかけます。あなたは眼、耳、皮膚、鼻そして舌を通じて自分をどのように養っていますか? あなたは暴力、欲望、怒り、恐れといったイメージ(映像)で、あなたの潜在意識を満たすたぐいの娯楽を求めていませんか? 単に気を紛らわすための行動であなた自身を養おうとしていませんか? それともあなたに霊感を与えるイメージと、平衡と自己覚醒を養う助けとなる行動を選びますか?

 あなたの家またはアパートはどのように見えますか? 散らかったスペースはありませんか? あなたが最早必要としていないものを手放すことで、新たなスペースを作ることができますか? あなたの居住空間を清潔にし、整理整頓なさい。清潔は敬神に次ぐ美徳です。ババジがあなたを訪ねて来るその日に、あなたがそうするであろうように綺麗にしておきなさい。香を焚きなさい。装飾をやり変えなさい。献身の歌を歌いなさい。あなたのマインドと魂を高揚させる音楽を演奏したり、聞いたりしなさい。あなたの家の一部をヨーガの修練の為に確保しなさい。そこを道場とし、ヨーギーでありなさい。他者に奉仕するための音楽、芸術そして環境を創造することで、「神」があなたのマインドを通じて「愛」を表現するに任せなさい。

あなたはどのように自身を知的に愛せますか?
 あなたは何を読むべきでしょうか? あなたが読んでいる本はあなたを向上させるものですか、それともそれは単なる気晴らしですか? あなたの健康を増進させ、精神を向上させ、瞑想を実践することを促し、あなたの個人的な成長に役立つ、感激するような物語を多く読みなさい。それらがあなたの問題を解決する助けとなるでしょう。愛には拡大が伴い 、知性は好奇心を持ち、質問をして答えを求め、熟考することを許された時に拡大します。人々は余りにもしばしば、そのリーダーが真理の唯一の貯蔵庫だと主張するスピリチュアル系のグループや宗教に参加します。多くの場合彼らに遵う者に対して、他の何物も読まないように、更に悪い場合、質問をしないように・・・つまり彼らの言うことを何でも盲目的に受け入れるよう伝えます。率直に言って、これが宗教の問題です。あなたは神から与えられた知性を拒むことで自身の知性を欺きます、そしてこれは、知性を愛することの逆なのです。もし「神」があなたに羊であって欲しいと望んだなら、「神」はあなたに人間の頭脳を与えなかったでしょう。科学的に取り組みなさい。質問し、答えを求め、実験し、自身の経験を記録し、自身の行為と反応を研究し、他人のものと比較するのです。全ての典籍(情報源) から学びなさい。あなた自身の主人になりなさい。他の誰かにあなたを支配させてはなりません。誰に対してもあなたの力を明け渡してはなりません。考えて熟考する力を放棄してはなりません。知性が必ずしも全ての質問に答えられる訳ではありませんが、多くの問題を解決することができます。あなたの経験を、聖典で教えられていることと比較するのにその知性を使いなさい。神の導きと霊感により、「神」があなたの知性を通じて働くに任せなさい。

あなたはどのように自身を霊的に愛せますか?
 本来霊的な(スピリチュアル)という言葉は、愛そのものを意味していました。しかし今は、死人と言葉を交わしたり、霊媒、サイキックパワー、体外離脱といったりするものを意味するあいまいな言葉になってしまったかもしれません。しかしこれらは、真の霊的な愛とはほとんど無関係です。霊性を開発するための最良の方法は、あなたの考え、言葉そして行動のすべて、そして日々の生活の最も小さな仕草までも愛のネクターの内に浸すことです。例えば、あなたの友人、家族、他人を配慮と愛情をもって扱いなさい。あなたが他人に対しどんな考えを持っているかに気づきなさい。あなたの想念を変えなさい。それぞれの人の中に、良い点、優れた点を見るよう努めなさい。他人を悪く思うことであなたは彼らとあなた自身の中の否定的な傾向を強化しているに過ぎないのです。

 他人にとって役立つこと、向上に資することだけを話しなさい。さもなければ、沈黙を守りなさい。

 バクティ・ヨーガを定期的に実践しなさい。家の中に祭壇を設け、そこにあなたが崇拝すべき「神」の様相を示す肖像か象徴を置きなさい。聖歌を歌って祈りなさい。それがあなたの無条件の愛に相応しいと考えることで、あなたはその愛を味わうことでしょう。そうした経験は余りにも素晴らしいので、その対象が人々であれ動物であれ対象物であれ、あなたの経験すべてにそれを付け加えたいと思うことでしょう。もしあなたがある集団に惹かれるのであれば、そのグループの奉仕活動に参加しなさい。

あなたのグルの導きに任せなさい:「神」との共同創造者になること 
「神」或いは至高の存在は、それに何という名を付けようが、あなたを愛しています。それは、グルを通して、またシュリ・オーロビンドが「霊的存在」として言及している自然の中に必然的に含まれる魂を通してあなたを導くことも求めています。「神」とその道具である人間の「グル」は、同情と叡智をもってあなたの本当の性質、即ちハイアーセルフまたは魂においてあなたを愛しておられます。しかし、もし「神」と「グル」がただ同情しているだけであるなら、彼らはあなたを生活の幻影から救い出すことはできなかったでしょう。あなたは彼らの同情を、現在のあなたの在り様に対する愛と誤解してしまうことでしょう。もし「神」と「グル」が単に聡明であって同情を欠くのであれば、恐らくあなたは弟子として、自己変容に対する要求のもとでつぶれてしまうでしょう。弟子というのは、グルとの建設的な関係を妨げたり、遅らせたりする誤解、期待、幻想、錯覚に陥りがちなものです。

 あなたが「神」を愛するある段階で、あなたは自身の人生を創造する能力と責任を持つことに気づくでしょう。通常の「眼を開けたまま夢を見ている状態」を超えて、創造的な段階に到達するでしょう。あなたは創造的になるのです。叡智と真我実現の道に沿ったものだとあなたが知っている夢、そのあなたの夢に対して忠実であり続けます。「神」は最早離れた存在ではなく、あなたは「神」との共同創造者だと感じます。

 「神」は慈悲深く与えます。「神」は霊感を与えます。あなたが何かを起こそうとの意図を固めた時、宇宙はそれを成就させるためにあなたをサポートする力を下さいます。あなたはそれを実現させる為、一生懸命働かなければならないかもしれませんが、自分が行為者ではなく、単なる道具だと感じます。宇宙がその面倒を見てくれると信じ、あなたは忍耐強く結果を待ちます。あなたは現在にとどまり、あなたが必要とすることを行っている間にものごとが成し遂げられます。あなたはますます「神」の御意思に自身を同調させます。しかし、こうしたことは、エゴの要求や好みを純化するにつれて生じるのです。その結果が何であれ、あなたは(「神」の)祝福を感じます。
以上

5.巡礼は意識における冒険です

2018-05-06 11:21:40 | スピリチュアル

  KYJ2016年秋季号 
By M.G.Satchidananda

私の人生にとって巡礼は、1972年に南インドに初めて行った時から過去47年に亘り、最も意義深い活動でした。旅行者とは異なり、巡礼者はそこで新しい経験を捜し求めるのではなく、気晴らし、娯楽、楽しみを求めるものでもありません。巡礼において、我々は「名前と形」(訳注:エゴ)を超えた我々の「真我」の真実、「神」、言い表すことのできないものを知ろうと求めるべきです。

巡礼は全ての霊的そして宗教的な伝統に見出されます。 2000年に亘り、キリスト教の全ての宗派はベツレヘムとヨルダン川への巡礼を行ってきました。ローマカトリック教徒もまた、ローマのヴァチカン、フランスのルルド、モントリオールの聖ヨセフ教会に行きます。カトリック教徒と多くの者が、スペイン北西部のサンティアゴ・デ・コンポステーラの聖ヤコブ大聖堂へ数百マイルの道を歩きます。

ユダヤ人はエルサレムの神殿の丘に巡礼に行きます。仏教徒はインド、ビハール州のブッダガヤへと行きます。イスラム教徒とメッカへ行きます(ハッジ)。ヒンドゥー教シヴァ派の人たちは北インドのヴァラナシ、ケダルナート、アマルナート、そして南インドのチダムバラム、アルナーチャラ山、サバリマレーへと行きます。ラーマの信者はアヨーディヤへ行き、クリシュナの信者はブリンダヴァン、プーリ、スリランガンへ行き、ムルガン神の信者は、カタラガマ、パラニ、ティルチェンドゥールを含む彼の六つの寺院へ行きます。人たちの全ての伝統においては、南インドのラメスヴァラム、最北部のヒマラヤ、ガルワール地区のバドリナートへ巡礼に行きます。ヒンドゥー教徒と仏教徒はティベットのカイラース山に巡礼に行きます。アメリカ・インディアンの伝統では、巡礼はヴィジョンによる探求の形をとるか、アリゾナ州セドナやカリフォルニア北部のシャスタ山のような神聖な場所を訪れることになります。世界には他に数百もの巡礼地があり、その多くは聖人、賢人、グルに関係しています。

巡礼の世界的そして昔からの性質は、それが単一宗教の教えに限定されない、説得力のある証拠だということです  巡礼は自己超越における霊的な修練です。あらゆる霊的な修練にあるように、我々の目的は、ありふれた日常の生活への没頭を手放し、時間、空間、想念あるいは感情によって制限されることのない神聖さに対する向上心を養うことにあります。言葉を換えれば、退屈で、問題含みで平凡になってしまったものから離れ、知られることなく、人間性を高め、言葉に現せないものに向かって進むことです。我々のエゴが感じる、生気体における幸福感の経験を、束の間ながらもたらす欲望とは異なり、(霊的な)向上心は、「真」、「善」、「美」、「無限」そして「永遠」に対する魂の要求です。向上心は、好きだの嫌いだのといったエゴのゲームとそれに続く苦悩から遠ざかることを求めます。向上心は、「一者」との合一を求める魂の探究です。向上心は、マインドと感情から生じる全ての制限と分離感を克服しようとする魂の願望です。

 意識は人生におけるもっとも大きな神秘です。それは単に観察するものです。それは全ての生物に個別化されています。同時に、宇宙意識は全ての個別化された意識を観察しています。それは、巡礼者が究極的に探し求めている「それ」です。巡礼の目的地で、我々は「神」の神秘的な「存在」(あるいは臨在)に気づきます。『ヨーガ・スートラ』の第一章24/25節で、パタンジャリは「それ」をこのように表現しています。

「イシュヴァラは特別な神我であり、苦しみ、行為、行為の結果や、欲望の如何なる印象にも影響を受けない。そこ(至高の存在の中)に(完全な)全知を(顕現させる)種子がある」

 巡礼者は、選択無き気づきを養うことで(自身の)内奥に対する集中を維持します。旅行者は、そこで好きなものに飛びつき、嫌いなものを避けることで新たな感覚的な経験の過ぎゆくショーの中に幸福を捜し求めます。しかし巡礼者はどんな困難に直面しても、静かな平衡感と存在感を維持しようと努めます。

 巡礼の地に行くことは、概して困難を伴い、それは(巡礼者の心に)抵抗を生みます。その抵抗は、(巡礼者が)それに耐え、目撃者としての魂の視点を維持し、執着や回避を伴うエゴの視点に屈することを避ける能力を試します。巡礼での経験は、古典的ヨーガで言う“ヴァーサナ”(薫習)、あるいは今日のボディー・マインド系の書物でいうブロッケージ(障害物)として知られる、未だ解決されていないトラブルや夢または希望を呼び覚ますきっかけになるかもしれません。選択無き気づきを養うことで、巡礼者はこれらを実際に手放し、そのような記憶が常に保持していた苦しみから解放されたことに気付きます。

 それでは、巡礼の目的地が何故我々の望みを叶える効果をもたらすのでしょうか? 聖者または霊的伝統や宗教の創始者は、そのような神聖な巡礼地に、巡礼者の霊的経験、気づきまたは意識のより高い状態に到達するか、少なくともそれを垣間見ることのできる崇高なエネルギーまたは種子を植え付けています。そしてそのような聖者または聖地に深い敬意を払う人たちが、自身の希望、愛そして献身をそこに貯めて行くにつれ、彼らの後に訪問する人達すべての意識を高めるパワーを増加させるのです。このように、聖地は、信心深い者が霊的なエネルギーを追加しそして引き出す、霊的なエネルギーの発電機となります。

 量子物理学とヨーガ・シッダーンタ(シッダの究極の教え)はともに、宇宙の基礎的な建物の素材は意識のエネルギー、すなわちシヴァ・シャクティだと教えています。意識のエネルギー以外は何も存在しないのです。巡礼者の眼には、時間、不完全な知識、部分的な力、情熱と運命を含むニュートン物理学の明らかな法則、グナ(自然の三要素)、マーヤー(幻力)の動力因は全て「それ」に溶け込みます。巡礼者が、目的地における意識のエネルギーを持つ聖別された場所に近付くにつれて全ての制限は超越されます。そこに到着し、彼らのあらゆる種類の抵抗、記憶、精神的な障碍を純化してしまうと、彼らは霊的な充足の至福を楽しみ、永遠にそこに留まります。

巡礼は我々がサンカルパ、すなわちそこに行くという意図を固めた瞬間に始まります。 この意図とは、願望や希望ではありません。それは約束です。「私はいくつもりでいます・・・」しばしば我々は約束するとき、そこに行くのに必要な資金や物を集め、例えば、家族とか従業員に対する他の約束を終わらせるか、あるいは健康、教育、体調そして法律問題までも含む我々自身の制約を克服しなければならないかもしれません。しかし、(巡礼に)行く約束そのものが、あらゆる障碍とあらゆる形の感情的な抵抗を克服するための必要不可欠で強力な手段を与えてくれます。

 巡礼の間、よくある注意散漫、感覚的な歓び、色々な娯楽、家族に対する義務そしてデジタル時代にあっては携帯やeメールを通じて仕事をすることなどに耽ることを避けることで、巡礼者は霊的な希求に対する約束を堅持します。霊的もしくは宗教的な伝統によって、巡礼者は更に、祈り、マントラ、気づきを伴う呼吸法、瞑想を含むある霊的な修練を継続的もしくは定期的に行うことでしょう。従って、内面的には無欲として、そして外面的には内への集中を乱す活動を避けることによって離欲(無執着)が養われるべきです。離欲は真我実現を達成するための、パタンジャリの主な手法です。ヨーガ・スートラ第一章12節において、彼は次のように述べます。

「無執着を伴う常習により、意識の内に湧き起こる変動と(真我を)同一視することが停止する」

 ヨーガまたは霊的な巡礼のゴール、すなわち「自分はこの体であり、この心だ」というエゴの視点から生じる苦しみからの解放は、巡礼者がそのような執着を離れて観察する普段の修練に成功する度合いにのみ応じ、現実のものとなります。これは、巡礼の間に何かが起ころうとも、静かな心の平衡を維持することを求める純質的(サトヴィック)なアプローチです。

 不幸なことに、既に世界的な趨勢となった今日の物質文明において、しばしば多くの巡礼者は(彼らの)目的の必要性の僅かな部分しか達成できません。その目的とは、子供をもうけること、良い仕事に就くこと、または何か他の物質的な恩恵を得ることだからです。祈りの中で交わされた願い事にあるように、そのような巡礼者は出発前に、彼らが熱心に表現した願望と引き替えに巡礼をやり遂げることを神に約束します。このアプローチは激質(ラジャス)すなわち行為、散乱、熱情の特質に捉えられた者たちに採用されます。悪いカルマの結果または罪深い行為、罪、恐れを償おうとして巡礼を苦行と捉える人達もいます。彼らは暗質(タマス)すなわち惰性、疑い、不明(混乱)の特質に捉えられた者たちです。インドにおいてはしばしば占星術師が、激質的なものや暗質的なものに対する処方箋として巡礼を勧めます。

 バドリナートはババジのクリヤーヨーガにおいて、なぜ最も重要な巡礼地なのでしょうか? ババジと18人のシッダの伝統に関連する多くの巡礼地があります。最も重要な場所は、ババジの生誕地であるパランギペッタイと、彼がイニシエーションを受けて苦行を行ったスリランカのカタラガマとタミールナードゥのコートラーラムです。しかし彼がソルバサマーディの究極状態に達したことを悟ったバドリナートが最も重要なのです。ババジはこの現象界において、彼の神聖な肉体を維持し続けているので、バドリナートは彼の信者と弟子が、彼らの明け渡しの程度に応じて、最も親しく彼の存在を経験できる場所なのです。完全な明け渡しは、五つの全ての象限(肉体、生気体、メンタル体、知性体、霊体)におけるヨーガの技法の究極の手段です。ヨーガ・スートラ第一章23節で、パタンジャリはイシュヴァラ・プラニダーナに就いて語ります。

「もしくは、『神』への明け渡しにより、サマーディを達成する」

 「神」が神々(訳者註:複数形の場合は唯一神ではなく、天界の諸神を指す)の名前や形としてではなく、最高に崇拝される「グル・ヨーガ」として、ババジのクリヤーヨーガは究極的に、愛の普遍的なヴィジョンを悟ることを求めます。ティルムラルはティルマンディラムの中で、「アンブ シヴァム」すなわち「神は愛なり」と言っています。

 この理由から2008年以来バドリナートにおけるアシュラムを建設中です。私がこれを書いている間にも、アシュラムの12の部屋は、四人の教師に率いられた18人の祝福された魂からなる最初のクリヤーヨーガ巡礼者のグループによって利用されています。当初これが計画された際の本来の目的は、集中的な修練を行いたいと希望するクリヤーヨーガ参入者(イニシエーション受講者)を援助するためのものでした。それとは対照的に、神聖で昔からあるシュリ・バドリナラヤン寺院で礼拝するためにバドリナートに行くほとんどのヒンドゥー教巡礼者は、そこに二日間滞在するだけです。ババジのグルであるアガスティアは、バドリナートに行ってそこで苦行(タパス)を行うよう伝えました。マハーバーラタという叙事詩に描かれた、インド国内を二分する戦争における古代の王族のリーダーであるパーンダヴァも、戦争の後バドリナートでタパスを行ったことにより、(魂の)解放を達成しました。他の数えきれないヨーギも同様です。私の師であるヨーギ・ラマイアは、そこでババジのクリヤーヨーガの144の技法を伝授されました。そして1999年に二回、バドリナートの更に上のサントパンス・タルで私はババジとのダルシャンの栄に浴しました。

 グルの原理(真理、無条件の愛、美、至福を現す大自然の法則)はどこにおいても接することが可能ですが、巡礼の熱心さとバドリナートで実施されるヨーガの修練に勝るものはありません。標高3千メートルに位置し、聳え立つ7千メートル級の山々に囲まれ、11月から5月までは外界から隔絶されたバドリナートはクリヤーヨーガの修練に理想的な、汚れなく、高い霊的エネルギーが注入された環境を提供してくれます。

私たちからあなたへの巡礼の誘い  バドリナートの新しいアシュラムは、一週間から4カ月までそこに留まって長期に亘る強化修練を希望するクリヤーヨーガの修行者の特別なニーズを満たすために設計されました。教師団のメンバーは毎年、巡礼の時期として最も好まれる5月のほとんどの日と6月、そこを訪れる修行者と訪問客をサポートするため、新しく出来たアシュラムに滞在します。7月と8月はモンスーンが発生する季節のため、さほど好ましい時期ではありません。

 教師団のメンバーに率いられた17日間のバドリナート巡礼は毎年9月から10月にかけて編成されます。南インドとスリランカにおける、18人のシッダに関連する神聖な場所への巡礼は、より涼しい1月、2月に毎年催されます。教師は日に二回、ババジのクリヤーヨーガの五重の道としてのグループ修練(サーダナ)を指導し、講義とサットサンガによりクリヤーヨーガに対するあなたの理解を深めることでしょう。バドリナートアシュラムの責任者は巡礼のグループに同行し、交通と宿泊施設を含む全ての旅程に関わる手配をします。この巡礼の企画は通常7~8日間のバドリナート滞在を含みます。他の日々は、330Kmに及ぶ景色が良い崖に沿った道を通じてのバドリナートへの往復、ガンジス川のヒマラヤ山脈の出口に当たるリシケシ、そして近くのハリドワールで過ごすことになります。この二つの都市は巡礼、タパス、クンバメーラの主要な拠点です。

 推奨されている5月、6月の間、または可能性としては7月8月でも、新しいバドリナートアシュラムに滞在する申込み、または教師に率いられた9月10月の巡礼または南インド、スリランカへの巡礼の参加申し込みは、著者である私(satchidananda@babajiskriyayoga.ne.)に送信して下さい。バドリナート巡礼、または来年の南インド、スリランカへの巡礼に参加するあなたの夢を、今日現実のものとしなさい。それを計画し、準備し、そして映像化(視覚化)しなさい。この瞬間から後は全ての障碍を克服するために気づきを伴った行為を養い、それによって全ての苦しみからあなた自身を解放しなさい。あなたの人生という巡礼が、覚醒という結果をもたらしますように。

以上


4.クリヤーヨーガの修練から如何に最大の成果を引き出すか

2018-05-06 11:19:47 | スピリチュアル
BKYJ 2018 Winter
By M.G.サッチダナンダ

 この問いかけに対する簡潔な回答は相乗作用であり、ババジのクリヤーヨーガの初心者であれ20年以上修練を続けてきたものであれ、すべての修行者にとって重要なことである。相乗作用は二人若しくはそれ以上の人数、或いはものが、夫々個別に生み出すことの出来る能力以上の結果を出そうとして一緒に働いた時に生じる。二三の実例を挙げると、相乗作用は組織、種族、良い結婚によって起きる。また、ババジのクリヤーヨーガの五重の道でも起きるが、それらはクリヤー・ハタ・ヨーガ、クリヤー・クンダリニ・プラーナヤーマ、クリヤー・ディヤーナ・ヨーガ、クリヤー・マントラ・ヨーガ、クリヤー・バクティ・ヨーガから成る。長い回答は、これらをそれぞれ検証することで理解される。

 物理的な肉体において、クリヤー・ハタ・ヨーガはアーサナ(リラックスの為に肉体のポーズ)、バンダ(筋肉の締め付け)、ムドラー(心理物理学的な身振り)を含み、これらは肉体の健康、安らぎ、主要なナーディ(気脈)とチャクラ(エネルギー・センター)の覚醒をもたらす。ババジは、順番にそして対で教えられる特に有効な18のポーズを選んだ。我々は肉体それ自体を気にかけるべきではないが、「神」の乗り物或いは「宮」として大切にすべきである。

 生気体において、クリヤー・クンダリニ・プラーナヤーマはあなたの潜在能力と意識を目覚めさせ、脊椎基底部と頭頂の間にある七つの主要なチャクラにプラーナを循環させる強力な呼吸の技法である。それは七つのチャクラそれぞれに眠っている能力を目覚めさせると共に、存在の五つの象限すべてであなたを活性化させる。

 メンタル体において、クリヤー・ディヤーナ・ヨーガは心を支配する科学的な技法を教える漸進的な一連の技術であり、それは潜在意識を浄め、集中力と感情の清澄さ、創造力を高め、知的で直観的で創造的な能力を目覚めさせ、神と合一した無呼吸の状態であるサマディと「自己」実現をもたらす。

 知性体において、クリヤー・マントラ・ヨーガは、直観、知性、チャクラを目覚めさせる精妙な音の静かの心の中の繰り返しである。マントラは自己中心的な心の中のお喋りの代わりとなって、大量のエネルギーが知性体に蓄積される。マントラはまた、潜在意識下の傾向や癖を浄化する。

 霊体において、クリヤー・バクティ・ヨーガは「神」に対する魂の向上心を養う。それは無条件の愛と霊的な至福を目覚めさせるための献身的な行為や奉仕を含んでいる。更に聖歌の詠唱や歌、儀式、巡礼そして礼拝をも含む。あなたが全てのものの中に「最愛の人」を認識するにつれ、徐々にあなたの全ての行動は甘美さに満たされるだろう。

 これらの内のどの方法による修練も、あなたが無視したり、理解したりしていないうちに、他の種類に影響しているということを忘れないことが重要だ。従って、もしあなたが上記の内のいずれかに必死に取り組んでいるのなら、またはあなたが最早進歩していないかのように感じるなら、この記事は、相乗作用の原理を適用することで、あなたの修練がどれほど利益を得ることが出来るかを説明することになろう。我々の最も神聖な存在の次元、そしてあなたが全ての見かけ上の相違を超越し、すべての良きものが発するところの霊性から始まって、これが如何に展開するかを考えることは役に立つだろう。

クリヤー・バクティ・ヨーガの相乗作法
2017のクリヤーヨーガ・ジャーナルの春季号に、「バクティ・ヨーガの七つの形態、愛と献身の道」という記事を書いた。バクティ・ヨーガにおいて、あなたは「神」との関係を成長させる。「神」とは誰なのか? あなたは崇拝するあらゆる姿での「神」、例えばイエス、クリシュナ、シヴァ、仏陀、ババジ、聖人を想像するかもしれないし、絶対的な実在のような人格を持たない至高の実在、「意識」、至福、ブラフマン、思考の恩寵の光を想像するかもしれない。この「神」との関係は、「私は誰なのか」というあなたの考えと共に進化するだろう。当初「神」は離れた処にいるように見えるか、あなたのある望みを叶えてくれるよう祈る対象と思えるかもしれない。スピリチュアルな教本や「神」を体験した聖人の説明を学習することは、この、「神」に近付き、親しくなるという過程の中であなたに希望を与えるだろう。

バクティ・ヨーガの七つの形態とは、
1. シャラヴァナ:聖典や神聖な物語を聞くか、読むこと。バガヴァッド・ギーター、ラーマーヤナ、パタンジャリのヨーガスートラ、ウパニシャッド、ヴォイス・オブ・ババジはあなたが神を愛するよう導き、動機付け、あなた自身を浄化し、こうした本の中に描かれた気高い英雄があなた自身の手本となるだろう。特に「神」を求め始めた初期の段階において、これらの物語や教本は、古い習慣、記憶、癖から生じる抵抗を克服する助けとなることができる。
2. キルタナ:一人またはグループでの成果の詠唱、神の讃美、献身の歌。目的は美しい音楽を奏でることにあるのではない。あなたが上手に歌えなくても構わない。それはいつでも実行できる。キルタナを実践する最も良い時は、あなたが悲しんでいる時、落ち込んだ時、或いは心配事がある時だ。目的は感情のエネルギーを愛の感情、喜び、そして明け渡しへの変容させることだ。厄介な感情を洗い流すためのシャワーを浴びながら始めなさい。
3. スマラナ:いつも「神」を忘れずにいること。これは、あなたの最も気に入っている「神」のイメージ、即ちイシュタ・デヴァータを思い起すこと、または人格を持たない絶対的実在、「意識」、「至福」であるあなたの内なる意識の光のヴィジョンを保持することによっても可能だ。それは瞑想、聖典読誦、哲学的思索、巡礼そして「神」の崇拝を通じて強固なものとすることができる。
4. セヴァ:無私の奉仕。あなたが愛情を注いだり他者に対する愛を現わしたりするあらゆる行為がセヴァである。もしそれをすることに対するあなたの動機が、あなたの個人的な必要性または評価への配慮なくして行われるのなら、それがあなたの仕事であったとしてもそれは無私である。それはカルマ・ヨーガの性質に満ちており、そこではあなたは結果に執着せず、「神」が全てを行い、あなた自身を単なる道具として見ており、観察者として行動している。
5. アルチャナ:内面的なものであれ外面的なものであれ、一人で或いはグループで行う礼拝。礼拝の対象物が紙、粘土、金属または木であろうがなかろうが、それは一時的なものであって、「神」への窓として供されている。実際、あなたは礼拝の対象物があなたの無条件の愛に見合うものであるかの如く振舞う。結果的に、あなたは無条件の愛を体験し、それがあなたの関係の全てに浸透しはじめる。
6. ヴァンダナ:崇拝、「神」の前に身を屈すること。これは単に肉体上で行われるのみならず、あなたの生命エネルギーの全てを大いなる熱心さをもって、主に対する奉仕と明け渡しに集中させることによってなされる。
7. ダーシャ:「神」の意志に従うこと。私の意志ではなく、あなたの「御心」が実現しますようにと繰り返し念じなさい。
8. サーキャ:世界中の全ての場所と全ての見せかけ、または形の中にある「神」を常に見る用意があること。
9. イシュヴァラ・プラニダーナ:「神」に対する完全なる明け渡し。パタンジャリのヨーガスートラの中で、イシュヴァラ・プラニダーナはクリヤーヨーガの三番目の要素である。その他の二つの要素即ち無執着と自己探求と共に、明け渡しは真我実現と苦しみの原因を弱める効果をもたらす。そして、心の「平衡」が続いて起こる。あなたは手放しで「神」にそれを委ねる。ヨーガスートラの第一章23節において、パタンジャリが更に説明していることは、我々の限られたエゴの意識を「神」に明け渡すことで人は成功裡に認識作用の埋没(即ちサマディ)を達成する。

上記バクティ・ヨーガのどの形態であれ、それを養うことで、あなたはヨーガの修練は向上し、或いは熱意を高める。向上心とは、「真」の、「善」なる、「美」しい「無条件の愛」を求める魂の切なる望みだ。それは怒り、抑圧、プライド、欲望、恐れといったエゴイズムの限られた視野とその現れを拒絶する。結果として、もしあなたがバクティ・ヨーガの強化を優先するのであれば、アーサナ、プラーナヤーマ、瞑想、マントラジャパを修練しようとの衝動を経験することになろう。修練に対する抵抗やエゴイズムから生じた扱い難い感情は、陽の光の中の水溜りのように、愛と献身の歓びのなかで蒸発してしまうだろう。

 超越することが容易になる。それがイエスであれ、ババジ、クリシュナ、シヴァ神または絶対的な実在・意識・至福であれ、あなたの献身の対象の性質をあなたは顕現する。

クリヤー・マントラ・ヨーガを修練することの相乗効果
ジャパとして知られるマントラの反復もまた、あなたが愛、純粋さ、謙遜、インスピレーション、集中力を高めるのに役立つ。あなたが最も惹かれるマントラとしてあなたの「神」の名前を選びなさい。あなたが顕現したいと望むマントラに関連する特性を感じるために、呼吸を静めて練習しなさい。その特性とは、例えばシヴァマントラの場合は静けさと無執着、クリシュナの場合は愛、ラクシュミの場合は豊かさ、サラスヴァティの場合は叡智といった具合である。数珠を繰り始める前に、マントラを108回唱えるまでは、決して心を他に向けないと自身に誓いなさい。あなたの集中力は高まり、結果としてあなたの瞑想はより深くなって気が散ることは少なくなるだろう。あなたの意志の力は驚嘆すべきものになる。あなたは人生の全ての次元で、あなたの意志を実現するだろう。瞑想の前にマントラジャパを実習することは、マインドの一点集中の下準備となる。

 マントラの修練は、心のお喋りに取って代わり、あなたのより高次の知性からインスピレーションを受け取るための余地を作り出す。結果的にあなたは直観から生じるより多くのインスピレーションや内なる導きを得ることになろう。人生で問題が生じた時、マントラを復唱することは解決策が降りて来る場をつくりだす。もし困難な感情で生気体が動揺しているのであれば、マントラがそれを宥め、心を静めてくれるだろう。

 クリヤー・マントラ・ヨーガの修練は、否定的なサンスカーラ(癖)やヴァーサナ(あなたが執着している困難な記憶)を中和するのに役立つだろう。それはあなたの心配、疑念、怠惰、肉欲、情緒不安定を含むヨーガの修練に対する障碍を取り除いてくれる。

クリヤー・ディヤーナ・ヨーガの相乗効果
 第一イニシエーションにおいて七つの瞑想法が伝授される。それらの相互作用は相乗作用の素晴らしい例だ。まず「無執着」(detachment)を養うシュッディは、集中力を必要とする二番目の技法、エカルーパの実施を助ける。それはまた翻って第三番目のイーネイルーパの下準備となり、そのように続いて行く。これが、あなたが全ての技法を順番に繰り返し練習することを求められる理由であり、夫々のセッションでその日の瞑想法を実施する前に、前日の瞑想法を手短に練習する理由だ。それらすべてを練習することで、そしてあなたが簡単だと思う技法だけを練習しないことで、あなたの弱点は強さとなる。そうでなければ、ジムに通って、既に強化された筋肉のトレーニングをするようなものだ。

 更に付け加えれば、夫々の瞑想の技法は異なった目的と効果を持っている。技法の最初のものは否定的な癖や記憶を持つ潜在意識を浄化するが、それが取り除かれない場合、実質的にあなたの修練を継続しようとする意欲を殺いでしまう。四番目の技法はあなたの知性、問題解決能力、コミュニケーション能力を高める。この能力は疑いを「課題」として明確にし、結果的にその答えと解決法を捜し、見つけ出す能力を含んでいる。五番目の技法は、あなたの人生におけるダルマ即ち使命を映像化して顕現させ、欲望を滅尽する能力を強化する。六番目の技法はあなたの直観力を高める。七番目の技法は、あなたの最も高次の「導き手」と対話する能力を養う。結論として、あなたのダルマ(使命)が明らかになり、人生の問題に正解を見出したり解決したりする能力が霊感に導かれて有効になるにつれて、あなたの修練に対する多くの障碍と同様に抵抗は取り除かれる。

クリヤー・クンダリニ・プラーナヤーマと関連する呼吸法の相乗効果
 ババジのクリヤーヨーガにおいては、第一イニシエーションで教えられるクリヤー・クンダリニ・プラーナヤーマが、他の如何なる技法よりも「五体」(訳注:肉体、生気体、メンタル体、知性体、霊体)に対してより強力な効果を及ぼす潜在力を持つ。霊的な次元において、それはクンダリニをより高次のチャクラに上昇させ、それらが関連している心理的な状態を覚醒させる。それは心を静めて瞑想の下準備を行う。それは集中力と視覚化能力を高め、グルへの献身を深めて修行者を深い安らぎの中において真我に気付かせる。それを行うことは肉体を緊張から解放し、困難な感情を含んだ生気体を浄化する。結果として内なる「グル」が前面に出て来て、「真」、「善」、「美」に対する希みが高まる。

 ブラフマチャリア・オージャス・マトレーカ・プラーナヤーマ(第二イニシエーションで伝授される)の実習はあなたが性的な欲望を霊的な希みに昇華させることを可能にし、悟りの妨げとなる根源を超越と霊的な実現をもたらす手段に変容させる。第二及び第三イニシエーションで伝授されるそれ以外の多くのプラーナヤーマの技法は、喘息、普通の風邪、不眠症、疲労困憊、病気がちな体質を含む多くの機能的な問題や病気予防法或いは対処法となる。

クリヤー・ハタ・ヨーガの相乗効果
 アーサナ(ハタ・ヨーガ)が定期的に実習されると肉体を、不快感を伴うことなく静止させておくことができるので、瞑想がより容易になる。アーサナは気を散らせる原因となる、疼き、痛み、そして機能不全の元を改善することができる。他の体操のシステムとは異なり、アーサナの実習はリンパ節を活性化させる。我々が年を取るにつれて、リンパ節の適切な機能が、肉体及び精神的な健全さに対してますます問題を惹き起こすようになる。最低でも日に30分はアーサナを実習しなさい。

 18のポーズが定期的に実習されると、ナーディ(気脈)とチャクラ(生気体のエネルギー・センター)が覚醒する。それぞれのポーズが下位のチャクラから上位のチャクラへとプラーナのエネルギーを向ける。タントラによれば、意識はエネルギーに従い、それによって意識も目覚める。より高いチャクラに関連する心理的な状態があなたの人生の選択を支持する。瞑想中にあなたが容易に目覚めていられるというだけではなく、あなたの瞑想がインスピレーションに、より順応し易くなる。

 感覚を研ぎ澄まし、注意深くそして気づきをもって18のポーズを実習することは感情と精神的な平衡状態をもたらす。感情と欲望の座である生気体は静まる。あなたの人生で試練に直面した時、あなたはストレスをより上手に制御して恐れや反感の「鋭い刃」に対して静かに向き合うことができるようになる。あなたは心霊的な存在または魂の導き手の声がましますハートの中心をとらえ、そこに坐して自身の行動を導いていく。

あなたの修練から最大の成果を引き出す
 あなたのヨーガの修練の為、日に少なくとも二回、決まった時間を確保することを奨める。風呂かシャワーを浴びた後の早朝の時間(訳注:これはアメリカ人などの習慣に基づいて言っている)を、他の如何なる行動に対しても最優先としなさい。毎日五つのヨーガの支分のそれぞれから、幾つかの技法を実習しなさい。それをすることで、それらのいずれにせよ、実習によって得られる効果はあなたの五体を通じて何倍にもなるだろう。あなたの個人的な弱点が強みに変わるように、あなたがうまく出来ないか、それを行うのに抵抗を感じる技法を定期的に行うことを奨める。あなたが最も得意とする技法を修練することを更に一層楽しみなさい。
                                      以上


以上

3.アルパダイ

2018-05-06 11:18:14 | スピリチュアル
BKYJ 2017 Fall
By M.G.サッチダナンダ

アルパダイ(他者に「道」を示す)

 あなたは他者の手助けをする必要性または責任を感じているだろうか? クリヤーヨーガの修行者として、如何にしてあなたはそれが可能なのか、或いは為すべきなのかを自問しているだろうか? あなたは、クリヤーヨーガにおけるあなたの知識と経験が、家族、友人、仕事の仲間或いは知人の悩みを軽減することができるか否かを自問しているだろうか?

 タミールヨーガのシッダの著作を通じて、彼らが事例、心情、性別、宗教或は国籍を問わず、一人ひとり全員に「道」を示すというアルパダイの考え方に言及していることを見出すことができる。それが強調しているのは、自分自身の悟りによって あるいは自分が人類を救済するという誓いである。それに非常に似通ったシッダの格言がある。それは、「私が享受する至福が、すべての者に与えられますように」というものだ。苦悩からの真の解放は孤独の内にはないということを彼ら(シッダ達)は真摯に感じていた。完成若しくはシッディ(悉地)への道を示すことは、最も優れた利他行である。彼らは、世界の終りの無い悲しみから解放される道をすべての人に示すことを求めた。彼らの願いは、多くの者が一つの永遠の、すべてに関連し、全てを統合する「自己」の知識を獲得することだ。

 「クリヤーヨーガの誓い」はこのアルパダイの考え方を表現したものだ。その中で我々は、自身の利益の為のみならず、すべての人の利益の為にクリヤーヨーガを実践することを誓う。「地上の全ての者が自らの目的を達成できるように、わたしは自らの存在と歓びを完全にクリヤー・ババジに永遠に明け渡します。」「静けさは、すべてのものを明け渡すことにあり、霊は静けさを求めます。私が全てのものを明け渡さなければならないのなら、同朋のためにすべてを明け渡すことが最も良いことです。」 私が新たな秘義参入者(イニシエーション受講者)にしばしば言う通り、この「誓い」を伝える時、たとえクリヤーヨーガの修練をやる気にならない日があったとしても、とにかく修練を続けなさい。なぜならあなたが修練を行えば、周りの人々は修練を行うことがはるかに容易に感じるから。

 誓いは続ける。「私は、病める者の慰めであり、癒し手、僕です。私は、食べ物と飲み物の雨で飢餓と渇きの苦しみを癒します。終末の飢饉には、私が飲み物、食べ物になります。」 肉体的、情緒的、精神的或は霊的に病んだ人々とヨーガの教えを分かち合うことによって、あなたはこの「誓い」を同様に充たす。如何にヨーガがあなたの助けとなったかということに関するあなたの愛と感謝を分かち合う為に、教師として訓練されなければならない訳ではない。この記事の最後に、あなたが眼にするように、あなたがそれを実行に移す多くの方法がある。それを表現することは、あなたのヨーガに対する理解を深めることだろう。また以下に述べる通り、それを実行することはあなたのヨーガの修練の形となり、あなたの内にある不快感の多くの原因を克服し、「神」またはあなたのハイアーセルフの道具として自身を明け渡すことを可能にする。

 ヨーガのシッダ(達人、成就者)たちは、すべての存在の福祉、幸福そして連帯意識を確立しようという愛の願望を持つ。愛は人生の目的であり、手段であり、到達点だ。シッダ達は言った。「anbu Sivam」、即ち、「神は愛である」と。神性を悟る為に、生まれもったエゴとそこから顕現する執着または欲望と反感または恐れなど、人間の不完全さから解放されなければならないと心底から信じていた。霊的向上の道は一つであり、内面に向かう為には一人でいる時間を必要とするが、人間の性質を変容させるには、自身の不完全性に気づく必要があり、それは人の影のように、自身で見ることはできない。もしあなたが一人で生きていたら、あなたは他者より優れている、或いは完全であるとさえ思うかもしれないが、他者と接するにつけ、あなたの欠点や角(かど)が明らかになり、それらが丸くなることすらある。

 タミールヨーガシッダのマントラ、「シヴァヤナマ」は単なる哲学的な概念とか秘教的な道具ではなく、社会的な概念でもある。「ナマ」とは離欲或は献身を意味し、「シヴァ」は至福(アーナンダ)を意味する。「アヤ」は成果や結果を意味する。この「シヴァヤナマ」という語は、「献身の結果は至福である」との意味だ。シッダ達は献身の内に至福を感じ、彼らは献身を奉仕の機会と考えた。彼らにとって奉仕と仕事は自身の「真我実現」と共に開始する。つまりシッダ達の社会に対する関心が「真我実現」の別の方法を与えたのだ。シッダ達の神秘体験は、我々に社会奉仕の新しい概念を示している。

アルパダイの肯定的及び否定的側面

 他者に道を示すということは、何を為すべきか、何を避けるべきか、或いは何を為さざるべきかを含む。積極的な側面は、次のことがらを共有することを含む。それらは、ヨーガの手法、禁戒即ち社会的な制約事項または倫理原則(非暴力、真実、貞操、不盗、不貪)、ヨーガシッダの叡智の教え、彼らの食事療法そして健康的な生活の推奨事項などである。例えば、なぜそして如何にあなたの生活に肯定的な影響をもたらしたそうした手法、原理、教え、推奨事項を見出したかを他者と話し合うことで補足される。多くの科学の分野におけるそれらの貢献もまたそれらの社会的な使命の肯定的な側面を例示することにもなり、我々も同様に行動したいとの期待を抱かせるかもしれない。

 アルパダイの否定的な側面は、誤った信念を生じさせるところの何を避けるべきかを共有することが含まれる。彼らの文献の中で、カースト制度と同じく外部での儀式を行うこと、寺院での礼拝を重要視することを避けるよう推奨している。というのは、それらがエゴイズムから生じた癖や傾向を純化するために必要な努力を妨げると共に、瞑想とクンダリニーヨーガを通じて内なる神性を見ることをも妨げるとの理由からだ。組織化された宗教制度も心理的な錯覚を作り上げる。シッダ達は、現世を放棄しようとするより、人間的な不完全さから逃れる自由を楽しみながら、人類の向上の為に彼ら自身を捧げた。彼らの教えは、社会の通念というよりヨーガの知恵から生まれた世界規模のヒューマニズムに対する新たなパラダイムを提供している。

感謝、善意、感情移入、共感そして同情を養う

現在の物質主義的な消費文化において、人の最も深い価値観を分かち合ったり、苦しんでいる人たちに対する手助けを行ったりすることが出来ず、他者との精神的な隔絶感を味わうことはいともたやすい。結果的に、他者とアルパダイ即ち真理への道を分かち合うことについて、人は不適格だと感じるかもしれない。そのような孤立感と不適格性の感情を克服するため、感謝、善意、感情移入、共感そして同情の感情を漸次育んでいくことを私は推奨している。

感謝とは、あなたがゴールに到達することに成功し、より優れた人間になり、あなた自身の目的を理解する手助けとなった夫々の人と全てのものに対する認識に伴って生じる愛の感情である。究極的にそれは、それらの摂理の源が神と同一であると認識することだ。それを育むことは、憤り、欠乏感、自暴自棄、孤立感そしてあらゆる形態の欲望と恐れを駆逐する。あなたの感謝すべきことを数えること、或いはコップが半分「から」なのではなく、半分充たされていると考えることで、日々それを練習しなさい。そうすることで、あなたは他者に対してより愛情深くなり、快く与えようと感じるようになるだろう。

善意とは、必ずしも彼らがどう感じているのか判らなくとも、他人の幸福を願うことだ。批判したり裁いたりするよりは、彼らを祝福しなさい。それは個人に対して行うというより全世界に対して行うこともできる。

感情移入は他者が感じていることを理解することだ。あなたは悩みを見つける。或いはあなたは過去に同様の経験をしたかも知れない。悩みによって感情的に突き動かされ、同情を惹き起こすかも知れない。

共感は感情移入プラス善意だ。あなたは彼らがどのように感じているかを知り、そして彼らが幸福になることを望む。あなたは悩める人の幸福を望むと表現するような仕方で行動するよう突き動かされる。

幸いなことに、我々の進化に対する社会的な要請のため、人間には共感の感情が本来備わっている。他人に対する共感の能力を高めるため、彼らの過去とそれが彼らをどのように作り上げてきたかを想像しなさい。胸が張り裂けるような、どんな状況に彼らが直面したのか? 彼らの現在の気持ちの状態のなかで、今彼らの中にいることはどのようなことなのか想像しなさい。

あなたが心地よく感じる範囲を拡げる

 あなたは他人に道を示すことで不安を感じるかも知れない。心配、恥じらい、悲しみそして臆病、自尊心の欠如といった心の習性が、あなたが手を差し延べる妨げになるかも知れない。不快であることに心地よく感じるため(これは典型的なヨギの苦行のスタイルであるが)、ここにあなたが心地よいと感じる範囲を拡げるいくつかの手法を示しておく。これらを、例えば他者との夕食の会話など、あまりリスクのない場面で使うことから始めなさい。

 心地よいと感じる以上に長く、目を合わせていなさい。
 エレベーターの中で、普段以上に他者の近くに立ち、そこから動くことに抵抗しなさい。
 全く見知らぬ人と、決まった回答のない質問で会話を始めなさい。
 内面の不快なことは、我々の頭脳の生き残りのためのメカニズムから来る通常の副産物だと心に刻むことで、「不快」という烙印を剥がしなさい。
 否定的な考えに関しては、それらは精確ではないかも知れないし、壁の落書きのように否定的に見ることによって歪められていると気づくことで、中立化させなさい。
 あなたは多くの要素をみのがしていて、その内の幾つかは肯定的なものだと考えなさい。例えば、他人のボディランゲージは、その人が前の時間に生じたことに対する反応かもしれないと。「私の」心配事として見るのではなく、それらを「不安な感情が存在する」といった具合に、個人的要素を除きなさい。
 現実を書き換えなさい。例えば、あなたたちが共有していることについて他人が疑問か困惑を表明したら、自身に問いかけなさい。彼らの反応はもしかしたら良いものではないだろうか? 如何にあなたの創造的な心が肯定的な回答を創り出せるか見てみなさい。

責任の放擲

 この記事の冒頭に、私は次の質問をした。「あなたは他者の手助けをする必要性または責任を感じているだろうか?」 ヨーガの知識を分かち合う必要性は愛から生まれるかも知れないが、上記で述べた通り、他者と真理への道を分かち合う責任を感じることは、何度となくあなたの心を、そのための戦略を考え出したり、他者から来ると考えられる結果や反応について心配したりすることに費やすのであれば、精神的な不快感をもたらすかもしれない。人間として我々は不確実なことに対する許容度は低く、これが不安を生むことになる。不安は如何なる場合も、あなたがそこで完全に落ち着いていることの妨げとなる。それはまたあなたの自信を弱める。従ってあなたが他者と真理の道を分かち合う時、彼らの反応を精確に読み取って注意深く対応できるよう十分な用意をしておく必要がある。不安、落ち着きのなさ、そして自信の欠如は直接あなたのボディランゲージとして、そしてあなたの思いやりを伝える能力に現れてしまう。

 この自信のなさの問題は、結果や成果に対する責任を「放擲」することによって解決することができる。おそらくあなたは、如何にこの会話又は話し合いが、他者の人生に影響を与えるか決して知ることはない。それはその後生じることのどんな連鎖をスタートさせ、或いは付け加えていくのか、ただ神、グル、ババジ、宇宙にあなたの心配事を差し出しなさい。進むがまま神に任せなさい。これがカルマヨーガの説明である。即ち、技能を用いながらも、結果には執着せず、行為者としてではなく、(神の)道具として行動することである。自動的に結果に対する不確実性は、より不快ではなくなり、あなたはそれに影響されなくなる。

道を示す際に推奨される方法

1. 他者を会話に引き込み、クリヤーヨーガとその知恵の教えに対するあなたの情熱を話しなさい。その間、他者の話をよく聞いて、良く考えた後に回答し、他者を攻撃することなく、ためになることだけを話しなさい。
2. あなたが既にクリヤーヨーガについて話をした相手に対しては、我々のウェブサイトに掲載された過去のクリヤーヨーガに関する記事を送りなさい。
3. 誰かが本を与えてくれたことで、いかにあなたのクリヤーヨーガの道が始まったかを思い起しなさい。クリヤーヨーガに関するあなたのお気に入りの本を贈呈しなさい。どの本を贈るのかについては、我々のウェブサイトを参考にすること。
4. 18のポーズの幾つかと、基本的な瞑想の技法を教えることを申し出なさい。我々が出版したババジのクリヤー・ハタヨーガの本(リラックスと若返りのための18のポーズと「道を照らす光」)を参考として使いなさい。
5. 我々の通信教育講座を薦めなさい。
6. クリヤーヨーガのイニシエーション受講者の各地方の会議に参加するか、さもなくば地方の会議を立ち上げることに協力しなさい。
7. 実例をもって教えなさい。言行一致。
8. 我々のウェブサイトにある本を自ら勉強することで、他人と分かち合うことのできるインスピレーション、叡智そして知識を求めなさい。そのために本を読み返しなさい。それらについて「アルーパ・ディヤーナ」の手法で瞑想することで、自分のものにしなさい。苦しんでいる人達と叡智を分かち合う時、それを思い起しなさい。今サンカルパ即ち、愛と叡智とによって、あなたのババジのクリヤーヨーガの道を上手に分かち合うとの意図を表明する誓いまたは自己暗示を創り出しなさい。
以上