ババジ関連記事 翻訳版

ババジのクリヤーヨーガジャーナルなどに掲載された記事などを翻訳し、クリヤーヨーガの修行者の参考にして頂くものです。

6.愛は神なり Anbu Sivam

2018-05-06 11:28:00 | スピリチュアル
BKYJ 2018 Spring
By M.G.サッチダナンダ



愛は神なり、(Anbu Sivam)

 私の人生の目的は何なのか? どうして私は苦しんでいるのか? 私という存在は誰なのか? いつかはすべての者がこれらの基本的で「存在」に関する疑問に直面しなければなりません。これらの質問は、我々一人ひとりを、人間の性質に関わる制限から解放する動機になるということをヨーガは教えます。これらの質問に対する答えを見出すことは叡智或いはジニャーナ・ヨーガです。ヨーガの修練を実践する者、即ちサーダカは、人間の性質の限界を克服し、シッディとして知られる潜在する完成の域に達したシッダの叡智の教えを理解することで恩恵を享受します。

 シッダ達は、我々人間の性質は、マーラーとして知られている三つの汚れまたは足枷の支配下にあると教えています。その第一は、アーナヴァ・マーラーとして知られている、我々の本当の正体を見誤っていること、或いはエゴイズムであり、その第二はマーヤー即ち精神的な錯覚であり、その第三は過去の想念、言葉そして行為の結果としてのカルマです。ヨーガとは我々の持つこれらの三つの汚れを浄化するプロセスだと彼らは教えています。それにより、我々は苦しみの源である苦痛の種を弱め、真我実現に至ります。パタンジャリはヨーガスートラ(以後、YS)で次のように言います。「無知、エゴイズム、執着、反感そして生への執着が五つの苦痛の種である」(YSⅡ-3) 「これらの精妙な形での苦痛の種は、その原因まで遡ることで破壊される」(YSⅡ-10)「動的な状態にあり、意識の中から生じるこれらの心の揺らぎは瞑想によって破壊される」(YSⅡ-11) 五つの苦痛の種が我々の誤った自己認識と、真我からの分離を維持しています。(意識の)精妙なレベルで、それらは潜在意識下の印象(サンスカーラ)として存在します。これらは、その間あなたが繰り返し真我と同一化する様々なレベルのサマーディ(認識作用の没入)を通じてその源にまで戻ることによってのみ取り除くことができます。小さな自我(偽我)は徐々に偉大な「真我」に包摂され、それにつれて潜在意識下の印象は溶けていきます。YSⅠ-12でパタンジャリは、その手段を我々に教えていますが、それは「無執着の継続的な練習によって(達成される)」ということです。自分自身に聞いて見なさい、誰が執着しているのか、だれが苦しんでいるのか、誰が反感を持っているのかを。パタンジャリは続けてカルマについて説きます。「苦痛の種の中に根を持つカルマの貯蔵庫は、現在現れている人生と、将来の未だ現れていない人生の中で経験される」(YSⅡ-12)「その根が存在する限り、その果実もまた存在する、即ち誕生(再生)とその(人生での)経験である」(YSⅡ-13) 「有徳と不徳のカルマの為、それに対応する歓びと苦痛に満ちた結果がある」(YSⅡ-14) 彼はクリヤーヨーガを定義付けて、その目的をYSⅡ-1で次のように語ります。即ち、「苦行(厳しい修練)、自己探求(聖典読誦なども含む)、『神』への献身がクリヤーヨーガを構成する」 「これらはあらゆる苦痛の種を弱めてサマーディを育むために用いられる(手法である)」(YSⅡ-2) 無想三昧(アサンプラジュニャータ・サマーディ)として知られる悟りの状態に到達するためとして、パタンジャリは次のように言います。「それ以外のヨーギンにとって、無想三昧の前に、強烈な献身、勇気、正念正知、サマーディ(三昧)そして真の洞察力(叡智)が現れる」(YSⅠ-20)

これらの章節に対する説明については、私の本、『パタンジャリとシッダのクリヤーヨーガ・スートラ』(訳注:日本語版は現時点で未刊)の第1章と第2章を読みなさい。

愛はクリヤーヨーガの手段であり、目的地です 
叡智と明確な目的を持たないヨーガの実習者にとっては、物質的な文化の価値、即ち競争、名誉、見せかけ、個人主義、健康、富、成功によって動かされてしまうことが簡単に起こります。ヨーガといえども、ある者によって、このような物質的な目的を達成する手段として売り込まれることがあります。そのような道を辿ることは、前述したような苦痛の種、即ちエゴイズムの汚れ、錯覚そしてカルマからあなたを解放しないでしょう。それ故、あなたのヨーガの修練の目的を真の目的に沿ったものにしなさい。その目的を愛そのものとして定義づけることから始めなさい。あなたがそのようにすれば、愛があなたを変えるでしょう。愛があなたの目的となった時、愛に対するあなたの理解は深まるでしょう。それは無条件のものになります。愛はクリヤーヨーガの手段であり、目的地となるでしょう。愛とは全ての存在の魂の中にある神聖な火花です。それは、無私の性質、慈悲深さ、そして生きとし生けるものに対する同情の中に現れます。真の愛はエゴを犠牲にすることです。それは魂の中に組み込まれた神の光です。魂がそれを見る時、「真我」は愛によって圧倒されます。ティルムラルは” Anbu Sivam”即ち、愛はシヴァ(「神」)なりと私たちに告げています。

無知なる者は「愛」と「シヴァ」は異なると言う
「愛」は「シヴァ」なることを彼らは知らない
「愛」は「シヴァ」なりとひとたび知れば
「愛」は「シヴァ」として(そこに)とどまる

神の恩寵は愛の最高の形であり、純粋で汚れがありません。その唯一の関心事は魂のためです。神の恩寵は、全ての俗世の出来事を通じて魂がそれ自体を学び、(自身を)取戻し、神の至高の愛を体験し、それと一つになることを可能にします。神は我々に愛する力を与えましたが、魂はそれによってそれ自体を「シヴァ」の世界に押し上げます。愛は我々をより神に近付けます。他の宗教では「神は愛なり」と教えるかも知れませんが、ティルムラルは「愛は神なり」と教えます。この神聖な一節は、本質的に神秘主義的であり、真に理解するためには経験されなければなりません。

 ヨーガの全ての主たる形式(バクティ、カルマ、ラージャ、ジニャーナ)とタントラ(人間的な性質の神性への変換手法)において、愛はヨーガの基礎です。YSⅡ-30で、愛は八支分のヨーガの禁戒に表されています。それらは非暴力、誠実、不盗、純潔(不邪淫)、そして不貪です。これら五つの社会的な制約は、我々の社会生活を律し、調和させるとともに、修練の基盤を作り上げます。

 愛は、あなた自身を愛することから始まります。もしあなた自身を愛せないなら、どうして他人を愛することが出来るでしょうか? あなたはどんな方法で自身を愛することが出来ますか? 肉体的に、感情的に、精神的に、知性的に、そして霊的に・・・。

あなたはどのように自身を肉体的に愛せますか?
 この質問に答えるに際し、私があなたに与えることのできる最良の助言は、あなたの人生の中で食べ物が果たす役割にますます気付き、意識して食事することです。観察者でありなさい。食事も含め、全ての行動の間、意識していなさい。あなたの食べる者が有る無しに拘わらず、それが美味しいかどうかに拘わらず、ニッティヤーナンダ・クリヤー(訳注:第二イニシエーションで明かされる技法)の修練をしなさい。気づきと平衡(静けさ)を養いなさい。本能の奴隷になってはなりません。研修を受け、本を読み、完全で美味しく健康によい簡素なヴェジタリアンの食事を試しなさい。消化の具合に注意しなさい。あなたを元気づけ、あなたを支配しているドーシャのバランスに役立つ食べ物を選びなさい。

 あなた自身を肉体的に愛するということは、疲れた時に休息することも含んでいます。真我の気付きの妨げとなる疲労困憊を避けなさい。あなたの腺が十分なエンドルフィンを分泌し、あなたの内なる様々なシステムが健康を維持するよう十分肉体的な運動を行いなさい。ストレスの影響を制御するために、クリヤーヨーガの五重の道の修練を行いなさい。定期的な18のポーズとプラーナヤーマと瞑想の修練はこれに十分なはずですが、それらを補うために他の運動を行うことも歓迎します。

あなたはどのように自身を感情的に愛せますか?
 自身の感情を蚊のように扱う者もいますが、感情はメッセンジャーなのです。我々はそれらを殺したり抑圧したりしようとするより、メッセンジャーが運ぶものを理解しようと努めるべきです。あなたが怒り、心配、恐れ、憂鬱を感じる時にはいつも、自身に「何故なのか?」を問いなさい。四番目の瞑想の技法を使い、その感情が湧き起こり、それがあなたに何を教えようとしているか熟考しなさい。あなたが感情的になった時、その状況をコントロールしたいのか、それとも愛されたいのかを自身に問いかけなさい。そして「誰がそれを望んでいるのか」、「私という存在は誰なのか」と問いかけるのです。執着によって愛が汚れた時、あなたの期待通りにならなかったとき、あなたは苦しみます。無執着により、即ち他者から何かを得ようとの期待を手放すことにより、あなたは苦しみを避け、エゴイズムからも自由な、無条件の愛を経験することができます。

 聖歌や献身の歌、儀式や巡礼といったバクティ・ヨーガの実践を通じてあなたは否定的な感情に関わるエネルギーを肯定的な感情に変換することができます。例えば、あなたが落ち込んでいると感じるとき、感情を込めて聖歌を歌いなさい。これは厄介な感情を解放するのみならず、あなたのハートを愛と献身で高揚させることでしょう。これは否定的な感情を過食、飲酒、喫煙または他の中毒症になりやすい行動を通じて解消することより遥かに勝ります。感情はあなたの友とも敵ともなりえます。すべてあなたがそれらをどのように扱うかにかかっています。

あなたはどのように自身を精神的に愛せますか?
 このレベルにおいて、我々は五感を通じてあなたのマインドに入ってくるものについて気にかけます。あなたは眼、耳、皮膚、鼻そして舌を通じて自分をどのように養っていますか? あなたは暴力、欲望、怒り、恐れといったイメージ(映像)で、あなたの潜在意識を満たすたぐいの娯楽を求めていませんか? 単に気を紛らわすための行動であなた自身を養おうとしていませんか? それともあなたに霊感を与えるイメージと、平衡と自己覚醒を養う助けとなる行動を選びますか?

 あなたの家またはアパートはどのように見えますか? 散らかったスペースはありませんか? あなたが最早必要としていないものを手放すことで、新たなスペースを作ることができますか? あなたの居住空間を清潔にし、整理整頓なさい。清潔は敬神に次ぐ美徳です。ババジがあなたを訪ねて来るその日に、あなたがそうするであろうように綺麗にしておきなさい。香を焚きなさい。装飾をやり変えなさい。献身の歌を歌いなさい。あなたのマインドと魂を高揚させる音楽を演奏したり、聞いたりしなさい。あなたの家の一部をヨーガの修練の為に確保しなさい。そこを道場とし、ヨーギーでありなさい。他者に奉仕するための音楽、芸術そして環境を創造することで、「神」があなたのマインドを通じて「愛」を表現するに任せなさい。

あなたはどのように自身を知的に愛せますか?
 あなたは何を読むべきでしょうか? あなたが読んでいる本はあなたを向上させるものですか、それともそれは単なる気晴らしですか? あなたの健康を増進させ、精神を向上させ、瞑想を実践することを促し、あなたの個人的な成長に役立つ、感激するような物語を多く読みなさい。それらがあなたの問題を解決する助けとなるでしょう。愛には拡大が伴い 、知性は好奇心を持ち、質問をして答えを求め、熟考することを許された時に拡大します。人々は余りにもしばしば、そのリーダーが真理の唯一の貯蔵庫だと主張するスピリチュアル系のグループや宗教に参加します。多くの場合彼らに遵う者に対して、他の何物も読まないように、更に悪い場合、質問をしないように・・・つまり彼らの言うことを何でも盲目的に受け入れるよう伝えます。率直に言って、これが宗教の問題です。あなたは神から与えられた知性を拒むことで自身の知性を欺きます、そしてこれは、知性を愛することの逆なのです。もし「神」があなたに羊であって欲しいと望んだなら、「神」はあなたに人間の頭脳を与えなかったでしょう。科学的に取り組みなさい。質問し、答えを求め、実験し、自身の経験を記録し、自身の行為と反応を研究し、他人のものと比較するのです。全ての典籍(情報源) から学びなさい。あなた自身の主人になりなさい。他の誰かにあなたを支配させてはなりません。誰に対してもあなたの力を明け渡してはなりません。考えて熟考する力を放棄してはなりません。知性が必ずしも全ての質問に答えられる訳ではありませんが、多くの問題を解決することができます。あなたの経験を、聖典で教えられていることと比較するのにその知性を使いなさい。神の導きと霊感により、「神」があなたの知性を通じて働くに任せなさい。

あなたはどのように自身を霊的に愛せますか?
 本来霊的な(スピリチュアル)という言葉は、愛そのものを意味していました。しかし今は、死人と言葉を交わしたり、霊媒、サイキックパワー、体外離脱といったりするものを意味するあいまいな言葉になってしまったかもしれません。しかしこれらは、真の霊的な愛とはほとんど無関係です。霊性を開発するための最良の方法は、あなたの考え、言葉そして行動のすべて、そして日々の生活の最も小さな仕草までも愛のネクターの内に浸すことです。例えば、あなたの友人、家族、他人を配慮と愛情をもって扱いなさい。あなたが他人に対しどんな考えを持っているかに気づきなさい。あなたの想念を変えなさい。それぞれの人の中に、良い点、優れた点を見るよう努めなさい。他人を悪く思うことであなたは彼らとあなた自身の中の否定的な傾向を強化しているに過ぎないのです。

 他人にとって役立つこと、向上に資することだけを話しなさい。さもなければ、沈黙を守りなさい。

 バクティ・ヨーガを定期的に実践しなさい。家の中に祭壇を設け、そこにあなたが崇拝すべき「神」の様相を示す肖像か象徴を置きなさい。聖歌を歌って祈りなさい。それがあなたの無条件の愛に相応しいと考えることで、あなたはその愛を味わうことでしょう。そうした経験は余りにも素晴らしいので、その対象が人々であれ動物であれ対象物であれ、あなたの経験すべてにそれを付け加えたいと思うことでしょう。もしあなたがある集団に惹かれるのであれば、そのグループの奉仕活動に参加しなさい。

あなたのグルの導きに任せなさい:「神」との共同創造者になること 
「神」或いは至高の存在は、それに何という名を付けようが、あなたを愛しています。それは、グルを通して、またシュリ・オーロビンドが「霊的存在」として言及している自然の中に必然的に含まれる魂を通してあなたを導くことも求めています。「神」とその道具である人間の「グル」は、同情と叡智をもってあなたの本当の性質、即ちハイアーセルフまたは魂においてあなたを愛しておられます。しかし、もし「神」と「グル」がただ同情しているだけであるなら、彼らはあなたを生活の幻影から救い出すことはできなかったでしょう。あなたは彼らの同情を、現在のあなたの在り様に対する愛と誤解してしまうことでしょう。もし「神」と「グル」が単に聡明であって同情を欠くのであれば、恐らくあなたは弟子として、自己変容に対する要求のもとでつぶれてしまうでしょう。弟子というのは、グルとの建設的な関係を妨げたり、遅らせたりする誤解、期待、幻想、錯覚に陥りがちなものです。

 あなたが「神」を愛するある段階で、あなたは自身の人生を創造する能力と責任を持つことに気づくでしょう。通常の「眼を開けたまま夢を見ている状態」を超えて、創造的な段階に到達するでしょう。あなたは創造的になるのです。叡智と真我実現の道に沿ったものだとあなたが知っている夢、そのあなたの夢に対して忠実であり続けます。「神」は最早離れた存在ではなく、あなたは「神」との共同創造者だと感じます。

 「神」は慈悲深く与えます。「神」は霊感を与えます。あなたが何かを起こそうとの意図を固めた時、宇宙はそれを成就させるためにあなたをサポートする力を下さいます。あなたはそれを実現させる為、一生懸命働かなければならないかもしれませんが、自分が行為者ではなく、単なる道具だと感じます。宇宙がその面倒を見てくれると信じ、あなたは忍耐強く結果を待ちます。あなたは現在にとどまり、あなたが必要とすることを行っている間にものごとが成し遂げられます。あなたはますます「神」の御意思に自身を同調させます。しかし、こうしたことは、エゴの要求や好みを純化するにつれて生じるのです。その結果が何であれ、あなたは(「神」の)祝福を感じます。
以上