ババジ関連記事 翻訳版

ババジのクリヤーヨーガジャーナルなどに掲載された記事などを翻訳し、クリヤーヨーガの修行者の参考にして頂くものです。

神のヴィジョン

2019-08-09 10:40:59 | スピリチュアル

KYJ 2019 Summer
M.G.サッチダナンダ


 あなたは一瞬であれ、シヴァ神(以下、シヴァ)、あるいは(悟りを開いた)覚者の眼で世界を見ることができますか? あなたのマインドを神の視点で見続けるようにする高次の再訓練法がここにあります。それを繰り返すことで、あなたは一種の悟りを開いた状態の強力な記憶力、または「真理」の潜在印象を引き出すことでしょう。

 修練:眼を閉じ、次の瞬間、あなたの肉体が完全に空っぽであると想像しなさい。視覚化すべき何物もありません。単に内なる空間を凝視しなさい。
 再び眼を開けてこれを読み始めたとき、あなたが見るものまたは経験すること全てはあなたの気付きの内側で生じていることを認識しなさい。そして、それゆえ、全てはあなたの内にあり、あなたは全てです。「すべては私の中にある」との考えを認識しながら、あなたの気付きが外に向かってますます拡張するのにまかせなさい。
 「あなたが全ての内にあると認識する時、肉体への執着は消え、歓びと至福が湧き上がる」(ヴィジュナーナバイラヴァ・タントラ 104節)
 見るもの、見られるもの、見る行為はあなたの内にあり、(そこから)全ての生活が始まると認識しなさい。
 「すべての存在の意識をあなた自身のものと感じなさい」(ヴィジュナーナバイラヴァ・タントラ 107節)
 この認識に伴って真実の思いやりが生じます。これは単なる他人の経験に対する感情移入ではありません。あなた自身の気付きの中に他者が感じていることを感じるのです。それは記憶、言葉、表情とは関係なく、「私は存在する」(という認識)、純粋な存在感から湧き起こるのです。
 完全な実在、シヴァの無限の精妙さについて瞑想しなさい。あらゆる場所にあり、光り輝き、それ自身をあらゆるものに変容させることができ、全てを知り、あらゆる行為を行う無限の気付きについて考えなさい。創造し、維持し、破壊し、曖昧化し、顕す神の力について熟考しなさい。この五つの神に帰すべき力が、あなたのうちにも顕現していると熟考しなさい。
 「シヴァは偏在し、全能で、全知だ。汝はシヴァの属性を持つがゆえにシヴァと同類だ。自身の内の神性を認識せよ。」(ヴィジュナーナバイラヴァ・タントラ 109節)

あなたと同様、シヴァがあなたの内に住んでいることを認識しなさい。それが刻一刻あらゆるものになり、あらゆる場所、あらゆるものの内に、そしてすべてに浸透していると認識しなさい。今、存在と変化の自身の気付きに同調しなさい。エゴと肉体を超えて存在する「私」がシヴァです。私のマインドはその偉大なマインドと共にあります。私は「それ」です。私はシヴァです。
 「波が大洋から起こってはその中に消え行き、炎が火から燃え上がっては消え、太陽の光線が来ては去るように、宇宙に存在するすべては顕れては私の中に消え去る。」(ヴィジュナーナバイラヴァ・タントラ 110節)
 周囲を見渡しなさい。あなたの意識がすべてを感じ、見、聞き、触れ、嗅ぐのにまかせなさい。そのすべてはシヴァのようにあなたの内に湧き起こります。これまで、あなたのニューロンのプログラムはあたなと宇宙の分離を作り上げてきました。いつの日か、シャクティがスイッチを切り変え、分離した自己はフィクションであることをあなたに示します。あなたがその神の意識のユニークな表現として生きる間、それでも、あなたは無限の真我であり、それが創造するすべてはあなたの内にあります。
 「想念が一つの対象物に引き付けられたとき、このエネルギーを利用しなさい。その対象物を超え、そこであなたの想念をこの空っぽで光り輝く空間にとどめなさい。(ヴィジュナーナバイラヴァ・タントラ 129節)
 これは最初眼を閉じて行いなさい。それが感覚であれ、想念であれ、呼吸であれ、感情であれ、マインドが留まろうとするものから引き離しなさい。それらが消えて行くのに任せなさい。支援なしでマインドを留まらせ、それ自体が決して落ち着くことはなく、あちらこちらに動き回る単一のエネルギー体であることに気付きなさい。
 あなたのマインドを自由にしなさい。
 「バイラ―ヴァはあなたの輝く意識と共にある。バイラ―ヴァの歌を歌い、人はシヴァになる。」(ヴィジュナーナバイラヴァ・タントラ 130節)
 この最後の瞑想は、エネルギー、つまりあなたの経験するすべてのものを現わすシャクティへの集中を必然的に含みます。その素晴らしさはすべての源である絶対的な存在、意識、至福を経験することにあります。経験の内にあるエネルギーに集中し、その周囲にマインドが作り出す状況を手放すことで、経験する対象物すべては、シッダたちが“シヴァ・シャクティ”すなわち意識のエネルギーとして言及する悟りへの戸口となります。それを行なうことであなたは理解、歓び、感謝という形で恩寵を受け取ることができます。創造、維持、破壊、曖昧化、恩寵というシヴァ・シャクティの五つの機能は、全ての経験においてあなたの内で継続的に顕れています。例えば、あなたが自身の人生のドラマに没頭し、疑問を持ち、落胆し、怖れ、混乱を経験しているときに曖昧化が生じます。あなたがそれらを手放し、あるいは引き離すことを学んだ時、あるいはこの最後の節で推奨されたようにそれらの背後にあるエネルギーにただ集中するとき、恩寵はあなたの内に流れ込みます。

内なる気付きに対する九つの障碍
神のヴィジョンすなわち悟りの視点を開発するには、自身が何であるかだけでなく、何がその視点を維持することを妨げるのかを認識する必要があります。
ヨーガスートラの第1章30節で、パタンジャリは内なる気付きに対する九つの障碍があると説きます。
「病気、精神的不活発、疑念、不注意、怠惰、対象への耽溺、誤った知覚、確固とした基盤を確立できないこと、不安定、こうした意識の乱れが障害である。」
・病気には、身体的なものも精神的なものも含まれます。病気は、日々のストレスへ反応した結果です。
・精神的不活発は、エネルギーが不足し、気づきを維持できない時に生じます。エネルギーを浪費したり、疲労に陥ったりすることを避けなければなりません。
・疑念とは、物事を疑うマインドの傾向であり、答えを見つけようという思いがないと、努力を続けることに対して悲観的になってしまいます。
・不注意とは、注意の足りないこと、注意が散漫であること、習慣的な注意不足のことです。
・怠惰は、習慣の一つであり、熱意不足や落胆が原因で起こります。
・対象への耽溺は、欲望が助長される時よりも、欲望を手放せない時に起こります。
・誤った知覚とは、根元的な現実を見ないことです。
・確かな基盤を確立できないことは、忍耐や我慢強さが足りない時に起こります。
・不安定とは、修練に一貫性がないために、人生の浮き沈みの中で平静さを保てないこと、つまりつかの間の光景に入り込んでしまうことです。

 パタンジャリはまた、第1章31節で、これらは次の四つを伴うと言います。それらは、身体の震え、呼吸の乱れ、抑鬱、落ち着きのなさです。 肉体及び精神的な乱れに伴うこうしたものによって、我々は、自分がいかに真我を見失ってしまったのかに気づくことができます。

 これらに続く節で、パタンジャリは、こうした障碍とその症状への対策として、マインドの平静さを養う12種類の異なる手段を助言しています。

社会的関係において真我実現を維持すること
 マインドの平静さを養う12種類の手段の中で、パタンジャリが社会的関係を含む対処策から説き起こしていることは注目に値します。人間として、我々は肉体的そして感情的な必要性から、社会的関係に依存するよう進化してきました。しかしそれはしばしば、苦悩と人間ドラマの最大の根源です。
 「幸せな人たちに対しては友好的な態度を、不幸せな人には思いやりを、徳の高い人には喜びを、不徳な人には平静さを養うことによって、意識は乱されることなく、落ち着きを保つ。」(YS I-33節)
 霊的な高みを目指さない場合でさえ、これらを行うことによって、どのような人の人生でも穏やかなものになります。マインドには、たびたび反対のことをする傾向があります。厳密な意味でこれらの態度はしばしば進化の途上にある人間的な性格と衝突するので、パタンジャリは五つの社会的制約(禁戒)に対する処方箋としてこれらについて詳述しています。
 「自制(禁戒)は非暴力、正直、不盗、貞操、欲張らないことである。」(YS II-30節)

 幸せな人に対する友好、善意:我々は幸せな人に対して嫉妬したり、妬んだりし、その人たちの粗(あら)を捜そうとすることがあるので、この態度を養うことが必要です。例えば、誰かが、自らの労働の結果を物質的な面で享受している時、我々は嫉妬するかもしれません。しかし嫉妬するのではなく、「彼らが繁栄し続けますように」と言った方がいいのです。
 苦しんでいる人に対する思いやり:自らの思考や行動で他者に対してできることがほんのわずかな時でさえ、思いやりを持つことによって、自分のマインドと感情が変容します。「悪いカルマの報いだ」などと言って他者を判断したりしないことです。
 徳の高い人に対する喜び:彼らを見習い、そうした人がいることを喜ぶこと。
 不徳な人に対する平静さ:こうした人に影響されないこと。判断を下さないこと。何かに苦しんでいるかもしれない人を軽蔑するのではなく、こういう人たちも愛すること。我々は他者の行いを判断することなく、他者を愛することができます。他者の行いを判断すると、その軽蔑している性質を自分の中で強めてしまうだけです。一般的に、我々は自分の中にあるものを他者の中に見て非難します。世の中は自分の内にあります。世の中を変えるためには、自分の思考を変えることです。他者の過失は大目に見ること。欠点について考えてはいけません。欠点について考えると、思考がその人に伝わり、欠点を強めてしまうだけです。
 これらの態度を養うことによって、マインドが浄化され、揺らがない落ち着きがもたらされます。

修練:次のことについて瞑想し、その態度を養うこと。幸せな人に対する友好、不幸な人に対する思いやり、徳の高い人に対する喜び、不徳な人に対する平静さ。これらの性質を養うために対人関係を用い、結果としてもたらされる落ち着きに気づくこと。

叡智、即ち完全な知識の達成について
 「礼拝は捧げもの(供物)中にではなく、ハートが二元的な想念から離れた至高の意識であるとの認識の内にある。完全な情熱の中でシヴァ・シャクティは真我の中に溶け込む。」(ヴィジュナーナバイラヴァ・タントラ 147節)

参考文献 
・「パタンジャリとシッダのクリヤー・ヨーガ・スートラ」by M.Govindan
・「反対の行動」by M.Govindan