ババジ関連記事 翻訳版

ババジのクリヤーヨーガジャーナルなどに掲載された記事などを翻訳し、クリヤーヨーガの修行者の参考にして頂くものです。

悟りを開いた僧侶 Part1

2021-03-28 09:58:40 | スピリチュアル
悟りを開いた僧侶(Part1)


By Durga Ahlund

Kriya Yoga Jounal, Spring 2021

 何十年にもわたる真理探究を通じ、至福・美・優雅・寛大といった悟りの状態を垣間見せてくれる何人かの輝く存在に出会うことができた私はとても幸運だったと言えます。子供のころですら、私は誰なのか、自分の体のどの部分に居るのか、なぜここにいるのかといった疑問に印象付けられ、惹かれる漠然とした感情を持っていました。私は常に自分の魂が人生を導いてくれ、必要な時には進路を変えてくれるとすら期待していました。
 霊的なことにうすうすと気づいていた小さな子供のころは、大人は、少なくも何人かの大人は神と、そして当然ながら彼ら自身の魂と直接接する方法を知っているのだろうと確信していました。青春時代と若かったころは失望をもたらしただけでした。信仰を失い、懐疑的になっていました。その後有名なインド人のグルに出会い、二十代から三十代の私に希望がもたらされました。生まれながらに悟りを開いていたかもしれない本当の聖人に出会ったこともあります。そのうちの多くはあなた方がこれまで会ったか、少なくも名前を聞いたことがあるでしょう。これから私が四十代の時に出会った、聖人のような修行者二人について話します。
 
 2002年の春、ゴーヴィンダンと私はとても若いスワミ・ジャガードグル・ラマナンダ・アーチャリアに出会いました。彼は二百歳以上のスリ・スリ・サドグルデヴ・ブラーマリシ・バルファニ・ダダジの弟子でした。バルファニ・ダダジはしばしば個人的にとても親しくしているニーム・カロリ・ババとマハーアヴァター・ババジの心地よく愉快な話をして下さいました。
 こうした神聖な人々との出会いの話は、2002年2月、ゴーヴィンダンがバルファニ・ダム・カルサのメンバーからの電話を受けたときにはじまりました。その電話は、カナダのアシュラムで、現在ヒマラヤの中で生活している二・三人のシッダを受け入れ、もてなすことに興味がないかとの質問でした。「何ですって?もちろんです!」バルファニ・ダダジはカシミール地方で高まっている核施設の事故の可能性を懸念していると電話にでた人物は詳しく説明しました。彼の心配は、インドの議事堂に対する襲撃事件が起きた2001年12月以降強くなってきました。おそらくISISに率いられた、パキスタンに基地をもつ二つのグループが何人かを殺害したのです。
 ゴーヴィンダンはその申し出を受け入れ、それはバルファニ・ダダジに伝わりました。それから数か月、連絡はありませんでした。5月末にゴーヴィンダンは同じ弟子から二度目の電話を受け、ゴーヴィンダンと私はスリ・ダダジのカイラース山への巡礼に同行するよう招待され、7月1日に出発することになりました。その当時私はカナダのクリヤーヨーガ出版で編集者として働いており、ハタヨーガのDVDを制作したり、ハタヨーガのインストラクター養成コースを開発したりして教え、二年間の通信教育講座も開発していました。私たちも手一杯だったのです。しかしバルファニがどうして私のことを知ったのかは分かりません。

 7月に予定していたすべての予定を中止し、バルファニ・ダダジに会うため、インドールに向かうことにしました。ケベックのアシュラムにシッダ達を迎えることについて彼に直接聞きたかったのです。多分カイラース山の巡礼で彼に同行することになるかも知れません。6月末に私たちはニューデリーに着き、以前ゴーヴィンダンと話した弟子、V氏の出迎えを受けました。V氏はとても社交的かつ鷹揚な方で、彼の素敵な家で夜まで過ごすよう私たちと他の一行を招待してくれました。その晩は皆とても楽しく過ごしました。翌日は、インドの中心部から少し西に外れたマディヤ・プラデーシュ州のインドールへ飛行機で向かいました。
 インドールに着いてすぐ、バルファニ・ダム・アシュラムに直行し、スリ・サドグルデーヴァ・バルファニ・ダダジに会いました。彼はこれまで会った誰よりも優しい魂の持ち主でした。とても二百歳を超えるようには見えず、七十代の男性のように見えました。彼は微笑み、私の視線をとらえ、とてもはっきりと見つめたので、二三分で私の過去の出来事をすべて読み取ってしまったように感じました。彼が言うには、私はババジの弟子ですが、周りにサイババも見えると言いました。サイババについて言われたことでとても驚きました。私は十日間だけ彼のアシュラムに行ったことがあるのです。多分彼が見たのはそれでしょう。彼はゴーヴィンダンと私を連れてヒンディー語でにこやかに話しながらアシュラムを案内してくれました。通訳を通じ、私たちがオームカレシュワルの小さな島から戻った後、話をする時間を取りましょうと告げました。彼は私たちに昼食をとってからそこに行き、そこでタパス(熱烈な修行)を行っている彼の弟子、ジャガドグル・ラマナンダチャリアと話をするよう言いました。彼は私たちと一緒にインドールに戻り、その時シッダ達の話とカイラース山への巡礼について話すことになりました。自然にできた沢山のリンガと共に、ナルマダ川にあるオームカレシュワルを見ることができるということで、私たちは喜び、興奮していました。昼食をとって直ちに、ニューデリーから一緒に来たインド人の信者約十人の一行と共に出発しました。
 オームカレシュワルは長さ2Km、幅1Kmで、インドールから約70Km離れ、オームを絵にした形をしている島です。それはナルマダ川とカヴェリ川の合流点に位置します。そして、オームカレシュワル・マハデオ寺院で礼拝されるために置かれている、それ自体にパワーがあり、輝いているリンガで良く知られています。オームカレシュワルには多くのヒンドゥー教やジャイナ教の寺院があり、とても稀なブラマーの寺院もあります。アディ・シャンカラチャリアの洞窟があり、シーク教の創始者であるグル・ナナクはその神聖なエネルギーを吸収するためにそこに来ました。沢山のシーク教徒が巡礼でこの島を訪れます。その島の場所全体に神聖さを感じさせます。
 私たちは宿泊所に入りましたが、そこはとんでもなく手入れが行き届かず、荒れていました。簡素さには慣れっこでしたが、そこの状態にはぞっとしました。ゴーヴィンダンも他のインド人の誰も言葉を発しなかったので、私も気持ちを言葉に出すのは控え、自分たちの荷物を置いて内扉に鍵をかけました。外側のドアの蝶番はガタついていて、ドアを開けるのには力を入れてグイと引くだけでした。貴重品は身につけ、町の観光に出かけました。まるで夢で一度見たことがあるように奇妙な親近感を覚えました。一行の人たちと一緒に昼食をとりましたが、彼らのエネルギーは低下してきていました。そして私たちもあちらこちらに移動させられ、いら立ちが募ってきていました。率直に言ってグループの中に敵愾心が生じていました。私たち以外は皆本土側に残って寺院やバザールを訪れ、その後島を一周したいと思っていました。私たちがしたかったことはボートに乗ってナルマダ川を渡り、ラマナンダチャリアがタパスをしている島に行くことでした。ゴーヴィンダンと私はグループと別れる決心をし、土産物店の中にぐずぐずとどまっていました。彼らには私たちの行き先が判っていました。

 ボートで川を渡り、ガイヤトリ寺院とそのアシュラムのすぐ下の地点に着きました。ガイヤトリ寺院は素晴らしいエネルギーを持っていました。修行者が借りられるいくつかの素敵な小さな部屋がありました。寺院に向かう坂を登って行くと、愛らしい小さな少女が私たちに駆け寄ってきました。彼女はその寺院の司祭の娘でした。彼女に、スワミ・ラマナンダチャリアの居場所を知っているか英語で聞いてみました。少女は素晴らしい笑みを投げかけ、私の手をとって彼の部屋に向かって走りました。私たちが到着した時、スワミは部屋の中でした。少女が彼の名前を呼ぶとスワミはすぐに出てきました。ジャガドグル・ラマナンダチャリアは四十歳くらいの魅力的な男性でしたが三十歳ほどにしか見えませんでした。体はがっしりしていてハタ・ヨギではないかと思いましたが、彼のレベルの修行者には珍しいことに思えました。彼は私の心を読んだようで、少し眉をひそめました。彼はゴーヴィンダンの来ることを予知していたようでしたが、私が近づいて行くと少し困惑したようでした。彼は少女の手を取り、ダンスをして彼女をくるくると回しました。二人は深い愛情で繋がっており、私は魅了されました。
 スワミジは黙って、言葉を書くのに使う石板を取り出しました。お茶を飲みますか?彼は尋ね、ゴーヴィンダンの方に体を向けました。はい、是非お願いします。私は彼が申し出を辞退する前に答えました。スワミジは笑って私に頷き、小屋の中に入りました。二人の若い男性が私たちを見に一旦外に出て、お茶を入れるため小屋に戻りました。
 少女がお茶の準備を手伝いました。その後四時間、私たちは静かに座り、スワミジと彼がいともたやすく石板に書く話にくぎ付けになりました。最初の内、彼は私と私の質問を無視してゴーヴィンダンとだけ話しました。私はこのやり方が面白いと思いましたが、質問を続け、まもなく彼は、私が彼の世界に入ることを認め、お茶を飲み終える頃には彼ととても親しくなったと感じました。
 スワミジはゴーヴィンダンの師匠だったヨーギラマイヤと会ってニューヨークのグラハムヴィルにあった小さなカーリー・アシュラムに滞在したこと、ニュージャージーでバルファニ・ダダジのパレードに参加したこと、その時バルファニが雨雲だらけのまったくの曇り空を、その後ずっと晴れの日に変えてしまったことについて話しました。私は彼の称号、ジャガードグルを授かった由来について尋ねました。彼は、アキール・バルティヤ・ディガンバ・アニ・アカーラ派に属していることを詳しく説明し、ジャガードグルの称号をその組織から授かったことについてはとても謙遜して話しました。彼が話をするとき、威張った様子はまったくなく、私の質問にいらだったりそれを無視したりするようなこともありませんでした。彼の口調は明快で正直で控えめでした。彼の純粋さ、シッディ、そして気さくさに私は深い部分で当惑していました。
 スワミジはカイラース山でババジと会ったこと、すべての人に教えるべき技法をババジが彼にどのように与えたかについて話してくれました。それは非常に単純な技法で、一定の期間、特定のリズムでアウムを二度唱えることでした。彼が言うには、それがほとんどの人にとって定期的にしようと思えるすべてであり、真のご利益をもたらすのだそうです。彼は私たちに、ウェブサイトで見た、サントパンスタールでババジがマタジと座っている絵が欲しいと言いました。私たちはそれを、同じ絵を印刷したTシャツと一緒に送ることを彼に約束しました。
 ある時点で、彼はババジがハヌマーンの生まれ変りだと話しました。すると突然、ちょうど彼がハヌマーンとババジとの関係について話し始めた時、ジャングルの猿が大声を上げ始め、猿の一群が、小屋のポーチに座っている私たち目がけて突進してきました。私が急いで自分の財布を掴むと、ラマナンダチャリアは笑いながら私の方を見て、怖がることはないとでも言うように手のひらを私に向かって上げました。そして石板に「何も起きることはないようにしますよ。」と書きました。本当に驚いたことには、猿たちは小屋の片方の壁のところで止まり、そこに座りました。そして付け加えるべきは、あたかももう一度ハヌマーンの話をスワミジから聞きたいかのように、それはとても整然とした座り方でした。私は少しも誇張していません。更に付け加えることがあります。すでにそこに同じように止まっていた小鳥は、猿たちが私たち目がけて突進してきても、微動だにしませんでした。それは漫画のおとぎ話の世界にいるようでした。
 ゴーヴィンダンと私は顔を見合わせ、スワミジと鳥と猿を見てから肩をすくめ、夢見心地の静けさの中で彼の書く物語を読みました。彼はまだ話していませんでした。つまり、その物語を静かに書き、そこにいたすべての男女、子供、動物を催眠術に掛けてしまったのです。
 それからスワミジはもう一つ、とても素敵なことをしてくれました。それは彼が瞑想に使う洞窟に案内してくれたことです。洞窟は丘のかなり下のほうに地中深く掘ってありました。しばしば島を強いモンスーンが襲うのにも拘わらず、洞窟の中は乾燥していました。スワミジは自分ですらそのことに驚いていると言いました。洞窟の中には素晴らしいドゥルガの神像と絵が飾ってあり、私に見て欲しいと言いました。私たちは約一時間そこで瞑想させてもらいました。インドの友人がそこに来た音を聞くまで瞑想は続きました。オームカレシュワルの神聖な島のラマナンダチャリアの洞窟で瞑想できたことはとても素敵な恩恵でした。

 私たちが洞窟から出てきたとき、V氏と彼の一行は皆ポーチに座っていました。彼らは多くの理由で私たちを避けていたように思います。V氏はスワミに背を向け、彼のハンモックで横になっていました。他の者たちは、その日の出来事について彼に話していました。私はこうした人々に深く失望しました。彼らの内一人として、純粋な光と力の神聖な権限であるこの若い修行者に向けられるべき尊敬を示していませんでした。
 グループの人たちはスワミとカイラース山への巡礼について話し始め、その翌朝に彼は私たちと一緒に戻らねばならないと伝えました。V氏は彼にバルファニ・ダダジの
メモを手渡しました。スワミジは石板に、バルファニ・ダダジが彼に頼むことは何であろうと行い、私たちと朝インドールに戻ると書きました。
 グループはその晩彼にホーマ(火の儀式)を行うことを依頼し、スワミジはそれを執り行うことを了承しました。しかし彼は、その晩願ったことは何であれ叶えられるので、最初に深い瞑想を行ってその願いを良いものにしなければならないと告げました。彼は私たち全員にライスとダールの食事を用意してくれました。それは美味しかったものの、その午後の素敵なエネルギーは、わがままな一行によってかき乱されました。彼らは皆ラマナンダチャリアの弟子と言っていましたが、尊敬の念が足りないように私は感じました。

 お茶のお替りをもらうとき、若者の一人にいつもスワミジと一緒に居るのか尋ねました。彼は、いつも二人が彼に付き添わなければならないのだと言いました。彼はしばしばとても深いサマーディに入り、立て続けに数日間そのままなので、彼らが面倒見なければならないのだと言いました。バルファニ・ダダジから、彼と一緒にいて彼を守り、彼が食べたり飲んだりすることを確認するよう言われたそうです。
 ラマナンダチャリアは大学を卒業して初めてバルファニ・ダダジの処に来ました。彼は一風変わったダルマ(使命)を持つ特別な修行者でした。私は、彼が学んだことを私たちに教えるためにこの世に留まりたいか尋ねました。彼は教えることに興味がないことを認めました。「この肉体はそれが要求されることを何であれ行います。私はバルファニ・ダダジとババジが私に求めることを行うだけです。」その日は驚嘆すべき一日でした。沢山の出来事がありました。夜の火の儀式はどんなものになるのだろうか、と私は思いました。












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サマーディ:達成までどれほどかかるのか?

2020-12-27 08:49:26 | スピリチュアル
サマーディ:達成までどれほどかかるのか?
或いは、如何に時間の無駄を省き、気づきを持続させるか


By M.G.Sachidananda

Kriya Yoga Jounal, Winter 2021


 サマーディの恍惚境を味わうのにどれほどかかるのか?この疑問は多くのヨーガの生徒にとって霊的修養の道を歩み始めるときばかりでなく、疑念を抱いたり落胆したりした時に重くのしかかる。時間がない、あるいは時間の制約があると感じているときは特にこの疑問は切迫したものになる。「私にはヨーガの練習をする時間がない」という言葉を多くのヨーガの生徒が心の中で繰り返す。

如何に時間の浪費を防ぎ、気づきを持続させるか
「君は目を開いたまま夢を見ている。それが苦しみの原因だ。」我々人間の病状に対するこの診断は、師匠ヨギ・ラマイアによって繰り返し私に印象付けられた教えの一つだ。そして有能な医者が患者に処方箋を与えるように、彼は講義の中で「起きて目を覚ませ」「ババジのクリヤーヨーガの修練をしなさい」と繰り返したものだ。「夢を見ている」という彼の言葉の意味は、マインドのおしゃべりや会話、そして生気体の感情を指す。「夢」から目覚めるため、彼はサーダナ(ヨーガの修練)を処方した。それは、「自身が誰であるかを思い起こすために行えるすべてであり、あなた自身でないものとの同一視を手放すために行われるすべて」と定義される。
 クリヤーヨーガの技法は別として、彼の与えてくれた最も価値あることは、それを練習しようとの誘因だ。その一部は、ババジのクリヤーヨーガにおける5重の道における様々な技法を練習するのに毎日何時間を費やしたか記録を毎月書面で彼に報告することだった。具体的には、アーサナ・バンダ・プラーナヤーマ・瞑想・マントラ・バクティ、そしてほかに自分の仕事の時間と毎週定められた沈黙行と断食を行ったかどうか。私が3か月間、最低週56時間のサーダナの記録を提出し、その間フルタイムで仕事をし、断食と沈黙行も10日以上行うとすぐ、南カリフォルニアにある彼のアシュラムの住人として受け入れられた。それは1970年の9月のことだ。そしてそれから18年間これを続けた。自分の時間をどのように使ったのかを記録し、報告することで私は時間を無駄にせず、気づきを保つことを学んだ。この点に関しては私の著書、「The Wisdom of Jesus and Yoga Siddhas」(訳注:日本語版は未刊)を参照のこと。

時はマーヤ(幻影)の仲介者
 時はエゴイズムつまり収縮した意識状態を伴うマーヤすなわち精神的錯覚の五つの仲介者のうちの一つだ。サマーディは、制限された時・知識・力、そして欲望とカルマからなるマーヤの五つの仲介者を超える拡大した意識状態に入った時に生じる。それらが一緒になって、雲が青い空を見る妨げとなるように、それらの集合的な力はすべての制限を超えた「我は『それ』なり」、あるいは「絶対的実在」「意識と至福」「サッチダナンダ」の認識を覆う。
 我々が本当の目撃者すなわち真我であることを忘れ、意識を制限され、縛られた精神的あるいは感情的な状態のまま放置しておくと苦しみが生じる。これらの仲介者はしばしば混ざりあっている。例えばあなたが何かするのに、「私には時間がない」というマインドの声を聴いたとき、なにかを「したい」との限定的な執着、あるいは何かを「したくない」という限定的な嫌悪感がそれに付随している。あるいは、「私にはできない」といった能力を限定する考え、「どうしたらよいか分からない」といった知識を限定する考えは、しばしば「私には時間がない」という考えと混ざり合っている。そのような考えが切り離されることなく、その考えに耽ったり、フラストレーション・罪悪感・恐れ・疑惑・憂鬱といった感情と共にそのような考えが強くなったりしたあなたの苦しみは酷くなる。「私は怒っている」とマインドは言う。「もう怒っていない」と暫くして言う。どちらも本当ではない。あなたは常に存在しているものでしかありえないのだ。想念や感情の反復が永遠の錯覚を生み出す。
 そうした制限からの解放は、ババジのクリヤーヨーガの第一/第二イニシエーションで教えられたように、想念を手放し、瞬間々々の気付きを養い、手に負えない感情にうまく対処することを学んだ時に生じる。あなたのストレスの殆どはそうした感情の制限の結果だ。そうしたことが組み合わさり、ヨーガの修練に対する優先順位が低いという代わりに、「時間がない」と信じ込ませ、あなたを欺く。我々は皆一日に24時間ある。したがってあなたが練習の時間がないという時、実は「練習の優先順位が低い」と言っているのだ。このヨーガのサーダナ(修練)にささげられる時間をあなたはどれほど無駄にしているのだろうか?
 あなたの癖(サンスカーラ)と性格が過去(ヴァーサナ)に住するとき、カルマの制約が顕れる。日々の生活の中でクリヤーすなわち気付きを伴った行為を養うことにより、そして繰り返しサマーディに入ることにより、あなたはカルマの束縛からの自由を勝ち取る。

サマーディすなわち認識作用の没入状態
 私の師、ヨギ・ラマイアの説明によると、サマーディとは「真理すなわち神と合一した無呼吸状態」である。呼吸が停止するとマインドも停止する。瞑想に関する師の最初の指示は、シッダ・パーンバティ及びダビデの詩篇の引用だった。「心を静め自身が神であると知れ。」つまるところ、あなたは何が気づいているのかに気づくことになる。
 無執着と内なる目撃者である真我の視点に対して自我(エゴ)の視点を明け渡すことを養いながら想念とそれに伴う感情を観察することを学ぶことにより、そのような心の静寂すなわちサマーディへの道を歩み始めることができる。想念の合間にある時間のない空間に集中しなさい。この「観察」は何もせず、何も考えず、何も感じないことだ。しかしそれは、過ぎ去っていく行動・想念・感情を観察している。「トーマスによる福音書」42節でイエスが述べた通り「過ぎ去り行くものとなりなさい。」

クリヤーヨーガの修練に関するパタンジャリの処方箋
 ヨーガスートラ(以下、YS)Ⅱ-1でパタンジャリはクリヤーヨーガを次のように定義する。タパス(熱烈な修練)、スヴァディヤーヤ(自己探求)、イシュヴァラ・プラニダーナ(最高神への明け渡し)。(それらの目的は)「苦悩を弱め、認識の没入状態(サマーディ)へと導く(YSⅡ-2)。
「常習と無執着により(意識の揺らぎと自己を同一視すること)が停止する。」(YSⅠ-12)
 YSI-13では、何を練習すべきかが明確に述べられている。「こうした背景から、『意識の揺らぎと一体になっていない状態』に留まる努力が常習である。」

 熱烈な修練すなわちタパスには三つの要素がある。それらは意図・努力・忍耐である。意図は、自身気ままにふるまうことを拒否することから始まる。それは何らかの執着や嫌悪感から一歩引きさがることを必然的に含む。修練の時間に関しては、例えば「私は一回に最低30分、一日に二回の瞑想をする」と毎日繰り返しなさい。これは努力と意思の力、そしてある一定の期間一貫して繰り返すことを必要とする。なぜなら、他の性癖や傾向からくる抵抗があるからだ。繰り返し、そして日課として修練を行うことによって意思の力は徐々に発達する。結果としてあなたは、欲望や嫌悪感の対象物があろうがなかろうが、単に楽しむことのできる平衡状態に到達する。

パタンジャリは次の節で直接我々の疑問に答え始める:
「修練しようと固く決意した修行者にとって、サマーディの達成は目前である。」(YS1-21)
マインドが内に集中し、絶対的な至福に満たされるサマーディすなわち「真我」の体験を垣間見ることがあるかもしれないが、本当の課題はそれを持続し、安定した状態にすることだ。そうするために、目撃者としての意識を養い、注意散漫になりがちな傾向からマインドと五感を内に向ける強烈で熱狂的な献身を伴う修練を行う必要がある。集中と目撃者としての意識が自動的に生じ、継続するなら、それは熱烈で確固たる修練(ティヴラ・サムヴェガ・サーダナ)として知られているものだ。我々の内にサマーディを一瞥した時にはいつも、それを外部の生活にも同様に持ち込むのが賢明だろう。シヴァ・スートラに曰く、「世界の至福は霊的合一(サマーディ)の至福なり。」

修練:普遍的な愛のヴィジョンを養い、この世界のすべてのものを「神」として受け入れなさい。

そしてYSI-22で、どれほどの時間が必要かを決定付ける条件に言及する。
 このように(如何に早くサマーディに到達するかの)特徴別の差異は(ヨギの修練が)弱いか、中程度か、熱烈であるかに因る。
 弱い修練とはムラがあり、散発的で、疑念に満ち、浮き沈みがあり、注意散漫でサマーディに到達できない。中程度の場合は、強烈で献身的な時期の後、練習を忘れたり、注意散漫になったり、否定的な考えや癖にふけったりする。熱烈な修練の特徴は「真我」であることを忘れないという絶え間ない決意と、成功と失敗、喜びと苦難、愛・忍耐・他者への同情の中で成長することを通じて平衡心を維持することだ。それは我々が選んだ神の形を礼拝するか、沸き起こる欲望を超えてすべてに浸透する神を見ようとするときに強烈になる。その出来事や環境の強烈さがどれほどのものであろうが、幻影に満ちたドラマ限りの登場人物の演技がいかに優れていようと、我々は終始「神」を見続ける。

如何にしてサマーディを持続させるか?
 YSI-17とI-18で断続的なサムプラジュナータ・サマーディ(有想三昧)と継続するアサムプラジュナータ・サマーディ(無想三昧)の両方を説明した後、パタンジャリはYSI-20で、サマーディを持続するために何が必要かについて記述する。
「他のヨギにとって、アサムプラジュナータ・サマーディの達成のための先行条件は、強烈な献身・勇気・マインドフルネス・サムプラジュナータ・サマーディ・真の洞察力だ。」
 サマーディが持続するようにするため、繰り返し断続的なサムプラジュナータ・サマーディに入る必要がある。そうすることで徐々に人間の性質の三つの汚れ、すなわちエゴイズム・マーヤ・カルマを漂白し尽くす。そこに到達する者は、次のことを発展させることでそのようになる。

シュラッダ:ヨーガに対する明らかな信仰、自分の能力・修行法・師匠に対する信頼を伴う熱烈な献身。
ヴァーリャム:そのような信仰・信頼から生じ、感情的にも修練が支援される強力な献身を生み出すエネルギー・熱狂・勇気。
スムリティ:これまでの経緯と学んだレッスンを、俗世の視点に後戻りしないよう忘れることなく、注意深さを保つための記憶。
サマーディ:毎日サマーディに入ること。マインドの揺らぎや注意力散漫によりそれが安定したものではないとしても、ヨーガの修練によってそれは進歩していく。
プラジュニャ:識別・洞察力。絶え間なく注意深い自己観察を続けることにより、人生の様々な出来事を通じて洞察力と導きを受ける。

霊的なエネルギーと力が集中力と注意深さをもたらす。これらは次いで、これまで歩んできた人生、つまり自身が受けてきた試練の記憶を呼び起こす。この記憶が継続的な気付きをもたらす。そのような継続的な気付きは「真我」と「偽我」(エゴ)の識別をもたらす。
アサムプラジュナータ・サマーディ(認識する対象物のないサマーディ)、継続的な認識作用の没入状態は時として悟り(Enlightment)として言及されるがそれは、持続性がなく、認識する対象のあるサマーディ(サムプラジュナータ・サマーディ)と、YSI-20で詳述された、修練と師匠に対する信頼・情熱・注意力・識別・記憶力といったある種積極的な傾向を養うことの結果であり、これらは古い習性を解消することを可能ならしめる理想的な状態を作り出す。

サーダナ(修練)の日課を守りなさい
 目標を厳守する意思はサンカルパという言葉で知られている。それには三つの要素がある。現在あなたがやりくりできると信じる程度の時間から始め、それを定期的に実践すると意図しなさい。少なくも一週間後に、あなたの定期的な修練以上の時間を要する新たな日課を定めなさい。自身で説明できるよう、毎日様々な種類のサーダナにどのくらいの時間を費やしたのかを記録しなさい。これによってあなたがいかに時間を無駄にしていて、自身の時間をどのように使うべきかより良い選択をする手助けになる。さらにあなたの修練を強力なものにする。

修練:修練に没頭しなさい。毎日一歩ずつ前に進みなさい。すべてのものを、あなたの進化のため、完全に展開しつつある「神の計画」の一部として見なさい。ヨーガの様々な修練に毎日どのくらいの時間を費やすのか明確な目標を定め、それを記録しなさい。

「目撃者としての真我」に留まり、誤った自己認識を手放すとの意図をもって実践するすべてのヨーガの形態を含むサーダナによって潜在意識は浄化され、二元性は溶けていく。そしてあらゆる場所における「神の臨在」に気づくようになる。奉仕活動を通じて我々は卑小なエゴに基づく自我と些細な問題を忘れ、普遍的な愛のヴィジョンを発展させる。

参考図書
・「パタンジャリのクリヤーヨーガ・スートラ」(日本語訳:近日発売予定)
・「イエスとヨーガシッダの叡智」(日本語訳未刊)

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偽情報、不信、識別、ダルマ

2020-10-14 08:05:53 | スピリチュアル

KYJ2020 Fall

By M.G.Satchidananda

 過去10年間、ソーシャルメディアが広げている偽情報は勢いを増している。知ってか知らずか、既存の伝統的メディアもまたその程度はずっと少ないものの、偽情報を広めている。結果的に多くの者が伝統的なメディアの情報を信じないという罠にはまってしまった。ジャーナリズムの高度な基準に従ってニュースや情報を製作する伝統的なアプローチ(姿勢)は余りにもしばしば妥協を許している。我々の課題は、現在生じている事件・事象を識別した上で、我々の社会的責任を果たすことにある。

 この状況に対する最終的な責任は、ニュースの消費者(購読者・視聴者)にあるものの、何故かくも多数の者が、ファーストフードの消費者のように影響されてしまうのか、その理由を理解することは役に立つだろう。どちらのケースも見つけ易く、安価で、我々が好むという先入観を積み込み、嫌いなものは避け、その製作者は自身の利益の為に我々の無知を利用しようとしていて、しかもそれは癖になる。

 陰謀論の蔓延、社会的分断の増大、伝統的メディアの放棄、大衆政治と独裁主義の高まりがその最も顕著な結果だ。この記事は、2017年春のKYJ、「大衆政治とヨーガ修行者としての義務」が終了したところから始まるので、この記事を読み進める前に、まず以下の記事(ただし英文)を読んで頂きたい。https://www.babajiskriyayoga.net/english/flexpaper-ui/journal-spring-17-art.php それ以来状況はかなり悪化してしまったので、ヨーガの修行者がダルマ(徳性)を守るために従事すべき九つの義務の内の最初の三つは、ここに再掲するに値しよう。

「今日ヨーガの修行者の義務は、不傷害・正直・不貪というヨーガの禁戒(社会的制約)を日々の生活の中で、そして国家のメンバーとして遵守することだと確信している。更にそのうえで、修行者は調査的な報道を通して真実を伝えるという困難な仕事をしている者たちとその選ばれた代表者を直接・間接にサポートする義務がある。ヨーガの修行者はこの義務を多くの方法で果たすことができる。

1. ヨーガの修行者はメディア・リテラシー(基本能力)を高めるべきだ。それは、メディアにアクセスし、分析し、評価し、そして創造する能力だ。それは我々の批判的思考法の技術を高め、メディアの情報がいかに我々の文化と社会を形成し、我々自身の経験・能力・信念・価値に基づいてメディアを評価し、バイアス・情報操作・誤報・虚偽を認識することに役立つ。
2. ヨーガの修行者はジャーナリズムの高度に専門的な水準を保持しているメディアによって報道された重要な問題に関連する事実を求め、判断を下す前にヨーガの叡智に照らしてそれらについて熟考すべきだ。
3. ヨーガの修行者は高度に専門的な水準を保持しているニュースメディアを購読すべきだ。政治家の声明を検証する調査報道を行うため、マスコミ、特に伝統的な紙の新聞や雑誌が広告収入の減少の中で生き残ろうと躍起になっている今、それに協力してくれる市民の支援を必要としている。

陰謀論のパラドックス
 自身が陰謀論を信じているということを信じる者は誰もいないということは何というパラドックスだろう。しかしそうした者たちは存在し、我々全員にとって非常に破壊的な結果をもたらす。陰謀論は、通常の出来事に対する標準的な解釈を拒み、逆に隠れたグループや組織が秘密の計画を実施していると信じる理論だ。流言、そしてそれらの明白な亜流、陰謀論は以前の世界秩序が逆転し、従来の参照基準がその確実性と妥当性を失い、新たな集合的な解釈の引き金となった時に生じる。流言はリスクに晒された大衆の対応メカニズムとして現れ、それらは怒りの感情・恐れ・悲しみ・絶望・不安を助長する。感情的な反応と結果が大きければ大きいほど、逆の事実が報道されたときですら、人々はその問題が彼らの世界観に心地良く収まるように組み替えてしまう。

 陰謀論は一方で、市民と伝統的な権威との間の関係を悪化させるため、ニュース購読者の中に否定的な感情を醸成することを意図する。陰謀論は確立された権威と権力組織に対する不信を作り出そうとする。「既存の体制」に関連するすべての組織と人物が容疑者だ。それらは政治家、メディア、専門家、科学者、医療機関、薬品会社そして医者だ。そうした主張は、科学とジャーナリズムの高度な倫理基準を支援する機構そのものが腐敗していると同時に、いかに科学が事実に到達するか、ジャーナリズムの守るべき高度な倫理基準とは何かについての無知が蔓延していることを利用する。

 私は、ヨーガ教室の生徒ですら、新型コロナウィルスが悪意をもったエリートによって宣伝されたペテン或いはでっち上げなのだと主張しているのを聞いて失望した。陰謀論はウィルス自体と同様に通常は変容する。新型コロナウィルスに関連するものには、その発生源はビルゲーツだとか、中国の軍事研究所だとか、米国の軍事関係機関だとか、5Gネットワーク、或いはそれは実際には存在しないのだというものまである。他の陰謀論は、地球温暖化のデマ、闇の権力、9.11に関するもの、ケネディ暗殺、ケムトレイル、米国政府がUFOとETを隠していること、反ユダヤ主義、フリーメーソン、イルミナティ、アンチキリストなどが挙げられる。過激派のテロ集団は合理的な調査もしないで、「もし私が彼らを破壊しなければ、彼らが私を破壊する」という信念に基づいて、自身の行動を正当化する。ワクチン接種反対論者は、反証する科学的証拠もないまま、ワクチン接種は子供の自閉症を惹き起こすと信じている。彼らはまた、政府は人々に新型コロナウィルスのワクチン接種を強要するだろうと信じている。

 ピーター・クレコはその著書「マス・パラノイア」(偏執狂となった大衆)の中で、「経済的・政治的・社会的危機の時代においては、予期されない出来事に対する理由付けを行うために陰謀論に頼ろうとする誘惑が特に高くなる。その背景として三つの理由を挙げよう。それらは、社会が制御不能になっているという感覚、情報と知識の欠如、否定的な事件によって惹き起こされる不安感だ。自分たちの日々の生活に対する脅威を投げかける出来事に対して何もできないと人々が感じたとき、熱心過ぎるほどその説明を求めることで、それを制御する幻影を再構築しようとするかもしれない。途方もない出来事には伝統的かつ正規の説明を超えた途方もない解釈が必要だ。さらには、欲求不満と不確実性だらけの歴史的時代において、敵或いは犯人を特定しようとの必要性は驚くべきものになる。」と書いている。

大きな嘘
 偽情報のもう一つの出処は時々「大きな嘘」として言及されるが、それはその主唱者が、もしそれが事実として十分な時間繰り返されるのであれば、多くの人々がそれを信じるようになるだろうと信じ、偽の情報を繰り返し絶え間なくソーシャルメディアに溢れさせることだ。
 これに関連するのは「マジカル・シンキング」として言及されるものだ。トランプ大統領は新型コロナウィルスの感染拡大以来ずっと、「これはすぐに消えてなくなるだろう」との意見を表明する時はいつも、この主張に魔法のようにとか、自分はそう希望するといった言葉で和らげることすらしてこれを示してきた。一方で、それに対する政府の責任に対しては単に「わたしには責任がない」と表明していた。ポジティブ・シンキング、「新たな思考法」、「カオス・マジック」の力に対する彼の生涯にわたる信念は、よく書物に書かれている。トランプは、「どんなことでも警告なしに、変わり得る、そしてそれが、私が現在起こっているいかなることもあまり重大視し過ぎないようにする理由だ。」と言う。

 結果的に我々の個人的且つ人類のダルマ(徳性)を目覚めさせてくれるべき機構が、今日ポピュリストと独裁主義的な指導者によって皆深刻な脅威に晒されている。この脅威は識別の実践を、専門知識への不信と悲観主義に置き換えてしまった者たちによって増幅される。

 ダルマ(徳性)は、目的に沿った社会秩序と定義づけられ、古典ヨーガにおいてはヤマ(禁戒)即ち社会的制約として言及される。そしてその目的は、人間の可能性を実現することと、人間の性質から生じる苦悩を避けることにある。五つのヤマ(禁戒)は、

1. アヒムサ:不傷害、そしてその積極的な表れは親切
2. サティヤ:真理の表現と探求、嘘をつかないこと
3. アスティヤ:不盗 
4. ブラフマチャリア:貞節(梵行)
5. アプリグラハ:不貪

 より広義には、ダルマは永遠で内在する真の性質、正しい行為と社会的秩序の根底にある宇宙の法則と定義される。

 多くのヨーガの生徒、そして教師ですら、彼らは超健康で恐れがないので、ヨーガスタジオの中でソーシャルディスタンスや衛生面の注意を無視できると主張するとき、上記のヤマ(禁戒)を無視していることを知り、私がいかに驚愕したことか。彼らはコロナの無症状の患者として、いかに他者に感染させることがあるのかを無視している。彼らは思う通りに健康でない人たちの価値を完全にないがしろにしている。これは、おそらくは批判的な思考法、政治討論、ウィルス学に接していないことによるものだろう。これはおそらく、ある者(組織)が、自分たちの代替医薬品またはまさに従来の型にはまらない現実の好ましい形を宣伝する手段として、医療科学を軽視する必要性ともないまぜになっている。

識別の必要性
 識別即ちヴィヴェーカとは、それによってダルマ(徳性)を守ることのできる主要な手段だ。それには真理の探究が必要だ。それは無知そして学ぼうとしないことに対する反作用であり、それには努力を必要とする。科学と原則に基づくジャーナリズムと正統派のヨーガは真理の発見または実現という目的を共有する。科学はそれを事実として言及し、試行錯誤・観察・記録・比較を通じてそこに辿り着く。ジャーナリズムはある原則に従うことでそこに辿り着く。更に言えば、ジャーナリストは懐疑主義的であるよう訓練される。ヨーガはそれを叡智即ちジニャーナとして言及し、自身の経験を至高の権威とし、伝統的な文献は比較のための第二義的な拠り所とする。これがヨーガを、ある特定の聖典が権威と真理の最高のものだと主張する宗教と区別する。古典ヨーガは、「熱烈で継続的な修練と、真我探求と、エゴの視点を明け渡すことから成るクリヤーヨーガによってのみ(サマーディとして知られる)真我実現に到達できる」と断言する。

 ヨーガは我々一人ひとりがスヴァダルマ、すなわち個人的な「自身」の目的を充足すべく努力することを求める。それには、我々の魂の義務である真我実現と共に、家族のメンバーとして、市民として、指導者として、専門家として我々の置かれた状況・環境・人生での地位に応じた責任が含まれる。市民として我々はそれぞれ、社会のすべてのメンバーの必要性と可能性を守り、充足させることをその本来の目的として持つ社会秩序を守る市民の義務を持つ。こうした必要性には、健康・安全・教育・正義の追求、そして人間としての権利の向上が含まれる。この義務は市民が、社会の進化する必要性を促進するため政治的諸問題を研究し、明示し、討議する代表者を選出できるよう十分な情報を得ることを確実にすることを求める。この市民の責任を遂行するため、市民は信頼に足るニュースと情報を提供するメディアを購読しなければならない。それが市民をして、選出された代議士の説明責任を把握するのに役立てることを可能にする。信頼に足るニュースと情報の出処には、伝統的なメディアの内部・外部双方で、ジャーナリズムの高度な倫理基準が必要とされる。

ジャーナリズムとは何か
 「ジャーナリズムとは、人は認知するが、個人の経験の範囲外即ちあなたが何か他の事をしているとき、あなたが居ないところで生じている、コミュニティの中で起こっていることに関する報告である。・・・ジャーナリズムは民主主義にとって必須のものだ、なぜならそれは、都市・州・国家の境界を超える共有された現実感を造り出すからだ。この共有された現実無しでは、哲学者ユルゲン・ハベルマスが世論の形成される場所を記述する為に用いた言葉『公共領域』は存在できない。この前提は、共通の理解の公共領域即ち議論すべき対象を造り出そうとする意図が、自然災害・選挙速報・国家元首の死、或いは他の大惨事といった大事件が報道範囲に入っていなければもはや遂行できないということだ。」

 メディアに通じた者はジャーナリズムのそうした高度の基準を満たした情報源とそうでない情報源を識別する。ジャーナリズムの高度な基準の一つは中立性であり、それは「現在起きている状況に対して価値を与えたりそれ以上のことを述べたりしない」ことだ。そしてこのことは、「言葉とその調子において抑制を利かすことであり・・・客観性の証明書」となる。これは読者の歓心を買ったり、視聴者や読者の意見を変えようと意図したりする批評家・論説委員・中小のメディアとは対照的だ。悲しいことには、今日のすべての主要なメディアは、その対象とする領域に明示的或いは内在的なバイアス(偏向性)を抱えている。それゆえ、メディアを一つだけに限定するのではなく、すべてのメディアを国内外問わず、ニュースを識別しようとの意図をもって俯瞰的に見ることが重要だ。

 もう一つのジャーナリズムの高度な基準は、報道予定の事実を少なくも信頼できる二つの情報源で確認することだ。論説委員は裏付けの取れない主張を誠実に識別するための判断を下す。彼らはまた、報道に誤りがあった時にそれを取り消す報道をする責任を持つ。伝統的なメディアがそうした基準を適用しようと努力する時、価値あるものとなる。

フェイスブック(以後FB)・グーグル・ビング・アップルを含むソーシャルメディアのニュース情報源は、ジャーナリズムの基準によって規制されていない。
彼らの目的は、株主の為に株価の価値を最大化することだ。通常彼らは伝統的メディアの報告済みのニュースを借りているが、特にFBは、明らかな独裁主義者たちの政治的圧力の為に、その報道において中立性から外れてしまった。「12人以上のFB元従業員と現在の従業員、そしてワシントンポスト紙(以後WP)が入手したが以前報告されなかった文書によれば、FBは誤ったミスリーディングな報道に対する自制の努力を抑え込んでしまい、明らかに政治家の嘘を許容する方針を採用し、保守的な報道機関に対して偏向しているという意見を中立化するためのニュース選択アルゴリズムを変えることまで行った。・・・現従業員及び元従業員によれば、トランプの権力が強大になるにつれ、彼の怒りに対する恐れは、人々がウェブ上で見るニュースのバランスを傾け、増加している右派よりの人々に対してより控えめな行動をとるようFBを突き動かした。」(2020,6/28WP)

あなたは引き続き、受け取るニュースを何にするか決めますか?そしてそれにお金を支払おうとしますか?
 更に言えば、その後FBやグーグルといったソーシャルメディアの巨人は、あなたの偏向性や好みに関するより多くのデータを取得し、こうした偏向や好みに関連して誰にどんなニュースを提供すべきかを決定するアルゴリズムを開発した。2018年夏季号のクリヤーヨーガ・ジャーナルに掲載した三部作の内の二作目、「人間至上主義後の世界における完全なる自由」で論じた通り、人類は、ビッグデータとコンピュータのアルゴリズムを使って、自分たちが知っていると思う以上に自分たちのことを知っている企業に対して、意思決定の自由を譲り渡しつつある。

 伝統的なメディアではなく、そのようなソーシャルメディアの巨人からのニュースを読むことで、何のニュースを読むべきかについてあなたは自身が操作されることを受け容れている。結果的に自分たちの目的のために社会秩序・ダルマ(正義)・国民全員のより大きな善良さを蝕もうとしている独裁主義者やその手先からそれらを守るというあなたの責任を蔑ろにしていることが立証される。

 一方で伝統的なメディアを購読することで、彼らがニュースと調査特集を報じることにおける主たる責任を果たし、ソーシャルメディアの巨人との競争において収益の上がる企業として生き残ることを助けることになる。あなたはまた、報道の中立性に影響しかねない政治的・経済的な圧力に彼らが抵抗する助けとなる。

嘘つきの独裁主義者からの攻撃に耐えながらいかに報道の中立性を維持するか
国民の知る権利と、選出された政治家に説明責任を求めることができるその当然の結果は、論理的で理知的な証拠だけが求められ、経験的に実証可能な事実だけを報告するというジャーナリズムの基準によって厳しく制限されてきた。

ジャーナリストが中立性を保とうと努力することは政治的な声明であり、報告の対象が虚偽の証拠を含むときには見直されなければならないということを認識すべきだ。虚偽の証拠とは、だまそうとの意図をもって嘘をつくことと定義される。一方で政治家はしばしば半分の真実を語るが、もし彼らが嘘を繰り返し続けるなら、ジャーナリストはそこにだまそうとの意図があるということを推定でき、そして推定する義務があり、それゆえ嘘として報告できる。さもなければ、ジャーナリストは政治家がだまそうと努力していることの共犯者だ。それによって彼らは国民の知る権利を無力化し、政治家に説明責任を課する。

ジャーナリズムは次のことを自認しなければならないだろう。それは、メディアは内在的な政治関係者であり、その言葉の選択は政治的決定であり、そうした決定を下すためには民主主義社会の中に市民が持つべき政治に関する議論を形成し、それを手助けする責任を引き受けるということだ。

政治家の演説 なぜ社会道徳が脅かされるのか、それを守る我々の義務をいかに果たすか
 政治家の演説は、異なるものの中に共通の立場を見出し、社会の中で共に生活するルールを話し合う目的で現実に焦点を当て、想像力をかきたてる。2017年のクリヤーヨーガ・ジャーナル春期号で、私が書いた記事を再掲する価値があると思う。

「ダルマ、意味のある社会秩序は、これらの加速する変化の力、問題解決には格子にはめ込まれたような政治システムの無能・怒り・憎しみ・陰謀論・外国人嫌い・偏狭性・民族主義・女性蔑視によって単に政治体制に攻撃の火をつけるにすぎない大衆政治運動のリスク、そして宗教の宗派主義に対する抗議によって脅かされている。市民の権利、自由で独立したマスコミ、代表制民主主義を保障する機構を改革し、守る為に市民のできることは何だろうか? 大衆政治が、選ばれた公務員による権力の乱用に向かうことを防ぐために一人の人間ができることは何だろうか?」

 この記事の続きを下記のリンクから、ヨーガの修行者がその義務を行使できる八通りの方法について読みなさい。独裁主義的な権力は善悪の判断する権利を主張することによってではなく、そのような道徳の原理を無効にすることで、道徳の力を弱めることを必要としている。それは悲観主義、そして理想・ヴィジョン・道徳性の追求を表現しようと求める者を嘲笑することによってなされる。道徳の相対主義のこの時代、手段が目的によって正当化され、道徳という言葉に対する尊敬すら失われ、世界中の独裁主義者たちは人類の発展に大いに貢献する貴重な仕組みを壊しつつある。それは報道の自由・民主主義・人権・法の支配・裁判制度の公平性だ。

 道徳性の追求がこうした仕組みの基盤を形成する。その表現はこの時代に浸透しつつある悲観主義を克服するため、作り直さる必要がある。道徳性の追求に対する説得力のある議論を提唱できる新たなリーダーたちが必要だろう。彼らが実例として、そして人間的性格の制限を克服することにおいて見せる叡智と経験によって道徳的な指導者は前面に出、権力ではなく威厳、富ではなく平等、競争ではなく結束に焦点を当て、何が可能なのかのヴィジョンを言葉で語ることができ、またそのように語らなければならない。

以上







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KYJ 2020Summer 集中 人生を神聖化する

2020-07-23 11:44:37 | スピリチュアル
KYJ 2020Summer 

By M.G.Satchidananda


人生に選択はつきものだ。通常我々は、生活する文化圏の慣習と個人的な習性や傾向によってその選択は決定されている。文明(Culture)という言葉は、礼拝あるいは最も高く評価するというラテン語のCulteに由来する。現代文明において、もっとも高い価値が与えられるのは物質的なもの、個人の自由、消費、娯楽、安逸だ。

 今日(こんにち)母なる自然はコロナウィルスのパンデミックによって我々の物質文明に異議を唱えている。このことは我々一人ひとりに、優先順位、価値、文化を再評価する良い機会を与えている。気候変動とパンデミックのような展開から来る人類に対する生存の危機は物質文明の行きすぎに起因する。個人的にも全体としても、質の悪い食事、排出物、大気汚染、物質主義から生じる社会的・精神的な病弊によって我々自身を死に追いやっている。そういうわけで、我々自身を癒し、種として存続するために母なる自然は今、物質文明を諦めるか、さもなければ死を、という選択肢を与えている。個人的にも全体としても、今は生活すべてを神聖にする時だ。何であれそれを神聖にするというためには、それを全一なるものの一部で、その微粒子として見、そして扱う必要がある。そのことは、すべてのものがそこから生じ、すべてのものがそこに消え去って行き、時間に拘束されない至福の意識の無限に広がる空間である「それ」に集中することを必然的に含む。

 一つのものがどのように多くのものになり、多くのものがどのように「一つ」になることができるのだろうか? この疑問に対しヨーガは哲学や聖典に拠らず、ワンネスを経験することを可能にする技法で答えてくれる。一点或いはビンドゥー或いはマントラ・オームのような聖音、或いは種の音節であるビージャマントラに集中することで、ヨーギは36の階層すなわちタットヴァとして知られる自然現象の原理を突き抜け、「それ」即ち絶対的存在・意識・至福と自らを同一視する。

 この俗世の生活から神聖で内在する実在への浸透は、ヨーガの修行者が集中力のみならず世俗的な生活との関係を断つための能力と純粋さを開発した時に生じる。安逸、注意力散漫、時間の無駄、些細な興味や感情的な衝動に精神力を分散させる生活上の癖と同様、煩わしい記憶(ヴァーサナ)と否定的な習慣(サンスカーラ)の形での条件付けを切り離すことから始め、ヨーガの修行者はサーダナの目的を追求する。サーダナとは、「自分とは誰か」を思い起こさせ、自分自身でないものとの誤った同一視を手放すために行われるすべてだ。

浄化の手段としてのヨーガ:タパス
 「私は誰なのか?」「どうしたら神を知ることができるのか?」「苦しみの多い俗世の中でどうしたら永続する幸せを見出せるのか」という人生に関する重要な問題は、偉大な霊的な伝統に拠れば、浄化のプロセスによってのみ答えられる。自身を肉体とマインドと同一視するという真我に対する無知とエゴイズムのため、人間として我々は重大な欠陥を持つ。我々の執着と反感はさらなる苦しみをもたらす。ヨーガはこうした人間の不完全さを克服するための実践的手段を提供する。ヨーガは多くの異なった視点から説明可能だが、もっとも役立つ視点の一つは、ヨーガを自己浄化の完全なシステムとして見ることだ。タパス即ち禁欲生活は、性癖の傾向からくる限界を克服することによって自身を浄化するための誓い・意志力・忍耐を用いる。パタンジャリによれば、「タパス(禁欲生活)によって肉体と感覚の不純物が消滅して完全さが達成される」。

 タパスは何らかに対する耽溺を自ら拒絶する意図、すなわち誓いから始まる。その対象は、肉体的な喜び、ある種の食べ物、安易なセックス、テレビあるいは瞑想しているときであれば不要な動きをすることなど、何でも良い。それはある特定の執着または反感から、あるいは「私はこの感情・感覚・想念だ」とのあらゆる考えや感情から一歩引きさがり、それを手放すことを含む。これはヴァイラーギャ即ち無執着として知られている。これは努力と意思力、そして長期に亘る絶え間ない繰り返しを必要とする。

真我実現の手段としての集中力
 集中力即ち意思の力とは単に特定の対象物や仕事にマインドを集中するための力というだけではなく、真我実現の手段だ。幾つかの理由により、古典ヨーガやタントラのような秘教的伝統において集中力は高く評価されている。それは執着や反感の結果生じる苦しみなどを含むマインドの精神的・感情的な動きを突き抜けることを容易にする。その内から現れ、その内に消える「それ」との親しい交流或いは静寂の状態をもたらす。この静寂の中でエゴイスティックな視点を超越し真我が現れる。それは、現在と未来のカルマという運命の決定要素、すなわち潜在的な癖や傾向の影響から人を解放する。

 規則正しい集中力の開発からもたらされるそうした恩恵は、パタンジャリがヨーガスートラの中で強調している継続的で一貫した無執着の養成と結合したとき、徐々にそして漸進的に生じる。この無執着を通じた浄化法は古典的なヨーガと、その目的がパワーを獲得することを必然的に含む呪術的・魔術的な伝統とを区別している。そのような伝統は様々な欲望を満たすためのパワーを求めるものだ。古典ヨーガのような叡智の伝統は、叡智すなわち智慧を求める。つまり真我と、肉体・マインドからなる人格とを区別し、永遠のものと永遠でないものを区別し、苦悩の源と喜びの源とを区別する能力である。

集中力(ダーラナ)を養うためのパタンジャリの行程
 パタンジャリは集中力を養うための六段階の行程を処方している。それらは集中力即ちダーラナを養成するための手段としてのヤマ(禁戒)、ニヤマ(勧戒)、アーサナ(坐法)、プラーナヤーマ(調息法)、プラティアハーラ(制感)である。この養成する(cultivate)という言葉の語源は前出のculteであることに留意のこと。

 不傷害・正直・性的純潔・不盗・不貪の五つの社会的な禁止事項であるヤマと同様、すべてのヨーガの技法は全く同一の振る舞いを求めるものだ、それは人間的な性質が我々に行うよう働きかけることとはまさに正反対のことをするということだ。(これらに関する詳細な説明は、E-Book Opposite Doing「反対の行動」を参照)

 ニヤマ(勧戒)は、特にヴァイラーギャつまり無執着の熱烈で絶え間ない修練即ちタパス、真我探求即ちスヴァディヤーヤ、目撃者である真我の視点に対してエゴ(自我)の視点を明け渡すことだ。

 アーサナの修練の目的は、緊張のない安定した状態を作り上げることだ。パタンジャリは次のように教えている。「緊張を緩和し、完全に一体になることによって(サマーディが確立される)。こうして人は二元性に影響されなくなる。」(YSII47-48)

 プラーナヤーマの修練に関しては、「その結果、(内なる)光を覆っていたヴェールが破壊される。そして、心が集中することに適するようになる」(YSII52-52)。これはヴェールの織り糸が一本ずつ取り除かれて行くように、プラーナヤーマは全体として内なる闇を作り上げている想念を一つずつ取り除く効果を持つ。それによって表面に現れるのは内在する意識の「光」だ。従って内なる光を経験すること自体が最終目的なのではない。マインド・肉体・呼吸が鎮まるにつれ集中は容易になる。

 プラティアハーラ即ち制感は、「五感が自らの対象物から離れ、いわば、意識というそれら本来の姿を帯びた時」(YSII54)生じる。そうでなければ、例えばもし暑いと感じたら、その者は「私は暑い」と言い、真我即ち我々の真の正体を忘れる。例えば目を閉じ、注意を散逸させず心地よく座ることで五感の動きを制御する時、意識は外界の感覚の対象との同一視を停止し、五感は意識そのもののようになる。それは形がなく静かで内に集中した状態だ。五感は鏡のようなもので、外に向けられると諸々の形の世界を反映し、内に向かうと純粋で形のない光を反映する。これは瞑想で座っているときのみならず、日常生活の中での識別を必要とする。余暇の活動として、我々の最高の理想を自身に思いおこさせることを選び、不健全な欲望を刺激したり否定的な傾向を助長したりするようなことを避けることでそれを養うことができる。

 ティルマンディラムは第578節から始まり、10節で制感(プラティアハーラ)の問題を取り上げている。

一歩一歩制感の修練を行い
内に向かう
一つ一つ多くの良きものを内に見る
そしてそこで汝は「主」にまみえん
今、ここで、この後も


タントラのサーダナの手段としての集中と人生すべての神聖化
 古典ヨーガとタントラは人生の物質的な次元と霊的な次元を統合することを意味し、それを促進する教えと技法について言及している。ヨーガでダーラナと呼ばれる集中は、すべての技法にとって基礎的な必須要件だ。

 このプロセスは或るものにとって自身の行為を志向の存在への献げ物とすることから始まるかもしれない。ギーターの中でクリシュナがこのように述べている。「汝のすべての行為を私への献げ物とせよ」。これがカルマ・ヨーガだ。献身的あるいは熟考型の性質の人々は、バクティとラージャ・ヨーガから始めても良い。クリシュナは我々に対し、自分(クリシュナ)に集中するようにと熱心に勧める。ギーターの中で彼はこのように説く。「アルジュナよ、それは至高の存在であり、他ならぬ私(クリシュナ)への信愛(バクティ)によって得られる。万物はその中に在り、それによって全世界は(蜘蛛の巣のように)展開している」(8章―22)

 ここで彼は、これを執着として非難してはならない、というのもこれは単にマインドを向ける方向を意味するからだ。問題となるのはマインドが物事に執着することだけだ。俗世のことがらに対する執着は真我の疎外をもたらすので、我々の本性の要求を充たすためにはただ一つの方法しかない。これは我々のマインドを神に結び付け、神から流れ出てそこに行き着く激しい逆流に沿って自身を前進させることだ。かくして感官の多くの対象を追い求めるにまかせてマインドの力を費消するのではなく、マインドに集中し、マインドを至高の存在に向けなければならない。我々は、内にあって上方に向かう一つの大きな力の中に無数の欲望を溶け込ませなければならない。欲望は我々のエネルギーを拡散させる遠心力なのだ。

 タントラのサーダナは二つの段階からなる。その(1)は人間存在を神聖化・宇宙化すること、その(2)は、太陽と月、イダーとピンガラー、シヴァとシャクティ、好きと嫌い、怠惰と活動といった反対のものを合一させることを通して宇宙を超越しそれを破壊することだ。

 集中は、世俗的な生活から神聖な生活に向かう、人間を宇宙化する手段となる。俗悪な人間生活から退くことで、ヨーギはより深く、より本物の人生を見出すが、それはまさに宇宙的生活だ。実に最初のヨーギの段階を人間の宇宙化に向かう努力ということができる。生物的・感情的な人生の混沌を秩序だったものにするため、アーサナからダーラナ(集中)に至るまで、心理的・生理学的ヨーガの技法すべての中にその意図を見ることができる。

 ヨーガの修行者は集中により、意識の流れを固定化し、壊れた心の連続体を認知し、想念を統合することを求める。ヨーガの技法の内最も初歩的なアーサナですら、自身の体の全体性を意識し、一体感を感じるという同様の目標を持つ。上級の技法は肉体の九つの穴、生気体にあるエネルギーの通り道であるチャクラ、イダー、ピンガラー、スシュムナー・ナーディに対し、マントラと視覚化によって集中することを必然的に含む。生活を単純化すること、静けさ、穏やかさ、落ち着いた姿勢、リズミカルな呼吸、一点集中、こうした修練のすべては多様性と断片化を避け、再統合し、一体化し、完全にするという同一の目標を追求するものだ。

あなたの家をアシュラム、神聖な場としなさい。
 どこから始めるべきか? その環境整備に取り掛かることのできる家庭での日常生活に気づきを取り入れることに集中しなさい。あなたの人生の絶頂期と最悪期、苦痛に満ちた瞬間と喜びの瞬間、幸福な時と不幸な時、常に平常心を養うことであなたは徐々にヨーギになるだろう。我々はもっと多くのアシュラムを必要としている。アシュラムの定義はヨーギの住居だ。だからヨーギになりなさい、そうすれば自動的にあなたの家はアシュラムになる。「私は常に穏やかに活動的であり、活動的に穏やかだ」と自己暗示をかけなさい。

 あなたはマインドではない。あなたはマインドを所有しているのだ。あなたは存在・意識・至福、つまりサッチダナンダだ。そしてこれを完全に悟るため、あらゆる瞬間に、あなたは意識のゲーム、不断の「真我」の気づきをしなければならない。ババジのクリヤーヨーガにおいては、あらゆる瞬間に、そして存在のあらゆるレベルで気づきを養うことを可能とするクリヤーの多くの技法が教えられる。それらには、我々の存在の肉体の次元でのアーサナ、生気体の次元でのプラーナヤーマ(調息法)、感情体の次元でのディヤーナ(瞑想法)、知性体次元でのマントラ、霊的次元での献身的なバクティ・ヨーガを含む。これは単に霊的あるいは垂直方向の進歩にとどまらず、統合的な成長とすべてのレベルにおける究極の完成、即ちシッディをもたらす。

 何時そしてどのようにこれを始めるのか? あなたが忘れない限りできるだけ頻繁にだ。それはあなた次第だ! すべてのヨーガのサーダナ即ち修練は、次のように要約できる。それは、あなたが何者であるかを思い起こすすべてであり、あなたが同一視すべきでないものを手放すためのすべてだ。この瞬間多分あなたは家でこの記事を読んでいることだろう。あなたがこの文章を読むとき、あなたは自身の意識の一部を目撃者として引き下げ、あなたのマインドがこれらの言葉を読んでいるのをみることができるだろうか? あなたは自身の意識を二つにわけたままでいることができるだろうか? そのうちのひとつは見ること、聞くこと、行うこと、考えること、感じることで、もうひとつは単にすべてが行われているのに気づいているだけだ。もしそうであれば、あなたは瞬間ごとに至福を見出すだろう。あなたが気づいているときはいつもこの至福を得ている。この「意識のゲーム」は遊ぶ価値のある唯一のゲームだ。あなたがそれで遊ぼうと思いだしたときは常にあなたが勝ち、目撃者でいることを忘れたときはいつも、あなたは苦しみ、負ける。仮にあなたのカルマが、玄関口に腐ったトマトではなく、バラを運んできたとしても、もしあなたがそのドラマに夢中になってしまうのなら、マインドはすぐに、それはいつ終わるのだろうかと心配し始め、苦しむ。

それゆえ、あなたの家をあらゆる瞬間にこのヨーガの修練を行う場所としなさい。我々は家で何をするのか? 食べ、眠り、顔を洗い、寛ぎ、遊び、家事をする。ババジのクリヤーヨーガで教えられた通り気づきの修練を行う間、これらすべての行動の間中、集中していなさい。以下はこれらのそれぞれの領域における具体的な提言だ。

1. 食事時間:食事につく際、その準備に取り掛かるところから始めて、それを神聖な時間にしなさい。献身歌を歌うかマントラを唱え、食材を刻むとき、料理するとき、テーブルに出すとき気づきを養いなさい。食卓についたとき、祈り即ち食事に対する感謝のマントラを唱えなさい。Ahm Hreem Kram Swahaa, Chitrya Chitra guptraya yamarupy drya Om Tat Sat Om Kriya Babaji Nama Aum. 経験しているすべてを観察する練習をしながら、一口ずつしっかりと噛みなさい。皿を洗い、ごみを出すときですら、この真我に対する気づきを養い続けなさい。
2. 家事と請求書の支払い:「清潔は敬神に次ぐ美徳なり」という古い格言はここにも当てはまる。何時神を迎えても良いかのようにあなたの家を保ちなさい。整然とし、明るく清潔な空間を整えることで、あなたは自身の中により多くの落ち着きを経験するだろう。これを実行しようと努めるとき、気づきを養いなさい。あなたの収入に応じて経費を予算化すること、そしてそれを請求期限に支払うことの学びを通じてあなたは多くのストレスを避け、(督促など)煩わしい反応からマインドを解放するだろう。
3. 入浴と着替えの時間:日々のヨーガのポーズの練習という儀式のとき、入浴と着替えのとき、あなたのマインドを内に向ける訓練をしなさい。あなたの意識の一部を五感とマインドの動きに巻き込まれることから引き下げ、一度に一つのことをしなさい。
4. 子供との遊び:あなたの子供は、どのように自発性と笑いを取り戻し、現在に止まるかを教えることができる。あなたが人生において何を愛しているのかを彼らと分かち合う機会を作り、彼らが自身を表現するように仕向けなさい。彼らのみならず、自身のマインドの反応や内なる対話に対しても良い聞き手となりなさい。単なる行為者ではなく、目撃者でありなさい。
5. 友人との集い:スピリット(霊)は無形であり、本当により重要になるのは、本来あなたが「誰」であるのかだということを思い起こし、サットサンガ即ち真理の集いに同じ考え方を持つ友人たちを招待しなさい。サットサンガは、これまでに感謝し、または理解を深めたこと、歌、聖歌、親睦、瞑想、アーサナ、食事、どんな表現やジェスチャーでも愛情や親近感を現す最高のものを分かち合う形のものが効果的だろう。
6. 睡眠を徐々にヨーガの休息に替えるためにヨーガ・ニドラを練習しなさい。あなたが疲れ切っていないときの意識的な休息から始め、そうすることで眠り込んでしまうリスクを軽減しなさい。あなたの意識を真我の気づきの状態にとどめ、肉体の次元から退くことなく肉体は休むに任せることを学びなさい。

 こうした行動の最中も真我の気づきに集中することで無条件の喜びあるいは至福を経験し、すべてが神聖なものになる。至福即ちアーナンダは、外部の環境が納得できるかどうか、あなたが欲するあるいは欲しないものを入手するかどうかに依存しているわけではない。それはただあなたが、すべてのものがどのように存在するかの気づきの中で、現在にとどまることにのみ依存している。

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心霊的存在 Part2

2020-04-21 10:57:27 | スピリチュアル
心霊的存在:我々の「神」への導入部 (PartII)


 完全に開放された心霊的存在は、シュリ・オーロビンドのインテグラル・ヨーガの実践により、どのような条件のもとで超心的変容をもたらすのだろうか?この小論文はその疑問に答えようと試みるものだ。これは2017年5月3日、フロリダで開催されたシュリ・オーロビンド会議に提出された。

 PartIは次の文章から始まった。「インテグラル・ヨーガの実習者にとっては心霊的存在というシュリ・オーロビンドが使う言葉の明確な理解が必要不可欠だ。それは彼の著作物を通して見出され、彼のヨーガを他と区別する特徴だ。いずれ判るが、それは英語の魂(soul)、真我(Self)、ヒンドゥー語のアートマン、ジーヴァートマン、プルシャとも同等とは言えない。心霊的存在はすべての人のハートの中に存在するが、殆ど常に隠されていて、その働きはマインドや生気体と混じり会っている。それが意識の前面に出てくるまでは、ヨーガのサーダナにおける個人の努力は気まぐれで、これらの動きに制約される。向上心・拒絶・明け渡しという言葉に集約されるシュリ・オーロビンドのインテグラル・ヨーガの修練は、心霊的存在が意識の前面に出てくる程度に応じて進歩を遂げる。これには四つの段階がある。」

明け渡し
 イシュヴァラ・プラニダーナを「或いは神への明け渡しによって認識作用の没入(訳注:サマーディ)が首尾よく達成される」(YS I-23)とパタンジャリがクリヤーヨーガについて言ったように、常時、あらゆる状況下で自身を神に明け渡すことがインテグラル・ヨーガのサーダナにとっての鍵だ。(ゴーヴィンダン 2012:17)

「私の神、そして私のすべて」という言葉はその心底からの表現を集約したものだ。修行者が神に自身を明け渡した日、神御自身が生徒の人生に介入し、すべての困難と弱さを取り除く手助けをし、その臨在によって意識の内に喜びをもたらす。これが生じるための要件は、(1)修行者は自身の能力について無価値だと感じていなければならない。(2)実在し、彼を愛し、その叡智によって如何なることも実現可能な神という存在を全身全霊で信じること。(3)自身の唯一で最終的な拠り所として神だけに専心すること。(ムカージー 2003:87)

 意識を明け渡した状態においては、何を行い感じるにせよ、すべての行動は自身に対する責任から自由になり、重荷のすべてを神に引渡し、完全な信頼のもとで至高の存在への捧げものとしてなされるべきだ。この明け渡しに対して否定的に働く修行者の性癖となった意識と性質の中において多くの抵抗と反対が生じる。何ら保留することなく、ただ神の導きのみに自身を委ねるべきだ。そのように行ったことがどうして判るのだろうか?シュリ・オーロビンドは、真の明け渡しを行った修行者の心の内面を克明に記述した。

 「私は神を欲し、それ以外何ものも欲さない。神に対して私自身をすべて捧げ、私の魂はそれを望むゆえ必ずや神と出会い、神を悟る。私はそれ以外の何ものも求めず、求めるのは私を神に引き寄せる内なる神の行動であり、それは秘密であれ開示されたものであれ、覆われたものであれ明らかなものであれ神の御業だ。自身の都合ややり方にこだわらず、神の都合とやり方ですべてを行って頂く。神を信じ、その意思を受け容れ、神の光・臨在・歓びを絶えず求め、神に頼り諦めることなくすべての困窮と障碍のなかを突き進む。すべては神のため、自身も神のためにある。何が起きようともこの希望と明け渡しを守り、これが成就するとの完全な信頼の中で歩み続ける。」(オーロビンド 1972:587)

 したがって修行者のサーダナすべての責任を引き受けるのは神御自身となる。「神のできないことは何もない。もし確信と信頼をもって神に自身を捧げれば、ハートと性質は浄化され、内なる意識が目覚め、覆いは取り払われる。そして仮に一度に完全にできなかったとしても、それを更に行うほどに、内なる助けと導きが現れて神の体験は深まる。もし疑念が活動を弱めてつつましやかになり、明け渡しの意思が強くなれば、それは完全に可能になるはずだ。」(オーロビンド 1972-586-88)

それでは、もし自己の明け渡しがそれほど強力であるなら、どうして人はそのように行うことができないのか? 「なぜそれがなされないのか? 人はそれについて考えず、そうすることを忘れ、古い習慣が戻ってくるからです。そして取り分け、心の中、それどころか潜在意識の中の隠れた場所で、あなたの耳の中でこの秘かな疑いが囁くのです。・・・あなたは本当に愚かで、訳が分からず、バカなのであなたはそれに耳を傾け、自我の声に注意を向けはじめ、すべては台無しになります。」(マザー 2004:257)

 新たな個人的取り組みはそこで終わるのだろうか? そうではなく、普通の修行者の意識と意志は、ヨーガの達人のように、神の意識と意志に結び付いた状態からは程遠く、それゆえすべての好き嫌いと共に分離した自我意識の中でまだ生活している。守るべき枢要な原則は、行為の果実(成果)すなわち結果を神に対して差し出すことだ。さもなければ人の行動は単なる自我(エゴ)を満足させるためのものとなる。シュリ・オーロビンドの言葉によれば、人はすべての行為において次の態度を維持すべきだ。

 「神が私の唯一の避難所だ。すべてのことにおいて信頼し、頼りにするのは神であり、神だけだ。私は神の意思に完全に従う。行く手にあるどんな障碍も、分離の暗い雰囲気も神に対する絶対的な信頼を決して揺るがすことがないようにする。」(ムカージー 2003:93)

 しかしこれで修行者は満足すべきではない。シュリ・オーロビンドの言葉はこの点を明らかに示している。「しかし至高の恩寵は『光と真理』の状態においてのみ働く。即ち、誤りや無知によって置かれた状況のもとでそれが働くことはない。なぜなら、もし誤った要求に屈するのであれば、それ自体の目的を損なってしまうだろうから。」(マザー 1972:1,3)「すべてのことには条件がある。もしヨーガの条件を満たすことを拒否するなら、神の介入を求めても無駄だ。」(ニロドゥバラン 1983:197)

 効果的な明け渡しは必ずしも、すべての将来の嵐やストレスから修行者を守るとは限らないが、そうした渦中にあっても修行者の霊的な健全性が絶対に安全であることを保証する。しかし修行者の道がバラの花に囲まれた陽の当たる道になるとの保証はない。約束されることは、人生で生じる全ての不幸を通して、神が修行者を大切な霊性の目的地に導くということだ。自己を明け渡した修行者はまた、不幸や苦悩が無駄ではなく、むしろ時の経過と共にその重要性が判る必要な霊性向上の目的を達成するため、神によって是認されたものだと知る。修行者が苦しんでいるとき、神が遠ざかり居なくなっているわけではなく、酷い困難の中においても彼のハートの中に在って、そこから神との統合にむかって修行者を導くため、その置かれた状況で道案内をしていることを知り、そのように感じる。修行者はまた、勇気・忍耐・正しい態度で臨むのであれば、明け渡しの精神の中ですべての困難は多くの霊的功徳をもたらすことを知る。最終的に、自己を明け渡した修行者は、将来の霊的な目標に導く隠れた目的があることを知る。彼のマントラは相変わらず、「いつも、そしてあらゆる場所で御心がなされますように!」のままだ。

心霊的存在を開放する四段階
 第一部においてシュリ・オーロビンドが描く心霊的存在と、インテグラル・ヨーガにおける三つの要素について論じたが、この論文の第二部においては、これら三つの要素、即ち向上心・拒絶・明け渡しがどのように進化の四段階で心霊的存在の開放に貢献するのかを考察できる。

第一段階:心霊的存在は、内なる存在・心の動き・生気体のベールの後ろに隠れている。我々の存在のより低次の部分は魂が何を欲するのか気にかけていない。その低次の部分は欲望と感情、肉体的な快適さの要求、些細な好き嫌いに対して習慣的に反応する。ごくまれに心霊的存在の影響が明らかになる。それは霊的な生活、神への愛と明け渡し、言葉に表せないもの、真理・神・美に対する憧れ、無条件の愛・親切・同情・至福・信愛行の経験に対して同調した時だ。

第二段階:内なる存在・マインド・生気体が「心霊的存在を本当に気にかけ、それに従う時、それが回心だ。それらは心霊的即ち神聖な性質を身に纏うようになる。」(ムカージー 2003:112) 上述の通り向上心は段階を追って発達し、神は恩寵で報いる。人は内面に向かい、外部からの感覚的な楽しみの原因に対する興味を徐々に失っていく。向上心・拒絶・明け渡しのサーダナは心霊的存在の影響を漸進的に開く。欲望・怒り・古い習慣、その他のエゴの現れを克服する力をますます感じるようになる。起こってしまったことにくよくよすることを止め、過去を手放す。本能的に正しいことを行うよう導かれるが、それは道徳規範・習慣・家族や友人の期待のためではなく、心の内面で何が真実で善なのかを知るからだ。敵対するもの、害を及ぼすかも知れないもの、真実でなく誇張されたことなどを拒絶する。無条件の愛・優しさ・安らぎ・至福が常態となる。しかし以前の想念や感情のパターンに陥るかもしれない。内なる感情の動きによってそれは断続的に覆われる。観察者として留まる努力を続け、以前の習慣となった感情の動きが現れないようにしなければならない。

第三段階:心霊的存在は内なる心のベールと生気体の陰から前面に出てそこに留まる。それは継続的に向上心・拒絶・明け渡しのサーダナを指導する。それは何を変容させ、何を手放し、また浄化すべきかを知らせる。修行者は継続的に支援され、導かれていると感じる。仮に自身のカルマが腐ったトマトを玄関口に運んできたとしても、至福と神の無条件の愛が彼・彼女の感性を色付ける。光り輝く真我の気付き、感情体・生気体・肉体の次元における乗り物の統御者として留まる。より深い内なる存在の層における欲望や恐れも含め、エゴの現れを識別して手放す。神の手の内にあって手術を行い、抵抗する全てを取り除いている道具であるかのように感じる。(神の)共同創造者となる。日々の生活の中に奇跡が満ち溢れる。人生を永遠の新たな歓びとして経験する。

この段階においてはマインド・生気体・肉体に及ぶエゴへの忠誠心は、内なる神に対する新たな忠誠心に置き換わる。成就即ちシッディを求める。病気の肉体や神経症のマインドにおける成就は成就ではない。識別知により、心霊的存在はこれらのより低次の道具が神の意思を表現するよう変容させる。自己変容のプロセスに対する熱意を発達させる。このプロセスの中で隠れていたものを発見する。(こうして)人は変容のメソッドを経験する。

第四段階:この高度な段階において、心霊的存在は細胞と潜在意識の層を変容させる。1926年から1940年まで、彼とマザーは、自分の肉体の潜在意識と細胞のレベルで、断食・睡眠・食事・自然の法則・性癖を(変容させる)実験をした。それは、シッダたちがより多くの精妙な力が神格化を完成させるために十分なほど寿命を伸ばすためにカーヤカルパを使ったと記録されているのとは異なり、時間との競争だった。マザーは言った。「基本的に、この変容を目指す競争においての問題は、二つのうちのどちらが先に着くかということでした。神聖な真理のイメージに肉体を変容させたいと望む力か、徐々に分解していく肉体の中に残る古い性癖か、です。」(サットプレム 1975:330)

 その作業はオーロビンドが呼んだ次のようなレベルにまで及んだ即ち、「細胞レベルのマインド」「細胞・分子・微粒子の奥まった肉体のマインド」「この肉体のマインドはまさに触れることのできる事実だ。そのあいまいさと、過去の動きと皮相的な忘却、そして新しいことを拒否することに機械的に執着するため、我々はそれが超心の力によって浸透され、肉体の機能を変容させることに対する主な障碍の一つであることが判った。」一方で一旦それが効果的に変換されるのであれば、物質的性質の中における超心の「光と力」を安定させる最も貴重な道具の一つとなるであろう。(オーロビンド 1969:356)

 細胞の準備を整えるためには、肉体と細胞の意識が拡大してそれ自体を普遍化することを可能にするよう、精神面の沈黙、生気体のやすらぎ、宇宙意識が前提条件となる。しかしここで、「肉体は到るところに存在する」ということ、全てを変容せずに人はいかなるものも変容できないことが明らかになる。

 
深く長い間掘り続けてきた
 汚物と泥沼の恐怖の中で
 黄金の川の詩を求めて床に入る
 消えることのない火の家
 口を開いた我が傷は千を超える・・・ 

 (オーロビンド 1952:6)

 オーロビンドとマザーは、全人類の変容がない限り、個人にとって完全な変容は不可能だと知った。

 オーロビンドは言った。「人類を救い出すためには、如何にその個人が偉大であろうとも個人的に究極の解決法を達成するのに十分ではない、なぜなら『光』が降下する準備ができたとしても、より低い次元もその降下の圧力に耐える準備ができるまで、それは降りてそこに留まることができないからだ。」(ロイ 1952:251)

 マザーは言った。「その作業を一人で行いたいと思うのであれば、それを完全に行うことは全く不可能です。なぜなら、すべての肉体的存在は、それがいかに完全であろうとも、それが全くの超越した種類のものでも、まったく特別な『つくり』であったとしても、部分的で制限のあるものに過ぎないからです。これは一つの真理、法則を表したものです。即ち、完全な変容はそれのみ、つまり一つの肉体を通して実現することは不可能なのです。ですから、もし全体的な行動を欲するのであれば、少なくも最低限の人数の肉体が必要なのです。」(サットプレム 1975:390)

 これを悟ったことで個人的な研究の時期は1940年に終了し、オーロビンドとマザーは変容の研究の第三期に入った。この時期は世界的な変容に向けられた。「このアシュラムは俗世を捨てるためではなく、新たな(人類の)種への進化とライフスタイルのためのセンターとして建設された。」(オーロビンド 1969:823)
それは、すべての種類の人、男性・女性・子供、全ての社会階層だけでなく、創造的な性質のすべての活動に対しても開かれたものとして組織された。俗世の中での行動が主たる手段だった。「霊的な生活は、ヨーガの力の中で普通の生活を送る人々において最も力強く表現できる・・・人類が最終的に進化して力強く神聖になるのは、そのような内面と外面の生活の統合によるのだ。」(オーロビンド 1950:10)

進化のリーダーと環境の越え難い溝
 1940に始まった第三期は、第二期の終わりにオーロビンドとマザーが解決しようと試みたジレンマから発展した。潜在意識と内面の集合的な抵抗に直面し、先ず他者(俗世)から離れた場所で個人的な自己変容を成し遂げ、後に人類を救うため、進化のリーダーとして俗世に戻るのかどうか二人は自問した。しかしかれらはこの戦略に反対することを決めた。オーロビンドの言葉によれば、それは彼らと人類の間の越え難い溝に帰結するであろうから。(オーロビンド 1935:414)

 そのような戦略は実現可能ではないとの意見に到達したにも拘わらず、オーロビンドとマザーは幾分矛盾するような意見を表明した。彼が言うには、「一旦開始すれば、その(超心を降下させる)努力は、その最初の決定的な段階まですら早く進むことは無いかも知れない。それがある程度永遠に出現する段階に来るようにするためには、何世紀にもわたる努力を要するだろう。しかしそれが全く避けられないということではない、というのも大自然におけるそのような変化の原理は、新たな誕生に向かって(様々な)要素が迅速に集まっては沈殿することに続く長期に亘る漠とした準備であり、急激な変換、その光輝く瞬間に奇跡のように現れるように思えるからだ。最初の決定的な変化に到達したとしても、人類すべてがその段階にまで上昇できるわけではないことは確かだ。霊的な次元で生活できる人と、精神的なレベルにまで降下する光の中でただ生活できる人に二分されることは避けられない(といったほどの意味か?原文は,There cannot fail to be a division into ・・・)。そしてこれら二つの下にも、彼らに影響されながらもその光に対する準備が整わない多くの大衆がまだいるかもしれない。しかしそれでも、これまで決して達成されたことのないものを遥かに凌駕する変容であり、その幕開けなのだ。」(オーロビンド 1949:332)

 そのような不可避の分断と環境の越え難い溝の間には重大な違いがあるのだろうか?もしそうでなければ、それはオーロビンドとマザーが超心を肉体に降下させてそこに固定しなかった理由にはならない。更には、18人のシッダ、ラーマリンガ、中国道教の「Ta Lo Chin Sien」によって達成された金色の(不死の)肉体の記録は、おそらく全人類の長期に亘る集合的な変容の初期段階ではなかったのだろうか?(ゴーヴィンダン 2012:140-170、 Da lieu 1975:135)

 これらの疑問を解決しようとして筆者の本が完成に近づいているころ、ポンディシェリとヴァルダルーアを訪ねた。筆者はマザーかオーロビンドが、彼らが達成しようとしていたことは100年ほど前にラーマリンガによって達成されていたという趣旨の言葉が書いてあった何年も前の引用文を思い出した。それ以前、1972年の9月と1973年の3月にオーロビンド・アシュラムを訪問した時、筆者はマザーに18人のシッダに関する本を贈呈し、オーロビンドの超心的変容と18人のシッダの変容の関係に関する疑問に対する回答を求めるため、マザーと面会しようとした。マザーは、この訪問の時は隔離された状態(訳注:集中的な瞑想の行に入っていたのか?)で、これらの質問への回答はないままだった。

 著者は知らなかったが、1969年以来のオーロビンド・アシュラムの同居人で、アシュラムの監査役兼会計士を長く務めたT.R.トゥラシラムから同じような質問が提起されていた。1990年の7月4日と5日、著者はポンディシェリでトゥラシラムと会い、彼が1980年に二冊の本を出版していたことを知った。それは、オーロビンドがラーマリンガについて書いたことのすべてだけでなく、ラーマリンガの問題に関する彼とマザーの意見交換を記録したものだった。彼の徹底的な調査の中で、トゥラシラムは次のように述べた。「シュリ・オーロビンドはその人生が終わるころ、何人かのヨギが、ヨーガのシッディによって個人的に超心的変容を達成したが、それは自然のダルマ(法)としての変容ではなかった。(トゥラシラム 1980 Vol1, xi)

 1970年7月11日、マザーは秘書のサットプレムを通して送られたトゥラシラムの書状を読んだ。トゥラシラムの書状に添付されていたのは、ラーマリンガが遺した書物の抜粋であり、その中では彼の肉体が光の体に変容したことを記述していた。サットプレムによれば、「彼の経験の信憑性に関し、マザーは疑いを持っていませんでした。特にスワミがこの光を『恩寵の光』と表現したことを気に入っていて、これは彼女自身の経験と一致すると言っていました。より正確には、マザーはこの恩寵の光は超心の光ではなく、その一側面であり、むしろ超心の一つの働きなのですと言いました。彼女が言うには、有名であれ無名であれ、何人もの個人がこれまでの時代に同様の経験をしたはずであり、今もしていることでしょう。唯一の違いは、現在は個人としての可能性ではなく、集合体としての可能性であり、これこそ紛れもなく全人類に対しての地上における事実及び可能性として超心の意識を確立しようとのオーロビンドとマザーの仕事なのです。」(28-7-70「Arul」1970年月、トゥラシラム 1980:900)

 トゥラシラムは、彼の書状の中で提起した多くの質問に対し、マザーからこれ以上の説明を得ることはできなかった。彼はまた、「サットプレムはラーマリンガの非物質化を死として誤って解釈し、マザーにこれを死として間違った報告をした。」(トゥラシラム1980)マザーも1973年11月、これらの質問に答える前に肉体を去った。しかしながら、トゥラシラムの魅力的な研究は、ラーマリンガ・オーロビンド・マザー・タミールのシッダ、ティルムラルの変容の経験はすべて同じ性質のものだったとの説得力のある証拠を提供するものだ。オーロビンドが死ぬ際に表した金色の色相は、ラーマリンガ、ティルマンディラムにおけるティルムラル(ガナパティ2010)、18人のタミールシッダに関するゴーヴィンダンの文献(ゴーヴィンダン2012:45)で引用されている不死の金色に輝く肉体と似たものであったのだろう。

結論
 したがって、彼らのような(人類)進化のリーダーたちは、すべてのレベルにおいて心霊的存在が人間の性質を神のイメージに変容させる第四の段階を完成させるため、(俗世から離れ)独居することが必要と思われる。シッダたちの場合のようにこれが個人のレベルで起こるのか、オーロビンドが思い描いたように人類の集合的な進化の飛躍として生じるのか、超心の降下の成り行きは未解決の問題として残されている。

将来研究が必要な関連する諸問題
 オーロビンドとマザーが人類に超心の降下をもたらそうとして失敗したことは、関連する多くの諸問題を提起する。彼の描いた人類の霊的進化のプロセスのビジョンは主に、進化論的生物学と現代の生命化学の基礎であるダーウィンの「種の起源」の影響下における時間の所産なのだろうか? それなくして、(オーロビンドの)インテグラル・ヨーガの実習はどの程度価値があるのだろうか? インテグラル・ヨーガのメソッドである、向上心・拒絶・明け渡しはどの程度有効なのだろうか? もし有効であるなら、どうしてより多くのインテグラル・ヨーガの指導者によって組織的に教えられないのだろうか? オーロビンドのインテグラル・ヨーガの修行者は、どの程度まで定期的にこの論文に示されたメソッドを実習しているのだろうか?
 心霊的存在の発見とその解放は、いかにして人間の性質の不完全さを解決する手段になり得るのだろうか?
以上




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