ババジ関連記事 翻訳版

ババジのクリヤーヨーガジャーナルなどに掲載された記事などを翻訳し、クリヤーヨーガの修行者の参考にして頂くものです。

心霊的存在 Part2

2020-04-21 10:57:27 | スピリチュアル
心霊的存在:我々の「神」への導入部 (PartII)


 完全に開放された心霊的存在は、シュリ・オーロビンドのインテグラル・ヨーガの実践により、どのような条件のもとで超心的変容をもたらすのだろうか?この小論文はその疑問に答えようと試みるものだ。これは2017年5月3日、フロリダで開催されたシュリ・オーロビンド会議に提出された。

 PartIは次の文章から始まった。「インテグラル・ヨーガの実習者にとっては心霊的存在というシュリ・オーロビンドが使う言葉の明確な理解が必要不可欠だ。それは彼の著作物を通して見出され、彼のヨーガを他と区別する特徴だ。いずれ判るが、それは英語の魂(soul)、真我(Self)、ヒンドゥー語のアートマン、ジーヴァートマン、プルシャとも同等とは言えない。心霊的存在はすべての人のハートの中に存在するが、殆ど常に隠されていて、その働きはマインドや生気体と混じり会っている。それが意識の前面に出てくるまでは、ヨーガのサーダナにおける個人の努力は気まぐれで、これらの動きに制約される。向上心・拒絶・明け渡しという言葉に集約されるシュリ・オーロビンドのインテグラル・ヨーガの修練は、心霊的存在が意識の前面に出てくる程度に応じて進歩を遂げる。これには四つの段階がある。」

明け渡し
 イシュヴァラ・プラニダーナを「或いは神への明け渡しによって認識作用の没入(訳注:サマーディ)が首尾よく達成される」(YS I-23)とパタンジャリがクリヤーヨーガについて言ったように、常時、あらゆる状況下で自身を神に明け渡すことがインテグラル・ヨーガのサーダナにとっての鍵だ。(ゴーヴィンダン 2012:17)

「私の神、そして私のすべて」という言葉はその心底からの表現を集約したものだ。修行者が神に自身を明け渡した日、神御自身が生徒の人生に介入し、すべての困難と弱さを取り除く手助けをし、その臨在によって意識の内に喜びをもたらす。これが生じるための要件は、(1)修行者は自身の能力について無価値だと感じていなければならない。(2)実在し、彼を愛し、その叡智によって如何なることも実現可能な神という存在を全身全霊で信じること。(3)自身の唯一で最終的な拠り所として神だけに専心すること。(ムカージー 2003:87)

 意識を明け渡した状態においては、何を行い感じるにせよ、すべての行動は自身に対する責任から自由になり、重荷のすべてを神に引渡し、完全な信頼のもとで至高の存在への捧げものとしてなされるべきだ。この明け渡しに対して否定的に働く修行者の性癖となった意識と性質の中において多くの抵抗と反対が生じる。何ら保留することなく、ただ神の導きのみに自身を委ねるべきだ。そのように行ったことがどうして判るのだろうか?シュリ・オーロビンドは、真の明け渡しを行った修行者の心の内面を克明に記述した。

 「私は神を欲し、それ以外何ものも欲さない。神に対して私自身をすべて捧げ、私の魂はそれを望むゆえ必ずや神と出会い、神を悟る。私はそれ以外の何ものも求めず、求めるのは私を神に引き寄せる内なる神の行動であり、それは秘密であれ開示されたものであれ、覆われたものであれ明らかなものであれ神の御業だ。自身の都合ややり方にこだわらず、神の都合とやり方ですべてを行って頂く。神を信じ、その意思を受け容れ、神の光・臨在・歓びを絶えず求め、神に頼り諦めることなくすべての困窮と障碍のなかを突き進む。すべては神のため、自身も神のためにある。何が起きようともこの希望と明け渡しを守り、これが成就するとの完全な信頼の中で歩み続ける。」(オーロビンド 1972:587)

 したがって修行者のサーダナすべての責任を引き受けるのは神御自身となる。「神のできないことは何もない。もし確信と信頼をもって神に自身を捧げれば、ハートと性質は浄化され、内なる意識が目覚め、覆いは取り払われる。そして仮に一度に完全にできなかったとしても、それを更に行うほどに、内なる助けと導きが現れて神の体験は深まる。もし疑念が活動を弱めてつつましやかになり、明け渡しの意思が強くなれば、それは完全に可能になるはずだ。」(オーロビンド 1972-586-88)

それでは、もし自己の明け渡しがそれほど強力であるなら、どうして人はそのように行うことができないのか? 「なぜそれがなされないのか? 人はそれについて考えず、そうすることを忘れ、古い習慣が戻ってくるからです。そして取り分け、心の中、それどころか潜在意識の中の隠れた場所で、あなたの耳の中でこの秘かな疑いが囁くのです。・・・あなたは本当に愚かで、訳が分からず、バカなのであなたはそれに耳を傾け、自我の声に注意を向けはじめ、すべては台無しになります。」(マザー 2004:257)

 新たな個人的取り組みはそこで終わるのだろうか? そうではなく、普通の修行者の意識と意志は、ヨーガの達人のように、神の意識と意志に結び付いた状態からは程遠く、それゆえすべての好き嫌いと共に分離した自我意識の中でまだ生活している。守るべき枢要な原則は、行為の果実(成果)すなわち結果を神に対して差し出すことだ。さもなければ人の行動は単なる自我(エゴ)を満足させるためのものとなる。シュリ・オーロビンドの言葉によれば、人はすべての行為において次の態度を維持すべきだ。

 「神が私の唯一の避難所だ。すべてのことにおいて信頼し、頼りにするのは神であり、神だけだ。私は神の意思に完全に従う。行く手にあるどんな障碍も、分離の暗い雰囲気も神に対する絶対的な信頼を決して揺るがすことがないようにする。」(ムカージー 2003:93)

 しかしこれで修行者は満足すべきではない。シュリ・オーロビンドの言葉はこの点を明らかに示している。「しかし至高の恩寵は『光と真理』の状態においてのみ働く。即ち、誤りや無知によって置かれた状況のもとでそれが働くことはない。なぜなら、もし誤った要求に屈するのであれば、それ自体の目的を損なってしまうだろうから。」(マザー 1972:1,3)「すべてのことには条件がある。もしヨーガの条件を満たすことを拒否するなら、神の介入を求めても無駄だ。」(ニロドゥバラン 1983:197)

 効果的な明け渡しは必ずしも、すべての将来の嵐やストレスから修行者を守るとは限らないが、そうした渦中にあっても修行者の霊的な健全性が絶対に安全であることを保証する。しかし修行者の道がバラの花に囲まれた陽の当たる道になるとの保証はない。約束されることは、人生で生じる全ての不幸を通して、神が修行者を大切な霊性の目的地に導くということだ。自己を明け渡した修行者はまた、不幸や苦悩が無駄ではなく、むしろ時の経過と共にその重要性が判る必要な霊性向上の目的を達成するため、神によって是認されたものだと知る。修行者が苦しんでいるとき、神が遠ざかり居なくなっているわけではなく、酷い困難の中においても彼のハートの中に在って、そこから神との統合にむかって修行者を導くため、その置かれた状況で道案内をしていることを知り、そのように感じる。修行者はまた、勇気・忍耐・正しい態度で臨むのであれば、明け渡しの精神の中ですべての困難は多くの霊的功徳をもたらすことを知る。最終的に、自己を明け渡した修行者は、将来の霊的な目標に導く隠れた目的があることを知る。彼のマントラは相変わらず、「いつも、そしてあらゆる場所で御心がなされますように!」のままだ。

心霊的存在を開放する四段階
 第一部においてシュリ・オーロビンドが描く心霊的存在と、インテグラル・ヨーガにおける三つの要素について論じたが、この論文の第二部においては、これら三つの要素、即ち向上心・拒絶・明け渡しがどのように進化の四段階で心霊的存在の開放に貢献するのかを考察できる。

第一段階:心霊的存在は、内なる存在・心の動き・生気体のベールの後ろに隠れている。我々の存在のより低次の部分は魂が何を欲するのか気にかけていない。その低次の部分は欲望と感情、肉体的な快適さの要求、些細な好き嫌いに対して習慣的に反応する。ごくまれに心霊的存在の影響が明らかになる。それは霊的な生活、神への愛と明け渡し、言葉に表せないもの、真理・神・美に対する憧れ、無条件の愛・親切・同情・至福・信愛行の経験に対して同調した時だ。

第二段階:内なる存在・マインド・生気体が「心霊的存在を本当に気にかけ、それに従う時、それが回心だ。それらは心霊的即ち神聖な性質を身に纏うようになる。」(ムカージー 2003:112) 上述の通り向上心は段階を追って発達し、神は恩寵で報いる。人は内面に向かい、外部からの感覚的な楽しみの原因に対する興味を徐々に失っていく。向上心・拒絶・明け渡しのサーダナは心霊的存在の影響を漸進的に開く。欲望・怒り・古い習慣、その他のエゴの現れを克服する力をますます感じるようになる。起こってしまったことにくよくよすることを止め、過去を手放す。本能的に正しいことを行うよう導かれるが、それは道徳規範・習慣・家族や友人の期待のためではなく、心の内面で何が真実で善なのかを知るからだ。敵対するもの、害を及ぼすかも知れないもの、真実でなく誇張されたことなどを拒絶する。無条件の愛・優しさ・安らぎ・至福が常態となる。しかし以前の想念や感情のパターンに陥るかもしれない。内なる感情の動きによってそれは断続的に覆われる。観察者として留まる努力を続け、以前の習慣となった感情の動きが現れないようにしなければならない。

第三段階:心霊的存在は内なる心のベールと生気体の陰から前面に出てそこに留まる。それは継続的に向上心・拒絶・明け渡しのサーダナを指導する。それは何を変容させ、何を手放し、また浄化すべきかを知らせる。修行者は継続的に支援され、導かれていると感じる。仮に自身のカルマが腐ったトマトを玄関口に運んできたとしても、至福と神の無条件の愛が彼・彼女の感性を色付ける。光り輝く真我の気付き、感情体・生気体・肉体の次元における乗り物の統御者として留まる。より深い内なる存在の層における欲望や恐れも含め、エゴの現れを識別して手放す。神の手の内にあって手術を行い、抵抗する全てを取り除いている道具であるかのように感じる。(神の)共同創造者となる。日々の生活の中に奇跡が満ち溢れる。人生を永遠の新たな歓びとして経験する。

この段階においてはマインド・生気体・肉体に及ぶエゴへの忠誠心は、内なる神に対する新たな忠誠心に置き換わる。成就即ちシッディを求める。病気の肉体や神経症のマインドにおける成就は成就ではない。識別知により、心霊的存在はこれらのより低次の道具が神の意思を表現するよう変容させる。自己変容のプロセスに対する熱意を発達させる。このプロセスの中で隠れていたものを発見する。(こうして)人は変容のメソッドを経験する。

第四段階:この高度な段階において、心霊的存在は細胞と潜在意識の層を変容させる。1926年から1940年まで、彼とマザーは、自分の肉体の潜在意識と細胞のレベルで、断食・睡眠・食事・自然の法則・性癖を(変容させる)実験をした。それは、シッダたちがより多くの精妙な力が神格化を完成させるために十分なほど寿命を伸ばすためにカーヤカルパを使ったと記録されているのとは異なり、時間との競争だった。マザーは言った。「基本的に、この変容を目指す競争においての問題は、二つのうちのどちらが先に着くかということでした。神聖な真理のイメージに肉体を変容させたいと望む力か、徐々に分解していく肉体の中に残る古い性癖か、です。」(サットプレム 1975:330)

 その作業はオーロビンドが呼んだ次のようなレベルにまで及んだ即ち、「細胞レベルのマインド」「細胞・分子・微粒子の奥まった肉体のマインド」「この肉体のマインドはまさに触れることのできる事実だ。そのあいまいさと、過去の動きと皮相的な忘却、そして新しいことを拒否することに機械的に執着するため、我々はそれが超心の力によって浸透され、肉体の機能を変容させることに対する主な障碍の一つであることが判った。」一方で一旦それが効果的に変換されるのであれば、物質的性質の中における超心の「光と力」を安定させる最も貴重な道具の一つとなるであろう。(オーロビンド 1969:356)

 細胞の準備を整えるためには、肉体と細胞の意識が拡大してそれ自体を普遍化することを可能にするよう、精神面の沈黙、生気体のやすらぎ、宇宙意識が前提条件となる。しかしここで、「肉体は到るところに存在する」ということ、全てを変容せずに人はいかなるものも変容できないことが明らかになる。

 
深く長い間掘り続けてきた
 汚物と泥沼の恐怖の中で
 黄金の川の詩を求めて床に入る
 消えることのない火の家
 口を開いた我が傷は千を超える・・・ 

 (オーロビンド 1952:6)

 オーロビンドとマザーは、全人類の変容がない限り、個人にとって完全な変容は不可能だと知った。

 オーロビンドは言った。「人類を救い出すためには、如何にその個人が偉大であろうとも個人的に究極の解決法を達成するのに十分ではない、なぜなら『光』が降下する準備ができたとしても、より低い次元もその降下の圧力に耐える準備ができるまで、それは降りてそこに留まることができないからだ。」(ロイ 1952:251)

 マザーは言った。「その作業を一人で行いたいと思うのであれば、それを完全に行うことは全く不可能です。なぜなら、すべての肉体的存在は、それがいかに完全であろうとも、それが全くの超越した種類のものでも、まったく特別な『つくり』であったとしても、部分的で制限のあるものに過ぎないからです。これは一つの真理、法則を表したものです。即ち、完全な変容はそれのみ、つまり一つの肉体を通して実現することは不可能なのです。ですから、もし全体的な行動を欲するのであれば、少なくも最低限の人数の肉体が必要なのです。」(サットプレム 1975:390)

 これを悟ったことで個人的な研究の時期は1940年に終了し、オーロビンドとマザーは変容の研究の第三期に入った。この時期は世界的な変容に向けられた。「このアシュラムは俗世を捨てるためではなく、新たな(人類の)種への進化とライフスタイルのためのセンターとして建設された。」(オーロビンド 1969:823)
それは、すべての種類の人、男性・女性・子供、全ての社会階層だけでなく、創造的な性質のすべての活動に対しても開かれたものとして組織された。俗世の中での行動が主たる手段だった。「霊的な生活は、ヨーガの力の中で普通の生活を送る人々において最も力強く表現できる・・・人類が最終的に進化して力強く神聖になるのは、そのような内面と外面の生活の統合によるのだ。」(オーロビンド 1950:10)

進化のリーダーと環境の越え難い溝
 1940に始まった第三期は、第二期の終わりにオーロビンドとマザーが解決しようと試みたジレンマから発展した。潜在意識と内面の集合的な抵抗に直面し、先ず他者(俗世)から離れた場所で個人的な自己変容を成し遂げ、後に人類を救うため、進化のリーダーとして俗世に戻るのかどうか二人は自問した。しかしかれらはこの戦略に反対することを決めた。オーロビンドの言葉によれば、それは彼らと人類の間の越え難い溝に帰結するであろうから。(オーロビンド 1935:414)

 そのような戦略は実現可能ではないとの意見に到達したにも拘わらず、オーロビンドとマザーは幾分矛盾するような意見を表明した。彼が言うには、「一旦開始すれば、その(超心を降下させる)努力は、その最初の決定的な段階まですら早く進むことは無いかも知れない。それがある程度永遠に出現する段階に来るようにするためには、何世紀にもわたる努力を要するだろう。しかしそれが全く避けられないということではない、というのも大自然におけるそのような変化の原理は、新たな誕生に向かって(様々な)要素が迅速に集まっては沈殿することに続く長期に亘る漠とした準備であり、急激な変換、その光輝く瞬間に奇跡のように現れるように思えるからだ。最初の決定的な変化に到達したとしても、人類すべてがその段階にまで上昇できるわけではないことは確かだ。霊的な次元で生活できる人と、精神的なレベルにまで降下する光の中でただ生活できる人に二分されることは避けられない(といったほどの意味か?原文は,There cannot fail to be a division into ・・・)。そしてこれら二つの下にも、彼らに影響されながらもその光に対する準備が整わない多くの大衆がまだいるかもしれない。しかしそれでも、これまで決して達成されたことのないものを遥かに凌駕する変容であり、その幕開けなのだ。」(オーロビンド 1949:332)

 そのような不可避の分断と環境の越え難い溝の間には重大な違いがあるのだろうか?もしそうでなければ、それはオーロビンドとマザーが超心を肉体に降下させてそこに固定しなかった理由にはならない。更には、18人のシッダ、ラーマリンガ、中国道教の「Ta Lo Chin Sien」によって達成された金色の(不死の)肉体の記録は、おそらく全人類の長期に亘る集合的な変容の初期段階ではなかったのだろうか?(ゴーヴィンダン 2012:140-170、 Da lieu 1975:135)

 これらの疑問を解決しようとして筆者の本が完成に近づいているころ、ポンディシェリとヴァルダルーアを訪ねた。筆者はマザーかオーロビンドが、彼らが達成しようとしていたことは100年ほど前にラーマリンガによって達成されていたという趣旨の言葉が書いてあった何年も前の引用文を思い出した。それ以前、1972年の9月と1973年の3月にオーロビンド・アシュラムを訪問した時、筆者はマザーに18人のシッダに関する本を贈呈し、オーロビンドの超心的変容と18人のシッダの変容の関係に関する疑問に対する回答を求めるため、マザーと面会しようとした。マザーは、この訪問の時は隔離された状態(訳注:集中的な瞑想の行に入っていたのか?)で、これらの質問への回答はないままだった。

 著者は知らなかったが、1969年以来のオーロビンド・アシュラムの同居人で、アシュラムの監査役兼会計士を長く務めたT.R.トゥラシラムから同じような質問が提起されていた。1990年の7月4日と5日、著者はポンディシェリでトゥラシラムと会い、彼が1980年に二冊の本を出版していたことを知った。それは、オーロビンドがラーマリンガについて書いたことのすべてだけでなく、ラーマリンガの問題に関する彼とマザーの意見交換を記録したものだった。彼の徹底的な調査の中で、トゥラシラムは次のように述べた。「シュリ・オーロビンドはその人生が終わるころ、何人かのヨギが、ヨーガのシッディによって個人的に超心的変容を達成したが、それは自然のダルマ(法)としての変容ではなかった。(トゥラシラム 1980 Vol1, xi)

 1970年7月11日、マザーは秘書のサットプレムを通して送られたトゥラシラムの書状を読んだ。トゥラシラムの書状に添付されていたのは、ラーマリンガが遺した書物の抜粋であり、その中では彼の肉体が光の体に変容したことを記述していた。サットプレムによれば、「彼の経験の信憑性に関し、マザーは疑いを持っていませんでした。特にスワミがこの光を『恩寵の光』と表現したことを気に入っていて、これは彼女自身の経験と一致すると言っていました。より正確には、マザーはこの恩寵の光は超心の光ではなく、その一側面であり、むしろ超心の一つの働きなのですと言いました。彼女が言うには、有名であれ無名であれ、何人もの個人がこれまでの時代に同様の経験をしたはずであり、今もしていることでしょう。唯一の違いは、現在は個人としての可能性ではなく、集合体としての可能性であり、これこそ紛れもなく全人類に対しての地上における事実及び可能性として超心の意識を確立しようとのオーロビンドとマザーの仕事なのです。」(28-7-70「Arul」1970年月、トゥラシラム 1980:900)

 トゥラシラムは、彼の書状の中で提起した多くの質問に対し、マザーからこれ以上の説明を得ることはできなかった。彼はまた、「サットプレムはラーマリンガの非物質化を死として誤って解釈し、マザーにこれを死として間違った報告をした。」(トゥラシラム1980)マザーも1973年11月、これらの質問に答える前に肉体を去った。しかしながら、トゥラシラムの魅力的な研究は、ラーマリンガ・オーロビンド・マザー・タミールのシッダ、ティルムラルの変容の経験はすべて同じ性質のものだったとの説得力のある証拠を提供するものだ。オーロビンドが死ぬ際に表した金色の色相は、ラーマリンガ、ティルマンディラムにおけるティルムラル(ガナパティ2010)、18人のタミールシッダに関するゴーヴィンダンの文献(ゴーヴィンダン2012:45)で引用されている不死の金色に輝く肉体と似たものであったのだろう。

結論
 したがって、彼らのような(人類)進化のリーダーたちは、すべてのレベルにおいて心霊的存在が人間の性質を神のイメージに変容させる第四の段階を完成させるため、(俗世から離れ)独居することが必要と思われる。シッダたちの場合のようにこれが個人のレベルで起こるのか、オーロビンドが思い描いたように人類の集合的な進化の飛躍として生じるのか、超心の降下の成り行きは未解決の問題として残されている。

将来研究が必要な関連する諸問題
 オーロビンドとマザーが人類に超心の降下をもたらそうとして失敗したことは、関連する多くの諸問題を提起する。彼の描いた人類の霊的進化のプロセスのビジョンは主に、進化論的生物学と現代の生命化学の基礎であるダーウィンの「種の起源」の影響下における時間の所産なのだろうか? それなくして、(オーロビンドの)インテグラル・ヨーガの実習はどの程度価値があるのだろうか? インテグラル・ヨーガのメソッドである、向上心・拒絶・明け渡しはどの程度有効なのだろうか? もし有効であるなら、どうしてより多くのインテグラル・ヨーガの指導者によって組織的に教えられないのだろうか? オーロビンドのインテグラル・ヨーガの修行者は、どの程度まで定期的にこの論文に示されたメソッドを実習しているのだろうか?
 心霊的存在の発見とその解放は、いかにして人間の性質の不完全さを解決する手段になり得るのだろうか?
以上




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祈り vs ヨーガ

2020-04-21 10:52:21 | スピリチュアル
BKYJ Spring 2020
By M.G.サッチダナンダ


 祈りという行為は、ヨーガスートラ、ギーター、ヨーガ・ウパニシャッドにおいて言及されていない。それはなぜか? これは好奇心をそそる問題であり、それに答えるためには祈りの性質、それがヨーガの瞑想・自己暗示・マントラとどう異なるのかに対する理解のみならず、ヨーガの目的、「私とは誰か」にあなたがどう答えるのか、そして神と私の関係とは何かという問題に対する理解を必要とする。我々のヨーガの伝統において、それはまたグルという言葉の理解をも必要とする。

祈りとは何か? それはヨーガの瞑想の実践・自己暗示・マントラとどう違うのか?
 祈りは神または祈りの対象にむけられた救い、赦しまたは感謝の表現だ。それには四つのタイプがある。崇拝・悔悟・感謝・祈願だ。それはまた真摯な希望または願いであり、それゆえその有効性に対する疑いの要素を含む。それはあらゆる宗教の本質的な行為の一つだ。それはしばしば複雑な感情を伴う心的な行為だ。ヨーガの文献においてこれが言及されないことが、ヨーガを宗教と区別している。

 ヨーガの瞑想には助け・赦しに対するいかなる要請も、神または至高の存在に対するいかなる嘆願も含まれない。それは希望や要望の表現や疑いの感情も含まない。集中は静寂をもたらし、通常の精神的・感情的な(心の)動きを永遠で無限の霊的な次元に運び、そこでヨーギンは絶対的な存在・意識・至福を経験する。

 自己暗示は、深いリラックス状態にあるとき、潜在意識を動機付けるため、現在形の表現で繰り返される肯定的な変化をもたらす声明だ。パタンジャリはヨーガスートラ(以下、YS)第二章33節で、「否定的な想念に捕らわれた時には、その反対(の想念)を高めなさい。」と告げる。比喩を用いれば、もし潜在意識が、人の想念・言葉・行動を指示する、感情的な性癖・条件・記憶が詰まったコンピュータ・ソフトだとすれば、自己暗示はコンピュータの持ち主が、肯定的な変化を起こすため、故意にインストールしたプログラムだ。潜在意識を満たしているものの多くは意図的にそこに埋め込まれたわけではない。人生の経験は自動的に印象または記憶を残す。それがしばしば繰り返されると、その印象はより強くなり、性癖となる。それゆえ、それらを取り除きたいのであれば、最善の方法はそれらと戦ったり押さえつけたりすることではなく、単純に新しいプログラムと交換することだ。

 多くの人たちが祈りの力を信じている。その効果は科学で実証された。デューク大学での科学的な研究で、祈りは手術から回復するための時間を加速させることにおいて有効であることを確認した。しかし、自己暗示と祈りの効果の関係に就いて、関連付けるものは殆どない。

 ヨギによる自己暗示の実践は、高次の力即ち至高の存在に対して訴えかけることはない。祈りはしばしば無力感或いは疑い・絶望・恐怖・後悔・罪または無価値だとの思いすら暗示している。このように、それは暗示作用の力自体を損なっているかもしれない。自己暗示のように祈りは疑いの痕跡すらなく表現された時に最も効果的なのだ。こうした理由から、完全な信心或いは確信すら込めて、神は最善のことをなし給うと祈りなさいという説教師の訓戒は、祈る者を潜在意識への疑いの影響から守ってくれる。

マントラ
 自己暗示は潜在意識のレベルで働き、あなたの人生を困難なものにする多くの悪い癖と否定的な想念を取り除く手助けとなることができる。しかし、我々を超意識レベルに結び付けるマントラのような霊的修行法があり、それはあなた自身をハイアーセルフの「意志」に沿って調整することができる。私が「超意識」というのは、五感や記憶を使わずに知識を得る能力を意味している。「霊的な」というのは、時空を超越し、一定で決して変化することのない存在の次元を意味している。それは形がなく限界もない。それは純粋な意識だ。それはあなたが存在する基盤だ。すべての想念と出来事はその究極の源泉と目的地をそこに持つ。

 祈りとは違い、マントラは祈願ではない。主あるいは「それ」自体を除き何も求めない。そうしてマントラは、肉体とマインドの複合体と、そこに内在するすべての動きと自身を同一視する性癖であるエゴの性質にしがみつくことからあなたを解き放つ助けとなる。マントラの定義は、イニシエーションの時に言及されたプロセスで、より高次の意識次元をその受領者に届ける音による伝達手段だ。

 マントラは意識の階層の間にある言語だ。それ故あなたの意識が木に成長する種子の如く、深くなると同時に広がるようそれなりの集中力と共に繰り返すことが重要だ。マントラを繰り返している間、あなたは通常の精神的な動きを停止する。通常の肉体意識において、あなたの意識は自身のアイデンティティすら五感を通して経験される現象に吸収されている。あなたが見ているもの、読んでいるもの、聞いているもの、肌に感じているものに占有されている。白昼夢を含む通常の夢の状態では、あなたの意識はやはり制限され、期待・欲望・判断のような記憶と想像の中に吸収されている。マントラ行の恩恵を得る為にはそれ故、通常の心の働きを突き抜けて霊的な次元に到達するよう、マントラの音または発音に集中する必要がある。もしあなたがマントラのイニシエーションを受けた時経験した神聖でより高次の意識状態を思い起すことができれば、その恩恵は更に大きなものになる。その意識状態とは、広大な静けさと、存在・愛・安らぎ・静寂のエネルギーが満ちたものだ。

 ヨーガの目的は不幸の原因を弱め、真我実現つまりサマーディに励むことだ。とパタンジャリはYSⅡ章2節で述べている。彼が言うには、不幸の原因は、我々の真のアイデンティティに対する無知にある。ここから他の苦悩、即ち不幸の原因が発生する。それらはエゴイズム・執着・憎しみ・死の恐怖だ(YSⅡ章 3-9)。「私は誰なのか?」との問いかけに対する答えは、あなたが自身を肉体・個性・想念・感情・過去と同一視することをより少なくし、観察する意識に留まることが多くなるにつれて進化する。あなたのアイデンティティが進化するにつれてあなたの神に対する概念も進化する。ヨーガの修練はあなた自身のアイデンティティにおいて、私はこの肉体だ、母だ、父だ、専門家だ、男性だ、女性だ、あのチームのファンだ、あの政党のメンバーだ、寒い、空腹だといったことから、単に私は存在するという処まで進化する。あなたは見られるものではなく、見る者即ち真我と自身を同一視する。あなたのアイデンティティは決して変化することのない「それ」になる。あなたはますますすべてのものとの一体感を感じるようになる。私はすべての内にあり、すべてが自分の内にあるということが経験される。あなたのアイデンティティがそのように進化するにつれエゴに付随する執着や欲望、憎しみや恐れが苦悩の原因だと知り、あなたはそれらを手放すことを学ぶ。

 通常の自己中心的な意識状態において神は、自身の欲望を満たしたり、恐れていることを回避したりする助けとなる存在と見られている。祈りはこうした願望を伝える手段だ。しかしあなたの目的が最早エゴの実現を満足させようとすることではなくなり、むしろこれらのエゴを超越して自身を真我と同一視すること、エゴを手放すこと、目撃者として留まること、そして単に自身の義務を果たし、より高次の意識状態に留まることを可能とする道を歩むことになった場合、あなたの神との関係は変わる。瞑想が祈りに取って代わる。神との霊的な交流を求めること、あるいは導きや叡智を求めることが嘆願的な祈りの代わりになる。神が自身を愛し、導いてくれることを信頼する。それ故あなたは内に向かうことで神の叡智と導きに耳を傾けることを求める。

私は神とどんな関係にあるのか?
 これは神学即ち神・魂・世界の関係に関する研究のテーマだ。彼らの現実に対する信仰は有神論と呼ばれる。こうした区別は現実ではなく幻影で、しばしばインドのヴェーダーンタの文献の中でブラフマーと呼ばれる唯一のものが存在するという信仰は一元論と呼ばれる。前者が二元論であり、西洋の諸宗教、ヨーガ、タントラ、シャイヴィズム・ヴァイシュナヴィズム・シャクティズムなど主要なヒンドゥー各派によって奉じられている。後者は非二元論で、アドヴァイタ(不二一元論)と呼ばれ、十の主要なヒンドゥーの放擲者の団体即ちダサミによって奉じられ、それらはアディ・シャンカラやラマナマハルシ、そして増え続けている西洋人の諸団体によって設立された。これらの非二元の伝統においては、仏教におけるのと同様、神・魂・世界は幻影だとされる。

 パタンジャリはヨーガスートラ(1-24)(以下、YS)の中で、上記の質問に対し明確に答えている。「イシュヴァラは神我であり、苦しみ・行為・行為の結果・欲望に影響を受けない」。そして、その前の節において、この関係に就いての目的を告げる。「或いは神への献身によって(サマーディに達する)」(1-23)。

 サーンキャ哲学、多くのヴェーダーンタ、仏教とはことなり、パタンジャリのYSに表された古典ヨーガはイシュヴァラという神の存在を肯定する。この神は創造神ではない。宇宙・生命・人間はプラクリティ即ち「大自然」によって根源的な物質から創造される。しかし、イシュヴァラはサマーディを達成するまでのプロセスを早めることができる。それゆえイシュヴァラはヨギの神なのだ。イシュヴァラはヨギだけの手助けの為、来ることができる、つまりヨーガを自分の道として既に選んだ人たちだ。一方でイシュヴァラの役割は比較的小さい。彼を集中の対象として選んだヨギにサマーディをもたらすことができる。ギーターの中でクリシュナは似たようなことを言明し、アルジュナに対し、「私」のみに集中するよう熱心に説いている。YS第2章45節でも再確認されている上記(1-23節)の通り、この神の手助けは願望や感情の効果ではなく、というのも神は願望も感情も持つことができないからだが、主イシュヴァラと魂であるプルシャの間の超自然的な共感の効果だとパタンジャリは告げる。要するに、イシュヴァラは原初から自由で苦悩の原因に決して影響されたことのないプルシャなのだ。賢人ヴィヤーサはこの説に関して、次のようにコメントしている。即ち、神は祭儀・献身・神の慈悲に対する信頼によって呼び出さるのではない、彼の精髄・意識がヨーガを通じて解放されることを求める我々の真我と協力するのだと。それゆえこの関係は、存在のもつれた幻影の網から多くのプルシャを救い出す為に協力しようとの大自然の目的或いはデザインから生まれた一種の同情である。

 しかしYSで最も重要なことは、技法と、ヨギの自己統制並びに集中力に対する意志と能力だ。それにも拘わらずなぜパタンジャリはイシュヴァラを登場させる必要性を感じたのかとの疑問をあなたは持つかも知れない。その答えは、イシュヴァラは経験に基づく現実に合致しているからだ。つまり、イシュヴァラはヨギが完全な明け渡し、イシュヴァラ・プラニダーナ、つまりイシュヴァラへの献身を実践すると、イシュヴァラは事実サマーディをもたらすことができるからだ(YS2-45)。

 古典的な伝統によってその効果が確認されたヨーガのすべての技法を集め、分類したことにより、イシュヴァラに対する集中という単一のプロセスによって可能となる経験(それはギーターでも肯定された)をパタンジャリは無視することができなかった。換言すれば、エリアーデ(Milcea Eliade)の指摘の通り、「意志と修行者の個人的な能力以外何も求めない純粋に神秘的なヨーガの伝統と並んで、もう一つの神秘的な伝統があり、そこにおいてヨーガの修練は少なくも献身によって容易になる。但しその献身は、極度に浄められ、極度に知的なものでなければならない。やはりイシュヴァラはヨギの唯一の原型なのだ。イシュヴァラは時の制限を受けないがゆえに、太古の教師にとってさえ教師である。(YS1-26)」

ヨーガの達人の教え、ヨーガ・シッダーンタによると、私と神の関係は何か?
 ティルマンディラムの中で表現された通り、シッダーンタは、神に対するあなたの概念はあなたの心理的なアイデンティティが進化するにつれて進化すると教える。この関係は次の段階を含む。

チャリヤー:僕、神を求め、奉仕し、神を求めている人々との交際を始める。
クリヤー:友、神に到る道を見出し、神に親しみ、儀式・修練などの祭祀を行う。
ヨーガ:息子または娘、神の性質を表し始めたヨギ。
ジニャーナ:ワンネス即ち一者・永遠・至福に満ちた者・シヴァとの合一の知識を
持つ哲人・賢人・シッダ・完成者

 これらの関係はすべて恩寵に対する希求と、無知・エゴイズム・カルマ・錯覚即ちマーヤーといった汚れや不純物を浄化し続けることを含む。これらは、遠くにある山を見ている(チャリヤー)、そして山に登る道を見出す(クリヤー)、次に高く上るにつれて山に親しみ(ヨーガ)、最終的に山頂に到達する(ジニャーナ)までの変化として比喩的に表現される。神即ち真理の探究者は神を、遠く離れ、知ることが出来ないものとして見るが、霊性向上の道を見出し、その修行法に集中し、最終的に「それ」との合一を悟る。これは人が神を自分自身以外のものとして考え、究極的には自己のエッセンス、「意識のエネルギー」、シヴァシャクティだと考える一元論の説明だ。ティルマンディラムは浄化の段階を通じて神の恩寵が前進的に降下することに言及している。

 ティルマンディラムは神の五つの機能、即ち創造・維持・破壊・秘匿(曖昧化)・恩寵について記述する。これらはカルマと同じく、36のタットヴァ即ち自然の原理に従い、神のシャクティ(力)を通して顕現される。

 恩寵は神の五つの機能すべてと、最終的には我々の個人的な生活の中で創造され、維持され、破壊され、曖昧化されたこと、慈悲を感じることすべてに浸透している。我々が時々刻々これを理解し、これに感謝出来る時、我々の苦悩は直ちに終わり、神の尊顔を見る。

 神の恩寵は魂をゆっくりと俗世から解放しながら、そして叡智と真我の知識のより偉大な光を表しながら霊的な体験の梯子を上るように導くものだとシッダは教えている。恩寵とは神の慈悲だ。カルマとは異なり、それは人々の行為の美点や欠点に依存するものではない。それは「真善美」を求める魂の希求に対する神の回答だ。

神の宇宙的な姿は誰も理解できない
しかし、五大要素からなる肉体に
水に溶け込んだミルクの如く神は見事に浸透し
驚くべき至福を私は飽くことなく経験するようになった。
ティルマンディラム450節

 曖昧化が続く限り、内なる神の存在を悟ることはできない。しかし神の恩寵を通じ、肉体と心よりなる個性に対する執着に背を向けて汚れを浄化するにつれ、人は霊的な経験をし始める。こうした体験とそこで与えられる至福から、人は内にあって結びついている神に対し、ますます向き合うようになる。究極的な至福は神の恩寵によって見出される。

 シッダ達は決してヒンドゥーの諸神を崇めなかったし、寺院での礼拝という中途半端な妥協すら推奨しなかった。彼らは最も正確な言葉の意味において過激であり、すべての者に対し、内なる神を求め、「それ」を顕現するよう奨励した。彼らの偉大な格言は、「神は愛なり」、「ジ―ヴァ(個我)はシヴァへと変わり、それらは二つのものではない」を含んでいた。神に対する彼らのお気に入りの概念はヴェッタヴェリ即ち「広大な光に満ちた空間」だった。

ババジのクリヤーヨーガはグルヨーガである
 ヨーガの伝統の中で「グルと神と真我は一つだ」というのは偉大な格言即ちマハーヴァーキャだ。それは、ヨガナンダとヨーギラマイアの偉大さを一瞥して以来私が個人的に奉じて来た言葉だ。シッダ・ティルムラルの詩を聞いた時、それは私の中で水晶のように明らかになった。

無知な者は愛とシヴァは別のものだと言う
愛はシヴァなりということを知らない
一たび愛はシヴァなりと悟れば
愛はシヴァとしてそこに留まる
ティルマンディラム270

 私がババジのクリヤーヨーガの修行と、タミール地方のクリヤーヨーガの教義、即ち18人のタミールヨーガのシッダの教えを分かち合うというババジの使命の為に自身を捧げた時、それは私の人生の指針となった。私がババジのマントラ、「オーム・クリヤー・ババジ・ナマ・アウム」を繰り返す時いつも、それを思い出す。

 ヨーガのシッダたちは自分達のグルを崇拝した。彼らの書物の中ではどこにおいても、如何なる神も賞賛しないし、寺院の中のより小さな神も崇拝しない。というのも、彼らは自分達をシヴァ即ち至高の存在であると悟っていたからだ。彼らのヨーガはグルヨーガだ。彼らの詩は概して自分達のグルへの挨拶で始まる。これは、彼らがグルの愛の中で神を経験したからだ。彼らはグルの愛の力を経験し、その見返りとして愛と神聖な行為までも現わすことによって答えた。私が「私の存在と喜びを絶対的かつ完全にクリヤーババジに明け渡します」との誓いの言葉を最初に口にした日から、この愛と、それが私を通してどのように働いて来たかを証言できる。過去の50年間は、すべての者に内在するババジに対するこの愛と明け渡しを表現する一つの継続したカルマヨーガの期間だった。

 グルという言葉は文字通り闇を駆逐する者を意味する。「グ」は闇、「ル」は光を意味する。闇とは無知の暗喩だ。無知とは、永遠でないものから永遠のものを、歓びの源から苦悩の源を、真我からエゴに縛られた人間性を識別する能力の欠如だ。従ってグルとは、如何に無知の闇を取り除き、叡智を実現するかを我々に示すものだ。無知のヴェールが取り除かれると愛が内側よりそして外側に全能の光のように輝く。グルは人間ではない。グルとは、それによって真理・愛・善・叡智が表されるタットヴァ即ち自然の原理だ。それは、自然の背後にある「真理」を深く見ることを可能にするあらゆるものを通じて明らかになるかもしれず、エゴイズム・幻影・カルマの汚れを浄化する。それは書物・赤ちゃんの眼・日の出・霊的体験・マントラを通して明らかになるかも知れない。それがある人物を通じて絶えず明らかになる時、我々はその人物をグルと呼ぶが、グルであるのはその人物ではなく、その人物を通じて顕される教え・叡智・愛であることを忘れてはならない。その人物は単なる郵便配達人なのだ。これを忘れずにいることで、その人物の人間的な限界が表された時に生じる混乱を避けることができる。

 グルの原理はまた、我々が無知から叡智へ、エゴイズムから真我実現に向かう為に必要なすべての生き物を我々の内と外の世界において大自然が創造し、維持し、破壊する法則だ。それは宇宙が創造される前から存在し、それ故時空を超越している。グルの原理は内なる真我としてすべてのものの内に存在する、それ故我々が外部のグルに敬意を表すとき、自身の真我にも敬意を表すことになる。それは非個人的なシャクティ、即ちサーダナを最大限拡張するために必要なすべてを創造する本能的な力だ。それは常に利用可能なので、外部のグルより強力だ。

 グルという言葉は、「グナ」という言葉に関係付けても説明できる。グナとは大自然(プラクリティ)が我々を物理的・感情的・精神的に動かす、タマス(不活性・疲労・落胆・疑念)、ラジャス(活動・勇気・計画・執行)、サットヴァ(バランス・平衡・明晰)の三つの傾向・モード・構成要素・性質を意味する。従ってグルとは、我々が如何にグナへの依存から自由になるかを示すものだ。シッダたちはそれを行なう彼らの使命をアルパダイと呼んだ。それは真我実現への道を示すことだ。パタンジャリはヨーガスートラの中でこの解放をカイヴァリヤ即ち「見られるものから自由になること」と呼ぶ。(YSⅡ-25、Ⅲ-50、Ⅳ-26,32,4)そして最後の節で次のように述べる。

 こうして、グナが真我に奉仕するという目的を果たし、プラクリティへ溶け込み、完全なる自由という最高の状態が現れる。言い換えれば、純粋意識の力が自らの純粋な本性に落ち着く。

ババジを求め、ババジになりなさい
 我々一人ひとりは進歩の途上にある作品だ。個人的にも全体的にも、修行即ちヨーガの訓練に従事する修行者として、人間的な性質やエゴを抑制すると同時に潜在的な能力と意識であるクンダリニーを表そうとしている。しかしこのプロセスの結果として生じる変容は、修行者のマインドと精神が魂あるいは霊にその忠誠を向け、エゴから離れる程度に依存するだろう。

 エゴはそれ自体を浄化できない。それができるのはエゴの顕れに影響されていないハイアーセルフまたは魂だ。しかし、如何にして我々の意識の前面にそれを持ってくるのか? エゴに対してその影響力をどのように働かせるのか? ババジのクリヤーヨーガにおける五重の道は間違いなく、潜在意識を浄化し、必要な集中力を開発し、肯定的な心のイメージを創り出し、叡智を見出すための知性を開発する手助けとなる多くの技法を提供する。しかし、我々の魂、即ち心霊的存在は、修行者が内に集中し、内在し且つ超越している神秘的な光、神の甘美な臨在、「真善美」を見出さない限り、それまでマインド・感情・感覚のヴェールの背後に隠れている。グルと神と真我は一つのものだ。第一イニシエーションには、クリヤーヨーガのグルであるババジと交信する技法がある。このババジと交信する技法は、魂・ハイアーセルフ即ちシュリ・オーロビンドのいう心霊的存在が、次第に頻繁にエゴイズムのヴェールの背後から現れることを可能にし、最終的にはそれと完全に同一化する。我々の魂との完全な同一化は通常長期間にわたるサーダナの後に初めて実現する。この同一化の特徴は、すべての状況で生じている非常に大きな歓喜だ。

 その者は不死即ち永遠であると感じる。神の甘美な臨在を感じる。

 しかし一方でハイアーセルフ即ち魂の長期にわたる浄化と、自身をそれと同一視する作業が完成するまで、修行者は繰り返し内に向かい、集中し、その指令に耳を傾け、そして従わなければならない。それは人の性格の中で浄化する必要のあるすべてを現わすだろう。それは改善するか削除すべき(性格の)すべての上に光を当てる。あなたが(本来)持つ真の主権があなたを待っている。単にマインドフル(気付いている状態)であるだけでは十分ではない。至高神の僕になろうとの望みを持ちなさい。怒り・プライド・嫉妬心を現わすことに抵抗し、怖れ・欲望・古い否定的な習慣を手放すため、あなたの内なる神に集中し、求めなさい。あらゆる時、あらゆる場所で神に対する愛と献身と共に親切心を現わし、落ち着いて役立つ行動をし、神の道具となることを求めなさい。すべての者の内に神の美しい顔を見なさい。愛と喜びと共にあなたのハートを高鳴らせなさい。あなたのマインドと生気体が静まるにつれてあなたの魂は前面に現れ、あなたの人生を導くだろう。
以上








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聖なる錬金術

2020-04-21 10:42:14 | スピリチュアル
シッダーンタに照らしたクンダリニーヨーガの聖なる錬金術

KYJ 2020 Spring

Bt M.G.Satchidananda


 私の師ヨーギラマイアはしばしば、ババジのクリヤーヨーガの目標は存在の五つの象限における完全な明け渡しであり、クンダリニープラーナヤーマの実践がそれを達成するための最も効果的な手段だと繰り返し話した。この教えは、ティルマンディラムを含むヨーガのシッダたちの文献を通じて繰り返し述べられている。しかしながら、その意味を秘儀に参入していない者に対して隠すため、つまりそれを誤って用いることがないよう、故意に隠喩で表現されている。ババジのクリヤーヨーガのイニシエーション受講者がその修練の重要性をより深く理解するための手助けとして、彼らの文献に対する広範な翻訳書と註釈書を出版した。シッダヨーガの究極の目標であるシッダーンタとして集合的に知られている彼らの教えに関する研究は、あなたのサーダナの問題を明らかにするだろう。

供犠の新たな意味
 ヨーガのルーツはヴェーダの供犠の火による儀式だ。それは神の祝福を招き寄せるため、寺院において世襲の僧侶によって今日まで行われている。しかしそれは、通常物質的な目的の為に行われる。ヨーガのシッダたちはそのような物質的な目的が我々の気持ちを究極の霊的目標からそらすべきではないということを、思い起こさせるよう努めた。

貴重な富を与え給う神を求めよ
それは悪をすべての他の富に変える
彼らが行う供犠がもたらすものは
計り知れない富、至福への憧れ

ティルマンディラム220

 このティルマンディラムの詩にDr.K.R.アルムガムは次のようなコメントを書いている。「ヴェーダと聖典の教えのエッセンスは一つの至高の存在を認識することと、魂によって神の恩寵を求めることだ。この教えは、人が霊性の意味を理解するようになるにつれ、神が表した貴重な富だ。しかし人はこの教えを無視し、物質的な富を求め、その欲望は人を輪廻に束縛する。悟った者は最高の至福をもたらすシヴァ神の恩寵という計り知れない富を求める。彼らの供犠はこの目的に献じられる。」 

 この目的のためシッダたちはクンダリニーヨーガを開発した。しかしながらそれが真の目的の為に学ばれ、利用されることを確実にするため、その実施法の詳細は個人的なイニシエーションの中で達人だけが分かち合い、書いたものは残さないことにした。しかしながら、彼らの詩の中で、それに関する記述はその形而上的な目的と効果を表現している。これらの詩はまた、神の恩寵を招く愛と献身という必要不可欠の要素も表現している。恩寵は、丁度錬金術が卑金属を金に変換するように、より高次で隠れた自然の法則を召喚することにより、下記に示す通り、通常制限されている人間の性質を変容させる。

 例えば、シッダ達が神即ち至高の存在に与えた名前であるシヴァは、彼らのインスピレーションの源泉でもあるが、ババジのクリヤーヨーガのイニシエーションを受けた者は、プラーナヤーマの修練の間、タミール語で来るを意味する「ヴァ」と、神の名である「シ」として繰り返すよう教えられる。このように繰り返すことは、(我々と神との)超越的な統合に対する最高の希求を神のもとに運ぶ。この希求の呼びかけに答えて、神の恩寵は、このプラーナヤーマの修練の間、ほどよい涼しさの降下として経験できる。

輝く炎、我らの比類なき神
最も深く我が内に住まう輝かしい炎
その炎の眼差しは七つの世界を上昇する
だがその神は涼しい炎、すべての供犠を導くもの
ティルマンディラム221

 ここでティルムラルは供犠を再定義する。我々自身や家族のために富を得ようと天界の諸神に対して供え物を儀式の火の中にくべるのではなく、クンダリニー・シャクティがすべてのチャクラに上昇するよう、内なる炎であるクンダリニーを上昇させなければならない。同様に、彼はヤグナ(供犠)を、ヨーガの内なる行為と再定義する。ティルマンディラムの337/338節を見よ。シッダの文献の中においてはどこでも、天界の諸神を称賛していない。石像や寺院の中でそれらを礼拝するのではなく、彼らはクンダリニーヨーガを内なる礼拝として理解するよう推奨している。

 ティルムラルは小さな利益と引き替えに行われる供犠は我々の視界を曇らせ、神の恩寵を求めるという真の目標を隠すことになると強調する。シヴァ神は宇宙を包みながらも超越し、至高の叡智で魂を満たす至高の炎だ。太陽と月は神の二つの眼に喩えられる。太陽は顕現されたものすべてのレベルであらゆるものを照らす至高の宇宙意識を現わす。月は個別化した意識を現わす。太陽は一つの永遠の意識だ。月は我々一人ひとりの内にある反射された意識、即ち目撃者だ。シヴァ神の第三の眼、供犠の炎は魂に輪廻転生の大洋を渡らせる至高の悟りを象徴している。その火が涼しいとき、神の恩寵は魂に降下する。

 シッダーンタは四つの段階にある前進的な道を処方している。それは、①チャリヤ:奉仕、カルマヨーガ、②クリヤー:崇拝を行う行為、当初は外面的、次に内面的なもの、③ヨーガ:ヨーガの八支分を含むが、最終的にはクンダリニーヨーガ、④ジニャーナ:叡智、である。それぞれの段階は次の段階へと進むための予備段階だ。ババジのクリヤーヨーガの求道者として、我々は個人的な利益のためだけではなく、すべての人の利益の為にヨーガの修練を行うという誓約をする。これはバクティヨーガが求道者の愛と献身を育む助けとなる第二段階の準備となる。これによって第三段階においてヨーガのサーダナを継続するのに必要な恩寵・力・動機付けを得ることが可能となる。第三段階におけるクンダリニーの覚醒は、サマーディと第四段階での叡智獲得をもたらす。上記の四つの段階はまた、並行して行うことができる。

誤認による曖昧化の克服
 シッダ達によれば、シヴァは五つの機能、即ち創造・維持・破壊・曖昧化・恩寵を持つ。それらは魂が智慧において成長し、真の自己に対する無知・エゴイズム・錯覚を克服するのに必要な経験を与えることで、その成長を促進する。恩寵はこれら五つの機能すべての中で作用するが、我々が神に向き合って恩寵を求める時、それに直接触れる。これらはチダムバラム寺院の「踊るシヴァ神」即ちナタラージャの手と足に象徴されている。

 意識は我々のすべてのレベルに浸透しているが、それは魂の三つのマーラー即ち汚れによって隠されている。それらは、アーナヴァ・マーラーと呼ばれるエゴイズムと自身を本当の自己でないものと同一視することによる真の自己に対する無知、カルマ・マーラーと呼ばれる、我々の癖と性格、過去の想念・言葉・行為による結果、マーヤー・マーラーと呼ばれるマインドの錯覚だ。この曖昧化は、恐れや怒りといった感情の不安定、精神的・知的な興奮、欲望、肉体の不快感、そして集中力の欠如・情欲・怠惰といった他の障碍などを通じて現れる。

 このクンダリニーの儀式において、プラーナが制御されるとき、スシュムナー・ナーディ(気脈)の通路が開かれ、クンダリニーがその中を上昇し、クラウンチャクラより下の六つのチャクラを貫き、そこで至高の意識であるパラシヴァと融合する。

中央のナーディの上で 内と外を経験せよ
自我(アハンカーラ)の怒りを取り除き 至福の洪水を飲み干すべし
遮られることなき静寂と共に シヴァと全く一体となり
眠りなき眠りの至福を手にせよ
踊れ蛇よ リズミカルに リズミカルに

パーンヴァティ・シッダの詩116節「踊れ、蛇よ踊れ」から

 アハンカーラとは無知から生じるエゴイズムだ。
 
 シッダ達によると、上記でいうマーラー、即ち汚れからの解放の根っこは上方にある。シッダ・パーンヴァティの詩、「踊れ、蛇よ踊れ」113節の中で描写されている通り、上方に植えられた根を引き抜いてしまった者に再生はない。

 そしてバウルという歴史的なベンガル地方の神秘主義の吟遊詩人グループの詩は、次のように謳う。

その木の根は空に埋まっており
枝は地上にある

これがクンダリニーヨーガの成り立ちを説明している。内側と上方に対する働きかけがその主たる特徴だ。プラーナヤーマがその鍵だ、なぜならそれは、我々の下に向かう精液の流れを換えて上方に向かわせるからだ。ビンドゥ即ち性的な「種」のエネルギーは、頭の中と更にその上にある最高のチャクラに関係するオージャスとして知られる霊的なエネルギーに昇華される。昇華とは精錬或いは浄化を意味する。五感による注意の拡散から離れて内に向かうことは、マインドと生気体を鎮める。丁度滓(おり)が底に沈殿した時にコップに入った水が透明になるように、意識もマインドの動きから明確に離れる。静寂の中で我々は、「それ」即ち意識のエネルギー、つまり頭頂にあるシヴァシャクティと一体になる。

 根が頭上の空にある逆さの木は、我々人間の性質とその聖なる源との関係を示す隠喩だ。我々は神によって創造された。我々の根は神だ。至高の意識であるシヴァは、シャクティ即ち原初からの創造の力を通してすべてを現わす。意識とは、ある科学者たちが証拠を上げることもなく主張しているような脳の付帯現象ではない。意識がすべてを支えている。

 クンダリニーヨーガの修練は、我々が自身を肉体とその生存・感情・欲望・創造力と同一視し、何よりも先ず生存・セックス・欲望に心を奪われている下位の心霊エネルギー・センター(チャクラ)から、愛・創造・洞察力・霊的光明を経験するより上位のチャクラにエネルギーを上昇させる。上位のチャクラが覚醒するまで、我々は完全に低次の心理的状態と自身を同一視している。プラーナヤーマに加え、上述したクリヤー・ハタ・ヨーガの18のポーズすべてをバンダ即ち筋肉の締め付けと共に練習することは、エネルギーを下位のチャクラから上位へと方向付ける。それに加えて、それらの修練は左右の気脈(ナーディ)、それぞれイダー(Ha)とピンガラ(Tha)のバランスを取る。この修練は中央のスシュムナーナーディを開く。

イダーカーラとピンガラの気脈を通し 適切に気息を流せ
相応の座法で座り 内なる気息を心地よく方向付けよ
三角のムーラダーラを経て 上方に昇らせよ
間違いなく神の御足を見るだろう それは時のない永遠
ティルマンディラム2173

三つのグナを根絶(こんぜつ)し ムーラダーラの気息を制御するもの
それを左右の気脈に交互に流す
時きたらば 定められた手法は不死をもたらす
主即ち天にまします存在の王によりて

ティルマンディラム615


 更には、それぞれのチャクラに対応するビージャ即ち種子の音節のマントラを唱えると、より低次のチャクラから高次のチャクラへとエネルギーを上昇させる結果をもたらす。それらは、対応している心理的な状態を活性化し、目覚めさせ、統合する。これは、意識はエネルギーに従い、エネルギーは意識に従うというタントラの基本的な原理を反映している。タントラとは、人間の物質的な次元と霊的次元の統合を目指す教義の体系を指す。

ラーヤヨーガ
 クンダリニーヨーガはラーヤヨーガの別名でもある。ラーヤとは溶融を意味する。人間の性質の肉体的・感情的・精神的・知的次元である、究極的には「それ」でないものと自身を同一視する誤ったエゴを溶かすということだ。それらはそれぞれ、古代の科学でいう五大元素即ち地水火風に対応する。これらは我々の、本当で永遠の霊的真我即ち五つ目の要素である空に対応する意識を曖昧化する。

 シッダが好んで使った神を表現する言葉、ヴェッタヴェリは、広大な光に満ちた空間を意味する。土を溶かすのに水が必要なように、水を蒸気に溶かすのに火が必要であり、火は燃えて風の中へ入り、風は無限の宇宙に溶け込み、我々の意識は上昇して拡張し、より高貴な存在の次元と同一化する。エゴイズム即ち我々が自身でないものと同一視する癖は意識を肉体の感覚、感情、心の空想や記憶、知的なアイデアの周囲に拘束し、それ以外のすべてを一時的に排除する。これは我々の生存や多くの限定された日々の仕事、人間関係には有効だ。しかしエゴが拡張された役割を引き受ける時、それは我々の苦悩の根本的な原因だ。

 ラーヤヨーガではエゴが誤って自己と同一視している肉体(地)を感情(水)へ、更に精神(火)へ、更に知性(風)へ、そして究極的には霊(空)へと溶け込ませる。24のタットヴァ即ち人間の性質の原理について瞑想することは、我々を真我実現と超越への戸口に運ぶ。24のタットヴァとは、上述の五大元素と、五つの感官(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)とその五つの器官、行動のための五つの器官、そして無意識・マインド・知性・エゴを指し、更には時間・欲望・カルマ・制限された知識と能力というマーヤー(錯覚)の仲介者が存在する。アーサナ(ポーズ)とバンダは肉体のエネルギーを昇華し、バクティヨーガ即ち献身行の実践は感情の座である生気体のエネルギーを昇華し、プラーナヤーマと瞑想は感情体のエネルギーを昇華し、マントラは知性体のエネルギーを昇華する。それらが総合的に作用してクンダリニーエネルギーが一番上のチャクラに上昇するとき、サマーディと呼ばれる認識作用の没入をもたらす。これが生じるにつれて恩寵の降下が促進され、内なるグルとして現れる。シュリ・オーロビンドは、これを心霊的存在と呼ぶ。それが前面に出るにつれ、それは前進的に我々を導き、変容させ、同時に我々の潜在的な能力と意識が顕れる。我々は神我実現を達成し、頭頂で自身をサット・チット・アーナンダ、即ち絶対的実在・絶対的意識・絶対的至福と同一視する。

 オーム・ナマ・シヴァヤは「犠牲の結果は至福なり」を意味する。換言すれば、あなたがすべてを明け渡す(諦める)とき、あなたはすべてを得る。霊的な道は、あなたが特別なことを何も経験せず、特別な人にもならないという準備ができた時に始まる。これは、あなたが一瞬一瞬を神への捧げものとすることだと覚えておきなさい。

以上


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心霊的存在:我々の「神」への導入部 (PartI)

2019-11-22 10:10:25 | スピリチュアル
心霊的存在:我々の「神」への導入部 (PartI)


シュリ・オーロビンドのインテグラル・ヨーガの実践により、完全に開放された心霊的存在は、どのような条件のもとで超心的変容をもたらすのだろうか?この小論文はその疑問に答えようと試みるものだ。これは2017年5月3日、フロリダで開催されたシュリ・オーロビンド会議に提出された。

 心霊的存在というシュリ・オーロビンドが使う言葉の明確な理解は、インテグラル・ヨーガの実習者に必要不可欠だ。それは彼の著作物を通して見出され、彼のヨーガを他と区別する特徴だ。いずれ判るが、それは英語の魂(soul)、真我(Self)、ヒンドゥー語のアートマン、ジーヴァートマン、プルシャとも同等とは言えない。心霊的存在はすべての人のハートの中に存在するが、殆ど常に隠されていて、その働きはマインドや生気体と混じり会っている。それが意識の前面に出てくるまでは、ヨーガのサーダナにおける個人の努力は気まぐれで、これらの動きに制約される。向上心、拒絶、明け渡しという言葉に集約されるシュリ・オーロビンドのインテグラル・ヨーガの修練は、心霊的存在が意識の前面に出てくる程度に応じて進歩を遂げる。これには四つの段階がある。

心霊的存在とは何か
 シュリ・オーロビンドはしばしば比喩的に、これを「神から来る火花」として言及する。

心霊的存在は神から来る火花で、すべてのものに内在し、個人の進化につれてその内で成長し、心霊的存在として全面に現れる。魂は常に神と真理を求めていて、それがいつどこで出会うことがあろうと、神と真理に適うことを求めている。(Aurobindo 2012.105)

 しかし、シュリ・オーロビンドは英語の魂(soul)という言葉から区別し、この新たな言葉を使うことの根拠を述べる。

魂という言葉はしばしばすべての欲望とか情熱といったことと共に、生気体すら含む非肉体的意識全体を指すこともあり、英語の中では非常にあいまいに使われている。これが、自然の道具の一部からこの神聖な部分を区別できるよう、心霊的存在という言葉が使われる理由だ。(Aurobindo 2012.112)

 このようなわけで、シャイヴァ・シッダーンタのティルマンディラムとカシミール・シヴァ派の一元論の中で、神から放射されている魂のように、それは(神からの)放射なのだ。しかし心霊的存在はシュリ・オーロビンドのインテグラル・ヨーガにおける鍵となる進化の概念でもある。(ガナパティ2012.439-471、ガナパティ2010)


我々の心霊的部分は、神から直接来て神と接触している。その起源においては、より低次のマインド、生命、肉体としての三重の顕現を助ける心霊的可能性を孕んだ核だ。この神聖な要素はすべての生き物の内にあるが、通常の意識の背後に隠れていて最初は未開発で、開発された時でも必ずしも前面には出て来ない。そして道具の不完全性が許す限りにおいて、その手段とその制約のもとで、それ自体を現わす。それは神に向かう経験によって意識の中で成長し、より気高い行動の都度我々の内で力を増し、そして最終的にこうしたより深く気高い行動が累積することで心霊的な個性が開発され、それを通常心霊的存在と呼ぶ。人が霊的な生活に向かい、そこで最大の助けとなる真の原因は、しばしば秘密裡のことではあるが、常にこの心霊的存在だ。それゆえ、これがヨーガにおいて我々が背後から前面に出さなければならないものなのだ。(Aurobindo 2012.13)

また、この心霊的存在は、ヴェーダーンタのアートマンと同等だとすることもできない。

心霊的存在と真我(アートマン)には相違がある。真我とはすべてに内在し、常に広大・自由・純粋で、無知な行動によって汚されることのないアートマンだ。その性質は、安らぎ・自由・光・広大さ・至福だ。心霊的存在は人生に降下し、転生の旅をし、経験を感じ、その上位の自由なアートマンに参加できるようになるまで、そうした経験によって成長する個別の存在だ。心霊的存在はハートセンターの裏の奥深くに隠されている。(一方)真我には特別な場所がない。それは偏在する。あなたの真我と、全ての存在の真我は同一だ。(Aurobindo 2012.106)

しかしシュリ・オーロビンドはまた、彼のヨーガ体系の中でこの英語の言葉は新しいが、フリダヤ グーヒャ、即ち「秘密のハート」という古い言葉の中に昔の前例があると念を押す。

古い哲学体系の中で心霊的存在はハートの中のプルシャ(秘密のハート)として語られたが、これは我々がハートセンターの裏にある心霊的存在として定義するものと非常に良く対応している。それはまた死ぬ時に肉体から抜け出して存続するものであるが、これもまた新たな人生を前世と結びつける為に体から去って戻ってくるものだとの教えと対応する。更に我々は、心霊的存在は我々の内なる神聖な部分だとしているが、ハートの中のプルシャも、ある文献では個人の性質を持つイシュヴァラ(至高神)として説明されている。(Aurobindo 2012.112)

それは内なる感情・生気体・肉体から構成される内なる存在の表層の動きによって覆われているため、普通理解できない。心霊的存在は、内なる神霊の影響よりも外側の力によって支配されているこれらの外部器官を通じて最も良くそれ自体を現わす。魂の道具として、内なる神として、その人間の性質に対する進化の影響は通常隠されている。その意図するところは、生命の神格化であり、その純粋さ故にその行動はこれらの内なる器官を変容させる。それは、ハートセンターの裏にある、神秘の光として知覚されるかもしれない。

心霊的存在は神と接触していて、神がより低次の性質に投影されたものであるから、我々の存在の光り輝いている部分だと言って良いかもしれない。心霊的存在はハートセンターの内部にあり、感情的な存在の裏の内深くにある。そこから、心霊的な影響に支配された時初めてこのことに気づく。(Aurobindo 2012.122-123)

自己を神に明け渡すと、エゴイズム即ちマインド・生気体・肉体を自分と同一視する習性は心霊的存在に置き換えられる。このエゴの視点の明け渡しが、後に見るように、インテグラル・ヨーガの修練の成果なのである。

心霊的存在に個性はあるが、エゴイズムはない。自身を神と統合させたとき、または完全に神に明け渡した時にエゴイズムは消える。エゴに取って代わるのは最も内なる心霊的存在だ。心霊的存在がエゴに取って代わるよう強くかつ明らかに現れるのは、神に対する愛と明け渡しを通してだ。

心霊的存在の影響、新たな進化の概念
 シュリ・オーロビンドは人間性の進化の役割(仕事)は、単に存在の霊的なレベルに到達するだけと言うことではなく、その先にある目標は「性格」を大胆かつ統合的に変容させることだと表明した。これは、光り輝く意識の力、即ちサット・チット・アーナンダ(実在・智慧・至福)の三位一体としてそれ自体を現わすが、その啓示は人類において超精神の自己肯定として達成されなければならない。我々が内なる心霊的存在に気づくようになるとき、この目標に向かい、それはシッディ(完成)を達成するサーダナ、修練を主導する。

心霊的存在は性格の中の魂で、それを通じて進化し、支援し、その影響に導かれた時には、人生のドラマの中で我々の役割を導いてくれると言える。シュリ・オーロビンドは、ギーターのような古い聖典の中で取り上げられたことのない新たな進化の概念だと告げる。

 心霊的存在は進化する、従ってそれは不変ではない。心霊的存在はとりわけ現象界で、個人のプラクリティを進化させ、進化の役割を演じる個人の魂だ。それが無知のプラクリティを叡智のプラクリティに変容できるまで、マインド・生気体・肉体の背後で心霊的存在として成長するのが、この神の火花だ。こうしたことはギーターには書かれていないが、ギーターに指摘(されていないとの理由)で、我々の知識を制限してはならない。

 心霊的存在は、創造された存在が進化するにつれて明らかになる成長していく魂の意識だ。最初のうち、魂はベールに覆われた本質的なものだが、全面に出てはいない。前面にあるのは、肉体・生命・マインドだけだ。進化の過程で、魂の意識はそれが前面に出てマインド・生命・肉体を完全に統御できるよう開発されるまで、創造された存在の中でますます進化していく。(Aurobindo 2012.118-119)

内なる存在、内なるマインド、内なる生気体、内なる肉体に対するその明らかな兆候がある。

愛・同情・親切心・バクティ・至福といったものは心霊的存在の性質だ。なぜなら心霊的存在は神の意識から作られていて、我々の内なる神聖な部分だからだ。しかし低次の部分は未だ心霊的存在の影響と統制の影響に従い、それを重んじるのに慣れていない、というのも人間の肉体と生気体は自分自身の為に行動するのに慣れていて、魂が何を望んでいるのかに関心がないからだ。それらが心霊的存在に関心をもち、従う時、それが回心だ。(彼らは)心霊的即ち神聖な性格を自身に身に付け始める。(Aurobindo 2012.122)

マインド・感情・感官の動きを単に目撃している真我、アートマンとは異なり、心霊的存在はそれらの動きに影響を及ぼすことができる。心霊的存在によって影響を受けるマインド・生気体・肉体それぞれの部分は、心霊的感情・心霊的生気体・心霊的肉体として引用されている。この影響は性格即ち各個人の進化の度合いに相応し得る。それは小さかったり大きかったり、弱かったり強かったり、覆われていて不活発だったり卓越して行動的だったりする。(Aurobindo 2012.108)

 これらの部分は、その限られた目的・性質・傾向に従うかもしれないし、心霊的存在の誘因と目的を、修正がある場合も無い場合でも、受容するかもしれない。

向上心・拒絶・明け渡し:インテグラル・ヨーガのメソッド
心霊的存在の発達について議論する前に、我々はまずインテグラル・ヨーガの修練を理解する必要がある。この章において私は、シュリ・オーロビンド国際教育センターの責任者で、私も2009年にインタビューしたことのある故J.K.ムカージーが著した「インテグラル・ヨーガの修練」から広範に引用する。この本の序文を書いたA.S.ダラール氏の言葉には、「この作品はシュリ・オーロビンドとマザーによって提起された通り、統合的な変容のためのヨーガの効率的な修練に関する総合的な論文だ。」とある。それは、彼らのまったく異なる文書に基づき、またムカージー氏自身の55年に亘る経験に照らして、彼らの修練方を初めて要約したものだ。

向上心について
 シュリ・オーロビンドとマザーのインテグラル・ヨーガは、これら二つの声明に要約することができる。(1)サーダカ(修行者)の側からは、着々と増していく熱心な向上心と、(2)神の側からは、サーダカの求めに応じて上方から下降する恩寵。しかし、この向上心とは何なのか? それは欲望とどこが違うのか? シュリ・オーロビンドは向上心を、「霊的な熱狂、魂の探究の絶頂と情熱・・・我々の存在の心霊的部分を通じて、善・純粋さ・美であるすべてに向かう我々の意識の上方へ向かう動き。」と定義する。マザーはそれを「新たで知られず、完全なるものに向かう内なる情熱・・・神の力・神の調和・神の愛に触れようとする憧れ・切望・・・内なる炎、光の要求・・・存在のすべてを捉える光り輝く情熱・・・純化に向けた意思、常に向上し続けようとする衝動」と説明する。(ムカージー 2003.42-43)

いかに向上心を開発するか? ムカージーはここに要約されている六つの段階の特徴を述べる。第一段階において向上心は人間的な性質の習慣に対する強い不満から始まる。あなたはある朝目を覚まし、わけも知らずに行動し、わけも知らずに物事を感じ、自分の意思に反した生き方をし、何も理解しないまま習慣・ルーティン・反発によって生活するような無意識的で無知な生き方をこれ以上続けたくないということに突然気付くかもしれない。もはやこれ以上そうしたことに満足できない。個人がこの不満にどのように対応するかは様々だ。大部分の者にとってそれは(単に)知るための必要性であり、それ以外の者にとってはその意味を見出すのに求められることを行う必要性だ。

 第二段階において求道者は、真理・愛・安らぎ・歓び・存在について探究することでこの虚ろな人間的な存在から逃れようと熱心に求める。これらはおそらくまだとても漠然としているが、求道者は現在のぞっとするような不完全な状態から自由になる方法を見出そうとして追い込まれる。

 第三段階では、時間をおいて、求道者の弛まぬ努力により、神の恩寵は無知のベールに一時的に穴を開けることに応じ、人生の霊的な次元を経験する。その人の能力と性向(宗教心)に応じて、「光」を見、神の愛を感じ、あるいは神の至福・臨在・真理を経験する。それは人ごとに異なるかもしれないが、通常の生活で経験した他のすべては、その経験との比較において色褪せる。

 第四段階では、無知のベールの穴は塞がるかもしれない。従ってそのことを忘れたり、疑ったりしてはならず、むしろその記憶を鮮明に保ち、絶えず自身の向上心をそれが再び起こるように向けなければならない。

 第五段階でサーダカは、より高次の生活に対する興味が徐々に増し、以前のより低次の生活に対する執着が消えて行くことに気づく。これは内面的な感情や生気体での次元のみならず、友人・仕事・過去といった外面的な部分でも明らかになる。あらたな種類の憧れと決意がハートとマインドを満たすが、それは次のようなものだ。「神よ、私はあなたを、それもあなただけを欲します。あなたを通して、そしてあなたの為以外何も、誰をも欲しません。私のすべてはあなたのものであることを欲し、(こうした)意識に反するいかなるものも認めません。私のすべてをあなたに捧げます。私の意思ではなく、あなたの御心がなされますように。私はあなただけのものです。」

 第六段階で、向上心は強烈になるので、言葉と祈りは、声に出すものであれ心の中のものであれ、必要もなければ望まれることすらない。深遠な静寂の背景の中に、霊的な炎だけが着実に燃え上がっている。神の一部になり、神と統合し、完全な道具として神に仕えたいとの強烈な熱望が修行者の意識全体を包み込む。それは「愛と真理」・変容・至高の完成を求める偉大な渇望だ。(ムカージー 2003.45-46)

拒絶について
 より低次の人間的性質にまだ支配されている間、修行者は進歩に向かって個人的に努力しなければならない。この努力は、上記の向上心と拒絶、そして明け渡しの三つの実践から構成される。シッダたち、そして最近ではシュリ・オーロビンドが主張するには、ヨーガのサーダカはより低次の性質のすべての習慣的な動きを放棄しなければならない。これに含まれるのは、マインドの意見・好み・癖・解釈・空想、生命体の性質としての欲望・欲求・切望・熱情・利己主義・プライド・横柄さ・欲情・貪欲・嫉妬・羨望・真理に対する敵意、そして肉体的性質としての愚かさ・疑念・不信仰・優柔不断・頑固・吝嗇・怠惰・ものぐさ・そして変化に対する消極性だ。

最終目標は、人間の存在全体・意識・性質の全体的で神聖な変容だ。修行者を神の方向に専念させることのない、意識の中から生じるすべてのエゴ中心の衝動と動きは、この道においては障碍だ。シュリ・オーロビンドのインテグラル・ヨーガを実践しようと望む者のサーダナは、人生の中の絶え間ない障碍物の流れに対する普段のやっかいな反応に対して(適切に)対応することを含んでいる。それらを特定し、取り除くことがヨギにとって拒絶のサーダナとなる。それは三つに分類され、それぞれに異なる対処法がある。障碍物の三つの分類は、過去・現在・未来だ。

 過去において既にサーダカが克服したタイプの障碍だが、怠惰なために今も出勝ちなものについて修行者は、(1)それが顔を出した瞬間、袖に付いたゴミのように摘み取る。(2)それについてくよくよ考えない。(3)できる限り注意を払わない。(4)それについて考えたとしても、無関心で平然としている。(ムカージー 2003.55)

 障碍の二番目のカテゴリーは現在のもので、しばしばサーダカの意識の中に現れ、時として意識がそれに制圧されてしまうことすらある。しかし誠実に努力することによってサーダカは意識の一部をその影響から解き放つ力を発見するだろう。この種の障碍を扱うため、サーダカは次の態度で臨むべきだ。
(1)衝動に抵抗するために意志の力を用いる。(2)それが生じたことを決して正当化せずに、むしろそれが現れたことに対するすべての内なる承認を撤回する。(3)限られた程度であったにせよ決して譲歩しない。(4)上昇する光の力のため、暗黒に導く傾向に立ち向かう英雄的な戦士のように振舞う。(5)自身の性質のこれらの弱さと衝動が破壊され、取り除かれるよう神に対し熱心に祈る。(ムカージー 2003.55-56)

 心の奥深く隠された潜在的な弱点である内なる障害の第三のカテゴリーを如何に認識するのか?それが最初に現れた時、サーダカの存在の殆どすべてが異常に混乱し、興奮する。その障碍の根はとても深く、広がっているのでサーダカは、それが自身の存在の内在的で引き抜くことの出来ない部分だと感じ、これらの弱点が基本的に好ましくないものであることにまったく納得しない。それが現れるとサーダカは、あたかも嵐の中に居るように意識の明晰さを一時的に失う。サーダカの意識の大部分はまだこれらの現れて来る弱点に深く惑わされ、それらを現わすことで盲目的にその強烈な欲望を満たすことを望む。十分な準備が整わない内に、そうした弱点を自力で根絶しようとすることは向こう見ずだろう。それが外部に現れることを抑圧することは極めて危険であり、頑固にそれにしがみつくサーダカの性質の大部分との間で内なる葛藤に導く。爆発は避けられず、存在のバランスを損なうことになる。従って求道者はこうした手に負えない困難を出来る限り避けるべきであり、そうしたことが少しでも現れてしまうことを避けるべきだ。むしろこうした問題へのアプローチは、

(1)恐れたりそれと自分とを同一視したりすることなく、その問題や弱点を意識しておく。(2)注意深くその原因や源泉を探る。(3)自分の性質のどの部分が、この特定の弱点に対する情熱を密かに育み、僅かの招きで(自分を)混乱に中に放り込んでしまうのかを見つけ出す。(4)仮に自身の醜い面が曝け出されたとしても、上記の観察を通して冷静で静かな無執着を維持する。(5)大母神に対し、その恩寵が積極的に介在することで、これらの深く根差して困難な弱点がその有害性を断ち、容易に向き合って克服できるようにするため、その性質がまったく無害になることを真摯に祈り、サーダカはこの問題となっている弱点を根絶できるよう誠実な望みをハートの中に保ち続けなければならない。・・・そのような祈りと望みが、徹底した自己吟味と相まって、こうした手に負えない障碍を最初は二番目のカテゴリーの対処可能な障碍に変え、そして最終的には容易に切り離すことのできる過去の障碍へと前進的に変えるだろう。(ムカージー 2003.59-60)

次号に続く





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神のヴィジョン

2019-08-09 10:40:59 | スピリチュアル

KYJ 2019 Summer
M.G.サッチダナンダ


 あなたは一瞬であれ、シヴァ神(以下、シヴァ)、あるいは(悟りを開いた)覚者の眼で世界を見ることができますか? あなたのマインドを神の視点で見続けるようにする高次の再訓練法がここにあります。それを繰り返すことで、あなたは一種の悟りを開いた状態の強力な記憶力、または「真理」の潜在印象を引き出すことでしょう。

 修練:眼を閉じ、次の瞬間、あなたの肉体が完全に空っぽであると想像しなさい。視覚化すべき何物もありません。単に内なる空間を凝視しなさい。
 再び眼を開けてこれを読み始めたとき、あなたが見るものまたは経験すること全てはあなたの気付きの内側で生じていることを認識しなさい。そして、それゆえ、全てはあなたの内にあり、あなたは全てです。「すべては私の中にある」との考えを認識しながら、あなたの気付きが外に向かってますます拡張するのにまかせなさい。
 「あなたが全ての内にあると認識する時、肉体への執着は消え、歓びと至福が湧き上がる」(ヴィジュナーナバイラヴァ・タントラ 104節)
 見るもの、見られるもの、見る行為はあなたの内にあり、(そこから)全ての生活が始まると認識しなさい。
 「すべての存在の意識をあなた自身のものと感じなさい」(ヴィジュナーナバイラヴァ・タントラ 107節)
 この認識に伴って真実の思いやりが生じます。これは単なる他人の経験に対する感情移入ではありません。あなた自身の気付きの中に他者が感じていることを感じるのです。それは記憶、言葉、表情とは関係なく、「私は存在する」(という認識)、純粋な存在感から湧き起こるのです。
 完全な実在、シヴァの無限の精妙さについて瞑想しなさい。あらゆる場所にあり、光り輝き、それ自身をあらゆるものに変容させることができ、全てを知り、あらゆる行為を行う無限の気付きについて考えなさい。創造し、維持し、破壊し、曖昧化し、顕す神の力について熟考しなさい。この五つの神に帰すべき力が、あなたのうちにも顕現していると熟考しなさい。
 「シヴァは偏在し、全能で、全知だ。汝はシヴァの属性を持つがゆえにシヴァと同類だ。自身の内の神性を認識せよ。」(ヴィジュナーナバイラヴァ・タントラ 109節)

あなたと同様、シヴァがあなたの内に住んでいることを認識しなさい。それが刻一刻あらゆるものになり、あらゆる場所、あらゆるものの内に、そしてすべてに浸透していると認識しなさい。今、存在と変化の自身の気付きに同調しなさい。エゴと肉体を超えて存在する「私」がシヴァです。私のマインドはその偉大なマインドと共にあります。私は「それ」です。私はシヴァです。
 「波が大洋から起こってはその中に消え行き、炎が火から燃え上がっては消え、太陽の光線が来ては去るように、宇宙に存在するすべては顕れては私の中に消え去る。」(ヴィジュナーナバイラヴァ・タントラ 110節)
 周囲を見渡しなさい。あなたの意識がすべてを感じ、見、聞き、触れ、嗅ぐのにまかせなさい。そのすべてはシヴァのようにあなたの内に湧き起こります。これまで、あなたのニューロンのプログラムはあたなと宇宙の分離を作り上げてきました。いつの日か、シャクティがスイッチを切り変え、分離した自己はフィクションであることをあなたに示します。あなたがその神の意識のユニークな表現として生きる間、それでも、あなたは無限の真我であり、それが創造するすべてはあなたの内にあります。
 「想念が一つの対象物に引き付けられたとき、このエネルギーを利用しなさい。その対象物を超え、そこであなたの想念をこの空っぽで光り輝く空間にとどめなさい。(ヴィジュナーナバイラヴァ・タントラ 129節)
 これは最初眼を閉じて行いなさい。それが感覚であれ、想念であれ、呼吸であれ、感情であれ、マインドが留まろうとするものから引き離しなさい。それらが消えて行くのに任せなさい。支援なしでマインドを留まらせ、それ自体が決して落ち着くことはなく、あちらこちらに動き回る単一のエネルギー体であることに気付きなさい。
 あなたのマインドを自由にしなさい。
 「バイラ―ヴァはあなたの輝く意識と共にある。バイラ―ヴァの歌を歌い、人はシヴァになる。」(ヴィジュナーナバイラヴァ・タントラ 130節)
 この最後の瞑想は、エネルギー、つまりあなたの経験するすべてのものを現わすシャクティへの集中を必然的に含みます。その素晴らしさはすべての源である絶対的な存在、意識、至福を経験することにあります。経験の内にあるエネルギーに集中し、その周囲にマインドが作り出す状況を手放すことで、経験する対象物すべては、シッダたちが“シヴァ・シャクティ”すなわち意識のエネルギーとして言及する悟りへの戸口となります。それを行なうことであなたは理解、歓び、感謝という形で恩寵を受け取ることができます。創造、維持、破壊、曖昧化、恩寵というシヴァ・シャクティの五つの機能は、全ての経験においてあなたの内で継続的に顕れています。例えば、あなたが自身の人生のドラマに没頭し、疑問を持ち、落胆し、怖れ、混乱を経験しているときに曖昧化が生じます。あなたがそれらを手放し、あるいは引き離すことを学んだ時、あるいはこの最後の節で推奨されたようにそれらの背後にあるエネルギーにただ集中するとき、恩寵はあなたの内に流れ込みます。

内なる気付きに対する九つの障碍
神のヴィジョンすなわち悟りの視点を開発するには、自身が何であるかだけでなく、何がその視点を維持することを妨げるのかを認識する必要があります。
ヨーガスートラの第1章30節で、パタンジャリは内なる気付きに対する九つの障碍があると説きます。
「病気、精神的不活発、疑念、不注意、怠惰、対象への耽溺、誤った知覚、確固とした基盤を確立できないこと、不安定、こうした意識の乱れが障害である。」
・病気には、身体的なものも精神的なものも含まれます。病気は、日々のストレスへ反応した結果です。
・精神的不活発は、エネルギーが不足し、気づきを維持できない時に生じます。エネルギーを浪費したり、疲労に陥ったりすることを避けなければなりません。
・疑念とは、物事を疑うマインドの傾向であり、答えを見つけようという思いがないと、努力を続けることに対して悲観的になってしまいます。
・不注意とは、注意の足りないこと、注意が散漫であること、習慣的な注意不足のことです。
・怠惰は、習慣の一つであり、熱意不足や落胆が原因で起こります。
・対象への耽溺は、欲望が助長される時よりも、欲望を手放せない時に起こります。
・誤った知覚とは、根元的な現実を見ないことです。
・確かな基盤を確立できないことは、忍耐や我慢強さが足りない時に起こります。
・不安定とは、修練に一貫性がないために、人生の浮き沈みの中で平静さを保てないこと、つまりつかの間の光景に入り込んでしまうことです。

 パタンジャリはまた、第1章31節で、これらは次の四つを伴うと言います。それらは、身体の震え、呼吸の乱れ、抑鬱、落ち着きのなさです。 肉体及び精神的な乱れに伴うこうしたものによって、我々は、自分がいかに真我を見失ってしまったのかに気づくことができます。

 これらに続く節で、パタンジャリは、こうした障碍とその症状への対策として、マインドの平静さを養う12種類の異なる手段を助言しています。

社会的関係において真我実現を維持すること
 マインドの平静さを養う12種類の手段の中で、パタンジャリが社会的関係を含む対処策から説き起こしていることは注目に値します。人間として、我々は肉体的そして感情的な必要性から、社会的関係に依存するよう進化してきました。しかしそれはしばしば、苦悩と人間ドラマの最大の根源です。
 「幸せな人たちに対しては友好的な態度を、不幸せな人には思いやりを、徳の高い人には喜びを、不徳な人には平静さを養うことによって、意識は乱されることなく、落ち着きを保つ。」(YS I-33節)
 霊的な高みを目指さない場合でさえ、これらを行うことによって、どのような人の人生でも穏やかなものになります。マインドには、たびたび反対のことをする傾向があります。厳密な意味でこれらの態度はしばしば進化の途上にある人間的な性格と衝突するので、パタンジャリは五つの社会的制約(禁戒)に対する処方箋としてこれらについて詳述しています。
 「自制(禁戒)は非暴力、正直、不盗、貞操、欲張らないことである。」(YS II-30節)

 幸せな人に対する友好、善意:我々は幸せな人に対して嫉妬したり、妬んだりし、その人たちの粗(あら)を捜そうとすることがあるので、この態度を養うことが必要です。例えば、誰かが、自らの労働の結果を物質的な面で享受している時、我々は嫉妬するかもしれません。しかし嫉妬するのではなく、「彼らが繁栄し続けますように」と言った方がいいのです。
 苦しんでいる人に対する思いやり:自らの思考や行動で他者に対してできることがほんのわずかな時でさえ、思いやりを持つことによって、自分のマインドと感情が変容します。「悪いカルマの報いだ」などと言って他者を判断したりしないことです。
 徳の高い人に対する喜び:彼らを見習い、そうした人がいることを喜ぶこと。
 不徳な人に対する平静さ:こうした人に影響されないこと。判断を下さないこと。何かに苦しんでいるかもしれない人を軽蔑するのではなく、こういう人たちも愛すること。我々は他者の行いを判断することなく、他者を愛することができます。他者の行いを判断すると、その軽蔑している性質を自分の中で強めてしまうだけです。一般的に、我々は自分の中にあるものを他者の中に見て非難します。世の中は自分の内にあります。世の中を変えるためには、自分の思考を変えることです。他者の過失は大目に見ること。欠点について考えてはいけません。欠点について考えると、思考がその人に伝わり、欠点を強めてしまうだけです。
 これらの態度を養うことによって、マインドが浄化され、揺らがない落ち着きがもたらされます。

修練:次のことについて瞑想し、その態度を養うこと。幸せな人に対する友好、不幸な人に対する思いやり、徳の高い人に対する喜び、不徳な人に対する平静さ。これらの性質を養うために対人関係を用い、結果としてもたらされる落ち着きに気づくこと。

叡智、即ち完全な知識の達成について
 「礼拝は捧げもの(供物)中にではなく、ハートが二元的な想念から離れた至高の意識であるとの認識の内にある。完全な情熱の中でシヴァ・シャクティは真我の中に溶け込む。」(ヴィジュナーナバイラヴァ・タントラ 147節)

参考文献 
・「パタンジャリとシッダのクリヤー・ヨーガ・スートラ」by M.Govindan
・「反対の行動」by M.Govindan
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