ババジ関連記事 翻訳版

ババジのクリヤーヨーガジャーナルなどに掲載された記事などを翻訳し、クリヤーヨーガの修行者の参考にして頂くものです。

心霊的存在:我々の「神」への導入部 (PartI)

2019-11-22 10:10:25 | スピリチュアル
心霊的存在:我々の「神」への導入部 (PartI)


シュリ・オーロビンドのインテグラル・ヨーガの実践により、完全に開放された心霊的存在は、どのような条件のもとで超心的変容をもたらすのだろうか?この小論文はその疑問に答えようと試みるものだ。これは2017年5月3日、フロリダで開催されたシュリ・オーロビンド会議に提出された。

 心霊的存在というシュリ・オーロビンドが使う言葉の明確な理解は、インテグラル・ヨーガの実習者に必要不可欠だ。それは彼の著作物を通して見出され、彼のヨーガを他と区別する特徴だ。いずれ判るが、それは英語の魂(soul)、真我(Self)、ヒンドゥー語のアートマン、ジーヴァートマン、プルシャとも同等とは言えない。心霊的存在はすべての人のハートの中に存在するが、殆ど常に隠されていて、その働きはマインドや生気体と混じり会っている。それが意識の前面に出てくるまでは、ヨーガのサーダナにおける個人の努力は気まぐれで、これらの動きに制約される。向上心、拒絶、明け渡しという言葉に集約されるシュリ・オーロビンドのインテグラル・ヨーガの修練は、心霊的存在が意識の前面に出てくる程度に応じて進歩を遂げる。これには四つの段階がある。

心霊的存在とは何か
 シュリ・オーロビンドはしばしば比喩的に、これを「神から来る火花」として言及する。

心霊的存在は神から来る火花で、すべてのものに内在し、個人の進化につれてその内で成長し、心霊的存在として全面に現れる。魂は常に神と真理を求めていて、それがいつどこで出会うことがあろうと、神と真理に適うことを求めている。(Aurobindo 2012.105)

 しかし、シュリ・オーロビンドは英語の魂(soul)という言葉から区別し、この新たな言葉を使うことの根拠を述べる。

魂という言葉はしばしばすべての欲望とか情熱といったことと共に、生気体すら含む非肉体的意識全体を指すこともあり、英語の中では非常にあいまいに使われている。これが、自然の道具の一部からこの神聖な部分を区別できるよう、心霊的存在という言葉が使われる理由だ。(Aurobindo 2012.112)

 このようなわけで、シャイヴァ・シッダーンタのティルマンディラムとカシミール・シヴァ派の一元論の中で、神から放射されている魂のように、それは(神からの)放射なのだ。しかし心霊的存在はシュリ・オーロビンドのインテグラル・ヨーガにおける鍵となる進化の概念でもある。(ガナパティ2012.439-471、ガナパティ2010)


我々の心霊的部分は、神から直接来て神と接触している。その起源においては、より低次のマインド、生命、肉体としての三重の顕現を助ける心霊的可能性を孕んだ核だ。この神聖な要素はすべての生き物の内にあるが、通常の意識の背後に隠れていて最初は未開発で、開発された時でも必ずしも前面には出て来ない。そして道具の不完全性が許す限りにおいて、その手段とその制約のもとで、それ自体を現わす。それは神に向かう経験によって意識の中で成長し、より気高い行動の都度我々の内で力を増し、そして最終的にこうしたより深く気高い行動が累積することで心霊的な個性が開発され、それを通常心霊的存在と呼ぶ。人が霊的な生活に向かい、そこで最大の助けとなる真の原因は、しばしば秘密裡のことではあるが、常にこの心霊的存在だ。それゆえ、これがヨーガにおいて我々が背後から前面に出さなければならないものなのだ。(Aurobindo 2012.13)

また、この心霊的存在は、ヴェーダーンタのアートマンと同等だとすることもできない。

心霊的存在と真我(アートマン)には相違がある。真我とはすべてに内在し、常に広大・自由・純粋で、無知な行動によって汚されることのないアートマンだ。その性質は、安らぎ・自由・光・広大さ・至福だ。心霊的存在は人生に降下し、転生の旅をし、経験を感じ、その上位の自由なアートマンに参加できるようになるまで、そうした経験によって成長する個別の存在だ。心霊的存在はハートセンターの裏の奥深くに隠されている。(一方)真我には特別な場所がない。それは偏在する。あなたの真我と、全ての存在の真我は同一だ。(Aurobindo 2012.106)

しかしシュリ・オーロビンドはまた、彼のヨーガ体系の中でこの英語の言葉は新しいが、フリダヤ グーヒャ、即ち「秘密のハート」という古い言葉の中に昔の前例があると念を押す。

古い哲学体系の中で心霊的存在はハートの中のプルシャ(秘密のハート)として語られたが、これは我々がハートセンターの裏にある心霊的存在として定義するものと非常に良く対応している。それはまた死ぬ時に肉体から抜け出して存続するものであるが、これもまた新たな人生を前世と結びつける為に体から去って戻ってくるものだとの教えと対応する。更に我々は、心霊的存在は我々の内なる神聖な部分だとしているが、ハートの中のプルシャも、ある文献では個人の性質を持つイシュヴァラ(至高神)として説明されている。(Aurobindo 2012.112)

それは内なる感情・生気体・肉体から構成される内なる存在の表層の動きによって覆われているため、普通理解できない。心霊的存在は、内なる神霊の影響よりも外側の力によって支配されているこれらの外部器官を通じて最も良くそれ自体を現わす。魂の道具として、内なる神として、その人間の性質に対する進化の影響は通常隠されている。その意図するところは、生命の神格化であり、その純粋さ故にその行動はこれらの内なる器官を変容させる。それは、ハートセンターの裏にある、神秘の光として知覚されるかもしれない。

心霊的存在は神と接触していて、神がより低次の性質に投影されたものであるから、我々の存在の光り輝いている部分だと言って良いかもしれない。心霊的存在はハートセンターの内部にあり、感情的な存在の裏の内深くにある。そこから、心霊的な影響に支配された時初めてこのことに気づく。(Aurobindo 2012.122-123)

自己を神に明け渡すと、エゴイズム即ちマインド・生気体・肉体を自分と同一視する習性は心霊的存在に置き換えられる。このエゴの視点の明け渡しが、後に見るように、インテグラル・ヨーガの修練の成果なのである。

心霊的存在に個性はあるが、エゴイズムはない。自身を神と統合させたとき、または完全に神に明け渡した時にエゴイズムは消える。エゴに取って代わるのは最も内なる心霊的存在だ。心霊的存在がエゴに取って代わるよう強くかつ明らかに現れるのは、神に対する愛と明け渡しを通してだ。

心霊的存在の影響、新たな進化の概念
 シュリ・オーロビンドは人間性の進化の役割(仕事)は、単に存在の霊的なレベルに到達するだけと言うことではなく、その先にある目標は「性格」を大胆かつ統合的に変容させることだと表明した。これは、光り輝く意識の力、即ちサット・チット・アーナンダ(実在・智慧・至福)の三位一体としてそれ自体を現わすが、その啓示は人類において超精神の自己肯定として達成されなければならない。我々が内なる心霊的存在に気づくようになるとき、この目標に向かい、それはシッディ(完成)を達成するサーダナ、修練を主導する。

心霊的存在は性格の中の魂で、それを通じて進化し、支援し、その影響に導かれた時には、人生のドラマの中で我々の役割を導いてくれると言える。シュリ・オーロビンドは、ギーターのような古い聖典の中で取り上げられたことのない新たな進化の概念だと告げる。

 心霊的存在は進化する、従ってそれは不変ではない。心霊的存在はとりわけ現象界で、個人のプラクリティを進化させ、進化の役割を演じる個人の魂だ。それが無知のプラクリティを叡智のプラクリティに変容できるまで、マインド・生気体・肉体の背後で心霊的存在として成長するのが、この神の火花だ。こうしたことはギーターには書かれていないが、ギーターに指摘(されていないとの理由)で、我々の知識を制限してはならない。

 心霊的存在は、創造された存在が進化するにつれて明らかになる成長していく魂の意識だ。最初のうち、魂はベールに覆われた本質的なものだが、全面に出てはいない。前面にあるのは、肉体・生命・マインドだけだ。進化の過程で、魂の意識はそれが前面に出てマインド・生命・肉体を完全に統御できるよう開発されるまで、創造された存在の中でますます進化していく。(Aurobindo 2012.118-119)

内なる存在、内なるマインド、内なる生気体、内なる肉体に対するその明らかな兆候がある。

愛・同情・親切心・バクティ・至福といったものは心霊的存在の性質だ。なぜなら心霊的存在は神の意識から作られていて、我々の内なる神聖な部分だからだ。しかし低次の部分は未だ心霊的存在の影響と統制の影響に従い、それを重んじるのに慣れていない、というのも人間の肉体と生気体は自分自身の為に行動するのに慣れていて、魂が何を望んでいるのかに関心がないからだ。それらが心霊的存在に関心をもち、従う時、それが回心だ。(彼らは)心霊的即ち神聖な性格を自身に身に付け始める。(Aurobindo 2012.122)

マインド・感情・感官の動きを単に目撃している真我、アートマンとは異なり、心霊的存在はそれらの動きに影響を及ぼすことができる。心霊的存在によって影響を受けるマインド・生気体・肉体それぞれの部分は、心霊的感情・心霊的生気体・心霊的肉体として引用されている。この影響は性格即ち各個人の進化の度合いに相応し得る。それは小さかったり大きかったり、弱かったり強かったり、覆われていて不活発だったり卓越して行動的だったりする。(Aurobindo 2012.108)

 これらの部分は、その限られた目的・性質・傾向に従うかもしれないし、心霊的存在の誘因と目的を、修正がある場合も無い場合でも、受容するかもしれない。

向上心・拒絶・明け渡し:インテグラル・ヨーガのメソッド
心霊的存在の発達について議論する前に、我々はまずインテグラル・ヨーガの修練を理解する必要がある。この章において私は、シュリ・オーロビンド国際教育センターの責任者で、私も2009年にインタビューしたことのある故J.K.ムカージーが著した「インテグラル・ヨーガの修練」から広範に引用する。この本の序文を書いたA.S.ダラール氏の言葉には、「この作品はシュリ・オーロビンドとマザーによって提起された通り、統合的な変容のためのヨーガの効率的な修練に関する総合的な論文だ。」とある。それは、彼らのまったく異なる文書に基づき、またムカージー氏自身の55年に亘る経験に照らして、彼らの修練方を初めて要約したものだ。

向上心について
 シュリ・オーロビンドとマザーのインテグラル・ヨーガは、これら二つの声明に要約することができる。(1)サーダカ(修行者)の側からは、着々と増していく熱心な向上心と、(2)神の側からは、サーダカの求めに応じて上方から下降する恩寵。しかし、この向上心とは何なのか? それは欲望とどこが違うのか? シュリ・オーロビンドは向上心を、「霊的な熱狂、魂の探究の絶頂と情熱・・・我々の存在の心霊的部分を通じて、善・純粋さ・美であるすべてに向かう我々の意識の上方へ向かう動き。」と定義する。マザーはそれを「新たで知られず、完全なるものに向かう内なる情熱・・・神の力・神の調和・神の愛に触れようとする憧れ・切望・・・内なる炎、光の要求・・・存在のすべてを捉える光り輝く情熱・・・純化に向けた意思、常に向上し続けようとする衝動」と説明する。(ムカージー 2003.42-43)

いかに向上心を開発するか? ムカージーはここに要約されている六つの段階の特徴を述べる。第一段階において向上心は人間的な性質の習慣に対する強い不満から始まる。あなたはある朝目を覚まし、わけも知らずに行動し、わけも知らずに物事を感じ、自分の意思に反した生き方をし、何も理解しないまま習慣・ルーティン・反発によって生活するような無意識的で無知な生き方をこれ以上続けたくないということに突然気付くかもしれない。もはやこれ以上そうしたことに満足できない。個人がこの不満にどのように対応するかは様々だ。大部分の者にとってそれは(単に)知るための必要性であり、それ以外の者にとってはその意味を見出すのに求められることを行う必要性だ。

 第二段階において求道者は、真理・愛・安らぎ・歓び・存在について探究することでこの虚ろな人間的な存在から逃れようと熱心に求める。これらはおそらくまだとても漠然としているが、求道者は現在のぞっとするような不完全な状態から自由になる方法を見出そうとして追い込まれる。

 第三段階では、時間をおいて、求道者の弛まぬ努力により、神の恩寵は無知のベールに一時的に穴を開けることに応じ、人生の霊的な次元を経験する。その人の能力と性向(宗教心)に応じて、「光」を見、神の愛を感じ、あるいは神の至福・臨在・真理を経験する。それは人ごとに異なるかもしれないが、通常の生活で経験した他のすべては、その経験との比較において色褪せる。

 第四段階では、無知のベールの穴は塞がるかもしれない。従ってそのことを忘れたり、疑ったりしてはならず、むしろその記憶を鮮明に保ち、絶えず自身の向上心をそれが再び起こるように向けなければならない。

 第五段階でサーダカは、より高次の生活に対する興味が徐々に増し、以前のより低次の生活に対する執着が消えて行くことに気づく。これは内面的な感情や生気体での次元のみならず、友人・仕事・過去といった外面的な部分でも明らかになる。あらたな種類の憧れと決意がハートとマインドを満たすが、それは次のようなものだ。「神よ、私はあなたを、それもあなただけを欲します。あなたを通して、そしてあなたの為以外何も、誰をも欲しません。私のすべてはあなたのものであることを欲し、(こうした)意識に反するいかなるものも認めません。私のすべてをあなたに捧げます。私の意思ではなく、あなたの御心がなされますように。私はあなただけのものです。」

 第六段階で、向上心は強烈になるので、言葉と祈りは、声に出すものであれ心の中のものであれ、必要もなければ望まれることすらない。深遠な静寂の背景の中に、霊的な炎だけが着実に燃え上がっている。神の一部になり、神と統合し、完全な道具として神に仕えたいとの強烈な熱望が修行者の意識全体を包み込む。それは「愛と真理」・変容・至高の完成を求める偉大な渇望だ。(ムカージー 2003.45-46)

拒絶について
 より低次の人間的性質にまだ支配されている間、修行者は進歩に向かって個人的に努力しなければならない。この努力は、上記の向上心と拒絶、そして明け渡しの三つの実践から構成される。シッダたち、そして最近ではシュリ・オーロビンドが主張するには、ヨーガのサーダカはより低次の性質のすべての習慣的な動きを放棄しなければならない。これに含まれるのは、マインドの意見・好み・癖・解釈・空想、生命体の性質としての欲望・欲求・切望・熱情・利己主義・プライド・横柄さ・欲情・貪欲・嫉妬・羨望・真理に対する敵意、そして肉体的性質としての愚かさ・疑念・不信仰・優柔不断・頑固・吝嗇・怠惰・ものぐさ・そして変化に対する消極性だ。

最終目標は、人間の存在全体・意識・性質の全体的で神聖な変容だ。修行者を神の方向に専念させることのない、意識の中から生じるすべてのエゴ中心の衝動と動きは、この道においては障碍だ。シュリ・オーロビンドのインテグラル・ヨーガを実践しようと望む者のサーダナは、人生の中の絶え間ない障碍物の流れに対する普段のやっかいな反応に対して(適切に)対応することを含んでいる。それらを特定し、取り除くことがヨギにとって拒絶のサーダナとなる。それは三つに分類され、それぞれに異なる対処法がある。障碍物の三つの分類は、過去・現在・未来だ。

 過去において既にサーダカが克服したタイプの障碍だが、怠惰なために今も出勝ちなものについて修行者は、(1)それが顔を出した瞬間、袖に付いたゴミのように摘み取る。(2)それについてくよくよ考えない。(3)できる限り注意を払わない。(4)それについて考えたとしても、無関心で平然としている。(ムカージー 2003.55)

 障碍の二番目のカテゴリーは現在のもので、しばしばサーダカの意識の中に現れ、時として意識がそれに制圧されてしまうことすらある。しかし誠実に努力することによってサーダカは意識の一部をその影響から解き放つ力を発見するだろう。この種の障碍を扱うため、サーダカは次の態度で臨むべきだ。
(1)衝動に抵抗するために意志の力を用いる。(2)それが生じたことを決して正当化せずに、むしろそれが現れたことに対するすべての内なる承認を撤回する。(3)限られた程度であったにせよ決して譲歩しない。(4)上昇する光の力のため、暗黒に導く傾向に立ち向かう英雄的な戦士のように振舞う。(5)自身の性質のこれらの弱さと衝動が破壊され、取り除かれるよう神に対し熱心に祈る。(ムカージー 2003.55-56)

 心の奥深く隠された潜在的な弱点である内なる障害の第三のカテゴリーを如何に認識するのか?それが最初に現れた時、サーダカの存在の殆どすべてが異常に混乱し、興奮する。その障碍の根はとても深く、広がっているのでサーダカは、それが自身の存在の内在的で引き抜くことの出来ない部分だと感じ、これらの弱点が基本的に好ましくないものであることにまったく納得しない。それが現れるとサーダカは、あたかも嵐の中に居るように意識の明晰さを一時的に失う。サーダカの意識の大部分はまだこれらの現れて来る弱点に深く惑わされ、それらを現わすことで盲目的にその強烈な欲望を満たすことを望む。十分な準備が整わない内に、そうした弱点を自力で根絶しようとすることは向こう見ずだろう。それが外部に現れることを抑圧することは極めて危険であり、頑固にそれにしがみつくサーダカの性質の大部分との間で内なる葛藤に導く。爆発は避けられず、存在のバランスを損なうことになる。従って求道者はこうした手に負えない困難を出来る限り避けるべきであり、そうしたことが少しでも現れてしまうことを避けるべきだ。むしろこうした問題へのアプローチは、

(1)恐れたりそれと自分とを同一視したりすることなく、その問題や弱点を意識しておく。(2)注意深くその原因や源泉を探る。(3)自分の性質のどの部分が、この特定の弱点に対する情熱を密かに育み、僅かの招きで(自分を)混乱に中に放り込んでしまうのかを見つけ出す。(4)仮に自身の醜い面が曝け出されたとしても、上記の観察を通して冷静で静かな無執着を維持する。(5)大母神に対し、その恩寵が積極的に介在することで、これらの深く根差して困難な弱点がその有害性を断ち、容易に向き合って克服できるようにするため、その性質がまったく無害になることを真摯に祈り、サーダカはこの問題となっている弱点を根絶できるよう誠実な望みをハートの中に保ち続けなければならない。・・・そのような祈りと望みが、徹底した自己吟味と相まって、こうした手に負えない障碍を最初は二番目のカテゴリーの対処可能な障碍に変え、そして最終的には容易に切り離すことのできる過去の障碍へと前進的に変えるだろう。(ムカージー 2003.59-60)

次号に続く