ババジ関連記事 翻訳版

ババジのクリヤーヨーガジャーナルなどに掲載された記事などを翻訳し、クリヤーヨーガの修行者の参考にして頂くものです。

8.ババジのクリヤーヨーガ、その神秘と素晴らしさ

2018-06-27 10:49:17 | スピリチュアル
BKYJ 2018 Summer
By M.G.サッチダナンダ

ババジのクリヤーヨーガ、その神秘と素晴らしさ

 我々は、1992年8月15日に設立したケベックのアシュラムの25周年、1997年5月31日に設立したババジのクリヤーヨーガ教師団の20周年、そしてブラジルで実施された第一イニシエーションの20周年を祝う予定である。2018年6月28日から7月3日にかけて、ケベックのアシュラムでは大勢の教師(アーチャリア)と修行者と共に、そして11月15日から20日にかけてはブラジルのクンハで祝うことになる。(一方で)我々一人ひとりは、ババジのクリヤーヨーガの恩寵が如何に我々の生活の神秘を照らすのに役立ったかを祝うことができる。

 人生は神秘に満ちている。科学者と哲学者は、人生の神秘のいくつかを解き明かそうと試みているが、彼らが理性の限界、そして経験的な証拠の収集と測定の限界に達した時、それは失敗する。前号で取り扱った通り、科学者は意識とは何かということすら判断できない。なぜなら、それは対象物ではないからだ。しかしながら(真理の)探究者は神秘主義の道を辿ることで洞察力(叡智)を獲得する。

 「神秘」は、『ティルマンディラム』のような、ヨーガ・シッダの詩の中で、時として“曖昧化”(という言葉)で言及される。これらの詩の中、そしてカシミール・シャイヴァニズムの哲学的文献の中で、曖昧化とは、シヴァ神の五つの行為の内の一つである。五つの行為とは、創造、維持、破壊、曖昧化そして恩寵である。宇宙的、そして形而上学的視点から、「神」は全ての魂が善悪のカルマの帰結を経験することができる肉体を創造する。「神」は一定の期間、魂が人生の試練を通じ、叡智において成長するよう本人の肉体を維持し、家族、友人との幾つかの親密な関係を維持する。「神」は魂の成長にとって別の関係が必要な時、またはその魂のカルマがそれを必要とするとき、(当人の)肉体、人間関係、状況を解消する。「神」が曖昧化を創造する理由は、人生のはかない歓楽と苦悩を越えて、魂が勤勉に真理を探究し、そうして叡智と真我実現と多様性の中の統一に目覚める必要があるからだ。「神」の恩寵、即ち五つ目の行為は、他の四つの全ての行為に浸透し、ワンネス又は非二元性を悟る過程で、魂を抱擁する形で魂を支援する。『ティルマンディラム』の著者、ティルムラルが言うように、シヴァ神、「神」、個我(ジーヴァ)に関し、魂は「二つのものではない」のだ。

 ヨーガの修行者によって、しばしば理解されなかったり、十分に認識されなかったりすることは、シヴァ神のこの五つの行為は、我々一人ひとりの中でも毎瞬起こっている点である。更に言えば、シヴァ神は、“シャクティ”として知られる“彼”の創造する力が、我々を含む全てにおいて働いているのを目撃している。あなたが心のお喋りから一歩引き下がった時、シヴァ神のこの宇宙の視点を目撃者として共有するかもしれない。あなたが、自分の心の動きとではなく、純粋な意識またはシヴァ神と一体になった(同一視した)時、あなたは自分の想念、感情、感覚が創造され、暫くそこに止まり、そして消えて行くのを目撃するかも知れない。我々が想念、感情、感覚を自身と同一視した時、如何にそれらが意識の光と本質的なワンネス(の感覚)を曇らせるかを賢者は認識している。この曖昧化と誤った同一視はエゴイズムから生じるが、それ(エゴイズム)は意識が個別化し、結果的に収縮して特定の肉体のみならず、個人の心の動きとも(自身を)同一視する自然の法則である。執着または反感、欲望または恐れがあるとき、自身の精神体と生気体を通じたそれらの動きは、観察することによって消化され、解き放たれない限り、或いはその時まで、執拗な循環の繰り返しに捉えられてしまう。結果的に恐れや欲望が習慣となり、心地よい或いは苦痛の記憶としてそこに止まるので、それらは更なる曖昧化を形作る。

 我々が魂または観察者の視点からこれらの心の動きのヴェールを通してはっきりと(実体を)理解し、それらを解き放つときには必ず恩寵が働く。ヨーガスートラ第一章2節に言う“心の動き(或は散動)”は、我々を時間、欲望、限られた能力、限られた知識、そしてカルマとして言及されるマーヤー(幻力)の媒体によってすっかり心を奪われた状態に置くことで曖昧化の状態に留める。瞑想の実践を通じて働く恩寵は、我々がこれらを目撃し、消化し、終結させることを可能にしてくれる。聖典の学習と熟考も有り難いことに、叡智を明らかにし、苦難を克服するために我々が忘れていたかもしれないことを思い起す助けとなる。恩寵は、我々が(真理を)明らかに見て、心を静め、純粋な気づきを持ち、心と感情の動きによって生じる誤った同一視による曖昧化のヴェールを突破することを可能にしてくれる。それは、“私は光を見た”、またはその後“私の心を吹き飛ばした”とか“呼吸が止まった”とか、“「神」の臨在を感じた”或いは“それはとても素晴らしかった”といった最高の経験として現れるかも知れない。ヨーガとタントラの目標は、他の四つの行為(訳注:創造、維持、破壊、曖昧化)の橋を渡ることによって、それらの動きと同一視すること、換言すればエゴイズムを止めることによって、この恩寵の状態を維持することにある。ヨガナンダは神を、“永遠の新たな歓び”と定義している。

 ここにババジのクリヤーヨーガの素晴らしさと、我々一人ひとりの人生にもたらされた恩寵を祝う理由がある。間断のない無執着、或いはヴァイラーギャを通じ、我々は自身を心の動きと同一視すること、そしてそれにしがみつくことを止める(ヨーガスートラ第一章12節)。クリヤー・クンダリニ・プラーナヤーマとビージャマントラの実践を通じ、我々の潜在的な能力と意識、つまりクンダリニである音速の針は、結節点即ち中心にある気脈を通るスシュムナの中のチャクラの障害物を突き抜ける。ババジの五重の道の実践を通じてこれらの障害物が取り除かれるにつれ、我々はより高次のチャクラの視点から物を見、世界の中で行動する。我々は“愛は神なり”を神秘主義として悟り、万物とのワンネスを経験する。

修行者としての我々の進化
 人類としての我々の進化は、我々の生存を安全にするための神経とホルモンのシステムを与えてくれた。我々は、エゴと記憶力と五感を持つマインドを含む、生まれながらの組織を持ち、それは生存の脅威に対応することを可能にし、恐れや欲望といった肉体と感情の反応を指図する。それは習慣を通じ、素早く、自動的に、かつ効率的に反応するようプログラムされている。それは現在我々が何を為すべきかということに関連して意識を収縮(限定)する。瞑想は我々の脳の他の場所へ、つまり我々が視点を変えて、否定的な想念や感情を認識することができ、肯定的な反応を求めることを可能にする現在の中枢組織に連れて行ってくれる。それは、我々が不快に感じる時、「何か問題があるぞ」と認識し、「自分には何か問題がある」とは認識しないが、それはエゴの声である。瞑想している間、否定的な感情の記憶が湧き起こるにつれ、最初から「自分は怒っている」とか「自分は恐れている」という声が聞こえる。しかし我々は静かになるにつれて、これらの感情とそれに関係している記憶は、我々の分離感や生存の必要性が最早脅かされない、より深いレベルの脆弱性を指し示しているメッセンジャーとして理解することが出来る。我々は、「私が平衡を保つことができるような健全な立場から、この感情に対する反応として、何が私に出来る最も適切な対応なのだろうか」と自身に問いかけることができる。我々が感情を、個人的な出来事として、そして非個人的なメッセンジャーとして目撃する時、それらを消化し、その帰結を素早く見届け、そしてそれらが真実を明らかにする。

 我々一人ひとりは感情的に反応する癖を蓄積してきた。それらを、生存のためのメカニズムと見ることができる。しかし、それらに制限されてはならない。我々はそれらを解消し、癒すことができる。それらは、電球を覆うティッシュペーパーのように内なる意識の光を曖昧にする。瞑想とは、我々が平衡の光を絶えず、そして容易に見ることができるように、ティッシュペーパーを取り除くようなものだ。

 仏陀は言った。「危害を及ぼすのは最初の矢ではない。それは、第二、第三の矢である」彼の言葉は、最初の感情(が第一の矢)、そしてそれに対する反応を第二の矢とし、その反応に対する反応が、サンスカーラ(感情の癖)とヴァーサナ(苦痛や快楽の記憶に留まる傾向)であることを意味している。

 エゴと五感は分離の感覚を維持する。本当は、分離は存在しない。全てのものの中に、調和した統一体がある。社会のレベルでは我々は別々である。しかし、瞑想の中で、我々一人ひとりはその底流にある他者との繋がり、調和そして統合を感じることができる。これは、瞑想が情け深くも現わしてくれる神秘である。瞑想は統合の第七番目の感覚を目覚めさせる。人生は、「真理」「善」「美」の終わりのない現れとなる。今年の我々の記念日のみならず、驚きと畏れと共に、もはや求道者としてではなく、人生の全ての瞬間を、神秘を悟った者、そしてヨーギとして祝うことができる。

以上