ババジ関連記事 翻訳版

ババジのクリヤーヨーガジャーナルなどに掲載された記事などを翻訳し、クリヤーヨーガの修行者の参考にして頂くものです。

瞑想により怒りを理解し、制御する

2018-07-21 11:56:18 | スピリチュアル
BKYJ 2018 Summer
By M.G.サッチダナンダ

瞑想により怒りを理解し、制御する


 怒りは苦痛の原因であり、現れである。それはまずメンタル体での敵意と否定的な思考を伴う生気体における不満の不愉快な感情として経験される。それは通常我々の執着の一つに関係している、例えば地位や名声、あるいは正しくありたい、勝っていたいという欲求に対する執着である。それは常にエゴイズムから生じる。その源は恐れ、苛立ち、切望、フラストレーション、自己防衛の感情、傷つけられたあるいは侮辱されたとの思いである。

 例えば誰かがあなた個人に対し、またはマスコミ等であなたを見くびるような発言をする。あなたは怒り、自己防衛の反応をする。あなたに対して不当に裁いた人に対する否定的な考えのみならず、なぜ彼らの発言がそれほどまでに不正確で、あなたが自分に対して懐いている見解と一致しないのかとの否定的な考えによって満たされる。
 
 怒りの感情にどのように対処するかは、通常その人が住んでいる(社会の)文化に依存している。ある文化において、怒りを露わにすることは強く否定されている。怒りを抑制することが要求される。しかしこれはしばしば抑うつと絶望を招く。我々は怒りを表現するときに気が晴れる。そこで西洋の心理学においてはそれを表現することを推奨し、その結果他人が怒りを表現するのを聞くことでお金を稼ぐセラピストの職業があるほどだ。しかしそれを表現することは、否定的な反応の習慣としてそれを強化するかもしれない。怒って我々の愛する者に対してどなったり罵ったりした後、我々は気分が晴れるかもしれないが、良くない結果が待っている。我々はまた、怒りを爆発させて口にした言葉についても通常後悔する。その言葉は取り返すことができない。それらの言葉の相手への影響の結果に向き合わなければならない。それらは我々の生理学上の、そして心理学上の修正を蝕む方向に影響を与える。我々が怒りを表現する時は常に怒りを発する習性が強まる。また、怒りを表現することでその原因を取り除いてもくれない。

 あなたがおかした何らかの過ちについて腹立たしく思い、それに拘り続けるのであれば、罪悪感、自身喪失、焦慮、抑うつなどを含む他の形態の心の病を発症するかもしれない。

怒りに対するヨーギのアプローチは、それを抑圧したり表現したりすることよりも、観察することから始まる。これは、怒りを感じることは、それを表すこととは同じではないという認識に基づいている。これには二つの段階がある。まず、それを最初に感じた時、裁くことのない気づきでその存在を確認する。呼吸がどのように変化するか、体の中でどこが緊張しているか、どのくらいあなたの心拍数が上昇したか、今あなたの考えがどれだけ混乱しているかに気づくことで、あなたの体を入念に調べて怒りの感情とそのような感覚を関連付けなさい。注意してそれを観察しなさい。あなたが怒りに馴染めば馴染むほど、それに対する恐れや反感は少なくなるだろう。痛みと苦悩の違いを認識しなさい。怒りという感情に対してどのように反応すべきか、そしてその反応にどのように反応するかに関連して仏陀が言ったように、危害を及ぼすのは第一の矢ではなく、第二、第三の矢なのだ。

 次にそれが存在することを受け容れなさい。そうすることであなたは心の平衡を維持するだろう。通常人々は、その不快感に対する反感の故にそれが存在することを受け容れず、それを表に出す、あるいは抑えつけることで、それから逃れようとする。苦悩を生み出すのは、この瞬間が現実に今起きていることではないことであって欲しいと願う抵抗なのだ。それが怒りとして感じられたのかあるいは恐れだったのかに拘わらず、その抵抗が大きければ大きい程苦悩は大きく、拙い仕方で反応する可能性も高くなる。受容とは、如何にすべてのことが現時点で現に生じているかを全面的にそして喜んで認めることだ。

 怒りの感情と共にあることで、心に空間(余裕)が生まれ、これにより、いつものように自動的に反応するのではなく、怒りを引き起こしたことに対して最善の方法で対処することができる。あなたが言葉を発するのか、それとも行動するのかを意識的に選択する前に、あなたは怒りが湧き起こり、静まって行く時間をいくらか自身に与えることができる。数回呼吸しなさい。五つ数えなさい。あなたが敵対的に反応したり、罵ったり、他の否定的な仕方で反応することはより少なくなるだろう。あなたが子供の愚かな行動を抑える必要が有ったり、誰かが別の人を肉体的に傷つけたりするのを抑制するような状況にあったとしても、あなたは怒らずにそれを行なうことができる。心の空間が広がることであなたは賢く、適切に、思いやりのある対応をすることになる。

誤った自己認識を捨てるプロセス
 誰かがあなたの人格に対して評判を貶める発言をするという前述の事例で、あなたが感じる反応はすべて、あなたの自己認識を反映している。悟りに至る過程の中には、我々の本来の姿である「人」と「もの」があることを忘れてはならない。

 あなたが自分自身であると思い込んでしまう可能性があったり、本当に思い込んでしまったりすることがあるが、実際には本当の自分ではない状態というものが数多く存在する。たとえば、ストレスを受け、疲労している人の状態がある。あるいは「私がやらなければ」とか「かわいそうな私」とか「私にはそれはできない」というような強迫観念がある。そうしたバリエーションは膨大だ。そうした考えが幾重にも積み重なっている。こうした誤った自己認識の層が「マインド」(心)と呼ばれるものを作り上げている。ストレスと疲労がなくなった時、あなたはもう他の心配事、感情、感覚を持っている。こうした状態の多くは、あなたが生き残る助けになるという理由から、悪いことではない。しかし、誤った自己認識の層に出くわし、真の「個人」がそれに自身を重ね合わせることに固執するとき、それらすべては悟りへの障壁となる。

 パタンジャリがヨーガスートラ(以下、YS)で我々に説くのは、
・ヨーガとは意識(内に生じる)揺らぎ(と一体になること)を止めることである。そうして見る者が本来の姿に留まる。(YSⅠ-2.3)
・継続的な修練と無執着によって(意識の揺らぎと一体になることが)止む。(YSⅠ-12)
・無執着は欲を抱かずに対象物を見聞きする者の完成の印である。(YSⅠ-15)

 真の個人は、如何なる「状態」でもない。それは状態を超えており、「非存在」すら超えている。それは如何なるものにもなることが出来るが、決して如何なるものでもない。もし我々が究極的に存在しないのだとしたら、我々は決して存在する(生まれてくる)ことができなかっただろう。もし我々が究極的に「ある特性」であったなら、我々は幸福にも他の如何なるものにも決してなれなかっただろう。

 脱自己認識(訳注:自分の感情などと一体になることから脱却すること)のプロセスは、悟りのレベルを説明するものだ。自身を愛として経験している人達は、普通経験されるより彼らの本当の性質の深い層に触れることだろう。しかし更に深く脱自己認識を続けて行くのなら、(自分は)何物でもないとか、全てであり、全宇宙そのものであるといった状態を含む更に多くのレベルがあるだろう。瞑想のプロセス全ては、我々が無意識の内に自己認識され、それらとの同一視を脱し、それらを解き放つ処の隠れた状態を明らかにする。脱自己認識の瞬間がある時は常に、直接経験が生じるための即時の機会でもある。あなたが怒りを感じる時は常に、「怒っているのは誰なのか」を自身に問いかけなさい。

瞑想と怒り
 多くの人達が瞑想は単なる現実からの逃避として、あるいはよくてもせいぜいストレスを管理する手段として見ている。しかし瞑想は、怒りにくい健全なマインドを養う手段として見ることもできる。我々の精神的な状態が、怒るか怒らないかを決める要因であるということは事実であり、それはまたあなたが感じ、それを表出する程度を決める。それ以外の決定要因には、あなたが空腹かどうか、疲労しているか、肉体的に不快かどうかなども含まれる。

 他の多くの問題でも判るように、予防は対処よりも効果的である。以下は、瞑想によって心を養うことで怒りを抑制する方法である。

1. その瞬間その瞬間の気付きを養うことを日々の生活の中で練習しなさい。例えば、ウォーキング中、坐っている間、車を運転している時といった日々のルーティンの間にどんな感覚があるのかあなたの体を調べなさい。それは、想念・感情・感覚が湧き起こり、去って行くことに対する観察者となることだ。継続的な気付きを練習することはまた、不注意に因る過失のリスクをも軽減するだろう。
2. 健全な思考を養いなさい。否定的な考えは捨てなさい。智慧若しくは霊感による書物を定期的に学習しなさい。あなたの否定的な考え又は心の性癖と反対の自己暗示を作成し、深くリラックスした状態にある時、少なくも一カ月は毎日続けなさい。これらは怒って反応する癖を置き換えてくれるだろう。例えば、「予期しない出来事が起こった時、それに反応する前に、私に生じる感覚、感情、想念の流れを観察することを楽しみ、関係者にとってただ有益な方法によってのみ行動する」と繰り返しなさい。又は、「自身に対するフラストレーションを感じる時、または他人に邪魔された時、私は許すことを忘れない」と繰り返しなさい。
3. 簡素さを養い、あなたの所有物、関係性、更には評判といったような無形資産すら永遠ではないことを良く考えることで無執着を実践しなさい。
4. 精神的な好き嫌いを超越することについて瞑想しなさい。「誰が怒りを感じているのか?」「私は誰なのか」を自身に問いかけ、真実で唯一の信頼と幸福の源泉、真我について瞑想しなさい。
5. すべての社会的制約(禁戒:正直、非暴力、不貪、禁欲、不盗)を遵守する修練について瞑想しなさい。(BKYのブックストアにある)『反対の行動:良好な人間関係の為の、ヨーガの五つの鍵』を読み、これらについて広範な議論を行いなさい。
6. 好奇心をもってあなたの反応のパターンを研究しなさい。何があなたを怒らせるのか?何があなたを触発するのか? 長い間存在していたそれらの事柄を突き止めなさい。あなたは何か恨みを懐いていないか?恨みは怒りへの執着であり、それを持ち続ける人だけを傷つける。瞑想日記の中にそれを記録しなさい。それが日々の生活の中でいかに繰り返されるのかを観察しなさい。
7. 「許し」を実践しなさい。単に「私はあなたを許します」と言ったり思ったりするだけでは不十分だ。許しとは、通常長い期間の葛藤の後にのみ到達する。あなた自身を怒りと憎しみの破壊的な影響から解放するためにそれを行ないなさい。人をその言葉と行動から識別しなさい。我々が一体であることを自覚しなさい。瞑想と日々の生活の間に、「それを解き放つ」と繰り返す練習をしなさい。

 カール・マルクスは怒りを革命的な感情と呼んだ。それを上手に経験することであなた自身と社会の中に多大な変化を創り出すことができる。それを上手に行う鍵は、敵対的になることの危険を回避することだ。今日、あなたは怒りと一体にならない、そして怒りがあなたの行動、言葉、想念を決定することを最早許さないという決意(サンカルパ)を固めなさい。肯定的な自己暗示でそれを行ないなさい。許しの意味について深く瞑想し、日々の生活の中で自身と他者に対してそれを実践しなさい。


以上