ババジ関連記事 翻訳版

ババジのクリヤーヨーガジャーナルなどに掲載された記事などを翻訳し、クリヤーヨーガの修行者の参考にして頂くものです。

    簡素な生活と高邁な思想

2021-08-06 09:14:48 | スピリチュアル

KYJ夏号 2021 
M.G.サッチダナンダ


「あなたはどうしてそれほど、ババジのクリヤーヨーガに打ち込んでいるのですか?」と時々聞かれる。それに答える時、私がアメリカの物質文明に疑問を持ち始めた1960年代後半のカウンターカルチャー流行期と、南インドのヨーガシッダの文化に帰依するよう、師のヨーギラマイアからどれほど鼓舞されたかを引き合いに出す。クリヤーヨーガに対する帰依は、ヨーギラマイアが設立したアシュラムに住んでババジのクリヤーヨーガの修練をした1972年から1973年までのあいだに完全なものになった。この変化は、「簡素な生活と高邁な思想」と要約して良いかと思うが、この言葉はアシュラムやヨーガセンターの看板にも書かれていた。これはまたマハトマ・ガンジーが有名にした言葉でもある。ヨーギラマイアはガンジーと彼の教義の信奉者だった。この文化はほとんど完全に消え去り、むしろ今日のインドでは、社会の指導者層や町で歩いている人々がともに否定しているので、ガンジーやヒンドゥー教の禁欲主義の型にはまったイメージを示すことなく、他者にこれを信奉するように鼓舞することは非常な困難を伴う。

 私がそれを50年前に信奉した時、それは平日に会社で働く時間を除き、常にガンジーと同じような服装、つまりガンジーに協力的な店で買った手織りの綿布のドーティと肩かけ、そして禁欲生活の戒律を含んでいた。それは菜食主義、床の上で寝ること、髪と髭を延ばしたままにすること、一日8時間ヨーガの修練をすること、沈黙行の日を設けること、週に一度は断食すること、TVと社交を避けることだった。私はこの禁欲の掟を、ヨーギラマイアの指示のもと、アシュラムとヨーガセンターに住んでいた18年間、厳格に守った。インド滞在中は時として、私の服装がガンジーに似通っているがゆえに人々からガンジーのお弟子さんですかと聞かれたものだ。この服装はインドで徐々に廃れ、インド人も西洋人のような服装をするようになった今日、ズボンとシャツに置き換わった。

 私が世界中の様々な文化の人々にババジのクリヤーヨーガを指導し始めた時、私がハレ・クリシュナ運動のメンバーだとの第一印象を与えるのを避けるため、私も公共の場でカダール織のドーティを着用することを止めた!有難いことにガンジー風の服装はアメリカ文化の良くない影響から私を社会的に切り離すのに役立ち、その後はほとんど影響を受けなくなった。ガンジー風の服装を棄てたことで、インド風の服或いはヒンドゥー教を受け入れなければならないとの恐れを触発することなく、多様な文化の人々にババジのクリヤーヨーガの技法を分かち与えることができるようになった。私は「簡素な生活と高邁な思想」を特徴付ける他の禁欲的な項目、価値観、美徳即ち勧戒(ニヤマ)を信じながらも、時として求道者としての道への前提条件であり、必須条件でもあると信じる同様の価値観や美徳を受け入れるよう生徒を鼓舞するために、更に私にできることは何なのだろうかと思う。私の中に残された未来への希望は自然保護と環境破壊に対する運動の中にある。その理由を説明して見よう。

なぜこれほど多くのヨーガの生徒が挫折するのか?
 文化は言葉や服装以上のものを含む。それは本質的に人が信奉する価値とその目的だ。文化(Culture)という言葉はラテン語のCulteから派生しているが、それは崇拝を意味する。現代の物質文明の中で崇められるのは、可能な限り遅滞なくかつ労せずに売買することのできる物質的な製品とサービスである。人々は即座の満足を欲し、期待する。ヨーガの分野においても、即座の満足に対する必要性は、その表現する意味を肉体的な運動の形に縮小してしまい、五つの象限(訳注:肉体・生気体・感情体・知性体・霊体)すべてにおけるヨーガの潜在的可能性をもたらすことができるという価値に対する評価などあったものではない。より具合が悪いのは、いわゆる「スピリチュアルな体験」である。スピリチュアルな物質主義と能力を追い求めることであり、それを得ることに失敗するとすべての努力を中止する。我々は決して尽きることのない欲望・競争・安逸・楽しみを追い求めあることで勢いを増す消費文明の中にいる。過去50年間、この物質的消費者文明はTV、インターネット、市場のグローバライゼーションの助けを借りて他の文明に殆ど取って替わってしまった。

 人生は選択の連続だ。ヨーガの生徒から「ヨーガの練習をする時間がありません。」という言葉を聞く時、彼らが本当に意味しているのは、ヨーガの練習の優先順位は低いと言っているのだ。というのも、誰にとっても一日は24時間だからだ。何があなたの優先順位を決めるのか?何があなたを駆り立てるのか?換言すれば、あなたは何に最も重要な価値を置くかだ。

 ヨーガの可能性を理解するためにはその価値を理解したうえで採用し、しかる後その価値が自身の想念・言葉・行動と整合するよう意識的に選択する必要がある。我々は皆自身の習性によって動かされているので、それが習慣となるまで我々の意思決定を選択する力を行使しなければならない。アリストテレス曰く、「徳性とは習慣の一種である。」それは正しい選択を行う習慣だ。換言すれば、特性とは知識と習慣、意識と行動、意思と同時に想念を統合したものだ。これはとてつもない作業だ。これを行わない限り、殆どの生徒は何が必要なのかを理解することができず、ヨーガは人生の傷口の単なるバンドエイドと、物質主義者の破壊的文明を支持する手段に留まることになる。これは人間存在の目的についての基本的な問いから始まる。

 更に言えば、神の存在を否定する者、あるいは自身の霊性の可能性を理解できない者は、その可能性を厳しく際立った状態に持ち込まなければ、如何なる可能性も直接経験できないということを忘れている。例えば、科学者が水は気体が結合したものに過ぎないと主張したとしても、素人は水が液体であって当然だと思っている。水のガス状の性質はその可能性だ。もしガス状のものだと証明するよう言われたら、科学者は疑う者を実験室に入れて、水に電流を流し、彼は自身の眼で水のガス状の性質を見ることになるだろう。同じように、魂の無限性・超越性・内在性・不滅性・遍在性はヨーガの霊的修行が実際行われた時明らかにされる潜在的な可能性なのだ。しかし修行者がその修行とヤーマ(禁戒)及びニヤマ(勧戒)として知られている倫理的な制約と徳目の厳しい条件に従わない限り、自身の内に神性を経験できない。

なぜ私はここにいるのか?何を捜し求めているのか?
 私はなぜヨーガを実践しているのだろうか?あなたはこの質問にどう答えるだろうか?
心の平安、より健康になるため、愛、神、スピリチュアルな体験、存在の疑問に対する答え、これらは典型的な解答例だ。こうしたものに共通するのは何だろうか?一人ひとり全員が求めているものを要約する言葉があるだろうか?その言葉は「幸福」だ。ヨーガに興味を持たない者でも様々な仕方で幸福を求めている。それは食事、TVの娯楽番組、スポーツ、セックス、アルコール、あるいは「私は仕事をやり遂げた時幸福になる」ので、夜遅くまで仕事をすることかも知れない。しかし幸福は手で水を掬うようなものだ、なぜならそれはいとも容易に逃げ去るからだ。「生命、自由そして幸福の追求」は人権を肯定する合衆国独立宣言の中の良く知られている言葉だ。

 この幸福の追求は、持続しないものの中に持続的な幸福は見出し得ないということを理解するまで終わらない。それでは何が持続するのか?すべてのものが変化している。あなたの精神や感情の状態、人間関係、天気、例えばあなたの銀行口座残高。更に言えば、幸福それ自体は感情即ち生気体の中の動きであり、それはたやすく出来事や状況の変化に伴って、怒り、悲しみ、欲情、高慢といった別の感情で置き換えられるだろう。どんな出来事も過去の感情的な記憶から生じる反応を誘発することが可能だ。そこで賢者はこのことを知るが故に、何かを誘発することを恐れ外部のことを変えようとすることによる幸福を求めない。その変わり賢者はすべての出来ごとと状況を、内に入って理解したうえで執着や反感を手放すために使う。

 我々の幸福の時間を中断するのは何か?シッダたちは我々に、それは執着と反感の記憶によるもの、換言すれば、潜在意識が新たな感覚的な出来事と接触することで生じる好感と嫌悪感だと教える。彼らは我々の苦痛の原因を、「我々は目を開けて夢を見ているのだ」と診断した。例えば、誰かがあなたに言ってほしくないことを何か言う、あるいはあなたは倒れ、怒りを感じる、あるいは冷たい冬の風が吹きつけて憂鬱になる、あるいはスープが冷たすぎるか塩気がきつすぎて後悔する、あるいは国税庁から手紙が来て恐れを感じる。

 シッダたちの診断は苦痛の原因に留まらなかった。彼らは対処法も処方してくれたのだ。それは自己訓練、真我の探究と自我の視点を明け渡すクリヤーヨーガの実践である。それは以下に述べる通り、世界中で今ここに根をおろしている目的が最も高尚で永遠の実践哲学である。

物質主義は精神的苦痛、社会的・政治的対立、環境破壊に対する責任を負う。
 現代の科学は膨大な物質的資源によって人類を益したが、同時に人間性から霊的で倫理的な発達を奪った。その代わりにそれは、より素晴らしい人間的な価値と感情を富と所有の追求に置き換える商業的で消費者文明の隆盛をもたらした。富に対する貪欲さと競争は途方もない経済的な不平等と社会の対立のみならず、ストレスとふさぎ込みによる精神の健全性の劣化と、今や人類存続の危機となっている地球環境の破壊という結果をもたらした。

 実際的な自然科学に肩入れし、倫理観や論理学のような社会規範にかかわる科学を無視したことで、西洋の物質文明は理論と哲学の実践の間の不均衡をもたらし、科学を宗教と切り離した。この問題は、科学者と宗教指導者たちが自分たちの組織の利益を他の配慮すべきすべてに優先させるという必要性から更に悪化した。我々一人ひとりは、物質主義の価値をヨーガの価値に置き換える力を持つ。それは何か?これらを理解し、評価するためダルマ即ち「正しい目標と行動規範」として知られる普遍的な倫理を理解する必要がある。

インドの聖賢たちが何千年も前に示した倫理の理想は普遍的な目標と達成手段を定めた。
 論理学、倫理、美意識とそれぞれの目的である真理・善・美、またインド哲学の伝統の中で知られるサティヤ、シヴァム、スンダラムは人類の特権であり、我々をより低次の動物と区別する。動物に対する人類の優越性は、人が真理を理解し、善を実現し、美と調和を創造することに在る。この三つは西洋の古典的な哲学の三つの社会科学である論理学・倫理・美学の目的でもあり、これら人間の経験の三つの相は、それぞれ認識(知識)、愛情(感情)、動能(行動)である。これらすべては霊的な完成、絶対的実在との一体性を直感的に悟ること、人生における至高の善という究極の目的を共有している。しかしインドにおいては西洋とは異なり、こうした理想的な目標は、天国や終末論で死んだ後の話ではなく、求道者が人生の中で悟るべきものとして実践的に展開された。

 これら三つの社会科学の発達は、我々一人ひとりが「真・善・美」を悟る手段を提供し、それが実践されれば現代社会に忍び込んだ諸悪に対する解決策を提供する。これは真理である、なぜならこうした理想は決して単なる道徳理論とみなされたことはなく、これを採用することで個人と社会が調和的な仕方で発展できる霊的(スピリチュアルな)生活の様式と見なされてきたからだ。

クリヤー即ち意識を伴った行為は、倫理・ヤーマ(禁戒)・ニヤマ(勧戒)の知識から始まる。
 倫理とは何か?倫理学は人生の至高の善について考えるよう提起され、正しいことと間違ったこと、前と悪を判断する基準を与える人間の行動に関する学問と定義できる。この言葉は徳性を意味するギリシャ語の「エートス」から派生した。倫理の同義語は道徳哲学だが、Moralはラテン語のMoresに基づき、癖あるいは習慣を意味する。倫理は我々の行動を道徳的あるいは正しくする原理を提起する。Right(正しい)という言葉はラテン語のRectusから派生しており、「真直ぐな」あるいは「規則に則った」という意味だ。規則は手段なのだ。しかしその目的は何なのか?これに答えることができるのはドイツ語のGut(善)という言葉を分析した時だ。Gutはある目標或いは目的に有用で役立つものを意味する。もしこのGutの意味を受け入れ、倫理を良い行動の科学と見なすなら、倫理とは人生の目標あるいは目的に関係しているという結論に達する。それは個人の自己目的ではなく、すべての人の人生が方向付けられる究極の目標、至高の善である。

 西洋の倫理学において、この至高の善は様々に言及されてきた。快楽主義は幸福が至高の善だとみなす。完全主義者は自己実現が、合理主義者は理性が至高の善だとみなす。ここ数十年で西洋の物質主義は概して倫理の高尚な目的を、私が応用倫理と名付けたものに貶めた。例えばジュネーブ条約での囚人の扱い、医療倫理、弁護士、ファイナンシャルアドバイザー、精神科医、ヨーガの教師ですら倫理綱領がある。フェイスブックやグーグルですら守秘義務に関する方針を定めるのに倫理学者を雇う。キリスト教とユダヤ教の倫理は十戒から始まる。この二つの宗教のそれぞれの宗派が自分たちの教会の目的と聖書の解釈を支持する様々な倫理原則を作ってきた。それらは哲学体系というより法的な信仰体系で、そこでは神が法・裁き・報酬・罰の源泉と信じられている。

 古典ヨーガを含むインド哲学の殆どのすべての体系は、モクシャ即ち解脱・解放が至高の善であるということで一致しているが、手段とそれを獲得した結果は異なるものの、それは苦悩の源を取り除くことを含む。

倫理学は社会規範に関する科学である。
 科学は対象物に関する定型的・方法論的・網羅的な知識と定義できる。科学は何が対象であるかを記述し、事実に基づく判断を下すとき、自然論的で明白だ。それは事実を観察し、分類し、それらについての自然的な法則を導きだす。社会規範に関する科学は、ある基準或いは規範を採用し、その特徴の価値判断を下すか、対象となる物事を評価し、それがどうあるべきかを判断する。例えば論理学は考え方の社会規範の科学であり、それは我々の考え方が有効で正しく、首尾一貫しているためにはどうあるべきかを教えてくれる。倫理学は正しいことと間違ったこと、行動の善悪を扱うものだという時、それは行動の評価の判断を下すということを意味する。

 論理学は考え方に関する抽象的で理論的な正規の科学かもしれないが、倫理学は個人の行動に関係している。倫理学は知識・能力・意思決定を必要とする。正しいことと間違ったことを区別することが人を善良にするわけではない。道徳的または高潔な行動が自発的に選択されてきた。人は善意によって鼓舞される。道徳的規準に従って自発的に行動しなければならない。

 私自身がヨーガに帰依した理由は、部分的にはキリスト教のある倫理教育に関する疑問がきっかけだ。9歳のころ、ルーテル派の牧師に、「もし善良な人たちがイエスキリストを主であり、救い主として信じなかった時、その魂はどうなるのですか?」と質問した。牧師は、彼らの魂は地獄で永遠の苦しみを受けるだろうと答えた。この回答は、「神はあなたを愛しています」とのキリスト教の教えと矛盾するように思えた。それは、こうした質問への答えを別の場所で探し始めるきっかけになった。10年後、ババジのクリヤーヨーガの中に私が探し求めていたものを見出した。

ヤーマ(禁戒:社会的制約)とニヤマ(勧戒:美徳)
 ヤーマはそれなくして道徳的な行動が成り立たない社会的制約、即ち行動或いは衝動を抑制することだ。それは五つある。(1)非暴力(アヒムサー)は想念・言葉・行動を対象とし、それを可能とするため普遍的な愛と同胞愛を必要とする。(2)正直(サティヤ)は嘘をつくこと(誇張した表現を含む)に対する制約。(3)不盗(アスティア)は、他人の所有物を尊重すること。(4)純潔(ブラフマチャリア)、文字通りの意味は絶対者に対する向上心を持って行動すること。(5)不貪(アプリグラハ)、貪欲さが執着・怒り・妄想を惹き起こす時、欲望や所有を制限すること、つまり簡素な生活と高邁な思想だ。これらについては別の本で広範に著述しており、紙幅の制限もあるので、ヤーマについては本稿末尾の参照文献を見て頂きたい。

ニヤマは、霊的な向上心を注入し、苦悩の原因即ち真実の自己に関する無知、エゴイズム、執着、嫌悪、死の恐怖の除去を加速することを目的として、魂と一体化している良い習性と人格を形成するため、ヨギが開発すべき徳目である。それは私的な権力の拡大や経済的利益より愛と人道主義的な情感を重視することにおいてインド人の倫理の主張を反映している。それらは、

1. 清浄即ちシャウチャ、身体を清潔に保ち、マインドを愛で満たすこと、同胞愛、同情、親切、柔和。パタンジャリの告げるところは、「ヨーガの諸部門を実践することによって、不純なものが減少していき、際立った識別を生じさせる叡智の光がもたらされる。」(YSⅡ-28)「さらにサットヴァの純粋さ、心の喜び、一点集中、五感の統御、真我実現への適性を得る。」 慈愛深い習性と同胞愛と同情を育むことにより、マインドに清浄さが現れることは、特に個人と産業の競争、快楽主義、ポルノ、そして政治的党派心が消えていない現代の経済文明において倫理的に重要視される。「見る者は、純粋(であり)、(直接)ただ眺める力を通して、思考を知覚する。」(YSⅡ-20)

2. 知足即ちサントーシャは、俗世の楽しみを過度に求めず、何であれ正直な労働の結果として得たものに満足することを意味する。「知足によって至高の喜びが得られる。」(YSⅡ-42)知足は内なる落ち着きであり、そこにおいて人は周囲の困難な問題に悩まされることのない調和と、自身と内なる愛における喜びを見出す。それを感じるかどうかは、それに対して自身を開くかどうかによる。不満ではなく、あなたの知足と喜びを他者と分かち合うとき、更には他人の欠点ではなく最善の点を見る訓練をするとき、単に美徳ではなく、倫理的な実践となる。

3. 苦行即ちタパス、自発的な自己挑戦。肉体、感情、マインドの傾向や抵抗の克服を含む真我実現のための厳しく、長期間にわたる修行。成功と失敗、損失と利益、名誉と恥辱に対して平衡心を保ち、浮き沈みを伴う人生の移り変わりに忍耐強く耐えることを含む。

4. 真我探究即ちスヴァディヤーヤは、単に聖典を研究することではなく、マインドの精神力学と並んで自分の行動を観察することも含む。それは我々の経験を日記に記録するという形をとっても良い。それによって主観的な経験が客観的なものに変化する。結果として我々は残るもの、「見る者」、目撃者に気付くようになり、徐々に「見られるもの」、感覚的な対象物、人柄、感情的な動きと習慣となった反応の総計と自身を同一視することを止める。真我探究は識別と自己の統制をもたらす。パタンジャリのようなシッダは単なる超越意識状態ではなく、より低次の人間的な性格の変容を求めた。

5. 完全なる明け渡しと至高の実在即ち神を瞑想することは、イシュヴァラ・プラニダーナと言われる。イシュヴァラとして言及される神は、シヴァと特別な自己という二つの言葉の合成語だ。至高の実在に対する献身即ち明け渡しは、悩ましいことを手放して神に対する無条件の愛を育むことも含む。最終的にもたらされるのは平衡心だ。あなたは手放し、神を迎え入れる。ヨーガの有神論的側面を示す神に対する自己の明け渡しは、愛と献身の道の中に変容する。アンブーシヴァム、即ち愛は神なりとシッダは言う。人を愛し、奉仕することは神を愛して奉仕することであり、倫理学を最高のレベルに高める。神に対する愛は、以前は単なる可能性であった自身の神性を顕現させる。

誠実さとはあなたが意図したことを行うことだ。
 私の師、ヨーギラマイアはしばしば、「誠実さこそがババジのクリヤーヨーガにおける唯一価値ある通貨だ。」と繰り返し言った。誠実さとはあなたが意図したことを行うことだ。換言すれば、善良な意志の力、決意は価値・美徳・ヨーガの行法の知識に応用されることによってあなたは悪い癖、性格と人間性のきず、そしてそれらを変容させることに対する抵抗を克服できるようになる。あなたはお金で幸せを買うことはできない。あなたを支配し、苦悩の原因でもある自身の性格の限界を克服すべきだ。価値と美徳、ヨーガの
ヤーマ(禁戒:社会的制約)とニヤマ(勧戒:美徳)に関する知識は必要条件だが、誠実さがシッディ即ち我々の神聖な人間としての可能性を完成させることに向かって精進を続けることに対する十分条件だ。

 上述の記事は、明白な文化的価値とヨーガの美徳とは何なのか、そしてなぜそれらが我々人間の性格を変容させて潜在力を実現するのかという疑問に焦点を当てた。これら即ちヨーガのヤーマとニヤマをどのように修練するのかに対するガイダンスは以下の参考文献を参照のこと。

・ 「反対の行動、良い人間関係に対する5つのヨギの鍵」ババジのクリヤーヨーガ出版
・ 「ヤーマvsパンデミックと気候変動」  KYJ Winter 2021
・ ヤーマとニヤマについては、「パタンジャリとシッダのヨーガスートラ」

以上