また…近いうちに…

ひとりごと…覚え書き…。不定期で 呟いていこうと思います。

自分独りでは、できないからこそ、感じること

2016-03-29 23:30:30 | 日記
ありがたいことに、声をかけていただいて、叶ったことがあります。
盲点、というか、教えていただいて、そうだったわ! なぜ、気づかなかったのだろう! と思うことでした…。

そして、さらに、頂けた資料の数々も、有り難かったです。

ゆっくり じっくり、読みました。
 
が、一番、身を入れて読みたい 高次脳機能障害の方へのサポートに関する資料は、頭がクリアな朝に読みたいので、明日の朝、一番に読ませていただこうと思います。

心をかけてくださる○○さんに、感謝して、今日という一日を終えます。

人生は始まりから終わりまで 不公平なもの…。
そして、自分に恵まれている部分には気づきにくいものかもしれません。
なぜ、自分はこんなにダメなんだろう、と落ち込んでも、それでも、安らぎをくれたり、喜びを分けてくれたり、勇気の後押しをしてくれたり、本当に 様々な形で、あたたかな心をかけてくださる人がいてくれる、ということは、忘れてはいけない……。その思いを無駄にしては申し訳ないし、推進力に変えて、私もできることなら、誰かの人生の応援をしたいなぁ、と、今日のような日は、あたためてもらえた ホワホワした心で、思うのです…。

知らなかった…。

2016-03-29 07:51:31 | 日記

昨日は、北側の庭の草取りをしたのですが、オオデマリの枝に小鳥の巣があることに気が付きました。
今頃!? と、自分にあきれました…。

子育てで忙しかった頃の方が 庭にはよく出ていたし、花が咲けば、色鉛筆でスケッチしたり、そうそう、ライラックが咲いた!といえば、子ども達にその前に立ってもらって 写真を撮ったり、と、季節の移り変わりを楽しんでいたのに。

今は手持ち無沙汰、暇があれば、スマホでゲーム…。
子ども達のお蔭で 子育て中は私も外に出ていたのですねぇ。

この小鳥の巣は、また同じ夫婦がきてくれるのか定かではありませんが、淡い期待を抱いて、このままにしておきます。

がっかりしてしまった…けれどもまだ序の口。

2016-03-29 07:32:04 | 日記
今朝は4時起きして、夫のお弁当を作ったのに…。
新聞を郵便受けに取りに行ったら…。そっくりそのまま、バッグごと、玄関脇の宅配ボックスの上に置き去り…。
ダメ元で、と電話をしに、スマホを手にしたら、着信履歴が…。
届けようにももう、皆さん揃ったから出発するとのこと。ゴメン、と言われたけど、犬の世話をしていて、スマホを放置していて、着信に気付けず、私こそ、ゴメン、ですよ。

この先、生きていくということは、こんな風に自分にがっかり、相手もがっかり、が増えていく一方であることを考えると、朝から悲しくなっちゃいました。

それでも、生きているだけ、幸せ?

ほんとうに?

私の身近なところで、病気や障害で、家族の負担になるのを嫌がり、自殺をした夫婦がいます。
当時、ご主人の時、私は小学生、そして奥さんの方は高校生の時でしたが、その時に感じたこと、考えたこととは、今、この歳、そして今の状態で感じること、考えること、同じこともあるけれど、変化した部分もありますねぇ。

家族で支えあう、それは心情的には そうしたい気持ちはもちろん愛着があればそうでしょうが、家族同士の関わり合いは 良くも悪くもダイレクトですから、相手の状態や気持ちを思いやれる言動がとれ、サポートできるうちはいいけれど、当たり前ですが、外気の取り入れもとっても大事ですねぇ…。

実父母の看取りに関しては、私は12歳で養女に出されて それまで虐待を受けていたこともあり、心理的に距離をおこうとしていたことで、逆に 妹とは支え合えたと思っているし、距離の確保は、介護の継続に必要なことでした。
共倒れはなんとしても防がないと、私たちの次の世代、つまり子ども達に負担がいくので。

ただ、これも、通り過ぎた過去だから言えること。

体も心も♪ したいことがあって、動けるうちは動くし、家族に対してできることは精一杯やりたいとも思う。
でも、次第に厳しくなってゆくのよね…。


自殺は周りに悲しみを与えるからダメだ、という考え方もあるでしょう。信仰で禁じられていることもあるでしょう。
死が訪れるその瞬間、本当は、生きたかったのか、それとも、やっと苦痛や心配ごと等々から、解放される喜びがあるのか、その当事者にしかわからないだろうなぁ、と 私は思います。
少なくとも、自殺未遂となったあの時、私は それまで感じたことの無い安らぎの中にいました…。でも、ミスをして死ななかった…。戻ってきてしまった。
絶望してしまっていたから、自殺できなかったこと、しばらく後悔し続けたほどでした。

私はもういい、と思ったのに、死を悲しむ親友がいてくれたことも、有り難かったなぁ、と思えるのは 後になってから、で、当時は 親でさえ要らない命なのに、出会って数年の4人が、こんなに大切に思ってくれるのは、どうしてなのかな、と不思議でした…。

死ぬ気になれば、なんでもできる、と言う人もいますよね。
でも、私はあの時は、逆の心境でした。なにも、執着するものがないんですよね。それだけ大切に思ってくれる親友達のこと、もちろん私も大好きという以上の大切な存在でした。でも、その関係でさえも置いて手放そうとした…。
何らかの執着があるうちは頑張れても、なにも欲しいものが、欲することがなくなったら、こんなに穏やかな心境で死ねるんだなぁ、と、意識が遠のきそうになる中で私は思った…。
あの時の自分の体験から思うのは…。

悲しいとか悔しいとか、恨むとか、そういう気持ちがあるなら、周りの何らかのサポートが得られるなら、頑張ってみることは 良い結果を生み出せる可能性があると思うのですよね。
執着をエネルギーにして、結果が出せる努力ができるなら、次第に心は元気を取り戻せるのではないかなぁ、と願いたいです。

あの時の私は、それぞれ悩みを抱えていた親友達のことを思い、自分の生きる辛さを抱え込んでしまって、失速して、心が落ちてしまった…。


あなたの命は、二度と誰にも生みだせない唯一のもの。
だれかが、あなたを傷つけ排除しても、あなたは あなたを大切に思う人と まだ出会っていないだけ。

親が貴女を要らないと言っても 私は貴女が生まれてきてくれて、出会ってくれて 良かった!
だから、生きて!

三十代になっても、実母には攻撃され、我が子達まで差別をされ、落ち込んでいた時、高校で、出会った友人が心配して言ってくれた この時の言葉も忘れられない…。

そうなんですよね、私はずっと、生まれてこなければよかった、居ない方がいい存在なんだ、と思い続けている。今でもずっとそう。
親の刷り込みって、それだけ強いものなのか、私だけがそう身についてしまったものなのか分からないけれども。

死ぬということは、それ以上何も喪う物がなくなる安らぎはあるけれど。何かを得る可能性は無い…。

昨日は、出会えなかった言葉に今日は、出会えるかもしれない。
ラジオ、新聞、テレビ、本、ブログ…。落ち込んで 人と会うのが辛い時も、とにかく「言葉」と出会えるようにしておきたいなぁ。
昨日は、久々に、じっくり、新聞を読みました…。
午後は幸いにもお友達とお茶をして(デザートではなくサラダとドリンクバーを頼んだ私…(^^;))、買い物にも行くことができて、とても救われました。
落ち込み過ぎていて今は誰にも話せる気力がないけれど、別の話題でなら お喋り、大丈夫!
午前中は、草取りもしたし、食欲も戻ってきたので、大丈夫!
私はまだ頑張れますよ。

今、好きな言葉は、明後日までのことしか考えない(笑)。
でも、今ここ主義には要注意!
「今」さえよければ、身近な「ここ」さえしのげればいい、もダメ!
諦めてはいけないことは、譲らない。待つことも大事だけれど、やるべき事は果敢に挑む(笑)。

だれかに元気になって欲しいなら、私がまず自分を笑顔にしないと、ね。

それには、簡単にみえるけど、私には難しい…、絶望しない、ということ。 日々、新しく、です…。