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天皇陛下のお言葉・・・宮中晩餐会 平成25年6月7日

2013-11-12 | 皇室と憲法
この度,フランス共和国大統領フランソワ・オランド閣下が,ヴァレリー・トリエルヴェレール女史と共に,国賓として我が国を御訪問になりましたことを,心から歓迎いたします。
歓迎の言葉を述べますに先立ち,まず大統領閣下に,おととしの3月11日に発生した死者,行方不明者が2万人を超える東日本大震災に対して,貴国から緊急援助隊を始めとする,様々な支援を頂いたことに,深くお礼を申し上げます。
私が貴国を初めて訪れましたのは,1953年,私の父昭和天皇の名代として,エリザベス女王陛下の戴冠式に参列した機会に,貴国を始めとする欧米諸国を回った時のことでありました。平和条約が発効した翌年,戦争により荒廃した国土から訪れた19歳の私にとって,欧米諸国の実状に触れたこの旅は,その後長く心に残るものでありました。貴国では,最初の3日間を国賓として迎えられ,エリゼー宮にオリオール大統領を訪問し,その後御夫妻が,午餐会を催してくださいました。
それから40年余,私は皇后と共に国賓として貴国を訪問いたしました。当時ミッテラン大統領は,御健康が優れないにもかかわらず,寒い空港に私どもを迎えられ,晩餐会を催してくださり,また昼食にお招きくださるなど,心のこもったおもてなしを頂きました。大統領は,それから時を経ず亡くなられましたが,真面目な温かいお人柄が懐かしくしのばれます。
歴史を振り返りますと,貴国と我が国は,1858年,貴国と徳川幕府との間に締結された修好通商条約により,交流が始まりました。この時期に,我が国は外国からの強い要請により,200年以上続けてきた鎖国政策を改め,開国を決断いたしました。当然のこととして,国内には大きな変化が起こりました。開国に反対の孝明天皇が亡くなり,10代の若さで私の曽祖父明治天皇が即位いたしました。200年以上続いた徳川幕府は廃止され,天皇は千年以上にわたって住み続けた京都から,当時江戸と呼ばれていた東京に移り住むこととなり,今日に至っています。
その後,我が国は欧米諸国に伍ごして国を発展させるため,欧米諸国から多くのことを学びました。「日本近代法の父」として記憶されているギュスターヴ・ボワソナード教授は,1873年から20余年を我が国で過ごし,ナポレオン法典を基礎とした民法典の起草など,日本の近代法典の整備や,我が国における法学教育に尽力されました。
貴国と我が国は,国交が開かれた当初から,お互いに重要な貿易上の相手国でありました。中でも,我が国古来の伝統文化に深く根ざす生糸は,かつて,貴国への最も重要な輸出品でした。1855年に,欧州を襲った蚕の微粒子病により,当時世界一と評された貴国の養蚕業と絹織物産業が大打撃を蒙こうむった際には,横浜港から貴国に向けて輸出された我が国の蚕種と生糸が,貴国のそれらの産業の立ち直りに貢献しました。一方,我が国は,近代繊維産業を発達させる上で,貴国から多くのことを学んでいます。1872年,我が国において,リヨン出身のポール・ブリューナ氏と,同氏が貴国から伴ってきた技師や職人の指導の下,西欧の近代技術と工場システムを導入した富岡製糸場が建設されました。我が国の各地で,繊維産業に携わる人々の多くも,この製糸場で育てられていきました。おととし,私は皇后と共にこの製糸場を訪れ,今も史跡として大切に保存されている建物の内部を見学し,往時をしのびました。
貴国と我が国との交流は,文化面においても誠に実り多いものでありました。19世紀後半のパリ万国博覧会に出展された我が国の浮世絵,漆器,陶器等は,貴国の人々に深い関心を持たれたと聞いております。一方,我が国からは,それまでの日本画とは異なる油絵や彫刻を学ぶために,多くの人々が渡仏しました。貴国の文学や音楽も,広く我が国の人々に親しまれてきています。
両国の交流は,現在,更に広範な分野に広がり,深さを増しています。このような両国の交流の拡大と深化をうれしく思うとともに,両国関係の一層の発展を心から祈念しています。
日本は今,梅雨の時期に入り,御滞在中の天候が心配されますが,大統領閣下並びにトリエルヴェレール女史のこの度の御滞在が,真に実り多きものとなりますよう願っております。
ここに杯を挙げて,大統領閣下並びにトリエルヴェレール女史の御健勝と,フランス国民の幸せを祈ります。


http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/okotoba-h25e.html#D0607

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