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あや乃古典教室「茜さす紫の杜」

三鷹市&武蔵野市で、大学受験専用の古文・漢文塾を開講しました。古文教師の視点から、季節のいろいろを綴ります。

桜のこと38(宣長)

2013-05-08 21:53:38 | 
敷島(しきしま)の 大和心を 人 問はば 朝日に匂う 山桜花
                          (本居宣長)

そして、乱世の記憶も遠い遠い昔のこととなった、江戸の末頃。
とは言っても、未だ、尊皇攘夷やそれに続く戦乱のきな臭さもない、
ある意味、安定と繁栄を享受していた時代。

そうした時代を反映してか、
ようやく宣長は、「生き死に」から離れたところで、桜を詠みました。

ここに来て、桜は、平安時代を代表する貴族性に回帰しました。

平安時代の「桜」は、個人の感性の基づいて詠まれたものでしたが、
年月を経て、本居は、生き死にさえも越え、
日本の民族性を代表する花(大和心)として、桜を詠み、
ここを以って「桜=日本」の図式が完成する発端となったのでしょう。

こうして見てみると、
古代から連綿と歌に詠まれて来た「桜」は、
幾多の時代の荒波を受け、時々の時代性を反映しながらも、
題材として、詠み継がれ、
名実ともに「国花」(大和心)としての地位を確立したように思います。

人は、生れ落ちた「時代」というものから、自由ではないと私は思っています。
それぞれに、良くも悪くも「時代」の影響を受けることでしょう。
その時代の変遷を、真っ向から身に纏ったお題が、
「桜」だったのかなという気もします。

もし、「桜を題材に歌を詠め」と言われたら、
今を生きる私たちは、
「桜」に「何」を見て、「何」を読み込もうとするのでしょうか?

その歌に現れるのは、穏やかでたおやかな時代性であれば、
良いなと思います。

桜のこと37(浅野内匠頭)

2013-05-07 22:41:14 | 
風さそふ 花よりもなお われはまた 春の名残りを いかにとやせむ
                          (浅野内匠頭)

ガラシャ夫人から、
更に時代が下って、戦国乱世も遠い昔のこととなった江戸時代。
忠臣蔵の発端となった浅野内匠頭の辞世の句です。

細川ガラシャのキツサと、比べてみて下さい。

お家断絶の原因を作りながらも、浅野内匠頭。
まだ、この人は、たらたらと未練がある。

生き死にをかけた戦国乱世を生きた細川ガラシャ。
かたや、
そんな必要もなく、260年続く平和な時代に、
しかも大名家の跡取りとして生を受けた匠頭。
その気質の違いが、
ものの見事に、和歌に反映されているようにも思います。

浅野内匠頭って、誰?
忠臣蔵って、何?
という学生さんも、今は多いでしょう。
お父さん&お母さん世代に、このブログを見せて聞いて下さい。

そして、現役受験生を持つ、お父さん&お母さん世代の方へ。
信じ難い話ですが、昨今の高校生あたりは、
本当の本当の本当に!忠臣蔵を知りません。
名前を知らないのではなく、
中身を説明しても「???????????」
本当に知らないんです。

詳細は、HPをご確認頂きたいのですが、
http://ayano-koten.wix.com/index#!student2-2/c1c13
忠孝物の出題増も考えられます。

最低限の思想性や考え方を知っておいてもらわないと、
忠孝物に当たったときに、「壊滅」しかねません。
年末の時代劇特番でも、時代劇専門チャンネルでも良いので、
せめて、忠臣蔵を見せておいて下さい。

宜しくお願いします。

桜のこと36(慶長遣欧使節)

2013-05-07 01:02:43 | 
1613年、仙台藩主伊達政宗が、
家臣の支倉常長を代表とする一団をスペインに派遣して、
メキシコと直接貿易を開こうとしましたが、
通商貿易を結ぶ目的は、果たせませんでした。

この一行のことを、慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)と言います。

帰国は、1620年のことです。
昨日と同じく、とにかく時期が悪い。
こちらも、歴史に翻弄されて、あまり良い思いをしていません。
常長は、船をマニラで売却し、便船で帰国。
表向き、1622年に失意のうちに「死去」したことになっています。
実際のところは、常長の身を案じた政宗が、
幕府への建前上、常長を「死んだ」ことにしたのではないかと言われており、
政宗の意向で隠れ住み、84歳の天寿を全うしたとも言われています。

さらに、この一行はスペイン南部セビリア近郊にある、
コリア・デル・リオという町に長期滞在したのですが、
「日本への帰国を拒み、現地に留まった」人々が、20数人いたことが、
日本側の記録と、スペイン側の記録とから、確かなようです。
コリア・デル・リオには、常長の銅像もあります。
http://www.ayto-coriadelrio.es/opencms/opencms/coria/municipio/Historia/apelljapon.html
(スペイン語→日本語の翻訳が必要な方は、ご連絡下さい。久しぶりに読んでみます)

そりゃあ、まあ、スペイン南部は(今でも十分そうですが)
食べ物は美味しいし、水も良いし、海の幸も豊富だし、
気温も温暖だし(温暖というより暑いですが)、
人はのどかだし(のどか過ぎますが)、女性はキレイだし、
暮らす分には、ゆったりと暮らしていける。

こんな土地に長期滞在してしまったら、
「いざ帰る!」となった時に、あれこれ考えると
「帰りたくない」人が、集団で発生しても不思議ではないようにも思います。

そんなわけで、この地には、「Japon」(oの上にアクセント記号があります)
Japon=ハポン=スペイン語で「日本」という意味の姓を名乗る人たちがあり、
その人たちの子供には、たまに蒙古班も出るようなので、
現地に留まった慶長遣欧使節団の子孫に当たるのではないかと考えられています。

遥か大西洋の向こうから、子孫の苗字に故郷を託した。
歴史の不思議を感じるお話です。

桜のこと35(天正遣欧少年使節)

2013-05-06 00:28:33 | 
この一団に関しては、ご存知の方も多いでしょう。

少なくとも、日本史選択者は、ご存知のはずです。
おたあジュリアより、認知度が高いのだけは確かだと思います。
(というか、昨日は、おたあジュリアって、誰だそれ!?という人が、
多分、大半だっただろうと思います)

ところで、天正遣欧少年使節。
1582年に、
九州の3人のキリシタン大名(大友宗麟、大村純忠、有馬晴信)が
宣教師ヴァリニャーニの勧めにより、4人の少年を、
ローマ教皇のもとに派遣した一行のことを言います。

少年は4人。正使が2人、副使が2人です。
主席正使:伊藤マンショ
正使:千々石ミゲル
副使:中浦ジュリアン
副使:原マルチノ
ゴア・リスボンを経て、ローマに到着し、当時のグレゴリウス13世に会い、
1590年に帰国しました。

一行はグーテンベルク印刷機を持ち帰り、
それによって日本語書物の活版印刷が始めて行われ、
キリシタン版と呼ばれています。

時代は、彼ら少年使節に味方しませんでした。
日本を出てローマに向かったのは、1582年。
同じ年、キリスト教を厚遇した信長が、本能寺の変で倒れます。

彼らが、帰国したのは1590年。

その8年間で、
日本のキリスト教に対する方針は大きく転換しており、

1587年 秀吉によるバテレン追放令 が出され
1596年 サン=フェリペ号事件により、26聖人殉教
1612年 徳川幕府により、直轄領に禁教令
1613年 禁教令、全国に拡大
1614年 キリシタン信者や宣教師らを、国外追放など(マニラやマカオ)
1622年 長崎にて元和の大殉教

と、彼らは厳しい時代に帰国してきました。

その時代性を反映して、彼らのその後は過酷でした。
主席正使:伊藤マンショ→1612年、長崎で死去
正使:千々石ミゲル→棄教
副使:中浦ジュリアン→1633年、長崎で殉教
     →2007年、福者に列せられる
副使:原マルチノ→1629年、追放先のマカオで死去

この中浦ジュリアンに繋がる子孫の方が、現存してらっしゃいます。
毎日新聞に載ったという記事を、ネットに掲載している方がいて、
毎日に載ったのは、2008年のことだそうで、
子孫の方は、列福式に招かれたそうです。
私は、朝日新聞に掲載されたのを読んでいます。
朝日新聞の掲載年月日は、不明です。

「昔、先祖で、ローマに行ったことのある人がいる」という伝承が
一族に伝わっていたらしく、それを手がかりに調べ上げたら、
中浦ジュリアンの叔父さんを直系の先祖とするのが、
自分たちだったということが、わかったそうです。

朝日新聞の記事を読んだときは、本当に仰天しました。
400~500年の時を経て、よくぞ伝わっていたものです。

歴史に翻弄され、あまり良い思いをしなかった少年使節団ですが、
系譜に連なる方が現在までおいでなのは、
なにやらほっとする思いがしたのものです。

桜のこと34(おたあジュリア)

2013-05-04 18:16:53 | 
この前後の時代のキリスト教絡みの話は、
なかなか興味深いものが多いので、もう少し、紹介させてください。

ガラシャと、ほぼ同時代を生きたキリシタン女性に、
「おたあジュリア(ジュリアおたあ)」という人がいます。

伝えられるところによると、
小西行長が、朝鮮出兵の折に連れ帰った朝鮮貴族の娘で、
小西行長の養女となり、成長したと言われています。
(朝鮮での出自、本名等、一切不明)

小西行長死去、家康に仕えますが、側室に上がることを拒否。
現在の神津島に配流されます。

神津島には、「おたあジュリアの墓」とされるお墓がありますが、
その実、おたあは、ひそかに神津島を脱出。
潜伏中のキリスト教神父に、接触していた記録があります。

その後のおたあジュリアの消息は全く不明で、
歴史の中に消えてしまっています。

神津島には申し訳ないのですが、
あそこのお墓に眠っていないことだけは、たしかなようです。

神津島のHP
http://vill.kouzushima.tokyo.jp/travel/watch.html

桜のこと33(細川ガラシャ③)

2013-05-03 20:10:52 | 
散りぬべき 時 知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
                        (細川ガラシャ)

お咎めなしとなり、忠興は、ガラシャを別荘から出しますが、
別荘暮らしの合間に、心の拠り所を求め、
ガラシャは、キリスト教に傾倒し始めていました。

が、キリスト教に寛容であった信長の時代から、
バテレン追放令から鎖国に至る途上にあった時代であり、
キリスト教への傾倒は、身辺を危ういものにし始め、
夫の忠興とも信仰を巡って、たびたび揉めましたが、
ガラシャは、キリスト教信仰を死守しました。

そうこうするうちに、天下分け目の関が原直前。
石田光成は、有力大名の妻女を人質に取ろうと試みましたが、
再三にわたる石田光成の要求を、ガラシャは拒否。

ついには、家臣に介錯を頼み、ガラシャは死に、
その家臣は、遺体が残らぬように、屋敷を爆破。

ガラシャの覚悟と苛烈さ、壮絶な最後に、
光成は、以後、人質要求を止めたと言われています。

平家一門と比べると、
彼女のキツサが、よくわかる話かと思います。

桜のこと31(細川ガラシャ①)

2013-05-01 21:45:13 | 
散りぬべき 時 知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
                        (細川ガラシャ)
更に時代が下って、戦国時代。
乱世を生きた佳人、細川ガラシャの辞世の句は、
彼女の生きた時代を反映して、苛烈です。

ガラシャ夫人のキツサは、個人的には好きなんですが、
忠度の和歌と並べると、同じように桜を詠んだとは言え、
情緒とか、風情とか、情趣とか、風流とか、もののあはれとか、
貴族文化のたおやかさとか、ものの見事に、吹っ飛んでますよね。

ついでに言えば、すんごい美人だったそうなんですが、
クリスチャンは自殺がご法度なので、家臣に介錯を頼んで果て、
信仰と、武家の女性としてのプライドに生きたような女性です。

このキツサは、彼女の生きた時代が生んだものだろうと、私は思っています。

少なくとも、過渡期の平家一門には見られないものですよね。
安徳天皇を抱いて沈んだ二位の尼とて、
「波の下にも、都はございましょう」ですから。

あくまで、平家一門にとって必要だったのは、
「過ぎ行く時代の支配層たる貴族階級としての」
都や(それを、死後にも求める!>波の下)
王朝文化(笛、花ぞ今宵の主ならまし)であって、
潔く散ってゆく戦国動乱の武士階級のあり方では、なかったのでしょう。

桜のこと32(細川ガラシャ②)

2013-05-01 21:45:13 | 
散りぬべき 時 知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
                        (細川ガラシャ)

細川ガラシャって、誰!?という方のために補足しますね。

細川ガラシャは、本名を細川玉子と言い、
明智光秀の娘で、細川忠興に嫁に行きました。
その後、明智光秀謀反で信長死去。
細川は、秀吉方に付き、光秀も「3日天下」に終わり、
「逆賊の娘」としてガラシャの立場は、非常に微妙なものになります。

妻のガラシャを溺愛していた忠興は、
「逆賊の娘として、ガラシャを突き出すようなことはしたくない」
かといって「お家も大事」。
思い余って、別荘にガラシャを幽閉。
世間の動向を睨みながら、ガラシャを匿います。

桜のこと30(西行③)

2013-05-01 01:13:27 | 
願わくば 花の下にて 春死なん この如月の 望月のころ
                        (西行法師)
西行法師は、出家者ですから、
当然、
このエピソード(昨日のお釈迦さん涅槃の状況)を知っていたのでしょう。

貴族や、半ば貴族化した平家一門のように雅に救いを求めるのでもなく、
去り行く貴族社会からも、来るべき武家社会からも背を向けて、
ひたすらに、出家者としてお釈迦さんの在り方に、理想と救いを求めた。

これもまた、当時を生きた人の、一つの救いの在り方だったのでしょう。

源平争乱以後、日本社会は長い長い戦乱の世と、混乱期を迎えます。
幾世代にもわたる、そうした混乱期を生き延びながら、
雅に逃げ込む余力も、武装する腕力もない市井の多くの人々には、
貴族でも武家でもない、全く別の西行の生き様が、
春の世の月明かりに照らし出される救いのようにも見え、
この後、長い年月に亘り、
西行と彼の辞世の句が、長く人口に膾炙して行ったのではないでしょうか?

<お断り>
花月君に茶々入れすぎて、4月では桜は終わりません。
5月でも、桜が続きます。
高尾山では八重桜が咲いていましたし、5月が桜でも良いんです。。。

桜のこと29(西行②)

2013-04-29 21:37:45 | 
願わくば 花の下にて 春死なん この如月の 望月のころ
                        (西行法師)

「花の下にて 春死なん」なので、
桜と生き死にが結びついた。
というような、単純なお話ではなく、
この和歌の下敷きになっているのは、お釈迦さん涅槃の状況です。

そのお釈迦さんの涅槃時(亡くなる時)のエピソードに、
①沙羅双樹の2本の木の間に横たわり、最後の説法をし、
沙羅双樹は満開の花を付け、花びらがお釈迦さんの上に降りかかった。
そして、それが
②1月の満月だった。
というのがあります。

<メモ>
一応、書きますが、
お釈迦さんというのは、世界史的には、
ゴータマシッダールダというインドの釈迦国の王子と、同一人物です。
決して、架空の人物ではありません。
ただ、宗教の常として、その誕生や人生、死に際に纏わる、
いろんな(通常の人間にはありえない)エピソードを纏った人です。

桜のこと28(西行①)

2013-04-29 00:04:06 | 
願わくば 花の下にて 春死なん この如月の 望月のころ
                        (西行法師)                       
そして、桜と「人の生き死に」を決定的に結びつけたのが、
忠度と似たり寄ったりの時代を生きた、この人の和歌かなと思います。

西行法師も、忠度と同じく武士階級の出の人ですが、
彼は、貴族性からも武家性からも出奔し、出家。

貴族から武士の世へと移り変わる源平動乱の時代を、
出家者の立場から、遠く見つめつつ、過ごした人です。

桜のこと27

2013-04-27 23:48:08 | 
行き暮れて 木の下陰を宿とせば 花ぞ 今宵の 主ならまし
                          (平 忠度)

そして、忠度はその花に、慰めを見出した。

来るべき時代にも、もはや迎合できず(貴族性が捨てられないため)、
かといって、「平安以降、蚊帳着て寝た」と揶揄されながらも、
生き残ることになる貴族階級であることも許されない。
(本来は、貴族階級の出ではないため)

平家一門の背負った過渡期性ゆえに、
彼の周囲には、漆黒の闇が迫り(行き場を失ったことの象徴)ながらも、
彼は、自らが身に付けたその貴族性(花を愛で、和歌を詠む)に、
一片の慰めと安らぎを見出し、>木の下陰を宿とせば 花ぞ 今宵の 主ならまし
その貴族性と共に、滅ぶことを選んだのかもしれません。

純粋に、「花を愛でた」貴族性を偲ばせながらも、
それが辞世の句だったところに武家の片鱗が伺える、
桜の扱いとしても、過渡期の和歌だったのかなという気もします。

忠度の和歌には、身に付けた貴族性ゆえに滅んでいく、
平家一門の染みとおるような哀歓が感じられます。

謡曲「船弁慶」は「天命に沈みし平家の一門」と謡います。
その天命とは、貴族性を纏ったがゆえに、
滅びざるをえなかった「天命」なのかもしれないと思います。

桜のこと26(忠度②)

2013-04-26 23:31:46 | 
行き暮れて 木の下陰を宿とせば 花ぞ 今宵の 主ならまし
                          (平 忠度)

忠度の(和歌の)桜も、当然、山桜なわけですが、
吉野の山桜は別にしても、大体において、山桜は群生せず、
山中にひっそりとたたずむように静かに咲き、
風に吹かれ、花びらを散り敷きます。

夕闇が迫り、辺りに人家もなく、山中で一夜を過ごさなければならない。
周囲の緑は、漆黒の闇にとけてしまいますが、
桜の花の色だけは、闇にとけることもなく、
ほのかなあかりとなり、旅人の疲れと心を慰める。

私には、静かに静かに、時と花と対話しているような和歌にも思えます。

桜のこと25(忠度①)

2013-04-26 23:31:15 | 
行き暮れて 木の下陰を宿とせば 花ぞ 今宵の 主ならまし
                          (平 忠度)

一方、忠度ですが、この人の逸話もなかなか奮ってます。

平家物語が語るところによると、
忠度は、藤原俊成に師事していたそうなんですが、平家都落ちの際に、
一旦、都を離れかけたものの、都に戻り、俊成の屋敷を訪ね、
自分の和歌を百首ばかり収めた巻物を渡したというんですね。
朝敵となった平家方の武将の和歌を、勅撰和歌集に組み込むわけにもいかず、
俊成は、苦肉の策として「詠み人知らず」として、忠度の和歌を収録します。
敦盛と同じく一の谷の合戦で死去しますが、その時、箙に結び付けられていた文を解いてみると、「旅宿の花」と題して、上記の和歌が書かれていた。というものです。

は!?って感じですよね。
自分の生死や、一門の今後より、自分の和歌の行く末が大事。
平家流浪の始まりの時に、わざわざ危険を冒して都に舞い戻り、
「自信作です。これはと思うものがあるなら、勅撰和歌集に入れて下さい」
良い根性です。敦盛の笛どころの話ではありません。
骨の髄まで、
貴族文化やその価値観が染み付いてた人だったんだろうなぁ~と思います。

桜のこと24(敦盛④)

2013-04-24 20:45:43 | 
過ぎ行く貴族の世と、来るべき武家の世。
過渡期を生きた平家一門ではありますが、
敦盛の「笛」に代表される「過ぎ行く時代性」をかなぐり捨てて、
新しい世を生きる(そもそもの出自は、そちらですし)
選択も、どこかにあったのでは?とも思います。

が、一門の若者が「戦場に笛を携行した」。
というか、心情的に彼は「携行せざるをえなかった」のでしょう。
過ぎ行く時代性を捨てきれず、自ら背負った過渡期性と共に、
時代の波間に滅ぶことを、自ら選んだのかもしれません。

敦盛の笛は、
そんな平家一門の過渡期性を代表しているような気がします。