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あや乃古典教室「茜さす紫の杜」

三鷹市&武蔵野市で、大学受験専用の古文・漢文塾を開講しました。古文教師の視点から、季節のいろいろを綴ります。

楽器のこと54

2013-07-01 14:36:33 | 楽器
現代に、古文を読む人は(趣味で読む人以外は、主に高校生&浪人生)、
大抵の人が、古文に出てくる楽器も、御神楽(みかぐら)もご存じないでしょう。
神楽=里神楽と、反応できれば、上出来な部類だろうと思います。。

でも、古文に出てくる楽器や、御神楽の有様を知ることで、
当時の人の生き様や生活が、行間からほのかに立ち現れ、
字面だけはない古文の世界が、生き生きと動き出すこともあるのではないか。
そんなことを考えさせられた、出典の数々でした。

受験が本格化するまでに間のある高校生や、
趣味で源氏を読んでいるサークルの方などは、
ひとまず、雅楽の楽器など手に取って、
わずかばかり習ってみることで、
楽器が、今までとは異なる古文の世界へと、
誘ってくれる契機となってくれるかもしれず、
また、楽しいのではないかなと思います。

7月からは、
蔵人と内侍を中心に、古文に出てくる官職について、記します。

楽器のこと53

2013-07-01 14:35:10 | 楽器
その他に、2011年度の全国の大学の古文の出典で、
「楽器絡み」の箇所が確認できた限りでは、以下の通りです
(旺文社の電話帳では、収録していない大学もあるので、全てかどうかは不明です)

説話系&王朝系併せて全98出題のところ、楽器系は13出題となり、
ざっと7分1の確率でしょうか?
受験生は、ご自分の受験で1回ぐらいは、
<当たる>確率程度になるのかもしれません。

早稲田法学部
・月花門のほとりに、笙の笛を吹き鳴らしたりしかば、笛を取り出でて吹き合わす。
少将雅経の篳篥吹き置く。唱歌して、建春門より出でて、
待賢門よりおのがじし名残り惜しみてまかり帰りにき。

早稲田文学部
・琴なども、習はす人あらばいとよくしつべけれど、たれかは教えむ。
母君の、六つ七つばかりにておはしけるに習はし置い給ひけるままに、
筝の琴をよにをかしく弾き給ひければ、向かひ腹の三郎君、十ばかりなるに、
琴、心に入れたりとて「これに習はせ」と北の方のたまへば、時々教ふ。

広島修道大学
・例の御帳のうちにぞ筝の琴を忍びやかに弾きすさびたまふなり。

日本大学(文理)
・五節を見侍りけるに
・篳篥をとり出でて、時の音にとりすまして

明治学院大学
・天明元年に、酒井雅楽頭(さかい うたのかみ)

神戸親和女子大学
・この女房は、宮中一の美人、琴の上手にておはしける。

広島大学
・御琴(きん)召し寄す。
・古代の曲のものいたくしづめたる手、一つ二つ弾かせ給ふ御手つきぞ

高知大
・琴(きん)弾かせたまふことなむ一の才にて、
次には横笛、琵琶、筝の琴をなむ次々に習ひたまへると上もおぼしのたまはせき。

首都大学東京
・帝、筝の琴をめでたくあそばしけるも、

楽器のこと52(2012年度、立教大学③)

2013-06-27 00:26:45 | 楽器
天晴れ、風流なその志よ。という、お話です。

というか、アホです。
そして、現代にも、そういう笛吹きは、いそうで、
思い当たる人たちがいろいろおり、ぞわぞわします(苦笑)

A)実際に、「夜中に部屋で、笛をしめやかに吹き鳴らし、
アパートの前後左右が、出て行った」というツワモノがいましたし。

B)武蔵野楽器に(何かを?)買いに行った帰り道、笛の音がする。
音を辿ってみると、駅のホームで笛を吹いている人がおり、意気投合。
駅から下ろして、二人で飛鳥山公園に行き、笛を吹いた。

C)お酒が入ると、所かまわず、笛を吹くので、
そこら中の飲み屋さんから、「出入り禁止」を喰らっている。

等々、いろいろ聞いたことがあります。

そして、なぜ駅のホームで笛を吹く?
という疑問は、この際、不問なわけです。
そして、それぞれ単に「笛」と書いていますが、
この場合、吹いているのはリコーダーなどではなく、
当然、竜笛です。

「あんたは、何も、やらかしてないの!?」
という質問に関しては、詳細は内緒です♪

私は、せいぜい、宿泊代をタダにしてもらったり、
澤の井で、地元民に盛大に飲み食いさせてもらったりしたことが、
あるぐらいで、
「お酒が入ると笛を吹く」ような変なクセはないので、
「出禁」喰らったりは、していません。

となると、
この時代から現代まで連綿と変わらず、
こうした「笛吹きバカ一代」のような人がいただろうという、
そのことの方が、
よっぼどな話なのかもしれませんね。

楽器のこと51(2012年度、立教大学②)

2013-06-25 23:45:43 | 楽器
話をざっくり書きますと)
岩清水八幡宮の別当の職にあった頼清の親類に、永秀法師という人がいて。

貧乏しているのに、日がな笛を吹いて暮らしていた。
あまりの暮らしぶりに、
頼清が「困っていることはないか?願い事があれば、
いつでもやって来い」と手紙を出したら「実は・・・・」という返事が来た。

うわ!下手に情け心を出して「困ったことがあったら・・・」なんて書いたけど、
なんか面倒言い出されると困るな。
あ、でも彼の身分ぐらいだと、面倒言い出しても、たかが知れてるか。。」と思っていると、
ある日の夕方、永秀法師がやってきた。

口上を聞くに「これ、絶対に<領地がほしい>とか、言いだずぞ。。。」と思い、
聞いてみると、領地は領地のことながら、
「頼清が多く持っている筑紫の土地の、漢竹で出来た良さげな笛がほしい」

笛に執着のない人にとっては、
「はい!?」というお願いなんですが、永秀法師は真剣なわけです。

頼清も実に意外であったらしく(思ひの外に)、
重ねて「その他に困っていることはないのか?」と聞いてみたところで、
「二三月に衣を1枚作れば、十月までは、それで十分だし。
朝夕の食事のことは、その日その日でどうにかなります」と答える。


*ここまでブログにお付き合い下さっている方は、
「なんで、竹なのか?」については、
「楽器のこと19」を、
「なんで、先取りで盤渉調なのか?」については、
「楽器のこと23」を、思い出して下さいね。

楽器のこと50(2012年度、立教大学①)

2013-06-24 19:54:48 | 楽器
また、2012年度、立教大学の全学部日程(理を除く)の共通問題は、
やはり発心集からの出題ですが、もろに「笛吹き」の話です。

「笛吹きバカ一代記」とでも称したいような話で、面白いので書き写します。
昔も変わらず、こういう人、いたのねぇ~
しみじみしてしまいました。

発心集より)
八幡別当頼清が遠流にて、永秀法師といふ者ありけり。
家貧しくて、心すけりける。夜昼、笛を吹くより外の事なし。

かしかましさにたへぬ隣り家、やうやう立ち去りて後には、
人もなくなりにけれど、さらにいたまず。
さこそ貧しけれど、落ちぶれたる振る舞ひなどはせざりければ、
さすがに人いやしむべき事なし。

頼清聞き、あはれみて使いやりて、
「などかは何事ものたまはせぬ。かように侍れば、
さらぬ人だに、事にふれてさのみこそ申し承る事にて侍れ。
うとくおぼすべからず。便りあらん事は、憚らずのたまはせよ」といはせたりければ、
「返す返す、かしこまり侍り。年来(としごろ)も申さばやと思ひながら、
身のあやしさに、かつは恐れ、かつは憚りてまかり過ぎ侍るなり。
深く望み申すべき事侍り。すみやかに参りて申し侍るべし」といふ。

「何事にか、よしなき情をかけて、うるさき事やいひかけられん」と思へど、
「彼の身のほどには、いかばかりの事かあらん」と思ひあなづいて過す程に、
ある片夕暮れに出で来たれり。

即ち出で合ひて、「何事に」などいふ。
「あさからぬ所望侍るを、思ひ給へてまかり過ぎ侍りし程に、
一日の仰せを悦びて、左右なく参りて侍る」といふ。
「疑ひなく、所地など望むべきなめり」と思ひて、
これを尋ねれば、

「筑紫に御領多く侍れば、漢竹の笛の、事よろしく侍らん一つ召して給はらん。
これ、身に取りてきはまれる望みにて侍れど、
あやしの身には得がたき物にて、年来えまうけ侍らず」といふ。

思ひの外に、いとあはれに覚えて、
「いといとやすき事にこそ。すみやかに尋ねて、奉るべし。
その外、御用ならん事は侍らずや。
月日を送り給ふらん事も心にくからずこそ侍るに、
さやうの事も、などかは承らざらん」といへば、

「御志はかしこまり侍り。されど、それは事欠け侍らず。
二三月に、かく帷一つまうけつれば、十月までは、さらに望むところなし。
又、朝夕の事は、おのづからあるに任せつつ、
とてもかくても過ぎ侍り」といふ。

「げに、すきものにこそ」と、
あはれにありがたく覚えて、笛いそぎ尋ねつつ送りけり。

注)実際の入試問題で、付いていた注です。
八幡別当:岩清水八幡宮の別当
遠流:遠い親類
所地:領地
漢竹:中国原産の竹をいい、多く笛に用いた

楽器のこと49(2012年度、センター古文)

2013-06-23 19:38:59 | 楽器
改めて、「楽器」という視点で見ると、
2012年度は<当たり>年だったのでしょうか?

2012年度、センター本試験も、出典は「真葛がはら」ですが、
後半では「お琴」をもらっていますね。

センター本文より、途中から引用)

入木といふ書法を御手づから伝えたまはせりなどしつつ、
本意にもこえて事なりぬれば、身にあまりてうれしと思ひて、
道の奥に下るきざみ、先の宮人、この人の二なき志をめで給ひて、
琴を送られしが、絃一筋ある琴なりき。

これに歌そへよとあるに、

A)一筋に 思う心は 玉琴の 緒によそへつつ ひきや伝へむ

家なども、もとよりは広く清らに作りなして、めぐりに松子植えわたし、
移り行く月日にそへてめではやししを、こたみ公より蝦夷が千島に防人を置かるることありて、
この国よりもまづ出だされるるによりて、その数に指されて、出で立たむとす。

「行き帰るまで、さる広き家に女子のみ置きては守りがたし」とて、
家をば売り、女子は人のもとに預けて行く。その心にかはりて、

B)家出でて 行くかひありと 思ひしに 家なくなりて 行けばかひなし

C)二筋に 落つる涙も 一筋の 玉の小琴に かけにけるかも

その琴は、むかし行平の中納言、流されて須磨におはせし時、
庇の杉を風の吹きおとしたるが、その形面白かりければ、
くしげの箱なる元結を一筋ひきかけて、
調べ給へるよりはじまりて、今も伝はれるなりとぞ。

「さすが、センター!」と思ったのは、
「絃」が、きちんと「糸偏」の絃になっていたことです。

楽器のこと48(二返りとは②)

2013-06-22 21:09:09 | 楽器
リンクで張ったHPに掲載されている、
「越殿楽」の楽譜で、説明したいと思います。

リンクで張った上のブログ?HP?を開けて頂きますと、
真ん中の右端に、「越殿楽」の楽譜が載っています。
越殿楽は、楽譜的には(文字的には)掲載されている3行なんですが、
1行目、2行目、3行目の下に、それぞれ「返二」と表記があるのが、
確認して頂けるかと思います。

表記は「返二」ですが、
音声的にはこれを「二返し(にかえし)」と現在、呼んでおり、
意味としては、「1行目を2回、演奏する」という意味です。

つまり、「越殿楽」は、楽譜の見た目は「3行」ですが、
実際の演奏順序としては、
「1行目を2回、2行目を2回、3行目を2回演奏」します。

更に、3行目の頭を見て下さい。
「頭重」と表記があります。

これは、音声的には「じゅうとう」と呼んであり、
意味としては、頭(1行目)を重ねる=つまり、1行目に戻る
ということなので、3行目を2回演奏したら、再び1行目に戻り
「1行目を2回、2行目を2回目の途中で終わり」
というのが、正式な演奏順序になります。

源氏物語執筆の当時から、
こうした「二返し(にかえし)」等の、
表現法が存在したということかと思います。

楽器のこと47(二返りとは①)

2013-06-22 21:08:23 | 楽器
「二返り」って、何?
という疑問を持たれた方もおいでになるかと思います。

「雅楽の楽譜がないと、解説できません。
このブログではPDFが載せられないようなので、
どこかのカルチャーで3ヶ月習って下さい!」と、
書こうかと思いましたが、
便利な時代になったものです。

PDFで、雅楽の「越殿楽」の楽譜を、
掲載して下さっている方のHPが見つかりました。

借用して、解説します。有難うございます!
http://akisora.topaz.ne.jp/gagakufumen.htm

楽器のこと46(盤渉調のこと②)

2013-06-21 23:38:40 | 楽器
全文、書き連ねると、とんでもない長さになるので、
楽器絡みの文の前後だけ、抜き書きします。

青山学院大学の入試問題より、更に抜粋)
A)御琴なども、習はしきこえたまふ。

B)御琴を枕にて、もろともに添ひ伏したまへり。

C)東の対の方に、おもしろき笛の音、筝に吹きあわせたり。
「源中将の、例のあたり離れぬどち遊ぶにぞあなる。頭中将にこそあなれ。
いとわざとも吹きたる音かな」とて、たちとまりたまふ。

D)「風の音秋になりけりと聞こえつる笛の音に忍ばれでなむ」とて、
御琴ひき出でて、なつかしきほどに弾きたまふ。
源中将は、盤渉調にいとおもしろく吹きたり。
頭中将、心づかひして出だしたてがたうす。
「おそし」とあれば、弁少将拍子うち出でて、
忍びやかにうたふ声、鈴虫にまがひたり。
二返りばかりうたはせたまひて、
御琴は頭中将に譲らせたまひつ。
げに、かの父大臣の御爪音に~

う~ん、素晴らしい!
御琴、御琴、おもしろき笛の音、筝の琴、御琴、盤渉調、
拍子うち出づ、忍びやかにうたふ。二返りばかりうたう。

古文に出てくる楽器や、
当時の音楽(現代でいうところの雅楽)の知識一つあれば、
情景が、生き生きと浮かんでくるような描写が、連ねてあります。

場面設定的には、「秋」となっているので
(冒頭からして、<秋になりぬ>で始まっています)
先取りで盤渉調を源中将に吹かせているのも、また心憎い演出ですね。

楽器のこと45(盤渉調のこと①)

2013-06-21 23:37:53 | 楽器
入試問題の解説を、もう少し続けます。
2012年度、青山学院大学全学部日程の大問3を、対象とします。
赤本等、お手元にある方は、ご参照下さい。

源氏物語からの出典で、リード文には以下のように書いてあります。

「次の文章は、光源氏が娘として世話をしながらも、
密かに思いを寄せている玉鬘のもとを訪ねる場面である。
玉鬘は実は内大臣の子であり、頭中将(柏木)とは姉弟である。
これを読んで、後の問に答えよ」

青山学院大学が引用している箇所も、演奏場面なので、
今まで解説してきた楽器のオンパレードです。
「ひょっとして、楽器の出てくる場面(演奏場面)は、ブームなのでは?」
と、思うほどです。

このブログにお付き合い頂いている受験生の皆さんには、
こういう演奏場面など出てきましたら、
嬉々として場面把握に勤しんで、点を取って頂きたいなと思います。

楽器のこと44(宮中神楽:み神楽⑯)

2013-06-21 11:41:04 | 楽器
朝倉や ただいたづらに帰すにも 釣りする 海人の音をのみぞ 泣く(和歌Ⅲ)

だけど、この発心集の崇徳院の身は、
枕の村上先帝とは似ても似つかない境遇にあるわけです。

天皇親政の村上帝の御世も遠い昔、
崇徳院は讃岐に流罪の身となり、
側近く仕える、気の利く蔵人の一人もいない。

例えば、村上帝には、殿上で(たまたま誰もいない時に)
「沖で漕いでいる船を見れば、海人が釣りをして帰るところでしたよ」と、
詠んでくれる蔵人もいたが、
代わりに「見てきてくれ」と頼める、側近く仕えるものもいない。

こうやって、わざわざ讃岐まで来て、夜通し笛を吹いて慰めようとしてくれた。
先の村上帝の蔵人は、「蛙が飛び込んで焼けている」のを見たのだが、
「飛んで火にいる」にするわけにもいかず
(笛を吹いて私を慰めようとしてくれたのに、
同じように囚われの身とさせるわけにもいかないので、夜明けと共に)空しく帰すよりほか、仕方がない。
一目会って労をねぎらう事も出来ず、
釣りをする海人の音(笛の音)を遠くに聞きながら、
ありし日の神楽の様子を、笛の音を思い出しながら、ただ泣くばかりである。

と、天皇親政の理想的な時代とされた村上帝の故事と、朝倉に引っ掛けて、
複数の意味を持たせながら、
崇徳院はこの朝倉の和歌を詠み、
蓮如といふ数寄聖に託したのではないかなと私は思うのです。

楽器のこと43(宮中神楽:み神楽⑮)

2013-06-21 11:38:13 | 楽器
さらに、もう1点。
注すら付けられていないのですが、この歌↓

朝倉や ただいたづらに帰すにも 釣りする 海人の音をのみぞ 泣く(和歌Ⅲ)

私には、本歌のある本歌取りに思えるのですが。。。
皆さん、どう思われますか?

私が、本歌を疑う出典:枕草子)

村上の先帝の御時に、雪のいみじう降りたりけるを、
様器に盛らせ給ひて、梅の花をさして、月のいと明きに、
「これに歌よめ、いかがいふべき」と、

兵衛の蔵人に賜はせたりければ、「雪月花の時」と奏したりけるをこそ、
いみじうめでさせ給ひけれ。
「歌など詠むは、世の常なり。かく折にあひたることなん言ひがたし」とぞ、仰せられける。

おなじ人を御供にて、殿上に人さぶらはざりけるほど、
たたずませ給ひけるに、炭櫃(すびつ)に煙の立ちければ
「かれはなにぞ、と見よ」と仰せられければ、

見て帰り参りて、
わたつ海の 沖にこがるる 物見れば あまの釣りして かへるなりけり
と奏しけるこそ、をかしけれ。
蛙の飛び入りて焼くるなりけり。

私が「本歌」を疑う上記出典の枕草子で、時代同定されているのは、

A)村上の先帝の御時です。
つまり、醍醐・村上天皇の治世と言われる「延喜・天暦の治」の時代の話で、
これは後に「天皇親政の理想的時代」と讃えられた時代の話です。

枕のこの話では、帝の側に
B)機転の利く蔵人もおり、
C)「ちょっと、見て来い」と戯れに物を言う事も出来る
D)物を言えば言ったで、気の利いた和歌の一つも詠んでくれるわけです。

楽器のこと42(宮中神楽:み神楽⑭)

2013-06-20 13:19:47 | 楽器
更に、「木の丸殿」という言葉ですが、鴨長明は「方丈記」の中でも、
「天皇の仮御所(のような有様)」を、「木の丸殿」と表現しています。
(早稲田の出典元、発心集の著者も鴨長明です)

鴨長明の好む、表記の単なるクセだったのかもしれませんが、
ある程度、人口に膾炙した言い方でなければ、
書いたところで誰も理解してくれなかったでしょう。

それを考えると「木の丸殿」=「俄か造り(に見える)仮御所(のような帝のお住まい)」という表現は、
当時、ある程度、一般的な表現法だったのではないかなと思います。

方丈記では、福原遷都の際の記述に、用いられています。

方丈記より)
その時(福原遷都の行われた時)、おのづから事の便りありて、津の国の今の京に至れり。

所のありさまを見るに、
その地ほど狭くて条理を割るに足らず。北は山に沿ひて高く、南は海近くて下れり。
波の音、常にかまびすしく、塩風ことにはげし。

内裏は山の中されば、かの木の丸殿もかくやと、なかなか様かはりて優んるかたも侍り。

日々にこぼち、川も狭に運び下す家、いづくに作れるにかあるらむ。
なほ空しき地は多く、作れる家は少なし。
古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。

ありとしある人は、皆浮雲の思ひをなせり。

楽器のこと41(宮中神楽:み神楽⑬)

2013-06-20 13:17:47 | 楽器
つまり、「朝倉」や「木の丸殿」というのは、
日本史的には「天皇の仮の御座所」を意味しているということになります。

一方、神楽的な視点から、朝倉を見ますと、
先に「御神楽には、演奏順序がある」と書きました。

朝倉は、最後から2つめ、
つまり夜がしらじらと明け始める頃に奏される曲なので、
「やや暁に及」んだ以上、
御神楽的にはどうあっても!朝倉絡みの歌でなければいけないのではないかと、私は思うのです。

「やや暁に及」んだ以上、ここで「朝倉」が歌われるのは、御神楽的には必然。

例えば、ここで、「其駒」とか言っちゃうと、話が終わってしまいます。
(其駒は、一番最後に演奏されるので)。
「庭火」なんかに引っ掛けて歌を詠むと、
「これから何を始めるの?」という話になってしまいます。

そろそろ夜明けなので、帰らなければいけない(警備の目もあります)。
しかし、帰りがたい。が、一人御神楽も夜明けで終わりも近い。
御所では「まれに見参に入る」ことも出来たのに、配流先ではそれも叶わない。

朝倉で、一人神楽(あるいはこの話そのもの)の終わりが近いことを示唆しつつ、
どうあっても「朝倉」で留めて、この主従は最後まで「其駒」とは歌いません。

そうした切なさ、やりきれなさの一切を託し、
主従は朝倉に引っ掛けた歌を読んだのではないかと思うのです。

楽器のこと40(宮中神楽:み神楽⑫)

2013-06-20 13:17:18 | 楽器
朝倉や 木の丸殿に 我が居れば 我が居れば 名乗りをしつつ 行くは誰

元は、十訓抄に収録されている、以下の話に拠ります。

十訓抄より)
天智天皇、世につつみ給うことありて、筑前の国上座の群朝倉という所の山中に、
黒木の屋を造りておはしけるを、木の丸殿といふ。円木にて造るゆえなり。

~中略~

さて、かの木の丸殿には、用心をし給ひければ、入来の人、必ず名乗りをしけり。

朝倉や 木の丸殿に 我が居れば 我が居れば 名乗りをしつつ 行くは誰

これ、天智天皇の御歌なり。これ、民ども聞きとどめて、歌ひそめたりけるなり。

その国々の風俗ども、えらび給ひける時、筑前の国の風俗の曲にうたひけるを、
延喜の帝、神楽の歌ども加えられけるに、歌ひそへられたりけるなり。~略~

簡易訳)
天天皇が、斉明天皇の喪に服していらした時に、
朝倉の山中に黒木で建物を作っておらっしゃったのを、
「木の丸殿」と言います。刈り出したままの丸太で、作っていたからです。
さて、その「木の丸殿」では、用心なさっておいででしたので、
「木の丸殿」に入ってくる人は、必ず名前を名乗っていました。

朝倉の木の丸殿に私がいると、名乗りをあげていく人がいるが、あれは誰だろうか

これは、天智天皇の御歌です。この歌を人々が耳にし、歌い始めました。
それぞれの国の風俗歌をお選びになった時に、
この歌が筑前の国の風俗歌として歌われていたのですが、
それを延喜の帝(醍醐天皇)が神楽歌にお加えになり、
神楽歌として歌われるようになったと伝えられています。

(背景)
西暦660年、唐・新羅の連合軍が百済を攻略し、当時の日本は百済に加担し、
百済球援軍を派遣することになりました。
救援軍の指揮をとるため、当時位にあった斉明天皇は、
九州に赴き、戦に備えますが、遠征軍出立前に、斉明天皇は崩御します。

斉明天皇崩御にあたり、天皇位は空白のまま、
中大兄皇子が政務を執り、白村江の戦いに臨みますが、敗北します。

朝倉宮というのは、現在の福岡県朝倉郡のどこかだろうとは言われているのですが、
正確な場所は、特定されていません。
が、奈良時代の寺院跡地に、朝倉宮跡を告げる碑があるにはあります。
また、木の丸殿後とされる恵蘇八幡宮というお宮さんがあります。

朝倉宮跡&木の丸殿跡の、現在の写真です
お二方、お写真、有難うございます!
http://www.iokikai.or.jp/kodai.asakuraguu.html
http://www.geocities.jp/kakitutei_pickup/asakura/konomaru2.html