平安貴族にとって
(つまり、以後に続く王朝系の物語にとって)
何より大事だったのは、
雅、風流、しみじみとした情趣であり、
決して、
「現実のあれこれ」ではなかったわけですが、
毎年の五月四日の夕暮れぐらいから始まる、
軒菖蒲のあれこれは、
平安貴族を、現実に引き戻すには十分な、
ごたごただったのかもしれませんね。
そういえば、
「源氏物語には、食事をしているシーンが、
極端に少ない」という統計データを見たことがあります。
これなんかも、
食事=現実と直結してしまっているがゆえに、
ただひたすらに、
雅や、風流や、もののあはれや、しみじみとした情趣や、
季節の移り変わりを愛でることを良しとした、
平安貴族の価値観とは合わない、
現実的風景=食事だったので、
物語的には、削除されたとも言えるのでしょう。
端午の節句に関する描写の少なさは、
「源氏物語に、食事をしているシーンが極端に少ない」ことと、
根は、一緒なのかな?と思ったりもします。
(つまり、以後に続く王朝系の物語にとって)
何より大事だったのは、
雅、風流、しみじみとした情趣であり、
決して、
「現実のあれこれ」ではなかったわけですが、
毎年の五月四日の夕暮れぐらいから始まる、
軒菖蒲のあれこれは、
平安貴族を、現実に引き戻すには十分な、
ごたごただったのかもしれませんね。
そういえば、
「源氏物語には、食事をしているシーンが、
極端に少ない」という統計データを見たことがあります。
これなんかも、
食事=現実と直結してしまっているがゆえに、
ただひたすらに、
雅や、風流や、もののあはれや、しみじみとした情趣や、
季節の移り変わりを愛でることを良しとした、
平安貴族の価値観とは合わない、
現実的風景=食事だったので、
物語的には、削除されたとも言えるのでしょう。
端午の節句に関する描写の少なさは、
「源氏物語に、食事をしているシーンが極端に少ない」ことと、
根は、一緒なのかな?と思ったりもします。