伊勢神宮や賀茂神社に奉仕する巫女を「斎王」といいます。
伊勢神宮の斎王を「斎宮(さいぐう・いつきのみや)」、
賀茂神社の斎王を「斎院(さいいん)」といいます。
未婚の内親王・女王から候補者を出し、ト定(ぼくじょう)で選ばれます。
斎王を辞めることを、退下(たいげ)といいます。
<伊勢斎宮>
飛鳥時代の天武天皇の時代に斎宮制度が正式に確立し、
天皇の代替わり毎に必ず新しい斎王が選ばれ、南北朝時代まで続きます。
また斎宮の近親者が亡くなったり、不祥事を起こしたりすると、
斎宮は退下し、新しい斎宮がト定されました。
<ト定から伊勢まで>
ト定後、初斎院(しょさいいん)で1年の潔斎。
その後、平安京の外で清浄な地をト定し、
野宮(斎宮のために一時的に造営される殿舎。斎宮一代で取り壊す)でまた1年ほどの潔斎。
そして伊勢の向かい(群行といいます)し、斎宮寮で潔斎しながら生活し、
年に3回、神宮で神事に奉仕しました。
源氏物語で六条御息所が、姫宮(後の秋好中宮)は一緒に伊勢に下る前に潔斎に入り、
光源氏との別れの場所になったのが、この野宮です。
今の京都・嵯峨野あたりにあったといわれています。
<斎宮の最初と最後>
初代斎宮は崇神天皇皇女・豊鍬入姫命。
朝廷で祀られていた天照大神を大和・笠縫邑に祀ります。
その後を継いだ垂仁天皇皇女・倭姫命は
諸国を巡り、伊勢の地にたどり着き、祀りました。
これが伊勢神宮の始まりです。
この倭姫命の元に、甥でもある日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が来て、
草薙剣を受け取った話は、有名な話です。
群行した最後の斎宮は後嵯峨天皇皇女・子内親王。(1272年、後嵯峨上皇崩御で退下)
南北朝の幕開け(延元の乱)で、後醍醐天皇皇女・祥子内親王が1334年、
野宮で退下したのを最後に、斎宮は途絶しました。
宇治山田陵墓参考地は倭姫命の陵墓とも言われています。
隆子女王は疱瘡で、斎宮の任期中に亡くなり、伊勢の地の葬られています。
<賀茂斎院>
斎宮と違い、天皇が変わっても代替わりせず、
何代もの天皇の御世を続けて勤めることもあったとか。
嵯峨天皇と平城上皇の対立(薬子の変)で、
嵯峨天皇が賀茂大神に祈願・勝利したことで、斎院制度が始まりました。
<ト定から本院>
ト定後、宮中の初斎院で2年の潔斎。
その翌年、3年目に平安京の北、紫野にあった本院(斎院御所)に入り、
仏事や不浄を避ける清浄な生活を送りながら、
賀茂神社や本院での祭祀に奉仕しました。
<斎院の最初と最後>
初代斎院は嵯峨天皇の皇女・有智子内親王。
4歳で賀茂斎宮にト定されました。
最後の斎院は1212年、第35代斎院・礼子内親王が病気で退下し、
承久の乱の混乱で、次の斎院が定まらないまま、廃絶します
。
初代斎院・有智子内親王は病気で832年に退下。
嵯峨野に御墓があります。
伊勢斎宮・賀茂斎院の二人の斎王が存在していましたが、
京に近い斎院の方が、遠い伊勢の斎宮よりも重んじられていたようです。
斎院は女王が少なく、また生母の出自も高い内親王の方が多かったようです。