キャラバン サライ

夢は大空へ、努力は足元で、世界に目を向けながら足元から子供たちを見直していきたいと思っています。

一所に長くいると荷物が増える

2006年01月18日 | Weblog
旅に出よう

そう思ってたくさんのものを捨てていったら

僕の生活は

たった一つの小さな鞄に

いとも簡単に入ってしまった


僕の好きな詩だ。
僕はこの詩にあるように、できるだけ荷物を持たずに生きたいと思っている。
僕が長期の旅行に行くときは、生きるために必要最低限のものと少しの自分を豊かにしてくれるものだけをリュックに詰める。
下着2枚、Tシャツ1枚、本1冊、カメラ。
これだけで旅に出られる。通学の時と同じリュックに詰め込んで旅した。

でも、日常生活はそうもいかない。
どんどん生きるのに必要ないものが垢のように増えていき、部屋を占領する。
その大部分が思い出という厄介な重荷を背負っている。
だからなかなか捨てられない。

思い出に囲まれて生きるのも悪くない。特に年をとって不自由になると思い出は生きる肥やしになる(かもしれない)。
でも、荷物が増えすぎて身動きできないのは嫌だ。
行けるところにも行けず、できることもできなくなる。

一所に長くいると荷物が増える。
だから、たまに引越しをしたくなる。
こびりついた垢を落とし、思い出をごっそりと置いていき、身一つで新生活を始める。
きっと、身軽で縛られない、自由な生き方ができる。
旅にもすぐに出ることができる。

同じ根っこ:タダウチさん

2006年01月18日 | Weblog
世の中には自分にそっくりな顔の人が4人はいるっていうけど、自分と考え方がそっくりな人もいるもんだ。研究室にそんな先輩がいる。たぶん、このブログも見てる。

これまで、そんな人はせいぜい親父くらいだった(いても、それほど話さなかったから気づかなかった)。それは僕が親父から影響を受けたことも少なからずあるので全くの偶然ではない。旅先で出会う日本人旅行者は多かれ少なかれ同じような性質の人間が多いが、それはおいとこう。

似てるっていうのは、全部が一緒というわけじゃなくて、根本的な部分、発想の元になる大きな考え方が似ているということ。もちろん、全く違う部分もある。正確には似ている部分が多い。

こういう人と一緒に話しているとしょっちゅう意見がぶつかる。発想のもととなる部分は同じでも、生きてきた軌跡が違うから考えの結論は違ってくる。根っこが同じ養分を吸っても、枝先は同じにならない、という感じ。
でも、意見が違っても、相手がどうしてそういう考えに至ったのかはわかる。だからこそ、譲れない。譲ったら自分の生き方を否定することになる。だって、根っこは同じなんだから。

あと、嘘もつけない。つけばばれる。背伸びをしても見透かされる。だから真正面から話さないといけない。相手を理解できてしまうからこそ、誤魔化せない。

まるで鏡に向かって話しているようだ。もう一人の自分。しかも、僕とは別の人生を歩んできた自分。ともすれば、僕は目の前の人と同じような考えになっていたのかもしれない。そんな風に思いながら話す。自分の考えを再確認する。何度も言うが、だからこそ誤魔化せない。譲れない。

人にはそれぞれその集団の中で役割があって住み分けている。だから、似ている人は2人もいらないのかもしれない。でも、自分と同じ根っこを持っている人がいるってだけで、僕だけ特別なんじゃないって分かるだけで、うれしい。

補強大会の意味

2006年01月18日 | Weblog
先日、土曜日だっていうのに雨が降って、仕方ないのでみんなで補強大会をした。

清原が高校のときのネタをもとにメニューを作ってくれて、6人くらいのグループに分かれて6種目くらいの補強を行った。
普段やらないことだし、雨だってこともあり、だんだんテンションがあがって、みんなで辛い補強を乗り切った。3日たった今でもまだ腹筋が痛い。

で、この補強大会は陸上競技にとってどんな意味があるのだろう。
たぶん、足が速くなることはない。
今後の練習にもつながらない。
筋力も上がらない。
それは、補強大会が一過性のものであるからだ。
継続しないと、全く力にはならない。
思いつきで、衝動的に、いつもは聞かない英語のラジオを聞くのと同じ。
いくら、次の日に筋肉痛に悲鳴を上げても時が過ぎれば元通り。

これがフィジカルな面。
でも、メンタルな面では、いつもはやらないことでリフレッシュになるし、
テンションが上がれば楽しいし、仲間と一緒にやることで連帯感が生まれる。
こういう練習は大好きだ。

あくまで僕の意見だが、こういうことを忘れて、補強大会でお腹いっぱい、速くなれると思っていると、そのうちに実を伴わない練習になる恐れがあるということをいつも意識している。

泣ける映画

2006年01月18日 | Weblog
「この映画すっごく泣けたよ」
というよくある言葉。
「泣けた」ってなんで泣きたいのか。
泣くって本来、そういうためのものか?

日常の中で泣くって事はあまりない。
多くの人は殆どない。
だから泣きたい?

日常では感情の波が小さくなっている現代社会。
泣くという感情の落差が欲しいらしい。
昔は喜怒哀楽が豊かだったから、そんなものは必要なかったかもしれない。

泣きたい。泣けなかったよ。泣けた~。涙が止まりませんでした。こんなに泣けたのは初めてです。
なんか変な感じ。

ハイローズ

2006年01月17日 | Weblog
ハイローズがベスト版を出した。
と同時に活動を休止した。

今では伝説とも言えるブルーハーツが解散してメンバーを入れ替えハイローズができた。歌はブルーハーツよりもソフトになった、と思う。とげとげしくなくなった。表現が直接的でなくなった。そんな気がする。

高校の友達でハイローズと烏龍茶を溺愛している変なやつがいた。
全く興味がなかった僕がブルーハーツやハイローズが好きになったのは彼のせいだ。
世の中に対する不満を爆発させるのが純粋なロックなら、ハイローズほど真正面からロックをやり続けてきたグループは日本にはないと思う。とういと、御幣はあるがもっともっと男達に愛されていいバンドだ。
ベスト版を聴いて改めて「最高だ~!」と言いたくなった。

親父の血

2006年01月17日 | Weblog
先日、親父と飲んだ。
場所はいつもどおり親父の家。
夕方に訪れて夜中に帰った。

僕が物心つく前に親父は母親と離婚して、新しい家庭を持った。
それでも、父方の祖母や親父にはちょくちょく遊んでもらっていた。
中学生になると親父とは疎遠になった。
大学生になった今は、たまに親父と飲んだり、登山をしている。

一緒に飲んでいて、話す内容は殆ど旅行の話だ。
親父も旅が好き。
というより、僕の旅好きは親父の血のせいだと思う。
親父や僕が行った国について話し、これから行こうと思っている国について夢を語る。

チベットの鉄道ができたらラサへ行くのはずいぶん楽になる。でも、やっぱりバスが魅力だよな。

マラッカ海峡をどうしても見たいんだ。それともインドの西部か。

僕達が見たラオス人の温和で平和そのものの外見は発展できない軍事政権のいいところと悪いところなのかも。

そんな、分かったような分からないようなことを話しながら地図をつまみに酒を飲む。親父は清酒。僕は焼酎が好きだ。

僕は親父の学生時代の話を聞くのも好きだ。
大学を一年休学して沖縄で土木現場に住み込みで生活したこと。
全共闘の話。
自由に対しての葛藤。
そんな話を聞くと、僕の中には親父の血が確かに流れているんだと思う。
覚えている限り一緒に生活をしたことはないから、親という意識は全くない。
それよりは人生の先輩、よき理解者だ。
でも、確かに親父の血が流れている。そのことが誇らしいと思うようになった。
もうすぐ社会に出るこのあたりでそんなことを実感している。

陸上バカ

2006年01月17日 | Weblog
メニューが終わった。
ウェイトもすんだ。

さあ、ダウンだと言ってジョグ。
そのジョグがあるラインを越えると、突然競争に変わる。
誰が強制するでもなく、でも誰かが走り出したらもう止まらない。負けたくない。
メニューでウェイトでへとへとの身体で、またみんな全力で競争する。

そんな、負けず嫌いの、走りたがりの、あとさき考えない集団です。陸上部。
それくらいバカじゃないと大学に入ってまで毎日毎日夜遅くまで走らない。
一流選手はもっとバカなんだろう。

陸上教室(対小学生)

2006年01月11日 | Weblog
先生、彼女いるのー?

先生!俺、この前女子にかっこいいって言われたんだぜ!

先生っておじさんだね~

おんぶ~

小学生はとにかく隙あらば指導者をからかおうとする。
それが楽しくて仕方ないのだ。
そして、どうにかして構ってもらおうとする。

小学校高学年になると、女子は割りと落ち着いてくるのに対し、男子はまだまだ落ち着きがない。練習も女子のほうが集中力があっての見込みが早いのに、男子はちゃらんぽらんである。

あるとき、一部の男子グループが練習を怠けて他ごとを始めた。呼べど叫べと相手にされず、僕では手に負えなくなった。
そのとき、今はOBの真人先輩が
「お前ら、練習したくないならずっとそこにいろ」
と一喝し、彼らをほっておいて残ったメンバーだけで練習を再開した。
すると、遊んでいた男子が一人、また一人とばつの悪そうな顔で練習に加わってきた。最後の一人までが練習に戻ったとき、真人先輩は褒めることも笑いかけることもせずに、平等に、淡々と指導を続けた。

そのことが僕にはなかなか感動的で、以後の指導方法の参考になっている。


陸上教室(対リーダー)

2006年01月11日 | Weblog
どんなものでも、それぞれの人にそれぞれの考え方があるものだ。
そして、それぞれの人が自分の考えは正しいと思っている。
そんな人たちが集まって何かをするときにはどうしてもその考えの差が問題になる。
一番いいのは話し合って相互理解を深めることだろう。
でも、多くの場合そんなことはできない。
多くの場合、その集団の考えの方向性はトップに立つリーダーによって決められる。

陸上教室もそうだった。
もともと、走りの技術なんてみんながそれぞれ意見を持っている。
中学生の担当になったリーダーは中学校教員。僕らとは10年以上年が違う。そりゃ180度違う。

接地時はひざをしっかり伸ばせ。
腰はできるだけ高くして、落とすな。
腿は高く上げた方が速く走れる。

がリーダーの指導。

接地時はそのまま乗り込め。
腰は最も力を地面に伝えられる高さにする。
腿の上がった高さではなく、どれだけ地面に大きな力を加えられる形にするか。

が僕(ら)の意見。
でも、言えない。
小さいころ、大人たちにそれぞれてんでんばらばら違うことを指導され混乱し嫌な思いになったことがある。
だから、今は悔しさを飲み込んでリーダーの指導法に合わせて子供達を指導する。
指導するときに、自分の信じたことを伝えられないって、こんなに悔しいことなんだね。

どちらの指導法が正しいと言うことじゃない。
ただ、悔しい。そういうこと。

陸上教室(対中学生女子)

2006年01月11日 | Weblog
僕は2つの陸上教室のコーチをやっている。
一つは小中学生を対象にした教室で主に夏。
もう一つは中高生を対象にした教室で主に冬。
ともに2年目だ。
前者は陸上部でもない小学生(陸上よりサッカーがいいと言い張るような子供達)を相手に陸上に触れてもらうレクリエーションのようなものだから、特に技術的指導はやらないけれど、その分子供達をまとめたり飽きさせないようにするのが大変。
後者は対照的にOBの後藤先輩が中心になって技術指導中心の本格的な教室で、それがいよいよ始まった。

去年は高校生を指導した。今年もてっきりそうだと思ったら、中学女子をまかされた。
中学女子って・・
僕は中学のときに陸上をやっていないし、女子がどれだけ走れるのかも分からない。全く感覚のないところからの指導は手探り状態。
アップで150mの流しをさせて「長い!」と文句を言われたり、400mを例えに出したら走ったことのある人が一人もいなかったり。

それでも、小学生相手に悪戦苦闘した経験から以下のことを心がけた。
・常に元気よく。声を出し続ける。
・ネタはたくさん用意して出し惜しみしない。よいものは2回、3回と使う。
・競わせる。少し難しいかなと思うことも挑戦させる。
・やる気のなさそうな人ほど声をかける、ほめる。
・ドリルなどの技術練習は一緒に走ったりしてさりげなくお手本を見せる。
・なぜこの練習、動きをするのか、と言うことを説明する。

↑が全部できたら大したもんだぁ~

ガンダムのプラモデル

2006年01月05日 | Weblog
10年ぶりくらいにガンダムのプラモデルを作った。お正月は時間があるものだ。小さいときは、大好きで物語も知らずにたくさん作っていた。そのうち、面倒くさくなってやめてしまった。何でやめたんだろう。面倒くさいって、それじゃプラモデルの意味って何だ?選んだのは、ぱっと見で一番かっこよかった『Wガンダver.Ka』というやつ。

'80年代生まれの多くの男のロボットに関する美的センスの原点はガンダムじゃないかと思う。まさかターミネーターじゃないだろう。ちなみにヒーロー物の原点はドラゴンボールでスポーツ物の原点はスラムダンクかな。
ガンダムは話が難しすぎる。とても小学生が楽しめるものじゃない。最近やっとわかってきた。
余談だけれど、母親が今ガンダムにはまって、最新のガンダムSEEDなんかは全部録画している。

話を元に戻して・・・
買ったプラモデルを作っていて、昔に比べてずいぶん作りやすかった。
昔思っていた面倒くさいと言う感覚もなかった。
あの、複雑極まりないシールを貼る作業でさえ、集中して楽しかった。
こんなに、『没頭』できたのも珍しく、ようするにプラモデルの存在意義はできあがった姿ではなく、この『没頭』にあるのだと思う。
お金をだしてこの『没頭』を買うのだ。

できあがったガンダムは確かにかっこよかった。こうして、出来上がったプラモデルを満足げに見つめる姿はガンオタそのものだと思う。プラモデルを没頭してひたすら作ることに何か快感を感じてしまった。うむ、社会人になったら部屋にプラモデルが並ぶかもしれぬ。

ネパールで飲んだ日本茶

2006年01月05日 | Weblog
ネパールの首都カトマンズを旅行しているとき偶然にも知り合いが一人もできなかった。偶然にも、というのもおかしいが、インドでは何も考えなくても、日本人なり西洋人なりインド人なりが近くにいて、どちらともなく話しかけ、食事をした。インドの暑い空気はそんな雰囲気があった。僕が勝手に思っているだけだけれど。でも、カトマンズではそうはいかなかった。アジア有数の旅行者が集う街になりつつあるここで、偶然にも、僕は一人の知り合いもできなかった(正確には2人のネパール人と知り合いになったが僕は彼らを好かず、避けていた)。

そんな、寂しい状況で何が一番嫌かというと食事である。
異国の不思議な料理を食べても、感動が分かち合えない。
旅の後半であったし、ちょっと沈んだ気持ちになっていた僕は、いつもは避けている日本料理店に行ってみたくなった。

避けていた理由は、まずその値段が法外の高さ(その国の物価でという意味)ということと、何で外国に来てまで日本食?という半分意地みたいなものだった。
ある日本人はガイドブックに載っている日本料理店を片っ端から食べ歩き、その数を自慢の種にしようとしていた。それを見て、なんか外国を旅行していることと矛盾するよね、と思った。

そんな理由から、日本料理店は僕にとって鬼門だったのだが、そのときはなぜか無性に日本食が食べたかった。
意を決して入った日本料理店は思っていたより数倍おいしく、でも空しかった。
やっぱり一人はいけない。いくらおいしくても、どこか空しい。
たしか、天丼かそんなものを食べたんだと思う。
ネパール人経営の店だが、店内には日本人旅行者が多かった。

その中で忘れられないのが、日本茶の味だった。
日本茶を飲んでいるときだけはなぜか空しくなかった。
うれしかった。
楽しかった。
日本茶を飲んでいるのに、強く、ネパールにいることを実感した。
そして、日本っていい国だなと思った。
ネパールとまるきり違う国だなと思った。
文化も、価値観も、生き方も、たぶん死に方も、全部違うと思った。
カトマンズで飲んだ日本茶は、ネパールと日本のちょうど境界線のように感じられた。
その日本茶のあたりで、僕はネパールと日本を混じり合わせて見れたように思う。

祖母の家へ

2006年01月05日 | Weblog
1月1日に実家で駅伝を見ていて、津島の祖母の家まで歩いていこう、と思い立った。
時刻は午前10時。今出れば、駅伝のゴールは祖母の家で見られるかも。
同じく暇をもてあましていた母と二人で意気揚々と歩き出した。

僕がまだ小学生だったころ、名城公園の近くに住んでいた。
そのころは、休日が暇だったので、毎週のように母と二人で栄や伏見へ歩いた。
そして、好きなうどん屋でうどんを食べて帰ってきた。
覚えていないが、保育園の時に、栄まで三輪車で行って皆を驚かせたそうだ。
当然、その時期には何度か津島まで歩いた。かなりしんどかった。一日かかった。

あれから、もう6年以上津島へ歩いては行っていない。
今の実家は中村区にあるから、昔よりは津島に近い。
15キロくらいだと思う。

風は冷たかったが晴れていた。
昔あった店がなくなって、大型の娯楽施設に代わっているところがいくつもあった。
津島は名古屋のベッドタウンになるような気配があった。
昔ながらの古い家ばかりの町だと思っていたのに。

祖母の家に着くと、まだ駅伝はゴールしていなかった。
時計を見ると、ちょうど3時間かかっていた。
祖母のうまい玉子焼きがよけいにうまく感じた。

子供は地面が近い

2006年01月05日 | Weblog
近頃、地面の砂を触っていないなと思う。
しゃがみこんで、砂をいじって、遊んでいない。

小さな子供はすぐに地面で遊び始める。
僕も小さいころはいろんな砂や石をいつまでも触って遊んでいたそうだ。

母子が歩いていて、子供がふとしゃがみこんで地面のものをいじり始めると、
母親は子供の手を引き、立ち上がらせる。
そんな光景をよく見る。

たぶん、子供は背が低いから、大人には見えない地面の面白いものが見える。
きっと、大人は背が高くなって地面から離れすぎたせいで、地面が疎遠な違う世界、汚いもののように見える。

子供は地面に近いから、僕らが驚くような発見ができるんだと思う。