ちょっぴりだけど、涼しくなってきて。
読書の秋には、まだ早いけど。
唯一神を「絶対」なるものと見ることは、
宗教の世界では、ごく普通のことである。
でも、仏教は汎神論である。
一人ひとりが、「仏」になるという汎神論である。
だから、汎く(ひろく・あまねく)“仏”が存在しうる。
今、釈徹宗さんの本を読んでいる。
煩悩を滅した存在を“仏陀”という。
「親鸞」という人は、自らを「煩悩具足」と名乗った人である。
だから、「親鸞」という人を「絶対なる」人と評価していいのか。
また、「親鸞」思想を一括りにして、「絶対」他力と表していいのか。
釈さんの書き出しは、そこから、始まっている。
ただ念仏して、浄土へ往生して、成仏する。
釈さんは、
「阿弥陀仏による受容と自己の相対化」の中で、
阿弥陀仏が「私」という現存在を相対化する。
と述べている。
現世に生きる私の義務を、
すべて絶対なるものに、任せては、委ねてはならない。
自らを絶対なるもの下で、相対化させよ。
そして、生きよ。
日本で成熟した浄土教は、
「親鸞」という人物の中で、一つの帰結点に立つことになった。
また、「親鸞」という人は、「家族をもった僧侶」であった。
そして、自らを語らなかった人でもあった。
今、五木寛之さんが、「小説親鸞」の中で、
親鸞と善鸞父子のことを書いている。
“善鸞義絶”まで、何があったのだろうか。
先日亡くなった藤圭子さんの愛娘宇多田ヒカルさんが、
公式サイトで母のことを語っていた。
「彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました。
その性質上、本人の意志で治療を受けることは非常に難しく、
家族としてどうしたらいいのか、何が彼女のために一番良いのか、
ずっと悩んでいました」と、
生前の藤さんが置かれていた状態について説明した。
病は昔から藤さんに取りついていた。
「幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。
病状の悪化とともに、家族も含め人間に対する不信感は増す一方
で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動の
コントロールを失っていきました。
私はただ翻弄されるばかりで、何も出来ませんでした」と、
母の病気が進む様子とともに、ヒカル自身の苦しみも打ち明けた。
最後に、このような死を選んだ母に対して、
「母が長年の苦しみから解放されたことを願う」とも言っている。
相対の、この“苦しみ”の世界を背負いながら、
最後には、苦しみから解放されて、
絶対の“さとり”の世界へ往き生まれること。
それが、娑婆の世界を生きるということなのだろうか。
きょうも来てくださって、ありがとうございます
読書の秋には、まだ早いけど。
唯一神を「絶対」なるものと見ることは、
宗教の世界では、ごく普通のことである。
でも、仏教は汎神論である。
一人ひとりが、「仏」になるという汎神論である。
だから、汎く(ひろく・あまねく)“仏”が存在しうる。
今、釈徹宗さんの本を読んでいる。
煩悩を滅した存在を“仏陀”という。
「親鸞」という人は、自らを「煩悩具足」と名乗った人である。
だから、「親鸞」という人を「絶対なる」人と評価していいのか。
また、「親鸞」思想を一括りにして、「絶対」他力と表していいのか。
釈さんの書き出しは、そこから、始まっている。
ただ念仏して、浄土へ往生して、成仏する。
釈さんは、
「阿弥陀仏による受容と自己の相対化」の中で、
阿弥陀仏が「私」という現存在を相対化する。
と述べている。
現世に生きる私の義務を、
すべて絶対なるものに、任せては、委ねてはならない。
自らを絶対なるもの下で、相対化させよ。
そして、生きよ。
日本で成熟した浄土教は、
「親鸞」という人物の中で、一つの帰結点に立つことになった。
また、「親鸞」という人は、「家族をもった僧侶」であった。
そして、自らを語らなかった人でもあった。
今、五木寛之さんが、「小説親鸞」の中で、
親鸞と善鸞父子のことを書いている。
“善鸞義絶”まで、何があったのだろうか。
先日亡くなった藤圭子さんの愛娘宇多田ヒカルさんが、
公式サイトで母のことを語っていた。
「彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました。
その性質上、本人の意志で治療を受けることは非常に難しく、
家族としてどうしたらいいのか、何が彼女のために一番良いのか、
ずっと悩んでいました」と、
生前の藤さんが置かれていた状態について説明した。
病は昔から藤さんに取りついていた。
「幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。
病状の悪化とともに、家族も含め人間に対する不信感は増す一方
で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動の
コントロールを失っていきました。
私はただ翻弄されるばかりで、何も出来ませんでした」と、
母の病気が進む様子とともに、ヒカル自身の苦しみも打ち明けた。
最後に、このような死を選んだ母に対して、
「母が長年の苦しみから解放されたことを願う」とも言っている。
相対の、この“苦しみ”の世界を背負いながら、
最後には、苦しみから解放されて、
絶対の“さとり”の世界へ往き生まれること。
それが、娑婆の世界を生きるということなのだろうか。
きょうも来てくださって、ありがとうございます