かかりつけのお坊さん 奮闘編

転勤も定年もリストラもない、失うものは何もない最強な坊主が日頃の“感謝”を言葉にこめて、日常を綴ります。

68年前のきょう。

2013-08-06 16:47:32 | 日記
朝早く、トモくんが、学校へ出かけていきました。
トモくんが通う崇徳では、8月6日には、全校生徒が登校して、
“原爆忌”法要を営みます。
その後は、“被爆体験”を聞きます。

学校から、帰ってきたトモくんが、こう言いました。
「原爆のことを話しに来とったのは、
 正向寺のじいちゃんじゃった」。
正向寺のじいちゃんは、うちの副住職のお父さん。
68年前のきょう、当時崇徳中学の生徒だった、
正向寺のじいちゃんは、建物疎開に出ていて、
被爆をされました。

「次から次へと、じいちゃんは、よう、しゃべりよった」

「で、トモくんは、僕のじいちゃんじゃ、いうて、
 みんなに言ったの?」

「恥ずかしゅうて、言えんかった」

僕は、ちょっと、声がつまりました。

 おしゃべりだったから、言えなかったらしい。(^^)


川内村国民義勇隊(ぎゆうたい)
 
広島市安佐南区(あさみなみく)川内地区は爆心地(ばくしんち)の
北約10キロメートルに位置し、漬物(つけもの)で全国的に有名な
「広島菜」の産地として知られています。
1945年(昭和20年)当時、この辺りは安佐郡(あさぐん)
川内村で、広島市近郊(きんこう)の野菜の産地でした。
 原爆(げんばく)が投下される直前の7月末、
川内村国民義勇隊(ぎゆうたい)に指令が出されました。
広島市の中島新町(現在(げんざい)の平和記念公園辺り)
での建物疎開(たてものそかい)作業と、
高田郡八千代町での飛行場整備(せいび)作業への出動でした。
2つの村が合併(がっぺい)して川内村となる前の
旧温井(きゅうぬくい)村の地区が建物疎開(たてものそかい)作業へ、
旧中調子(きゅうなかぢょうし)村の地区が飛行場整備(せいび)作業
へと向かうこととなりました。
そして、広島市に出動した約200人が原爆(げんばく)により
犠牲(ぎせい)となったのです。

みなさんは、先月7月の中国新聞に掲載されていた、
【ピカの村 川内に生きて】をご覧になりましたか。


 一番左が、野村マサ子さん。

川内村は、原爆によって、200人を失いました。
夫を亡くした妻を含む遺族は、翌9月から、浄行寺で、
月命日の法要を営んできました。
20年の9月にはまだ遺体が見つからず、葬式も出せない家も
多かったようですが、寺には、遺族、友人たちが
600人も集まられたそうです。

あの日から、68年たちました。

毎月6日は、浄行寺の本堂で、月命日の法要が勤められました。
その本堂が、みなさんたちを支えてきました。
坂山厚住職は、「皆さん、なかなか席を立たれなかった。
互いに励ましあい、心休まる場でもあったのでは」と。

上の画像は、数年前の浄行寺の月命日の様子です。

必死に土を耕し、困苦の時代を生き抜いた女性たちも、
次々と亡くなっていかれました。
そして、被爆68年の夏を迎えるのは、
野村マサ子さん(92)ただ一人になりました。

坂山住職は、最後にこう結びます。
「家族を奪われ、苦しい生活を強いられた人たちがいる。
 原爆が川内に何をもたらしたか。
 記憶をつなぎたい」


昭和20年8月、うちのお寺は、私の祖母が一人で
お寺を守っていました。
私の父は、中国にいました。伯父は、フィリピンの
海戦で戦死。
もう一人の伯父は、大学在学中で、学徒動員の準備を
していました。

8月6日。爆心地から、直線距離にして10キロのところに
うちのお寺はあります。
爆風で、本堂は、ねじれるようにして、曲がりました。

被爆した人たちが、お寺の前で、ばたばたと倒れました。

その遺体は、太田川の川原に運ばれ、祖母は、
その一つ一つに、お経を読んだそうです。

そんな68年前の出来事が、
そのとき、そこにいたかのように、
浮かんできます。

  称名


ちなみに、浄行寺住職坂山厚さんとは、
40年来の知己です。
親しく、おつきあいをさせていただいている方です。

来月の16日は、その浄行寺さんで、法中大会があります。

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きょうも来てくださって、ありがとうございます
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1 コメント

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原爆と広島 (藤岡 昭)
2014-06-03 08:19:35
2014年5月24日自分の母、同29日妻の母(己斐)を亡くして、広島と東京の行き来、少し落ち着いたところで、パソコンを検索していろいろな情報見ておりました。原爆に夫を奪われての中の藤岡キヨノは祖母です。さらにこの記事の野村さんの奥にみえるは、この度亡くなった母です。
偶然にもこの記事で母を見つけました。太田川の渡しにのり、芸備線戸坂から峠を母の手にひかれ,中山のお婆ちゃんの家によく行ったことが思い出されます。今回の弔事で本籍地を川内から世田谷に移そうかと思う今日この頃です  
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