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摠見寺 復元案

安土城にある、摠見寺(そうけんじ)の復元案を作成する プロジェクト日記

鎮守社

2008-08-31 22:46:02 | 考察
本堂東側の鎮守社について、

祭神は熱田大神宮との伝承で、通常より横長の社殿なのは、
熱田の五柱の神座を置くためと考えられることから、
中央は熱田社で良いと思われます。

問題なのが南側の”石組遺構1”で、記録には
梁行3尺・桁行□尺6寸の鎮守社、と書かれているのだが、
現在この場所には、(発掘調査報告書P15)
「宝篋印塔の台座が置かれている」

火災の後、見寺はこの場所から移転するので、
石が据えられたのは、火災の前の可能性が高く、
この”宝篋印塔の台座”に被せるような形で、
鎮守社が置かれていたと考えられます。

ところで、この石は本当に”宝篋印塔の台座”なのでしょうか?

3月の説明会の時に、現物を見て来たのですが、
側面に格狭間が彫られてはいるものの、石の上部は平らで、
滋賀県に現存する宝篋印塔の台座は、調べた限り、
台座が、上部の段形や蓮華座と一体になっている形なので、

これは宝篋印塔ではなく、宝塔か層塔の台座であると思われます。

では、宝塔か層塔のどちらかというと、

本尊が一字金輪仏頂尊なので、
須彌壇前の大壇に宝塔が置かれていたであろうから、
この場所は、本堂に対し三重塔と対になる形で、
層塔が置かれていたと考えます。

熱田社の本地仏は大日如来であり、
三重塔の来迎壁には金剛界の大日如来が描かれているので、

創建時、ここにあった層塔は、
月輪内に、胎蔵界五仏の種子の書かれた塔身を持つ、
胎蔵界の大日如来を表すものであったと考えられます。

その後、秀吉の頃の近畿地方の大地震により、
見寺周辺部の、盛り土の厚かった部分が変形して、
重心が不安定な層塔が崩壊し、
秀頼の修複時に、鎮守社が置かれたものではないでしょうか、

秀頼の修複時に、あらたに置かれたとすれば、
祭神についての伝承は残っていないようなので、
江戸時代には禁忌であった、豊国大明神が
秘かに祭られていたのではなかったかと思います。

辯財天の移動

2008-08-13 23:37:29 | 考察
慶長十三年(1608)の奥書のある、「正仲剛可置文」といわれる文書には、

本尊觀世音、信長様御拝、遍いさいてん

と書かれているので、慶長の頃には、
弁才天は本堂内に安置されていたのに、

延享二年(1745)の「遠景山見寺禅寺校割帳」の搭之内の項目に、

一辯才天 見院殿竹生島ヨリ勧請安置

と記されているので、江戸時代中期には
弁才天が三重塔へ移されていることがわかります。

現在の禅寺でも、弁才天を安置している所もある上に、
正仲剛可の頃には、弁才天は本堂に安置されていたのだから、
一字金輪仏頂尊とは違って、宗派の変更が理由で
弁才天を三重塔に移した訳ではないし、

延享の記録にも、見院殿竹生島ヨリ勧請安置とある以上、
弁才天が、信長に縁の深い由緒のある仏像だと、
見寺でも認識していたものと思われます。

秀頼・淀殿による見寺の修復は、慶長九年の事なので、
見寺修復による工事の為でもなく、

慶長十三年以降、延享年間までの間に、見寺に起こった変化というと、

元禄8年(1695)に、
大和国、宇陀松山藩織田家が、丹波国柏原藩に減転封になった事に伴い、
宇陀松山藩の菩提寺である徳源寺も収公されたので、
徳源寺にあった織田家の藩主の墓が、見寺に改葬された事が挙げられます。

大名の墓を見寺に改葬という事は、墓だけを持って来るわけも無く、
位牌も一緒に見寺に持って来たはずで、

この時以降、見寺は、信長個人を祀る菩提寺から、
織田家の菩提寺へと変化したと考えられます。

大名家の位牌は一般的に言って、
非常に大きい上に、間隔を開けて配され、
また、織田家の菩提寺としては、藩主の画像もあったかも知れないし、
この頃には、歴代住職の位牌も増えてきているので、

元禄年間に、丹波国柏原藩の援助により、織田家の菩提寺になるべく、
もともと、本堂内の脇壇に安置されていた弁才天を三重塔に移して、
脇壇を、位牌置き場に改造したのではないかと思われます。

摠見寺の本尊2 一字金輪仏頂尊

2008-08-09 22:14:19 | 考察

江戸時代の摠見寺の記録によると、

本堂二階に安置されている本尊は、十一面觀音で、
脇侍に文珠菩薩・普賢菩薩が配されていたとか、

基本的には、文珠菩薩・普賢菩薩は釈迦如来の脇侍である上に、
菩薩の脇侍に菩薩が安置されるというのは非常におかしい、

でも、このように安置されていた以上、
安置した人は、この形態でもOKだと思っていたわけで、
十一面觀音の脇に文珠菩薩・普賢菩薩があっても
おかしくない配置はどうなのかというと・・・・。


江戸時代の記録には、三重塔に大日如来がいた事になっている、
が、この三重塔の仏像が、金剛界の大日如来に形が非常に良く似ている
「一字金輪仏頂尊」(大日金輪)、であり、
元は本堂に安置されていたとすると、この問題が解決します。


密教本堂では通常の場合、
本尊は内陣中央の厨子か宮殿に納められています、

内陣中央の宮殿内に、本尊の一字金輪仏頂尊を安置して、
宮殿外に、脇侍の騎獅子文珠菩薩・騎象普賢菩薩を配し、
宮殿の前立本尊として、
頭頂部の如来相に仏眼仏母を頂いた、十一面觀世音菩薩を安置した上で、

須彌壇前に、多宝塔を中央に置いた大壇を荘厳すれば、
一字金輪法のお膳立てが整います。

寺伝によれば、創建時の住職である尭照は
津島午頭天王社、天王坊の尭照法印で真言宗の僧侶、
とされているので、一字金輪法を修してもおかしくは無く、

信長の死後、
秀吉に住職に任ぜられた正仲剛可は元相国寺の僧であり、
これは当然の事ながら、臨済宗の僧侶なので、
一字金輪法を修するのは無理な上に、
そもそも一字金輪仏頂尊を知っていたかどうかもアヤシイ!、


ということで、
摠見寺の住職になった正仲剛可が、
智拳印を結んでいるから大日如来ではないか?、
といった程度の理解しかない状況で、
本尊の一字金輪仏頂尊を、自分の手に負えない仏像なので、
本堂から三重塔に移して、

残った前立本尊の、十一面觀世音菩薩を本尊として、
脇侍はそのまま、騎獅子文珠菩薩・騎象普賢菩薩にしたために、

このようにおかしな仏像の配置が出来上がったのだと考えられます。


毘沙門堂御舞台

2008-06-15 20:38:33 | 考察
信長公記に書かれている、
見寺 毘沙門堂御舞台 については、

秋田裕毅氏の考察「織田信長と安土城」
による形式で良いと考えられます。

異常に?細長い、江戸時代の見寺書院が、
信長当時の能舞台の桟敷席を改造したもので、

能舞台は、庫裏跡の北西隅、地謡座を石垣線に合わせ、
後座は懸け造りにした状態で配置して、
南西隅の張り出し部分に、毘沙門堂兼鏡の間を配置すれば、

橋掛かりは、通常より多少短いものの、敷地内に
能舞台と桟敷を配置することが可能です、

この配置であれば、発掘調査報告書P19にある
「建物9に直接伴うものとは考えられないが、建物9の南側、
石組水路の東側に直径3m程度の円形に瓦片及び炭化物を多量に含む
黒色土が集中する箇所が認められる。」

という部分は、創建当時の住職が真言僧の尭照であることから、
毘沙門天の柴灯護摩を焚いた跡と考える事ができるので、

見寺 毘沙門堂御舞台の配置は、発掘調査の結果からも、
秋田裕毅氏の配置案で良いと考えられます。

本堂平面 外側柱

2008-04-20 23:54:07 | 考察
発掘調査報告書によると、本堂の外柱は、
桁行、梁行共に、八尺等間であると書いてあるのですが、

図を見ると、桁行は八尺等間で五間に違いないが、
梁行方向は、どう見ても等間では無い!

南側から三間目は他より広く、五間目は他より狭いのは明らかなので、
どういう根拠で、八尺等間であると書いたのか?不思議です。


外側の柱の配置だけ見ると、国宝明王院本堂の配置とほぼ同じで、
桁行は等間で、梁行が正面から二間が等間、三間目がいちばん幅広で、
奥に向かってだんだん狭くなる形態であると考えられます。

来迎柱の後退

2008-04-02 22:08:28 | 考察
見寺の平面図を見て、一見して違いがわかるのが来迎柱の後退で、

室町時代になると、来迎柱が後退して内陣を広く取った堂が出てくるのだが、

普通は中央の二本のみ後退させて、両側は通常の位置に立たせるのに、
見寺の平面では、来迎柱が四本とも後退していて、非常に珍しい、

何か類例を探す必要がありそうです。