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摠見寺 復元案

安土城にある、摠見寺(そうけんじ)の復元案を作成する プロジェクト日記

二階の盆山について

2008-11-04 23:09:38 | 考察
見寺本堂二階に安置された盆山は、
信長の化身として、
信長が仏の上に君臨するために、二階に安置した、
ということに一般的にはなっているようです。

この解釈は、とりあえず間違ってはいないとは思いますが、

見寺本堂の二階を、禅宗仏殿の三間堂に復元して、須彌壇を置くと、

一階の内陣が広くなっていて、さらに来迎壁が後退していることから、
二階の須彌壇は、一階の須彌壇の真上には当らず、
一階の礼盤の上部に、二階の須彌壇が位置するようです。

と考えると、
上空から二次元的に見た場合、
住職の尭照と盆山(信長の化身)が一体となって、
一字金輪法を修法している事になるのではないか?

二階にあるから仏の上に君臨、という単純な解釈では計れない、
宗教的な事情がある可能性も、十分に考えられます。

二階高さ、天井形式について

2008-10-28 00:04:55 | 考察
見寺の絵図(伽藍配置図)を見ると、本堂は、
一般的な裳階付き仏堂のようにしか描かれていないので、

絵図だけでは、とても二階があるようには見えないが、
記録には、二階に観音像が安置されていたとあるので、
二階の空間が、何らかの形で存在しなければおかしい・・・。

絵図には、屋根の両脇の線が、組物のすぐ下に付いているのだが、
柱の部分は、若干立ち上がりが有るように描かれているので、
棟瓦の立ち上がり+α 程度の二階壁の立ち上がりは想定できるが、

それだけでは、あまりに階高が低すぎる。

考えられる可能性としては、
一階の屋根裏に二階の空間が割り込んでいる形式だが、

その場合、中世密教本堂の主流である、化粧屋根裏では、
一階の屋根裏(天井懐)がほとんど取れないので、

見寺本堂、一階の天井は、
霊山寺本堂のような、一面に天井を張る形式であったと考えられる。

ただ、それでも二階階高が低すぎる事には変わりが無く、
二階に天井板を張ると圧迫感が強そうなので、
二階天井は、禅宗仏殿風に化粧屋根裏で、
構造を表す形式だったと考えます。

外側側面柱割りは明王院本堂形式

2008-10-16 00:38:01 | 考察
発掘調査報告書6では、
見寺本堂外側柱は八尺等間ということになっていますが、

測量図を見ると、側面中央の柱間は八尺より明らかに大きいし、
後ろの柱間は明らかに八尺より狭く見える。

一支寸法の所でもふれていますが、
一支寸法0.5714尺で図面上の梁行き方向を重ねてみると、
前から14・14・16・14・13・8支の位置で礎石と重なります。

この事から、
外側柱の柱割りは、広島県の明王院本堂のような、
側面中央間がいちばん広く、以下後に行くに従って、
だんだん狭くなる形式だと思われます。

ということで、見寺本堂復元案の側面は
明王院本堂のパターンで構成します。

ただ、正面部分には問題があって、
図面上では八尺等間のように見えるのだが、
正面が等間の五間堂の例は、地蔵院本堂と鞆淵八幡神社大日堂、
くらいしか存在しないのではないか?

いったいこの本堂は、どこの系統の大工が作ったのだろうか?

組物考察2

2008-10-12 11:50:26 | 考察
ということで、
出組でありながら、出三斗や二手先に見える組物は・・・・。

金峯山寺の蔵王堂、一階の組物は、
正面から見ると一見、出三斗のようなのですが、
いちおう、一手出した肘木の上に桁が乗っているので、出組の一種です。

また、般若寺楼門の上層組物は、正面から見ると一見、
尾垂木もあるし、積み上げが高くて二手先のように見えるのですが、
肘木の出は、一手しか出していないので、これもまた出組の一種です。

見寺に、これらの特殊な出組みが使用されていれば、
記録と絵図のどちらも正しい、という状況に復元できるので、

見寺本堂の組物は、
一階が、金峯山寺の蔵王堂一階の組物の様式で、
二階が、般若寺楼門の上層組物の様式で復元します。

組物考察1

2008-10-05 23:56:06 | 考察
発掘調査報告6 の資料によると、
本堂の組物は一階・二階共に「枡形出組」との事だが、

見寺境内絵図に書いてある絵は、
どう見ても、一階は出三斗、二階は尾垂木の無い二手先
にしか見えない。

三重塔の資料には「枡形三手先」と、正確な記事が見られるものの、

見寺境内絵図では、三重塔や楼門も尾垂木があるようには見えないので、
絵図の描き方がいいかげん、とも考えられる。

ふつう禅宗仏殿では、一階は出三斗、二階は三手先が一般的なので、
絵図の描き方が常識的一般論に従っているだけで、
現実の建物とは違いがある、という可能性もあるのだが、

どちらも見寺が提出した正式文書の写しであろうから、
どちらも正しい、と考えるのが正統な方法で・・・。

二間四面

2008-10-03 11:59:38 | 考察
見寺本堂二階の大きさの記録には、
二間四面と書かれている・・・?

江戸時代には、間面記法は正しく理解されていなかったのだから、
この二間四面とは、間面記法の二間四面では無いことは確かなのだが、

絵図に書かれる見寺本堂二階は、明らかに三間四方で、
三間四方をどう見れば、二間四面と言えるのだろうか?

と思ったら、三重塔も二間四面だそうだ。


見寺三重塔は、三間四方の外観だが、
内部前面の四天柱が省略されて、来迎柱のみとなっており、
内部の梁間は二間と言えない事も無い事から、

内部の梁間の二間と三間四方を合わせて
「二間四面」になったのだと考えると。

本堂二階も、通常の禅宗仏殿のように、
前面の四天柱が省略され来迎柱のみで、
梁間が二間のように見えるから「二間四面」なのではないかと考えます。

一支寸法は174mm 0.5714尺

2008-09-28 23:58:11 | 考察
見寺本堂の元になったと思われる、鎌倉~室町期の中世密教本堂では、
支割による単位寸法が使われているのが普通なので、
見寺の一支寸法を考えてみます。

まずは、一支寸法の範囲ですが、
南明寺の8寸から禅宗寺院系?の4寸ほどまであるうち、
中世密教本堂では主に、5~7寸辺りが使われる事が多いようです。

また、ほとんどの場合において、正面中央間は偶数支になるので、
見寺の正面中央間の8尺を、12支か14支のどちらかで
割ってある可能性が高いと思われます。

では、12支か14支のどちらかというと・・・。


「織田信長と安土城」秋田裕毅著によると、見寺本堂の大きさは、
桁行六間一寸、梁行六間六寸 と書かれ、
「発掘調査報告書6」によると、
梁行6間6寸、桁行6間1尺 と書かれています。

微妙に違うのは、元にした資料の書き方に違いがあると思われるのですが、
発掘調査報告書の図面を調べてみると、
1間=6.5尺として、
桁行きは41尺=6間1尺が正しいと思われます。

問題は梁行きの方で、
どちらの記録も梁行は6間6寸なのですが
どう見ても、桁行きの41尺より長いように見えます。

始めは、6間1尺6寸の1尺を書き落としたと思ったのですが、
桁行きの記録が尺と寸を間違えているように、
梁行きも尺と寸を間違えた可能性の方が高そうな感じがします。

梁行きを6間6尺=45尺と仮定して、8尺を14支で割る、
一支寸法0.5714尺で図面上の梁行き方向を重ねてみると、
前から14・14・16・14・13・8支の位置で礎石と重なります。

北側端の礎石列は、発掘調査報告書では縁束の礎石とされているのですが、
本堂北側以外からは発見されていない事から、
この北側列の礎石は、脇壇の礎石と考えます。

で、合計支数79支は尺で言うと45.1尺、ほぼ6間6尺と等しい値になります。

ちなみに8尺を12支で割って配置した場合、梁行き方向は、
前から12・12・14・12・11・7支となって、
合計支数68支で45.33尺、14支の場合よりずれが大きくなります。

また、中世密教寺院を禅宗仏殿風に改造される経緯から考えても、
支割りが小さい方が禅宗仏殿に近いので、

見寺本堂の一支寸法は、0.5714尺=174mmと考えます。
(遺構尺として1尺=304.515mmを使用)

基本尺は 304.515mm

2008-09-20 23:26:45 | 考察
見寺本堂の基本となる尺度ですが、

発掘調査報告書の本堂図面をスキャナーで取り込んで、
縮尺を合わせて見ると・・・。

記録によると、正面柱間は40尺で八尺等間のはずだが、
少し礎石の間隔が広い気がする・・・。

礎石間隔からすると、外陣の5X2間の部分は、
どう考えても、柱間が八尺で統一されているはずだが、
八尺等間にすると、若干礎石の幅の方が広いようなので、

滋賀県の桑実寺本堂や、奈良の南明寺本堂と同じく、
遺構尺に、現在の1尺より若干長いものが使われていたのではないか?
と、思われます。

見寺の本堂が移築前に建っていたのは、滋賀県の甲賀周辺なので、
奈良から滋賀県にかけて、1尺=現行の1.005尺 にあたる尺を使う
工匠集団がいたと思われ、

滋賀県の桑実寺本堂や、奈良の南明寺本堂と同じく、
見寺本堂の基本尺度は、
遺構尺1尺=現行の1.005尺=304.515mm
を基準にして復元案を作成します。

牛頭天王は何処に・・

2008-09-11 21:04:33 | 考察
信長のいたころの見寺の住職は、

津島牛頭天王社の尭照宝印で、真言宗の僧侶だった
とされているので、
創建当時の見寺には、
どこかに牛頭天王が祀られていなければおかしい。

牛頭天王を真言僧が祀れば、当然、護摩を修していたはずですが、

見寺の本堂は来迎壁を後退させて狭くなっていたので、
後堂に仏像を祀る事は出来ないし、
脇壇では護摩を焚くには場所が少し狭すぎる。

発掘調査報告6には、手がかりになりそうな記事は無かったので、
他の資料を探してみていたら、
「滋賀県中世城郭分布調査4」の付図にヒントがあった。

見寺三重塔の南側、斜面を高さ5mほど下がった所に、
江戸時代に柴小屋として使われていた一角があります。

廃城後にわざわざ石垣を築いて郭を作るはずも無いので、
この一角は、見寺の創建時に作られたと考えられ、

見寺とのみ繋がっていて、見寺境内から少し離れた場所にある郭は、
昼間から調伏の祈祷をしていても、誰も気が付かない位置にあると言えます。

ということで、
この、江戸時代に柴小屋のあった所に、
牛頭天王を安置する護摩堂があったのではないでしょうか。

それに、この位置で護摩を焚いたとすれば、

三重塔には、来迎壁に金剛界の大日如来、
須彌壇に不動明王が安置されていたと考えられるので、

牛頭天王に向って護摩を焚きながら、
その奥に、不動明王と大日如来を観想できる、
護摩祈祷には絶好の位置にあると考えられます。

鎮守社2 愛宕權現

2008-09-10 19:51:41 | 考察
藤巻一保著の「第六天魔王信長」によると、

信長が個人的に信仰していた神は、起請文の記述から、
天満大自在天神・愛宕・白山權現 だと考えられるようです。


天満大自在天神は菅原道真に当てるのが一般的ですが、
仏典によると、大自在天とは第六天魔王の事なので、
信長が第六天魔王を称していた以上、
天満大自在天神=信長=盆山 ともする事が出来、
天満大自在天神は、盆山として見寺では祀られていたと考えられます。

白山權現については、白山の本地仏は十一面觀音なので、
見寺の前立本尊として、白山權現を祀っていたと考えられ、

残りの、愛宕權現はどこにあったのでしょうか?。


鎮守社の石組遺構のいちばん北側にある”石組遺構3”の記述に、
「なお、直接伴うものとは考えられないが、石組遺構3の西側に、
凝灰岩に彫り込まれた地蔵が露出している。」
というのがあります。

愛宕權現の本地仏は将軍地蔵、
石組遺構3の部分に、愛宕神社が祀られていたとすれば、
神社の前に地蔵が置かれていてもおかしくは無く、

また、十一面觀音の脇侍の組み合わせに、
毘沙門天と勝軍地藏という形態もあるので、

参道の、進行方向に対する脇侍に毘沙門天と不動明王を配し、
本堂に対面する位置の脇侍に、毘沙門天と勝軍地藏を配したと考えれば、

石組遺構3の位置には、愛宕神社が祀られ、
前立ちとして地蔵尊が安置されていたと考えられます。