海と空

天は高く、海は深し

詩篇第二十二篇註解

2005年11月10日 | 詩篇註解

第二十二篇

「暁の雌鹿」の曲に合わせた、指揮者たちによるダビデの賛歌

私の神よ、私の神よ
なぜ私をお見捨てになるのか。
遠く離れて救おうとせず、私の叫びは届かない。
私の神よ、私は昼も呼ばわるが、あなたはお応えにならない。
夜もまた、私は黙ってはいられない。
しかし、あなたは聖なる所に座してイスラエルの賛美を受けられる。
あなたに、私たちの先祖は頼った。
あなたに頼ると、彼らは救われた。
あなたに向かって彼らが叫ぶと、救い出された。
あなたに依り頼んで、彼らは恥を受けたことはない。
しかし、私は虫けらに過ぎず、もはや人ではない。
人間の恥、物笑いの種。
私を見るものはすべて私を嘲る。
彼らは舌を出して、頭を振って言う。
主に逃げ込め。主がお前を救ってくださるだろう。
主はお前を愛しておられるのだから。

あなたは、私を母の胎から取り上げて、
母の乳房に私を委ねられた。
生まれたときから私はあなたに頼り、
母の胎内にあるときから、あなたは私の神。
私から遠く離れないでください。
困難が押し寄せても、誰も助けてくれないのです。
雄牛どもが群がって私を取り囲み、
バシャーンの猛牛たちのように私に迫るのです。
ライオンのように大きな口を開け、唸り、私を引き裂くのです。
私は洪水のように流され、すべての骨は外され、
私の心は蜜蝋のようにはらわたに溶け去る。
喉は素焼きのかけらのように渇き、
舌は口の中に貼り付く。
そして、塵の上で私を死に渡される。
犬どもが私を囲むように、苛む者たちは私を取り囲み、
私の両手と両足を噛み砕く。
私の骨はすべて数えられ、彼らは私を晒し者にして眺める。
私の衣を奪い取るために分け、彼らは籤を引く。

主よ、遠く離れないでください。
私の力よ、急いで私を助けてください。
彼らの剣から私の魂を救い出し、
犬どもから、私の命を救ってください。
ライオンの口から、野牛の角から私を救い、
私に応えてください。
私は兄弟たちにあなたの御名を語り、
会衆の中であなたを誉め讃えます。
主を畏れる者たちよ。主を讃えよ。
ヤコブの子孫はすべて主を敬え。
そして主を畏れよ。イスラエルのすべての子孫は。
主は貧しい人の苦しみを侮られず、忌み嫌われない。
そして、彼から御顔を隠されず、
彼が叫び求めるときには主は聴かれる。


だから、私は多くの会衆の中であなたを誉め讃え、
主を畏れる者たちの前で、私の供え物を捧げて誓いを果たす。
謙虚な人たちは食べて満ち足り、
主を尋ね求める者たちは主を誉め讃える。
あなたたちが、いつまでも健やかに生き長らえますように。
地の果てまで、すべての民が主を覚え、御許に立ち帰りますように。
異邦人のすべての家族もまた、あなたの御顔の前にひれ伏すように。
まことに、王冠は主のもの、主は異邦人を治められる。


誇り高きすべての民も身をかがめ、
死んで墓に下るべき人はすべて主の御前に膝を屈する。
子孫たちは神に仕え、主について世々に語り伝えるだろう。
彼らは来て主の正義を告げ、
生まれくる民に、主の救いを語るだろう。

 

第二十二篇    沈黙する神と詩人の信頼


英訳には「苦悩の叫びと賛美する歌」というう標題が付いている。この詩篇の冒頭の第一節は、イエスの御生涯の最後の言葉となった。(マタイ第二十七章四十六節)当時から詩篇の言葉はユダヤ人に日常的に慣れ親しまれていた。このイエスの叫びは、発音の類似(エリー、エリー、ラマー、ザブターニ)から、エリアを呼んでいるようにも聞こえたという。歴史的な事実としてのイエスの十字架上の死をまざまざと髣髴させる。この詩篇の前半のテーマは「神の沈黙」といった方が適切かもしれない。苦悶のさ中から神に助力を求めるが、神は沈黙されたままである。

詩人は肉体的にも苦痛の絶頂にあるが、精神においてもまた神に見放されているという絶望の果てにいる。おそらく人類の歴史の中で、この詩篇の詩人のように、助命を神に祈りながら息絶え帰らぬ者となったたものは数限りないはずである。私たちの経験からも、歴史的な事実からも、こうした祈りによっても、多くの者が助命されることもなく、肉体上の生存も確保できなかった場合の多かったことは知っている。イエスの場合も、十字架の上では救命されることなく、一度は死に絶え葬られた。日蓮のように滝の口の刑場で打ち首にされることなく、助命されることはなかった。

しかし、それにもかかわらず、神は聖なる所におられて、賛美を受けるべき方であるという。そして、神に頼って救われ、依り頼んで裏切られたことはないという。(五、六節)これらの節についても、もちろん私たちは詩篇を文字通り受け取ることはできない。なぜなら、先にも述べたように私たちの経験や歴史の知識とは反するからである。私たちは、こうした詩篇のような祈りを唱えながらも多くの人間が命を失った事例を知っている。西洋の歴史においても、宗教改革者フス、ジャンヌダルクなど義人の刑死は無数にある。わが国においても、大塩平八郎とその妻の死などがある。人類の歴史において無罪の死は枚挙に暇もないだろう。では詩篇は嘘をついているのか。馬鹿げているから、捨ててしまうべきなのか。それもひとつの選択ではある。

詩人はそれでも、塵芥の中に打ち捨てられて死に絶えようとする時にも、主に対する信頼を失わない。そして、詩人は昼も夜も救いを求めるが、神は沈黙して応えられない。私たちはこの詩によって、神に叫び求める「私」と、それに応えられる、あるいは、応えられない「神の存在」を考えることになる。神の応答とは一体どのようなものであるのか。

 

詩篇や聖書は信仰の書であるから、私たちは聖書や詩篇から信仰以外のことを学ぼうとして読んでも失望するだけである。詩人もそうした極限の状況でも主に対する信頼を失うことはない。この第二十二篇の詩人の苦悩は、ヨブ記のヨブの苦悩にも比較される。この詩人がどのような歴史的背景で、どのような状況で、このような凄まじい境遇に陥ったのか、それはわからない。また、それを私たちは知る必要もない。私たちがこの詩篇を読んでわかることは、人間の屑のようになり、虫けらのように扱われている者がいること、そして人々から嘲笑を受けているということである。こうした事件は、身近なところでは、今日の学校でのいじめから、ジェノサイドに至るまで、人間社会において絶えることはない。そうして、人々はこの絶体絶命の状況にある詩人をあざけって言う。「主に信頼しているなら、お前の神に救ってもらえ」と。(八節)この詩篇第二十二篇の過酷な状況は、イエスの十字架上での殺害で、文字通りくりかえされた。だからこそ、イエスは第二節の祈りを口にしたのである。

この詩篇に描かれている事実は、イエスの十字架の事件において、文字通り繰り返された。こうして預言としての詩篇の言葉は実現した。イエスの衣服は兵隊たちの間で籤で分けられた。(マタイ書27-35)手足は打ち砕かれ、衣服ははぎとられ、あばら骨は数えられ、十字架の上で晒し者にされた(ヨハネ書19-20)。しかし、ヨブを始めとする信仰の人は、自分たちの祈りが聴きいれられなかったといって、神に愚痴をこぼしただろうか。結局、彼らはすべて、その結果に従順だった。実際にも多くの無実の者が殺され、それに対し、悪事にふけるものが栄え、彼らの子孫たちにも何一つ欠けるものがなくとも、そして、この詩人のように着るべき服もなく、人間としてみるべき影もなく零落しても、彼は言う。「私を母の胎から取り出して、私を母の乳房に委ねられたのはあなたである」と(10節)。これがこの詩篇から学ぶべき教訓であると思う。

 

私たちは神をこの目で見たり、耳で聞いたりできない。神は私たちの感覚の対象ではない。その存在は私たちの思考で認識するか推理するしかないのであって、それでも、その存在について、多くの場合は徹底的な確証は得られない。その存在を証明する材料と同じだけ、あるいはそれ以上に、神の非存在が言い立てられる。推論から言えば、どちらも、決定的な論証はありえないともいえる。だから、その存在は信じるしかないともいえる。神の存在を信じる者には神は存在し、神を信じない者には神は存在しない。神の存在とは結局そのようなものであると思う。だから、神を信仰する者が、神の存在を否定する者と、神の存在や信仰について議論するのは多くの場合不毛である。

 

もちろん神の存在の証明の試みがまったく無意味であるというのではない。信仰の根拠は倫理にある。だから、倫理の問題を離れて、信仰を論じるのは無駄である。それでも私たちは理性的に概念的に神の存在を証明し、説明しなければならない。自分たちの考える神とはどのようなものであるか、その存在も、論理的に説明する意義もあると考えている。だから、まじめな無神論者との論争は拒まない。大いに賛成するところである。

 

しかし、信仰のある者にのみ聖書の記録は意味があるといえる。その読解は信仰が前提されている。神に対する信仰という前提を持たないで聖書を読んでも、聖書に「躓く」だけであろう。そして、多くの場合、つまらない議論をばら撒くだけである。とはいえ、この詩人のような、あるいはイエスやヨブのような信仰の模範を現実に見ることは難しい。私たち凡人は人生の小さな浮き沈みにさえ、一喜一憂し、その都度神に対して不平を並べ立てるのが落ちである。これが私たちの実際の姿である。しかし、それでも、こうした詩篇から信仰と忍耐を学ぶのは無駄ではないと思う。

この詩篇で描かれているように、およそ人間にとって考えられる限りの凄まじい境遇の中でも、詩人が示すのは、神への絶対的な信頼である。詩人に味方する者は誰もいない。ライオンがその牙で鹿の四肢を引き裂くように詩人を引き裂く。そして、衆人の眼にさらし者にされる中にあっても、神に対して、「なぜ私をお見捨てになったのか」と叫ぶ。詩人もイエスも、こうした苦難のなかにあっても、どこまでも主に対する信頼を失わない。そして、イエスも、ご自分の意思よりも、神の意思が優先されるように、神の御心が成就されるようにと祈った。

この詩人は幸いにも敵から救い出されたようである。そして、生きて子孫に神の栄光を伝えるという。(23・24節)また、主は貧しく苦しむ人の悩みを侮らず、助けを求める声を聞いて下さるという。この一節なども、それを読んで信じるかいなかは、各人の自由であろう。多くの信仰者の命が奪われた歴史的な事実から、信じるに値せずといって、頭を振って、神を信じないことも自由である。私たちも、この詩人の言葉を文字通りには受け取ることはできない。しかし、信仰の立場にある言葉として、私たちの希望の言葉として読むことができる。そして貧しい人(謙遜な人)は食べて満ち足り、永遠の命が与えられるようにと祈る。神に対する態度は、結局私たちの人生の態度によって左右されるものである。また、そこに歓びも慰めもある。

おそらくこの詩人は自分の命が取り去られたとしても、神に対する信頼を、死の床に至るまで失わなかっただろう。こうした態度が私たちに可能であるかはとにかく、これが信仰の模範であると思う。確かに私たちはこうした信仰を持ちながらも、祈りが聴きいれられず、再び生きることのなかった無数の人々の存在を知っている。だから、「祈りや信仰は無意味で無益だ」と斥けるべきなのだろうか。この詩篇を読んで学びうることの一つとしては、そして、私たちの実際の人生の経験からも知りうることは、ただ祈るだけで詩篇の神がいつも私たちの祈りを聞きいれ、救済されることはないということである。だから、ここからもう一つ学ぶべき教訓としては、私たちはあくまで自力救済を忘れず、それを前提にすべきだということだろう。もちろん、だからといって神への信仰を放棄せよというのではない。私たちはどこまでも神に依頼する。その価値は揺るがない。これが老兵の信仰なのかも知れない。

第28節以下は主権者としての神の記述として興味のあるところである。私たちは普通、国家の主権といえば、国民にあるとする民主主義か、天皇にあるとする君主制論者などは知っている。しかし、この詩篇のように主権が神にあると断定する者は少ない。神を主権者とする憲法が制定されるとすればどのようなものになるだろうか。憲法論としても興味のあるところである。

また、詩篇の神が単にユダヤ人だけの神ではなく、すべての民族の神であることが預言されている。28節には、地の果てにいる民もすべてが神を記憶して、立ち帰るようにと、そして神の主権に服するようにという。神が異邦の国々を治められるという。ユダヤ人にとっての異邦の国々とは、キリスト教の国々である。父と子と聖霊の神を慕う国々に他ならない。

第30節の日本語訳は少しあいまいである。英訳のほうが明確だと思う。共同訳の「命溢れてこの地にすむ者」は「傲慢な者」のこと、「塵に下った者」とは「死すべき人間」でよいのではないか。「私の魂は必ず命を得」とあるのも、、むしろ逆で、「傲慢で死すべき人間の魂は長くは生き続けない」と訳すべきところだろう。

 

 


 

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詩篇第二十七篇註解

2005年11月05日 | 詩篇註解

第二十七篇


ダビデの詩


主は私の光、私の救い。私は誰も恐れない。
主は私の命の砦、私は誰にも怯えない。
悪人どもが私を攻め、私を殺そうとするとき、
私を害する敵どもこそ私に躓き、よろめくだろう。
たとえ、敵陣が私を囲んでも、私は恐れない。
もし、彼らが戦いを挑んでも、私は信頼している。
唯一つのことを私は願い、それを主に求める。
生涯の日々、主の宮に住まい、
主の麗しさを仰ぎ見、主を黙想することを。
災いの日には、主は私を仮庵の中に匿い、
幕屋の奥に隠し、硬き岩の上に立たせてくださるから。
今こそ、取り巻く敵どもの上に私は頭を高く挙げ、
主の幕屋の中で歓びの生け贄を捧げ、
主に向かって誉め歌を歌う。
主よ、私の叫びを聴き、私を憐れみ、私に答えてください。
あなたは言われる。「私を探し求めよ」と。
私はあなたを尋ね求めます。
あなたの御顔を隠されることなく、
怒りによってあなたの僕を退けないでください。
私を助けて、私から離れず、見捨てないでください。
神よ、私の救い。
たとえ、わが父と母が私を見捨てても、
主は私を呼び寄せてくださる。
教えてください。主よ、あなたの道を。
そして、陥れる敵から、私を穏やかな小道に導き、
害する者たちに私を渡さないでください。
彼らは偽りの証言をし、私を虐げ罵るのです。
もし私が生きてあなたの恵みを見ることを信じないならば。
主を待ち望め。
強く、勇ましくあれ。そして、主を待ち望め

 

第27篇註解                 私を探し求めよ

英訳には「賛美の祈り」という標題がついているが、少し内容から外れているのではないかと思う。この第二十七篇の主題は二つある。前半は、主が祈りを聴かれて苦難から解放されたことに対する感謝と賛美の祈りであり、後半は、主に対する信頼と待望の勧めである。


第一節で、主が光であり、救いであることを詩人は言う。主は抽象的で観念的な存在であるが、客観的に存在する実在者として、闇夜の道を照らして安全な道を指し示し、困難から救う光にたとえられている。あらゆる危険から守ってくださる主は「救い」でもある。それゆえに、主に信頼を寄せる詩人は、あらゆる危険に対しても恐れることはない。敵の全軍が自分を取り巻き、敵が私に攻撃を仕掛けて命を奪おうとしても、主である神に固く信頼するゆえに詩人は恐れることはない。むしろ、悪しき人々が、自分を殺そうとする悪しき彼らこそ、躓きよろめく。


そして、詩人が願うことは唯一つ。生涯に渡って主の家に宿り、主の宮で、主の美しさを調べ黙想し尋ねることである。共同訳では、「主の家で朝を迎えること」となっている。英訳では、「主の指導を求める」となっている。

「主の家」とはどこか。神は言葉でもある。言葉、ロゴス、理性でもある神、主の住まわれているのは、聖書の中であり、天である。新約聖書では、「天地の創造主は人間の手で造られた神殿などには住まわれない」(使徒言行録17:24)と言い、そして、「イエスキリストの宿る人間こそが神殿である」とされる。(コリント前書Ⅰ3:16)

災いや困難の日に、詩人は主の指導と保護を求めて祈る。仮庵や幕屋に──いずれも、砂漠で、荒々しい自然から人間を保護する住居である──に主は詩人を匿い、さらに、敵に打ち勝たせ、岩の上に高く立たせ歓声を挙げさせる。そのとき、詩人は主に感謝のいけにえをささげ、賛美の歌をささげる。

苦難の状況におかれた詩人に、主は言われる。「来て、私に祈れ」そこで、詩人は救いを求めて、「自分が何をなすことを主は欲しておられるのか」それを教えてくださるように、「安全な道に導かれるように」と、主に祈る。

この詩人の悩みは、最も親しい母、父にさえ見捨てられようとしていることである。最近は日本でも、子供に対する虐待が増え、それも、両親から虐待されるという無情、無慈悲な状況が生じている。日本人に慈悲心や同情心、愛情が希薄になりつつある証拠である。聖書によって神とイエスから愛を学ぼうとしない罪の結果である。どんなに物質的に富んでも、両親から愛を受けない子供は不幸である。だが、父母といえども、生きる人間である限り、弱さ、愚かさから免れない。この愚かで弱い両親から見放されたときにも、主は、詩人の身近におられ、愛されているという。たとい両親兄弟姉妹からも見捨てられるという苦難の状況にも、常に愛そのものである主に祈り保護を求めるようにと、この詩篇は教えるものである。

詩人は、生きて再び、主の恵みを味わうことを確信している。そして、主に対する信頼を決して失わず、信仰を固く保って失望することなく、主の救済を待ち望むことを勧めて、この詩篇を終える。

 

 

 

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詩篇第十六篇註解

2005年10月06日 | 詩篇註解

 

詩篇第十六篇

 

黄金ように美しいダビデの詩。

私を守ってください。神よ。私はあなたの中に隠れますから。
私は主に言った。「あなたは私の主人。あなたの他に私の幸せはありません。」
この地に住む聖なる人々は力強く、彼らは私の歓び。
他の神々を慕う者には悲しみが増える。
私は彼らの血の神酒を注がず、彼らの神々の名を唱えることはない。
主は私の分け前、私の杯。あなたは私の運命を支える。

麗しい土地が私への配当となり、私は輝かしい遺産を継いだ。
私は称えます、私のために助言される主を。
主は夜毎に私に警告される。私はいつも主を眼前に見る。私は決して揺らがない。主が右にあって支えられるから。だから私の心は歓び、栄光に踊ります。
そして私の身体は安全に憩う。
あなたは私を見捨てて死に渡すことなく、あなたを慕う人を墓に降さず、私を命の道へと導きます。
あなたの御顔は私を歓びに満たし、あなたの右手からは楽しみがいつまでも尽きません。

 

第十六篇注解   麗しき遺産

英語訳には、「確信の祈り」という標題がついている。主の実在を確信することから生まれた祈りである。この詩も、第十一篇と同じく、主における信頼を歌う。詩人にとって、主は神のみである。この神がどのような存在であるか、祈りによって、あるいは思索によって、認識することこそが、聖書判読や詩篇研究の目的である。旧約聖書の神「ヤーベ」は、ユダヤ人にとってはあまりにも神聖であったので、この言葉が乱用されることを嫌い、代えて「アドナイ」(主・the Lord)と呼んだ。聖書研究の中心課題は、この主をどのようにして認識するか、どのような存在であるかを明らかにすることである。

この主なる神は、ヘブライ民族の祖先である、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、そしてモーゼの神であった。もともと飢饉のためにエジプトに寄留していた、この民族の子孫が、その数を増し勢力を強めるにつれ、エジプトの民によって、奴隷のように扱われ、圧迫されるようになった。この間の歴史的な事情は、創世記、出エジプト記などに記録されている。

そうした中で、この民族をエジプトの抑圧から解放した指導者モーゼの果たした役割は、決定的に重要である。ユダヤ教の本質は、モーゼの宗教である。この詩篇においても、モーゼやダビデが、どのような「存在」を「主」として認識していたかを知る必要がある。神は、まず、モーゼを介して「十戒」を与えた。そして、モーゼがそのエジプト脱出の過程で、単なる民族共同体であったヘブライ民族に、さまざまな宗教的規定を課すことによって、この民族はヤーベ神を中心とする宗教的共同体としての性格をもつようになった(レビ記第十九章)。この主たる神についての観念の形成に大きな影響を持ったのは、モーゼである。モーゼなくして、預言者もなく、イエスも、パウロも存在しなかった。聖書の神の特殊性は全て、モーゼによってもたらされた神についての観念に由来する。そして、モーゼの神は、この民族の始祖であるアブラハムの神に連なる。この神は、エルサレムの王であり祭司であったメルキセデク(正義の王)によって、パンと葡萄酒でアブラハムを祝福した「天地の造り主であり、いと高き神」にまでさかのぼることができる。(創世記15章)そして、このエルサレムが、まさに連綿として現代のパレスチナ問題にいたるまで、中心に存在している。さらに、この神は、新約聖書においては「イエスの精神」として自覚されることになる。

 

モーゼの神は唯一絶対の神であり、当時のカナンの地において崇拝されていた多くの異教の神々と並列されるべきものではなかった。モーゼは、金で作った子牛やアシュラ像などの神々の彫像を偶像として崇拝することを禁じた。主なる神は、感覚によっては捉えることができず、もっとも抽象的な「火」にたとえられる。そして、モーゼはホレブ山で、「燃え上がる柴の中に」主の声を聴いた。そして、モーゼは、「私はある」と永遠に呼ばれる方として、神をイスラエルの人々に知らせるよう告げられる。(出エジプト記第三章)

ここで明らかであるのは、神はもっとも抽象的な実在の観念であるということである。したがって、神は、抽象的能力をもつ、すなわち、言語をもつ人間にのみ認識されることを示している。この神は、さらに新約聖書において、イエスによって、「天におられる父」として教えられ、「隠れたところで見ておられる」目に見えない存在として教えられている。私たちが聖書の記述から学ぶことができるのは、こうした神についての表象や概念である。

また新約聖書においては、神は、「イエスの精神」として、「聖霊」として認識される。したがって、旧約と新約では、神についての観念もしくは概念には雲泥の差がある。イエスにとっては、「主」は「父」でもある。単に恐ろしく畏怖すべき存在ではなく、放蕩息子をいとおしむ慈愛に満ちた「父」として認められている。また、この父は「隠れたことを見て報い」「空の鳥や野の花を養い育てる」創造主である。イエスは、感覚では捉えることのできない神をさまざまな比喩によって説明した。放蕩息子を思いやる父として、求める者によいものを下さる父として、「悪人にも善人に陽光と雨を与える」神として(マタイ五章)、父なる神の姿を示した。時には、「ぶどう園の主人」として(マタイ21章)、「婚宴を主催する王」(同22章)として、さまざまな比喩を用いて、神の表象を明らかにした。

イエスもまた、天の父は一人だけであるとして、モーゼの一神教を受け継いでいる。さらに新約聖書では、イエス自身が、神から使わされた方として、天の父と並ぶ存在とされる。だから、新約聖書の目で詩篇を読むときには、主はまたイエスであり、聖霊でもある。

詩人は言う。全ての善いものは神から来る。主に忠実な人々がどれほどすばらしいか。主に忠実な人々と共にあることは大きな喜びである。主は夜毎に私を導き、私の良心に警告する。詩人は、つねに主の実在を意識している。そして、主は詩人の持てる財産の全てである。家でもなければ土地でもない。父なる神、イエス、聖霊が、詩人の保有する全てであるという。主は私の必要とするものを全て与え、私の運命を支える。主は美しい土地を贈り物として与えられる。詩人は、主をつねに前に置き、主は右に存在して詩人を支える。それゆえ、何者も決して詩人を揺らがせない。詩人の心は喜び踊り、そして、身体は平安である。それは、主が決して詩人を見捨てることがなく、主に忠実である者に決して墓穴を見させないからである。主は命にいたる道を教え、主と共にあって永遠の喜びと満足がある。

 人間の生涯は、よく旅にたとえられる。順境の時も逆境の時も、こもごもに訪れる。この詩篇は順風満帆の時に、その幸運を感謝するときの祈りとして歌われる。

 

 

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詩篇第二十五篇註解

2005年10月02日 | 詩篇註解

第二十五篇


ダビデのアルファベットによる詩。


あなたに向かって、主よ、私は仰ぎ見る。
私の神よ、私はあなたに寄り頼む。どうか私が恥を負うことのないように。どうか私の敵が勝ち誇ることのないように。
まことに、あなたを待ち望むものは、すべて、恥を受けることはない。理由なく裏切るものこそ恥を受けますように。
あなたの道を、主よ、私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。あなたの真実に私を導き教えてください。
なぜなら、あなたこそ私の救いの神、私はいつもあなたを待ち望んでいます。
主よ、あなたの憐れみと愛を思い出してください。昔からそれらはあなたのもの。
私の若き日の罪と咎とを思い起こさず、あなたの愛と恵みによって私を思い出してください。
主は恵み深く正しい。それゆえに罪人に道を教える。へりくだる者を裁きへと導き、また、へりくだる者に主の道を教えてくださるように。
主の契約と証を守る者にとって、主のすべての道は愛と真実。
あなたの御名によって私を赦してください。私の罪は大きく深いのです。
主を畏れる人は誰か。主はその人に進むべき道を示されるだろう。
彼の魂は恵みに満たされて住まい、彼の子孫は、地を継ぐだろう。
主を畏れるものに主の神秘と契約を悟らせる。
私の眼はつねに主に向かって注がれる。なぜなら、主は足を絡み取る網から私を救い出してくださるから。
私に振り向き、私を憐れんでください。私は孤独で貧しいのです。
私の悩みを解き、私を苦しみから救い出してください。
私の悩みと苦しみを省み、そして、私のすべての罪を許してください。
見てください。私の敵は増すばかりです。彼らは私を憎み虐げます。
私を守り、救い出してください。私が恥を負わないように。私はあなたの御許に隠れます。無実と正しさが私を守りますように。私はあなたを待ち望む。
神よ、すべての苦難からイスラエルを救い出してください。

第二十五篇   導きと保護を求める祈り

ヘブライ語のアルファベットに従った長詩である。各節の冒頭が、アルファベット順に配列されている。英語訳には「導き」と「保護」を求める祈りという標題が付いている。この詩もダビデの歌となっている。しかし、詩の作者が誰であるかは、こだわる必要がない。

第一節「あなたに向かって主よ、私の心は仰ぐ」

「主」
「主」という言葉は「アドナイ」の訳語である。ユダヤ人は長い間、敬神の念から──神の御名をみだりに唱えるなというモーゼの警告から、神の御名を直接呼ぶことを憚って、神にこの「アドナイ」という呼称を当ててきた。しかし、ヘブライ語は子音で記されているだけであるから、長い歳月の間に、この語の本来の読み方が忘れ去られてしまった。文語訳聖書ではこの「主」は「エホバ」と訳されている。今日の研究では「ヤーウェ」と読まれていたのではないかともいわれている。万葉集の枕詞なども、本来の意味内容が忘れられてしまって、ただ、形式的にだけ、言語の化石のように使われる場合がある。ユダヤ人の敬神の念の厚さとモーゼの十戒に対する遵法の精神を見ることができる。

神はモーゼに「私はある」という名によってご自身を示された。したがって、聖書においては、これが本来の神の御名であるはずである。 (出エジプト記第五章)この唯一者である神を人間はさまざまに呼んできた。現代日本語では神と呼んでいる。しかし、問題はこれらの語でどのような実体が認識されているかである。

 「私の心」
「心」という語も語義があいまいである。魂、霊、精神などと表現されることもある。単に「私」と訳しても不都合ではない。精神と肉体からなる人間の意識の主体である自我である。怒りや悲しみなどの感情、善悪や美醜の判断の主体である意識である。一つに統一された「玉」のように分割できない物である。一つの個性であり、英語の「Individual」に当たる。単に「私」でよいと思う。
 
 「仰ぎ望む」
「主」は精神的な実在である。したがって、存在の位置を確定することはできない。偏在するとも言う。聖書では特に神の座は天にあるとされる。中近東の砂漠の風土が関係しているかも知れない。神の存在場所についてのこうした意識は宗教建築にも影響している。キリスト教の建造物は常に天を志向している。主すなわちヘーゲルの用語でいえば、「絶対的精神」は、この宇宙と人類の歴史に現象している。したがって、宇宙や自然の探求を通じて、神の「意思」を認識できる。私たちが人類の歴史や、天文学を研究するのも、それによって神の意思を知るためである。
 
 第二節
 「私の神に依り頼みます。私が恥を受けることのないように。敵が勝ち誇ることのないように」
 「敵」
ダビデの生涯にも多くの敵がいた。ダビデの名の意味は「愛されるもの」だが、彼はすべての人間に愛されたのではない。肉親からも、仕えた主君からも、近隣の異民族からも命を狙われた。一つのことを真剣に追求する時、「悪」と戦おうとするとき、「敵」が現われてくる。イエスもその生涯に多くの敵を持った。のみならず、その敵に殺された。
 
今日の法治国家では敵に直接命を狙われることは少ないかもしれない。しかし、古代社会の無法の状況では、詩人は敵に命を奪われようとしても、頼るべき警察もない。もともとユダヤ人はエジプトの地にあっては奴隷的境遇にあり、また、中東の地理的状況から、バビロニアやローマなど常に周辺の諸民族に抑圧され搾取されてきた。そのユダヤ人の編纂になる聖書が、この民族の置かれた地理的な歴史的な必然の産物として、その過酷な社会的、経済的状況を反映するのは当然である。その意味で、詩篇もまた抑圧されてきた民衆の心情が反映している。だからこそ詩篇はそうした苦難な状況にあるすべての人間の祈りとしての意義をもつといえる。       
 
第四節  「あなたの道」
  
日本でも「道」は柔道や剣道のように、人生や職業の一つの生き方や倫理規範の意味で比喩的に使われる。ここで言われる「あなたの道」とは モーゼによって啓示された「十戒」を始めとするさまざまな倫理規定のことである。申命記にはモーゼがユダヤ人に示したさまざまな倫理規定が律法や掟として記録されている。倫理規範を持たない民族はありえないが、すべての民族がそれを体系的に文書化しているとは限らない。ユダヤ人は国土を喪失したために、それを一冊の聖書に編纂することなくして、自らの民族性を保持することはできなかった。古代エジプトと中近東の最高の教養を身につけたモーゼの律法は、歴史的にも世界的に見ても、もっとも優れた倫理規範である。その完全性、絶対性、根本的な性格のゆえに、今日においても、その意義は廃ることはない。今日にいたるまで、これ以上の倫理規範を、残念ながら他のどのような民族も作り出すことができなかった。イエスがモーゼの宗教の伝統からしか生まれなかったのは必然的である。これを論語や法華経と、また現代人の倫理観と比較してみればよい。聖書に学ぶことなくして、もっとも高潔な倫理規定を国家や民族は自分のものにすることができない。イエスもまたそれらの教えに従い、煩雑な戒めを簡潔にまとめられ(マタイ書二十二章三十四節以下)、また、ご自身の生涯を一つの道として示された。(ヨハネ第十四章六節)そして、私たちが神に祈るのは、このイエスの道に従うように教え導かれることである。 
  
第五節 「あなたのまことに私を導き」
 
「まこと(真理)とは何か」。これをピラトは、不真面目な態度で、イエスに尋ねた(ヨハネ書第十八章)。「真理」は前節の「道」と同義語であるといえる。「まこと」「真理」「真実」といった概念の内容を正確に考えるのは哲学の仕事だが、日常的には必ずしも判明に使われいているとはいえない。この注解では、聖書を研究し、その意味を考え、これらの言葉の意味をできる限り正確に規定してゆくことを目的にしている。聖書でも、まこととか真理とかが何を意味するのか、多くの個所で説明している。イザヤ書では、神は「真実の神」と表現され、同じ詩篇でも、神は「真実な方」といわれている。(イザヤ書第六十五章十六節、詩篇八十九篇) そして、神は真実であるから、必ず正しく裁かれるという希望が生まれる。またその反面に罪に対する恐れも生まれる。
 
儒教や仏教などでも、「明日に道を知れば夕べに死すとも可也」とも言っている。昔の人は、この真理を知るために、心血を注ぎ、時には身命をも堵し、遠い異国の地をも旅した。日本の歴史にいおいても、遣唐使や空海や道元など枚挙に暇がない。また真理を伝えようとして、多くの僧侶や宣教師が荒波と困難を越えて来た。民主主義社会に生きる現代人はどうか。それなりに理由はあるとしても、現代は人類の長い歴史を通じても、もっとも非宗教的な時代ではないだろうか。宗教も哲学も真理を探究し、実現するという根本的な使命を忘れている。現代日本の宗教と学問は、真理の追究を絶対的な課題としているか。パウロがエピクロス派やストア派の哲学者と論争していたことも記録されている。(使徒言行録第十七章)       
 
「真理と何か」。聖書ではこの答えは明確である。イエスは「わたしが道であり、真理であり、命である」と(ヨハネ書第十四章)言っている。もし、この断言が真実であれば、わたしたちは真理を知るためには、イエスを知らなければならないということになる。実際にそうで、私たちも聖書の中に真理があると信じて、聖書を研究している。(ヨハネ書第五章)そして、聖書はすでに歴史的にも一つの権威として確立している。真理が何かが明らかにされている聖書は精神的な糧で、その意味で、私たちの命の糧である。人間は、肉体的なパンだけでは生きてゆくことができない。聖書を日々繙読すること、研究することは、精神的な糧を得ることであり、真理に導かれることである。

第六節 「憐れみと慈しみを」

憐れみと愛は神の永遠の本性であるとされる。神の愛は、太陽の光や雨、そして、日常のさまざまな糧によって示される。私たちの生命そのものも、神の愛による賜物といえないこともない。「慈しみ」という言葉は、その実体をあらわしきれていない。神の愛は妬みを伴うほど強い。人間にもこの「憐れみ」や「愛」の感情はある。しかし、神の広大無辺の愛と同情には比べることはできない。

第七節 「若い時の罪と咎」

若い時は経験も浅く、想像力も、乏しく、したがって相手のことを思いやる心も浅い。その奔放さゆえに、怖さも知らず、多くの罪科を犯しがちである。逆に言えば、そうしたエネルギーに満ちていることが若さの特権であるといえる。咎とは神に背くことである。咎(科)の結果として罪が生じ、罪の結果として苦悩が生じる。伝道の書では、若者に忠告して、「自由に行動するがよい。しかし、その行動によって神に裁かれることを記憶せよ」と言った。(伝道の書第十一章九節)
この詩人にとって、青春はすでに去ってしまったようである。若いときに犯した罪を神が記憶して、罰することのないように神の憐れみを祈る。

第十節「罪あるいは罪人」

神の道から反れること。神の戒めに背いて考え行動すること。それが罪であり、それを実行するものが罪人である。「神の道」がどのようなものであるかは、常識として、倫理として、社会規範として、良心として、人間の意識の中に刻まれている。また、何より聖書の中に明白に知らされている。

儒教や武士道も、中国社会や武家社会における倫理規範、行動規範だった。明治期においても、国家社会における倫理の乱れを、明治の指導者は天皇の権威を利用して「教育勅語」として国民の間に流布させ、道徳的な秩序を回復しようとした。しかし、国家権力の強制によって神の道を説くことはできない。国家や社会によって、死すべき人間によって創作された倫理規範は、その国家や社会の崩壊によって、弊履のように打ち捨てられる。第二次世界大戦の敗戦による大日本帝国政府の崩壊は、日本社会の規範である「教育勅語」に対する信頼をも失わせ、その結果としての道徳の崩壊は、戦後の日本の混乱した社会状況として、今日まで尾を引いている。戦後日本の危機は、こうした戦後に生育した世代が支配的になる二十一世紀にこそ到来するのではあるまいか。

罪の代価は罰であり、呪いである。それは単に刑務所に収容されているものだけが犯罪人であるのではない。誰がこの罪から救済されるのか。どのようにしてこの罪が許されるのか。

第十四節 「契約の奥義」

神との契約の深い隠された意義のことである。深く隠されているから、誰にでも理解し、悟ることのできるものではない。誰にその奥義は知らされるのか。秘儀は誰に知らされるか。それは主を畏れる人であると言う。「畏れる」、あるいは、「敬う」。神を敬い、畏れ、従う人に、神は「契約の深い意味」を知らされると言う。十字架の秘儀もそうである。イエスの十字架がどのような意味を持つのか、それを本当に理解するには何が必要か。これが本論稿の中心テーマでもある。

第十八節 「貧しさと労苦と罪」

この貧しさはもちろん、単なる物質的な貧しさではない。打ちひしがれていること。打ちのめされていること。労苦。惨めさと苦しみと骨折り。そして罪。それらに塗れた私自身を見て、それを取り除いてくださるように、敵がそれを見て辱めることのないようにと祈る。貧しさと労苦は、この詩人にとって、自分の罪の結果としてあった。だから罪から免れることによって、貧しさと労苦とから救われようとする。

第十九節~第二十二節  「敵の不法とその救済」 

聖書の信仰を保持する詩人に対して、敵はますます多くなり、不法を仕掛ける。そのときも神が唯一の逃れ場である。そして、主の助けを待ち望み、私が正しく完全であれば、敵の辱めから救われると言う。

そして、単に個人の救済のみならず、国家としての、あるいは民族としてのイスラエルが全ての苦難から購われることを詩人は祈って、この詩を閉じる。しかし、今日のパレスチナ・イスラエル紛争に見られるようにイスラエルが、この苦難から真に購われているのではないことは明らかである。イエスを受け入れられないイスラエルが、この苦難から救済されることがあるのだろうか。

 

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詩篇第二十四篇註解

2005年09月28日 | 詩篇註解

 

詩篇の本文テキストを一通り音読してから読んでいただけたらと思います。

第二十四篇

ダビデの賛歌

大地とそれを満たすもの、世界とその中に住むものは、すべて主のもの。
主は海の上に礎を据え、潮の上に世界を築いた。
いったい誰が主の丘に上り、誰が聖なる地に立つことができるのか。
それは、清らかな手と素直な心を持つ者、
空しい偶像に心を奪われることなく、偽りの誓いをしない者、彼らは救いの主から恵みと正義を授かる。このような者たちが世々主のもとに来る。
ヤコブの神の御顔を探し求める者たち。
門よ、頭を高く挙げよ。
永遠に閉ざされた扉よ、開け。
栄光の王が入られる。
栄光の王とは誰のことか。
主は強く勇ましい。主は全能の戦士。
門よ、頭を高く挙げよ。
永遠に閉ざされた扉よ、開け。
栄光の王が入られる。
栄光の王とは誰のことか。
万軍を率いられる主、主こそ光り輝く王。

 

第二十四篇   栄光の王、栄光の主 

英語訳には「偉大な王」という標題が付いている。

この篇の冒頭の第一節と第二節は、聖書全巻の冒頭に位置する創世記の要約ともいえる。これらの二節では、壮大な大自然とそこに住むすべての生命が、単なる自然ではなくて、神の創造になるものであるという聖書の根本思想が表明されている。この機会に壮大雄渾な創世記第一章の自然界の創造と第二章の人間の創造の神話を読み直してもよい。

自然や人間を神の被造物と見る思想は、その創造の主体である神についての認識へと駆り立てる。天地万物を被造物と捉える世界観、あるいは、逆に、神が万物の創造者とする見方は、もっとも根源的で統一のある「合理的な世界観」ではないだろうか。

世界とそこに住むものはすべて主のものであるといわれる。この思想は人類の歴史とともにある。ただ現代においては、科学技術の発展と無神論思想などの影響によって、その影は薄くなっているとはいえる。

通常、宗教と科学は対立概念として捉えられことが多い。それは特に近代において著しい。しかし、実際は逆で、一神教の宗教はその合理的な説明で、科学の母胎ともなった。一神教の合理的な説明は、魔術や占い、迷信から人間を解放した。今日も御神籤や星占い、またそれに類似する血液型人生占いなどの他愛のない言説に一喜一憂する多く現代人に対して、一神教の聖書は、科学的精神の根本を確立するものである。

聖書の記述は、数千年の昔の人類の世界認識の記憶を留めたものである。他の諸民族の世界創造の神話に比べれば、その合理性は比較にならない。聖書は魔術や占いを禁じている。(申命記第13章以下)しかし、ユダヤ教ではいまだ食事や礼拝において、その形式主義と不合理にとらわれている。それを解放したのは新約聖書である。

私たちは、聖書の中に現代科学の成果を直接に求めることはできない。聖書はただ科学の根源となる合理的精神を育てるものである。奇跡や復活を言い立てる聖書が、合理的精神の根源であるというのは、一見奇異に思われるかも知れない。聖書によって、倫理と合理的精神の根幹が確立されていないとき、その者の科学は表面的で、往々にして品位を失い、科学という名の迷信、科学主義に陥る。

第三節に「主の丘」とあるが、もちろん、「主の丘」とはエルサレムのことである。この詩篇の第二十四篇は、イスラエルの王ダビデが三万の精鋭の兵士とともに「神の契約の箱」を携えて、バアル・ユダの地からエルサレムに上った時のことが背景になっているといわれる。(サムエル記下六章以下)

エルサレムに到着し城門からダビデ王が入場したとき、当時の民衆が、栄光に輝くダビデ王を祝って、第七節以下のように叫びながら迎えたことは想像に難くない。ダビデ王は、エルサレムを回復し、イスラエルの栄光をもっとも高めた名君とされるから。

しかし、その後、エルサレムを喪失し、自分たちの国土を失って以来、さまざまな苦難の暦史にさらされたユダヤの民衆と預言者は、このような詩を歌って、かっての栄光の王、ダビデ王を記憶し、救世主としてのダビデ王の再来を待望した。そして、多くの預言者がダビデ王の再来を予言した。

実際、それは、イエスがエルサレムに入城されることによって実現した。(イザヤ書九章四節、イザヤ書六十二章十節以下、ゼカリヤ書九章九節など)その時も民衆は、ダビデの時と同じようにイエスを歓呼して迎えたことが記されている。(マタイ書第二十一章以下など)

このエルサレムの地に立つことのできるのは誰か、という問いに対して、この詩篇は四つのものを掲げている。

第一に、それは潔白な心と穢れない手を持った者であるという。英語訳では、行動と思考において純潔である者、清い心の者であるという。イエスも、心の清い人は幸いであるといっている。(マタイ書五章など)

とはいえ、現代の日本の社会からは、この純潔についての観念は失われた。その喪失に抵抗する国民に力はない。純潔のことなど、現代の日本人には二束三文のように扱われて意識に上ることすらない。その価値を教える者もいない。

そして、第二は、空しいものに魂を奪われることのない者だという。英語訳では偶像を崇拝しない者となっている。偶像(アイドル)は根本において虚しいものである。

そして第三は、偽りの誓いを、偽証をしない者だという。しかし、この欺瞞や偽証もまた、昔も今も尽きることのないものである。ことに、本来もっとも高潔であるべき政治の世界で欺瞞、偽証がまかり通っている。そして国民もそれが自明のものだと思っている。

そして、第四は、主を求める人、御顔を尋ね求める人であるという。顔は、ものの本質的な存在を言う。私たちが、「その人間の顔が見えない」というとき、その人間の本質がわからないことを意味している。神の顔を捜すというのは、神の本質を探究することである。聖地に立つことができるのは、そのような者であると詩人はいい、主はそのような者を祝福し正義をもって救われるという。

聖書では神は、しばしば「主」とか「王」とかという言葉で呼ばれる。「主」という言葉は何か翻訳くさく、なじみにくい感じがする。しかし、封建時代が長く最近まで続いた日本人には、もともとこうした観念に伝統的になじみのないものではない。

「主」とは主君であり、家長制度の主人の主である。唯一神をたんに「神」と呼ぶのと「主」と呼ぶのでは神の捉え方が違う。ユダヤ人が神を「主」と「アドナイ」と呼んだことにも、彼らの神観が現れている。日本語の「カミ」という言葉には、上にあること、超越していること、天に在るものという観念は現われているが、「主」という言葉にあるような、人間に干渉し、命じ、服従させる存在という意味は薄い。

子供は両親に服従する義務がある。会社では部下は上司の命令に従う義務がある。現代国家では法律を遵守しなければならない。命じる者は主人である。国王は国民に命じる。そして、神はすべてを服従させるから、すべてのものの「主」である。国王たちの王、皇帝の皇帝とも言える。「アドナイ」や「主」という言葉にはそういう観念がある。

その意味で、神は絶対的存在である。イスラエルの国王であったダビデが「主」と呼ばれたのも、イエスが「主」と呼ばれるのも、絶対的な存在である神との対比においてである。

かってダビデが「十戒」の石板の入った神の箱を携えてエルサレムに来た時のように、万軍の主、栄光に輝くイエスがロバに乗って神殿に入った。そして、ユダヤ人が待望した「メシア」の入る門は、イエスが入城した後、今も閉ざされて、その門からはもはや誰も入城することができない。メシアはすでにイエスにおいて実現したのであるから。

ダビデがエルサレムを回復してから三千年後の今日、ユダヤ人は再びエルサレムを回復しようとして、パレスチナ人と戦っている。しかし、イエスを認めるまで、ユダヤ人にエルサレムは解放されることはない。聖書の神話は、今日もなお神の力として私たちの眼前に展開されている。日本国も、エルサレムから遠くはないイラクの地に自衛隊を派遣している。

 

 

 

 
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詩篇第二十三篇註解

2005年09月26日 | 詩篇註解

 

ダビデの歌

主は私の牧童。私には欠けるものが無い。
主は私を若草萌える野辺に憩わせ、清らかな水辺へと導き、
私の魂に新たな力を得させる。
主は御名のために私を正義の道へ導かれる。
死の闇の谷を歩むときも、私は災いを恐れない。
なぜなら、あなたが私と共におられるから。
あなたの棍棒と杖は、私には救いとなる。
あなたは、私の敵の眼前で私のために宴を開き、
私の頭に香油を注ぎ、私の杯をぶどう酒で溢れさせる。
生涯の日々、恵みと愛は私のもの。
私は命ある限り主の家に住む。



第二十三篇    主は羊飼い(旅する者の祈り)

「主は羊飼い」と題されるダビデの有名な詩である。ここでは、主なる神は、「羊飼い」にたとえられている。詩人は、自分と主なる神との関係を、牧童と羊との関係のようにみなしている。

日本の気候と風土は、牧畜にふさわしいとは言えず、人々も牧畜に決してなじみ深いとはいえない。羊や牛などを飼う牧畜は乾燥地帯に適した産業である。だから、牧童と羊たちとの関係の比喩も、日本人にはさほど実感として感じられないかもしれない。 

羊飼いの使命は、羊たちの生命を狼やハイエナから守り、草原で豊かに牧草を食ませ、涼しげな池や川のほとりで、水をふんだんに飲ませることである。この羊飼いと同じように、主なる神は、私たちの生命を慈しんでくださるという。主は私たちを草原に憩わせ、水辺で渇きを癒せて、魂を生き返らせ、力を蘇らせてくださる。ここでは神は懲らしめ罰する神ではなく、救い、癒し、慈しむ神である。

だから、暗い不安な谷間を過ぎるときも、死と災いを恐れない。主が共にいて正しく導かれることを確信しているから。
私たちの生涯には、平和な時も、戦いの時も、得意の時も、失意の時も、交々に訪れる。そのいずれの時も、牧童が羊の群れの安全に配慮するように、主は導いてくださる。

時には、厳しく杖で打ち、鞭で懲らしめられることがあっても、それは私たち自身の生命の安全を守るためである。牧童が羊たちの安全と健康を気遣うように、主もまた、私たちを食物と水で養われる。主の恵みと慈しみによるものである。
主はまた、敵の見える前で、楽しい満ち足りた宴を用意してくださるほど、私たちを愛してくださる。それゆえ、主の家は、生涯、私たちの家ともなる。

この詩は、旅に出かける時の祈りとしてもふさわしい。旅の平安を祈り、神に保護を求める歌である。そして、苦難を恐れることなく旅に出る。

日常そのものが、歓びと冒険と危険の織り成す旅であるとすれば、日々の祈りともなりうる。古来から多くの人々によって歌い継がれてきた、簡潔で美しい詩である。
芭蕉たちが東北に向かった「奥の細道」への旅路でも、もしこのような歌を知っていたなら、その旅の途上での俳句の詠唱も、よほど違ったものになっていたかも知れない。

 

 

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詩篇第二十篇註解

2005年09月18日 | 詩篇註解

 

第二十篇   戦場に向かう者の祈り

 
この詩篇の主題は第六節にある。戦争を前にして勝利を神に求める祈りである。ダビデはサウルの跡を継いでヘブライ人の指導者になった。当時の王はその王位を継承するときに油を注がれたので、王は受膏者とも呼ばれる。歴代誌にはダビデが当時のエルサレム周辺の住民であったペリシテ人やエブス人と戦ったことが記録されている。(歴代上第十一章以下)今日もユダヤ人はパレスチナ人と戦争しているが、そうした戦を前にして、民衆が不安におののきながらダビデ王の勝利を期して祈った歌である。

 
この詩篇に登場するのは、主なる神、王たるダビデ、歌の指揮者、そして民衆である。指導者ダビデに対する賛歌が歌われる。戦争という苦難や危機は今日の時代にも絶えることがない。今もイラク戦争が戦われているが、逆境や苦難は単に個人ばかりではなく、国家や民族にもこもごも訪れる。個人の苦境は神に頼って自ら切り開くしかないが、国家や民族の窮迫を打開するのは、昔なら国王や将軍、今日のような民主国家では首相や大統領などの指導者である。優れた指導者を持ちうるか否かが国運を左右する。日本においても明治期は比較的に優れた指導者を持ちえたといえるが、太平洋戦争時や今日のわが国の指導者はどうか。  

しかし、指導者といっても共同体の外部から連れてこられるのではない。その内部から選ばれるのである。優れた資質のない国民や民族から優れた指導者が生まれる道理はない。この詩は単に個人の逆境からの脱出を祈る詩というよりも、国家や民族が危機にある時の社会的な祈りとして読まれる。だから、私たちはこの詩を、私たちの中から神が優れた指導者を賜ることを願う祈りとして、彼の指導が万全であることを願う祈りとしても読むことができる。優れた指導者を持ちえる国民は幸福である。

    
聖書においてはダビデはイエスの先駆でもある。だから、ダビデはイエスでもある。父なる主がイエスの戦いに勝利を与えて下さることを祈願する祈りとも読める。そのとき、ダビデの捧げものとは、イエスの十字架上の犠牲に他ならない。この生贄が快く受け入れられ、イエスの心の願いをがすべて実現されるようにと、イエスの勝利の旗を私たちが掲げることができるようにと祈る。イエスは私たちにとっては究極の指導者である。


個人においても国家においても主は、強い砦であり盾である。富者や軍事大国は戦争において自分の財産や戦車や馬の脚力を誇るかもしれない。今日の時代で言えば、核弾頭を搭載したミサイルや原子力空母、潜水艦、ハイテクの塊のような戦闘機に頼るようなものである。しかし、イスラエルの民が頼るのは、固い岩、高き砦にたとえられる神である。

 私たちの神に依頼する限り、個人も国民も支えられ、力に満ちて再び立ち上がる。アメリカ軍やイスラエル軍が強いのは、科学技術の先端をゆく武器もさることながら、聖書によって主への祈りに支えられているからだと思う。 
 
この詩篇は、家族の世帯主や国家の指導者に対する祈りでもある。私たちの王や家長や指導者が神から勝利を賜ることによって得るものは、私たちの救いである。

 

 

 

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詩篇第十五篇註解

2005年08月21日 | 詩篇註解

 

詩篇第十五篇註解   義しき人

「幕屋」とあるように、キリスト教の起源が、砂漠や荒野などの地理、風土を背景とするユダヤ教にあること、特にモーゼの宗教にあることを示している。

 「誰があなたの幕屋に住み、聖なる山にすむことができるか。 」

この詩のテーマは「義しき人」である。「正しい」という日本語の概念とは少し異なっている。正義を行う人である。「聖」(カデーシュ)という観念も、日本人には比較的になじみの薄い観念であるといえる。「聖」は神のもっとも根本的な属性のひとつである。

イスラエル人は、エジプトを出ることによって、神に「聖別」された。聖別されるとは、世俗的な価値観から、神的な価値観に転換することである。人間の欲することではなく、神の欲せられること行うことである。ヘブライ民族も、宗教的指導者モーゼに率いられて、エジプトから脱出してから後、この民族はもっとも宗教的な民族になった。つまり聖別されたのである。以来ユダヤ人は、神の証人となった。神道でも、俗世の汚れや穢れを禊や清めによって清くする。宗教は諸民族の神についての、また悪や穢れに関する思想であり知識である。

イエスは神と等しい存在であるから、イエスには神の属性が余すところなく表れている。だから、新約聖書でイエスの人格を研究することによって、神の属性も明らかになる。イエスは旧約聖書に神の属性を深く学び、それを自分の性質として、生き、かつ死んだ。イエスの神の学びが徹底していたので、イエスと神は同格として、キリストとみなされるに至った。

 「聖」の反対概念は、「俗」である。つまり、聖とは、普通の世間の営みから切り離されていることである。聖書では、神の聖性はどのようなものと考えられているか。それについては、申命記や出エジプト記、特にレビ記などには、汚れたもの、穢れたものについての規定がある。神が何を清いものと考えられているか、モーゼが何を神の聖性として考えていたかは明らかである。流血、殺人、盗み、姦通などは忌むべきものとされる。

 何を神は求められているか。聖書では、神の似姿に近づくこと、これが人間の使命であるとされる。人間の使命は何か、これは、信仰者や哲学者が理性的に研究することも可能であろう。しかし、もっとも、それを明白に告知しているのは聖書である。最高の聖性は今のところ新約聖書のイエスにもっとも具体的に示されている。したがって、新約聖書を学ぶことなくしては、事実として、聖性についての認識を得ることができない。非聖書国民が、「聖」について意識に乏しいか、あるいは全くもたないのは当然である。

 「出世をしたい」とか「金儲けをしたい」とか言うのは、もちろん、神の性質であるとはいえない。聖書には、「神と富とに並び仕えることはできない」(マタイ6:24)と書かれてある。イエスは、このように人々に教えた。イエスは、この言葉をどのようにして自分の知恵とし、そして権威あるものとして、それを弟子たちに教えたのか。私たちは、これらのイエスの言葉をどう考えるか。

 富の獲得を至上の命題として生きている多くの人間にとっては、耳障りにも聞こえるかもしれない。彼と同時代に生きたナザレの人々でなくとも、そんな人物は、こんな言葉を吐くイエスを、丘の上から突き落としたくなるのではなかろうか。

 主をおそれ、すべてにおいて神に従う人、友に災いをもたらさず、利息や賄賂を取らない人、そういう人は、永遠に揺らぐことがないと詩人はいう。これが旧約の義人観である。新約では、自己の善性についての確信の揺らぎから、行為よりも信仰に「義」が求められるようになる。

 

 

 

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