電撃ブックハンター

本の話題、もしくは関連すること関係ない事を書きたい放題です。

冤罪の国・2

2017-01-02 04:36:46 | 日記
さて、前回は警察・検察ばかりでなく裁判所もグルになって冤罪を作る事がある、というような話でした。
その2では「なぜそんな事をするのか?」について考えてみます。

まずは検察に絞ってお話を進めます。
警察、裁判所も相当問題を抱えていますけど、検察は飛び抜けて強い権力と影響力を持っているからです。
例えば、刑事事件において警察は犯人を捕まえる役目ですが、裁判にかけるかどうか決めるのは検察の役目です。
裁判所は検察が起訴しなければ裁判を出来ません。
つまり、ある人間を犯罪者かどうか決める鍵は検察が握っているのです。
これだけでも検察の力の大きさが知れようというものです。

あまり知られていない事ですが、組織的にも検察は強力な位置づけにあります。
法務省の組織図によると、検察庁はその下部にある様に見えて「特別な機関」とされ、実質的に独立した官庁になっています。
(法務省HPより)

それを裏付けるのが官僚の「序列」です。
日本の省庁ではトップは政治家である大臣、その次が副大臣・大臣政務官、次が事務次官という官僚で、実質的に官庁を取り仕切るのは事務次官という事になります。
しかし検察庁では法務省の事務次官が出世街道の通過点に過ぎず、更にその上があります。

序列を書くとこんな感じです。
①法務大臣
②検事総長
③次長検事
④検事長
⑤法務事務次官


大臣と検事総長の間に副大臣とか大臣政務官というのが建前として入っていますが、ほとんど無視して構わないと思います。
というのは実質的には法務大臣と検事総長がほぼ肩を並べているからです。
公務員の序列は「俸給」、つまり税金から支出される給料の額からも計る事が出来るのですが、行政トップである総理大臣と、司法トップの最高裁判所長官がほぼ同じ、立法府トップ(?)の衆参両議院議長がそのちょっと下、そのすぐ下に各大臣、という階級です。検事総長の俸給はこの大臣クラスに属していますので、大臣に匹敵する権限も有していると考えるのが妥当でしょう。

そういう強い力を持つ組織にいる検察官が、どういう人達で、どうやって仕事をすすめ、何が問題なのか、非常によくわかるのがこの本。

●「検事失格」 市川寛 新潮文庫



著者の市川氏が検察官になってから冤罪事件を起こし退官するまでの詳細が書かれていて、この本を読めば現場の検察官がどのような日常を送っているか、なぜ冤罪を作ってしまうのかが見えてきます。

特に強調されているのは、検察が一度起訴したら、例えそれが誤りであろうと引っ込める訳には行かない、という鉄則です。
担当者が「これは無罪だろう」と思っていても、上が断じて許さない。
事件を捜査した警察からも突き上げられる。
同僚達も「推定有罪」で訓練を受けている。
上からも下からも横からも責め立てたてられ、精神を病みながら仕事をする現場の検察官の姿が現れてきます。

これだけでもまともな判断が出来ないのではないかと思うんですが、とにかく起訴した以上は「有罪」にしなければ検察という組織のメンツが立たないので、脅し、スカシ、泣き落とし、など、あらゆる手段を使って自白調書に署名させようと試みるそうです。
たとえ被疑者が事件と無関係であっても、です。

著者はこうしたやり方に疑問を呈して検察官を辞める訳ですが、残って出世していく人達は疑念も抱かず、あるいは抱いても無視して突き進んでいるという事ですから、上に行けば行くほど異常さが凝縮されていく事が予測されます。
そのトップに是正など出来る訳がありません。

これを端緒に表すのが「飯塚事件」です。
1992年2月に福岡県飯塚市で起きた2人の女児殺害事件で、容疑者とされた久間氏は一貫して無罪を主張。
最高裁まで争ったがDNA鑑定が決定的な証拠とされ、死刑が確定しました。
しかし同時期に起きた足利事件において、そのDNA鑑定方法に致命的な欠陥が指摘され、再審が決定。
無期懲役の判決を受けて服役していた菅谷氏は冤罪だと認められて釈放されたのにも関わらず、同じDNA鑑定で罪が確定した久間氏は、なんと再審請求が準備されている間に死刑が執行されてしまったのです。

この時、法務大臣に死刑執行を迫ったのが、大野恒太郎・法務省刑事局長(当時)で、去年9月まで検事総長を務めていた人物です。
もし冤罪だと分かっていながら執行したなら、検察は人殺しを組織のトップに据えていた事になります。


一体どこからこの狂った体勢が出来てしまったのか。
手持ちの資料だけでは心許なかったので、図書館に行って1冊の本を見つけてきました。

●「虚構の法治国家」 郷原信郎・森炎 共著  講談社


著者の郷原氏は元検察官の弁護士、森氏は元裁判官の弁護士で、ある意味司法の裏を知り尽くした人達と言えます。
ちなみに郷原氏は「その1」のイントロで紹介した美濃加茂市長の主任弁護士で、この本にも事件の詳しい経緯が書かれています。

森氏は、検察と裁判所の歪みは戦前にまで遡る、と述べています。
悪名高き治安維持法が成立し、それをもって積極的に思想弾圧を行ったのは検察・裁判所だったそうです。
気に入らないやつがいたら難癖つけて「合法的に」刑務所にぶち込む事も可能です。
戦前・戦中と特別高等警察、憲兵に加え、司法までもが国民を統制すべく大暴れしたのです。

やがて敗戦。
GHQは特高、憲兵など内務省と軍部は完全に解体しましたが、検察、裁判所にはほとんど手をつけませんでした。
それどころか思想弾圧に関わった検察官・裁判官たちをそのまま元の職場に復帰させ、戦後日本の司法を担わせたとの事。

国を滅ぼす片棒を担いでいながら、ほとんど責任も取らされずに、です。
この連中が、
「あれだけやってもお咎めナシなら、また同じようにやっても大丈夫だろう」
と思っても不思議ではありません。
そして、この伝統が今も続いているとしたら・・・。
拷問さながらの取り調べ、人権無視の取扱い、ミスをしても素知らぬ顔の傲慢さ、全ての悪癖の原因が分かろうというものです。


もう1つ、戦後の司法に影響を及ぼしたと考えられる存在があります。
それは「法務官」です。
戦前・戦中において軍人の犯罪を裁くための「軍法会議」を担った人々なんですが、敗色が濃くなった太平洋戦争末期には、軍の歪みを補正するために無実の兵士に罪をなすりつけて処刑する、といったとんでもない事をやっていたと言うのです。
そうした事件を綴ったのがこの本。

●「戦場の軍法会議ー日本兵はなぜ処刑されたのか」NHKスペシャル取材班・北博昭 著  新潮文庫



2012年8月放送の同名の番組を、取材班が語りきれなかった部分を加えてまとめた1冊で、よくここまで調べたものだ、と感嘆致します。
詳しくは本をお読み頂きたいのですが、前述の様に軍法会議の名を借りて、かなりムチャクチャな事をやっています。
英語を話せる兵士が米軍に寝返ったら大変だ、と言って処刑したり。
口減らしのために、食料を探しに出た兵士を「敵前逃亡」としたり。

終戦時に書類が焼かれてしまったために実態が掴めないが、こうした言い掛かりで処刑された兵士がかなりいたのではないかと考えられます。
法務官はこれらに関与していたのです。

現場の法務官は戦後、良心の呵責に苦しみながら生きていったと思われますが、その上の命令する側の官僚がどうだったかは分かりません。
そして、このような「事件」を引き起こした法務官たちも、検察・裁判官たちの様に戦後の日本司法の中枢に入り込んで行ったのです。
人殺し達が犯罪者を裁いていた、と言ったら言い過ぎでしょうか。


我が国の歪んだ司法の裏には、精算されない戦後が絡んでいるのではないかと思われます。
「エリート面した人でなしの伝統」という恐ろしい連鎖です。
これをどうしたら良いのか、私には皆目検討がつきません。
自分に出来ることがあるとしたら、真実を見抜く目を養い、容易にアチラ側の目論見に乗らない様にすることぐらいです。

しかし、もし国民の大半がこうした歪みに気づき、それを許さないという世論を築けたとしたら、流れは変わってきます。
司法に携わる公務員が何人いるか知りませんが、何千万人もの人間を相手に戦争するほどの度胸はないでしょう。

私達が日本で安心して暮らしたいと思ったら、この歪みを無視する事は出来ないのです。
普通に生きている人が罪をなすりつけられる事に怯え、真犯人がのうのうとしている国がまともであろうはずが無いですからね。




冤罪の国・1

2017-01-02 04:08:56 | 日記
正月はスペシャル企画です。
休み中でないと資料を引っ張り出してきて確認出来ないので、今の内に書いとこうと思い立った次第です。

ニュースで取り上げられたので、ご存知の方も多いと思いますが、岐阜県の美濃加茂市長・藤井浩人氏が収賄容疑で逮捕・起訴された事件で、一審が「無罪」だったのにも関わらず、検察が控訴、名古屋高裁の二審で何と「逆転有罪」の判決が出ました。

ご存じない方のために、かいつまんでこの事件を解説するとこうなります。

①美濃加茂市議時代の藤井氏が東日本大震災のボランティアの経験から、電源が要らない非常浄水設備導入を提案、知り合いを通じて「水源」という会社にアクセス、藤井氏の母校のプールに無償の実証プラントを設置してもらう。
結局、導入はしていない)

②その「水源」の社長・N氏が実は多額の融資詐欺を働いていた事が発覚、逮捕される。
印鑑を偽造するなど悪質な手口で銀行などから4億円近い資金をだまし取っていた事が分かっている。


③N氏が取り調べの過程で「藤井氏に計30万円を渡した」と供述、これを元に2014年6月24日、藤井市長が警察に逮捕される。
藤井氏は一貫して無罪を主張するも、強引な取り調べが続く。
その取り調べ時に警察官は、
「こんなハナタレを市長にした市民の気が知れない」
「正直に自白しないと美濃加茂市を焼け野原にするぞ(子供まで含めて関係者をどんどん引っ張るぞ、という脅し)」
など暴言を連発。
勾留が続けられ、その後起訴される。

また、N氏が藤井氏に金を渡したと主張する美濃加茂市内のファミリーレストランでの会合にはいずれもT氏という立会人がいて、T氏は「会合中、金を渡している所など見ていない」と一貫して主張。
警察での聴取ではT氏は長時間缶詰にされ、「金を渡したのを見ただろう」「見たという調書に署名しろ」と証言を強要されたとの事。

④名古屋地裁での一審では無罪判決。
N氏の「金を渡した」という証言以外に収賄の証拠はなく、検察とN氏が綿密な打ち合わせをしている様が見られるなど、検察の主張に合理性が無いと判断された。

⑤その後、検察が控訴。名古屋高裁での二審では、村山浩昭裁判長は被告側の証言は一切聞かず、検察側が用意した証言のみを採用、また一審で「無罪」と認定された藤井市長の供述を真逆に使って「逆転有罪」の判決を出した。


この事件にはいくつか不可解な点があります。
まず、N氏が4億近い融資詐欺を働いている明確な証拠があるにも関わらず、検察は2000万円分しか起訴していない事。
これは弁済すれば執行猶予がつく程度の罪にしかならないそうで、N氏と検察の間で何らかの取引があったと疑われても仕方ない処遇ではないでしょうか。

また、二審の名古屋高裁は、判決後にマスコミには「判決要旨」という裁判の概略のペーパーを配っているのに、被告・弁護側には一切そうした書類を出さないそうです。
弁護人が抗議しても知らぬ顔を通している模様。
裁判の過程といい、判決後の振る舞いといい、検察とつるんでいる様にしか見えません。


さて、「電撃ブックハンター」なのに、なぜこのような事件について延々と書き連ねているかというと、これらを読み解くヒントを与えてくれる本が手持ちの中に何冊かあったので紹介してみようと思ったためです。

ほとんどの人は警察は悪い奴を捕まえてくれるところで、検察は悪い奴の罪を決め、裁判所は公正に審理する場所、という印象を持たれているでしょう。
しかし、それは本当でしょうか?

普通にテレビや新聞でニュースを見ていると分からないのですが、ラジオやインターネットのニュース解説を聴き、書籍を読んでいくと決して彼らが「法の番人」などでは無いことが分かってきます。

例えば、検察に起訴された場合の有罪率は99.9%とか99.5%と言われています。
起訴されたらほぼ有罪になってしまうという異常な数字です。
芥川龍之介の「藪の中」ではありませんが、現行犯で目撃者が多数いても、防犯カメラで撮られていても、何が起こったのか本当の所は分からない事があるものです。
それが、目撃者もいない、証拠もない、あるのは捕まえたやつの自白だけ、という状態でも9割以上が有罪、というのは、どう考えてもおかしいのではないでしょうか。


そもそも人間の記憶はビデオの様に正確なものではありません。
大まかな概要しか覚えられないため、他人と情報を摺り合わせたり(共同想起)、メモや写真などの記録で思いだしたり(外的記憶補助)して記憶を「熟成」していくそうです。
その過程で、間違った記憶を作り上げてしまう場合がある事も心理学において実証されています。
詳しくはこちらの本を読んでみてください。

●「証言の心理学」 高木光太郎 中公新書



警察や検察が「コイツが犯人に違いない」あるいは「コイツを犯人にしたい」という意図を持って捜査、取り調べした場合、聞き込みの過程で証人に誤った記憶を醸成させてしまったり、容疑者に記憶の混乱を起こさせたりする事は十分考えられます。

刑事事件の場合、逮捕後警察で48時間、検察で24時間、さらに検察が勾留請求を出して裁判所から認められれば(ほとんど認められる)、最大20日間、計23日間も留置場や拘置所に監禁されます。
しかも本職がパートで来ているのでは?と思われる様な方々から朝から晩まで厳しく取り調べられるのです。
そのような状況で、
「お前がやったんだろう!」
「これはこういう事だよな、そうだよな?」
「今、やったと言えば罪は軽くて済むぞ?」

などと、あの手この手で用意したストーリーに乗れ、と責めて来られたら、普通はとても持ちません。
自分の記憶に自信が無くなり、警察側のシナリオに書き換えられてしまう恐れがあります。
私だったら最初にヤクザみたいな人が取調室に入ってきた瞬間に「すみませんでした!」と言ってしまいます。

これだけ記憶に基づく自白というものが問題あると指摘されているにも関わらず、警察も検察も、裁判所すらそれを黙殺しています。
取り調べの苛烈さに耐えかねて、やってなくても「自分がやった」と調書にサインしてしまったら、それは一級の証拠として裁判所が判断するのです。

そして、裁判では検察が圧倒的に有利です。
捜査で得た物証、証言の中から自分たちに有利なものだけを提出すれば良く、不利な証拠は提示しなくても良い。
しかも、起訴後に裁判所が保釈を認めなければ、いつまでも被疑者を人質のように拘置所に留め置いて好きなように尋問出来ます。

「推定無罪の原則」という裁判の基本があります。
これは「有罪が確定するまでは被告を犯罪者として扱ってはならない」という事で、無罪を前提に裁判しなければならない筈ですが、検察が起訴したらもうほとんど犯罪者にしてしまっている現実があります。
それをマスコミが更に煽り立てる。
警察・検察は否定しますが、どう考えても捜査側から出たとしか思えない情報が流れ出て、「容疑者」を実質的な「犯人」に仕立て上げていくのです。

こうなると、一個人がどんなに無実を叫んでも誰も耳を傾けてくれません。
走っているトラックに戦いを挑むようなもので、絶対勝てないとは言えませんが、勝利するのは著しく困難です。
前述の美濃加茂市長の事件はこうした典型的な例ではないかと思います。
もちろん真実は神が知るのみ、ですが、行政側のやり口が稚拙なため、余計にアラが目立つ感じです。

こうした例を巻き込まれた当事者たちが語っているのがこの本です。

●「国策捜査 暴走する特捜検察と餌食にされた人たち」 青木理 角川文庫


この本では特捜案件がメインですが、窃盗や痴漢の冤罪でも同じ構造です。
これを読んだ上で日々のニュースに接すると、あらゆる冤罪に一定のパターンがあることが見えてきます。
テレビ・新聞の報道を額面通りに受け入れられなくなくなります。

大げさだなあ、とか、妄想だろう、と思われる方は別にそれでも構いません。
ただ、一回巻き込まれてみれば、身をもって体験出来るのではないかと思います。
普通に生活している普通の人が、ある日突然どん底に突き落とされる。
決して他人事ではありません。
こうしたリスクを減らすには、我々がまず実情を知り、真相を見極める「目」を養う必要があるのではないでしょうか。


さて、「その2」では警察・検察がなぜこういう体質になったのかについて、関連書籍を紹介しながら考えてみようと思います。
長くなりましたので今回はこれにて。