会議室を研修やなんかで使ったあと、テーブルとイスを元の状態に戻す作業。たいていの人が関わった経験を持っているはずだ。
社内の催しや自主的な勉強会だったりすると、片付けてくれる人がいるわけではなく、参加者がその作業を行う。以前は作業プロセスを非効率的だと感じていた。仕切りが悪いなぁと。
しかし最近、考えを改めた。実はとても優れた組織運営のあり方なのではないかと。
そもそも、喜んでやりたい種類の作業ではない。さっさと消えてしまう人もいるが、ふつうの責任感を持つ人は進んで協力する。それだけに、あれこれ指示されるようだと意欲が失せかねない。
指示がない一方で、目指すゴール(回復状態)は共有されている。実際には、いまひとつあいまいなことも多いのだが、不満が生まれるとしたらまさにその点であって、指示がないことではない。目標とする状態が示されない場合が問題なのだ。
目指すゴールが共有できていれば、各人が状況を判断しながら、身近なところから作業をすることができる。一方で全体のバランスを考えて作業をしようとする人も出てくる。いずれも参加者の自主的な判断と行動に委ねられている。
その過程でテーブルを一緒にかつぐなど、見知らぬ人とも自然に協力し合える。この感覚は実は少しだけうれしいものだ。別にその相手と仲良くなれるわけではないが、一つの小さな目標を共有しているという実感が生まれるからかも知れない。
こうして進行する作業は、よく検討された手順ではないので、モノの動き、ヒトの動きだけを捉えれば決して効率的とは言いがたい。しかし、進んで取り組み、協力し合ったことで得られる達成感は、効率的に短時間で作業を終えるために細かく指示された場合よりも、ずっと良いものだろう。
おそらく、私たちは経験的にそれを知っているから、会議室の原状復帰作業は確信犯的に仕切りが悪い。つまり、それが優れた組織運営のあり方なのだ。メンバーの意欲を大切にし、指示による余計なストレスを与えないという点は、多くの組織運営に応用できるはずだ。
社内の催しや自主的な勉強会だったりすると、片付けてくれる人がいるわけではなく、参加者がその作業を行う。以前は作業プロセスを非効率的だと感じていた。仕切りが悪いなぁと。
しかし最近、考えを改めた。実はとても優れた組織運営のあり方なのではないかと。
そもそも、喜んでやりたい種類の作業ではない。さっさと消えてしまう人もいるが、ふつうの責任感を持つ人は進んで協力する。それだけに、あれこれ指示されるようだと意欲が失せかねない。
指示がない一方で、目指すゴール(回復状態)は共有されている。実際には、いまひとつあいまいなことも多いのだが、不満が生まれるとしたらまさにその点であって、指示がないことではない。目標とする状態が示されない場合が問題なのだ。
目指すゴールが共有できていれば、各人が状況を判断しながら、身近なところから作業をすることができる。一方で全体のバランスを考えて作業をしようとする人も出てくる。いずれも参加者の自主的な判断と行動に委ねられている。
その過程でテーブルを一緒にかつぐなど、見知らぬ人とも自然に協力し合える。この感覚は実は少しだけうれしいものだ。別にその相手と仲良くなれるわけではないが、一つの小さな目標を共有しているという実感が生まれるからかも知れない。
こうして進行する作業は、よく検討された手順ではないので、モノの動き、ヒトの動きだけを捉えれば決して効率的とは言いがたい。しかし、進んで取り組み、協力し合ったことで得られる達成感は、効率的に短時間で作業を終えるために細かく指示された場合よりも、ずっと良いものだろう。
おそらく、私たちは経験的にそれを知っているから、会議室の原状復帰作業は確信犯的に仕切りが悪い。つまり、それが優れた組織運営のあり方なのだ。メンバーの意欲を大切にし、指示による余計なストレスを与えないという点は、多くの組織運営に応用できるはずだ。