ギリシャより100年早い先進都市ミレトス 文明の衰亡した都市2

2024-04-30 03:07:51 | 文明の衰亡した国々でみた古代遺跡群1

 

文明の衰亡1 ギリシャより先進のミレトスの繁栄 

日本人は関心をもたないエーゲ海沿岸の都。

ミレトスが当時の地中海世界でどのような位置をしめていたか、特徴づけるものを列記する。

 1 西洋哲学ミレトス学派の発祥地である

 ○「水は万物の源である」といったターレス546没)

 〇「万物の起源は空気である」といったのがその弟子アナクシマンドロス(BC547没)

  〇アナクシマンドロスは「万物の起源は空気である」といい、地球は宇宙の中心にあり、宇宙は中空の同心円の車輪で、その外側は火に満たされ、さまざまな間隔で穿たれた穴から見えるその明かりが太陽や月だとした。

 アナクシメネス(BC524没)は、「万物の源は規定できないもの」としていた。太陽や月は、星々で充たされた天空の覆いの回りにある、平たい円盤であるとした

 この3人はそろってイオニアの都市ミレトス生まれたので、後の世に「ミレトス学派」として哲学の創始者として世に知られるようになる。 彼らを世に出したのが、かの有名なギリシャの哲学者、政治学者のアリストテレス、BC384~327)である。彼らを最初の哲学者として紹介したのである。

 2 日食の日を予言したミレトスの自然哲学者ターレス

紀元前585年におきた日食を予言したのである。ヘロドトスの「歴史」(松平千秋訳 岩波文庫上74)「ある合戦の折、戦いさなかに、突然真昼から夜になってしまった。この時の日のことははミレトスのターレスが、現にその起こった年まで正確に挙げており、イオニアの人々に提言していたのである。リデイア、ミデイア両軍とも昼が夜に変わったのを見ると 戦いをやめていやが上にも和平を急ぐ気持ちになった」と書いている。

3 都市計画のもとで、町作りが行われていた

 世界最初の都市計画家のヒツポダモスはミレトス生まれで、美しい街路でしられるアテネの郊外の港町ピレウスも、ロードス島のリントスの町も彼の作である。ミレトスも彼の計画がいかされている。

 4 ギリシャ世界でもっとも文化の進んだ町であった

 ・ターレスは哲学の発祥地として世界史の上にその名前を残した

・ 世界地図を最初に書いたへカタイボスの地図。 自分の町が世界の中心として書かれている。

・ 航海用の北斗七星の見つけ方を著作「航海用天文学」に書き、ミレトスの人々の 航海に非常に役立った。

・  天文学的観測を行い、1年たつと元に戻るという太陽回帰現象を発見して   同時に1年を365日に分けた。

5 世界で最初の通貨を採用し ギリシャ世界の中心都市となる

     

通貨の採用は、文字の使用に匹敵する人類史の大きなターニングポイントになった。人類の経済活動が物々交換から貨幣経済への移行を意味しているからである。

 

ミレトスは前6世紀ごろには黒海周辺に多くの植民地(50~60都市)を建設した。今のボスボラス海峡を通って黒海の周辺、トルコ北部、ブルガリアまでを圏内としていた。また。エーゲ海に面していたために港湾都市として、地中海諸国の交易の中心地になっていた。日本で言えば、東京湾の入り口にあたる横須賀を想像されたらよい。

人口は2万5千人ほどだったが、旅行者、業者、商売人が常時滞在して、3万人ほどの人が集まっていた。 BC7世紀、西洋で初めて貨幣が鋳造されたのは、ミレトスのちょうど隣にあるリディアであった。ミレトスはすぐにそれを認め、この新しい発明を採用し、実際、半世紀以上アテネを先んじていた。

この動きの影響は、特に算術との関係で明らかである。貨幣の助けがなければ、お金は金属の棒やインゴットの重さを量らなければならなかった。ギリシア人の間での注目すべき商業算術の始まりの時と場所はBC7世紀頃、小アジア沿岸のミレトスである。

 繁栄を極めた極めたミレトスの当時の状況

 通貨を発行するということは、その政治・経済圏を支配することを意味している。ヘロドトスの「歴史」によれば(上巻143、145P) 当時イオニア地方には12都市(エフエソス、プルニエ)があり、その連合体の盟主にミレトスがなっていた。そしてミレトスは東方のペルシア帝国と協定を結んでいた。

ペルシャの脅威がなかったので、文化、経済活動に専念できたのである。このペルシャとの協定を橋渡ししたのがミレトスの哲学者、天文学者でもあったターレスだった。

そしてターレスの没後50年、ミレトスはペルシャと決裂するのである。これが今で言う「イオニア反乱」であり、ペルシャ戦争の幕開けでもあったのである。

ペルシャ戦争の規模は第2次世界大戦とおなじ規模の、当時の地中海世界を巻き込んだ大戦争となったのである。大英帝国が7つの海にひろがるアジア、アフリカの植民地と大海軍力に上に築かれたように、はるか2500年前には、同じことが行われていたのである。

 

ミレトスの滅亡

  今日、ヘロドトスの「歴史」しかミレトスの滅亡の模様を書いたものはない。

イオニアの反乱(BC500~7年間)に始まってペルシャ戦争(BC479年アテネの勝利で終結)にいたる古代地中海の覇権をかけた戦いの模様を書いたものはこの「歴史」しかないのである。それゆえ、現代の世界史では「歴史」がタネ本になっているのである。

 

滅亡の原因 ⓵ イオニアの反乱の首謀者としてペルシャに壊滅される。

 当時イオニア地方には12都市(エフエソス、プルニエ)があり、その連合体の盟主にミ レトスがなっていたのです。リキヤ連盟(Lycian League)と呼ばれています、アメリカ合衆国憲法の採用する「連邦制」はリキヤ連盟がその原型になっていることを日本人は知らない。米国議会報告書(2006・5.26)ニューヨークタイムの記事があります。ミレトスは東方のペルシヤ帝国と協定を結んでいた

ペルシャの脅威がなかったので、文化、経済活動に専念できたのです。

そのミレトスは哲学者ターレスが死後50年、ペルシャ帝国(今のイラン)の王ダレイオスは領土拡大を始めイオニアの豊富な富を目に付はじめ干渉しはじめた。それに反発してミレトスを首謀者とした「イオニアの反乱」(BC500~493)が起きた。トルコ・エーゲ海沿岸12か国の反乱は7年で終わった。ミレトスのその経済的な裕福さと人口の多さからペルシャはミレトスの殲滅を計画する。

序盤戦でミレトスは徹底的に殲滅されたのです。

「引き網式」掃討作戦、ペルシャの兵士が一人づつ手をつないで住民を狩り出す戦術。ペルシャ軍はこれらの島を占領するごとにその住民を「引き網式」に掃討した。

イオニア諸都市を制圧するや、特に美貌の少年を選んで去勢し、男子の性を奪い、器量の優れて娘を親許から引き離して大王の宮廷へ送った。さらに、各都市に火を放ち聖城もろとも焼き払ったのである。 ペルシャ軍は全市民を奴隷にし、城と神殿も、託宣所も放火されてした。捕虜となったミレトス人は、ダレイオス王の命で紅海に近いテンペという町に送られ、ミレトスの土地はペルシャ人が住むようになった。かくして、ミレトス人は一掃されたのである《歴史中巻209》 ペルシャ戦争の引き金となったミレトスらの「リキヤ同盟」も戦争の結果を見ずに散ったのである。圧倒的なペルシャ軍勢の前に抗すべきもなかった。

滅亡の原因② 禿山から流失した土砂で港が埋まり町は15キロ後退し、

  港の機能が失われた

気候が文明を変える」(岩波科学ライブラリー1) 著者は環境考古学という学問を創設した安田喜憲氏。ギリシャ トルコで「花粉分析」という手法で気候 と文明の関係を実証的に検証した日本人では数少ない文明史の研究家です。

====花粉分析とは?===

花粉は おしべの先端の葯に中で作られる。大きさは10~15ミクロン。肉眼では見えない。花粉はスポロポレニンといばれる科学物質できた非常に強い膜をもっ てい

る。その花粉が湖底や湿原のように酸素の影響を受けない場所に落下すると何万年 も破壊されずに残る。土地の上層から下層へ連続的に花粉化石を採取し、どんな種類の花粉が どれくらい含まれているか、顕微鏡で確認する。そして森の様子を復元する。森の分布や種類は気候、土地の条件により強く支配される。従って森の様子を復元することで過去の気候の状態も知ることができる。

地中海文明の滅亡は森林の破壊が原因

 保水能力がなくなり、土砂石を下流に押し流す。

ミレトスは近くの大メンデレス川が毎年氾濫し、上流からの土砂が、徐々に堆積し、埋まり、海が遠ざかっていった。そして港は機能しなくなってしまったのである。トルコのエーゲ海沿岸、地中海沿岸は、奥地での森林伐採で山が裸になり、保水能力を失ってしまったのだ。雨が降ると水を地面に吸い込む力がないために、表土を削って行き、ついには山からの水の流れが勢いを増し、氾濫するようにまでなったのである。メンデル川が上流から運んでくる土砂は、大きな湾を埋め尽くしたが、完全な陸地になってしまったわけではなく、沼地となっている。うっすらとした水溜りが周辺にみられるのは、このためである。

私たちが観光で訪ねたところはエーゲ海から15キロも離れたところであった。野外劇場の側にはイネ科の雑草が見渡す限り生えており、その少し先には水たまりがアチコチにあり、往時の港であったことがわかる。

次の図のように紀元前500年前の海岸線は現在より15キロも内陸にあった。それが年月が重なり紀元100年には15キロも海岸線が前に出てきた。船の出入りができなくなり 港の機能が喪失した。すべて川の土砂の堆積によるものである。海から離れてしまったためにかってギリシャ世界で最も栄えていた港湾通商都市が完全に死んだ町になってしまったのである。

トルコ政府発行の「トルコの旅」にはこうある。

当初ミレトスの海岸には2つの港、商業用と軍事用があった。メンデル川が押し流す土砂で埋め立てられ、今では海岸は遠のいてしまった。ミレトスを滅ぼした最大の敵はこの川の流れだったといえよう

ミレトスの海岸線がせり出している

 

はげ山だらけの地中海諸国 森林伐採が文明の衰亡を招く。

軍船 青銅器、陶器の生産、毎日の薪の消費などで森を乱獲し、山羊や羊の放牧で木の芽まで食 べつくし、草の根っこまでも食べてしまった。この農耕と牧畜の活動が森の再生を困難にして、森は一方的に破壊されていった。人口が急増し、人々は家を建築し、調理のために薪を取るため森林を伐採した。農民は新たな農耕地を求めて更に奥地の林を伐採し 開墾する必要があったのである。

森なくしては輸出用の青銅製品 陶器、船も家も薪もつくることが出来ない。森林資源の枯渇で、交易により 木材資源を求めてトルコの西海岸 トロイへ手をのばした。

これがトロイ戦争の遠因である。 はげ山だらけの風景は古代地中海文明がなぜ崩壊したのかを、長い間 われわれに問いか けてきた。人間の歴史は、戦争や階級闘争と言った、人間対人間の争いの中で動いていたわけではなかったのだ。

近年の花粉分析の手法を駆使した環境考古学の成果は人間中心主義の歴史観のみでは、人間の歴史を解明できないことを示し、山がはげ山になったことが古代地中海文明の崩壊につながったことを明らかにしたのである

百年単位で物を見る必要がある。

今 我々は文明の淵源であるギリシヤ・ローマ文明 それははるかに遡る地中海文明がどのようにして崩壊してきたかを知ることができる。人類は食料や気候の温暖化地域を求めて移動してきた。その地で森を乱獲し、結果として 海岸に土砂の堆積を招き 港の機能を失い交易の道を閉ざしてきた。紀元前1200年ごろギリシャのミケーネ文明は森の乱獲と気候の寒冷化のダブルパンチで滅亡した。対岸のトルコのエーゲ海沿岸、当時の言葉でいえばイオニア地方でミレトス エフエソス ベルガモンで文明が起こった。しかしその文明も森の乱獲で

人間生活のエネルギーである木材燃料が枯渇した。山ははげたままに放置され 雨による洪水で川下の港は土砂で埋没し、人は生きる術を失った。

 現代文明の危機は人口増加による食料の不足と気候温暖化による極地の氷河溶解で起る水位の上昇である。

古代史は100年単位で物を見る。この長期的な見方が

 

今 必要となっているのである

 

 

 

 

 

 


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