旧 自分ブランド「COMME des KAORI」

私が他の誰でもない私になるために・・・
独立系FPを目指す私の成功ノート

長い旅の途上

2009年09月21日 | 趣味

久しぶりの海外旅行です
7月に友達から誕生日祝いをしてもらったときのこと
なぜか旅行の話になり、どっか行きたいよね
行く
行っちゃおうか
とトントン拍子に話は進み、あっという間にシルバーウイーク
仕事が忙しくて現実逃避したい友達と、試験勉強を続けてきた自分へのご褒美が欲しい私
トントン拍子に決まらないわけがない

ということで、ドイツ・スイス・フランスへ行ってきま~す
フランクフルトからリューデンハイムへ。
ライン川・ハインデルベルグ・ローテンブルク
ロマンチック街道からフュッセンへ。
ノイシュバンシュタイン城
チューリッヒからツェルマットへ。
マッターホルン・ゴルナー氷河
ジュネーブからパリへ。
セーヌ川・エッフェル塔・ノートルダム寺院
モンサンミッシェルへ。

基本は成田とフランクフルトだけど、シャルルドゴールも乗り継ぎするんです
すご~い。
なにがすごいかというと、開高健のエッセイに登場する空港だから
疲れた旅行者がトランクに腰をかけ、「体だけが先に来てしまった。今、心の到着を待っているところだ」というあの場所
倉本聰さんが講演会の結びに使っていたのだが、このエピソードをいたく気に入った私。今回の旅行日程にシャルルドゴールがあることを知って、キタキタ、前兆むっしっし~と興奮してしまった。

職場の同僚には一人一人に、お休みをもらう旨お願いしてきたが、みんな快く送り出してくれた。ある人は体を心配してくれ、ある人は餞別渡さなきゃ~と言ってくれ、さらに帰国した次の日も休んだらよかったのにと気遣ってくれ…、なんていい職場なんでしょう。
当面の仕事は全て処理してきたけれど、なかなかそんな風には言えるものではない。帰り際、わざわざ追いかけてきて、やっておくべき仕事とかあればやっておくよ。大丈夫と声をかけてくれた先輩もいた。
係長なんて、「旅行中ずっと天気に恵まれ、輝かしい毎日でありますように。気を付けてね、無理しないでね」と温かい言葉をくれた。思わず私、拝んでしまいました。ジーン
ありがたいなあ。帰ってきたら仕事頑張ろっと

みなさまにとって素敵な連休となりますようお祈りいたしております。

では私だけの光を捜し求めて旅人になります。
行ってきま~す

絶えず流れゆく

2009年09月20日 | 心=ハート
独立系FPを目指すブログが、農業日記になりつつある今日この頃

本日の収穫です


誰しも知っているオクラですが、花はなかなか見ないと思います。



午前6時ではまだ気温が低く、花は開き始めたばかりでした。
オクラの花と芙蓉の花、とても似ていますね



アゲハ蝶が羽を休めていました。大きなオクラの葉っぱが気に入ったようです



今週は毎日、秘伝の枝豆で晩酌、グビグビグビ~



苦~い皮が大人の味アケビももうすぐですね。

さて、県内最大の公募美術展として、歴史と伝統を誇る第64回県総合美術展(県美展に行ってきた。
知り合いの画家さんから招待券をいただいて毎年足を運んでいる。
今年も日本画、洋画、彫刻、工芸4部門の入賞・入選作など494点の力作が並んだ。
普段はあまり見ないが、日本画は良かった。一方、彫刻や工芸はおしかった。なぜなら、「この作品、どうなってるのかなぁ」と興味を持っても裏側が見えない・・・つまりたくさんの作品を受け入れ」すぎて、展示のスペースに余裕がないのだ。痛し痒しであるが、素人目からしても、ちょっともったいない気がした。

常設展のうち、
吉野石膏コレクションには必ず立ち寄る。大胆不敵にもシャガールピカソに囲まれたソファーで寝てしまった
しばしの極上空間、ありがとうございました。



引き続き、女流美術展へ。
こちらは名前の通り、県内で活躍されている女性芸術家による作品展で今年で21回目となる。
楽しみだったのは、ある先生の作品。
私が小学校4年生のときに、読書や山登りやネパールの勉強をさせていただいた「自由学校」という課外活動の先生の奥様が出品されているのだ。
これまでネパールの作品しか見たことはなかったが、今回初めて見る静物画も人柄がにじみ出るような優しいタッチだった。先生が亡くなられてだいぶ経つが、相変わらず描き続けていらっしゃる奥様のご様子を伺えただけでも行ってよかったと思う

そして夜は志の輔落語を聞きにいってしまったわけで、(口に出してはいけないと知りつつ)やっぱり忙しい。
もちろん分かっている。自分で忙しくしているってこと。
そしてその優先順位のつけ方は、自分にとって
楽しいこと~
昔から全然変わらないなぁ


自分のことを知るのは、他人のことを知るよりも時にずっと難しいことである。
それでも自分が惹かれるもの、惹かれる人、惹かれる言葉を集めてくると、なんとなく自分ってこういう人間なんだなぁと分かってくる。

幼稚園か小学生のときだったか、「あぁ家族」という昼ドラがあった。
その主題歌は、沖縄民謡の「花~すべての人の心に花を~」
なぜかその歌がすっかり気に入り、

泣きなさい 笑いなさい
  いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ

とその身空で歌っていた

今でもこのフレーズは大好きだ。

川は流れて どこどこ行くの~
  人も流れて どこどこ行くの~

そして相も変わらず、

苦しいときには、水を想え
  悲しいときには、風を想え


良寛のように、「こだわりを捨て日々を楽しむ。水のように、風のように。」

また、道元のように、「ゆるゆると水の流れのままにきて、咲く花を追っていくうちにここに至りました。」なんてカッコいいじゃいですか。

はたまた、
老子に学ぶ、「上善若水 水のように生きるのが最高の生き方である。」

水とは柔らかくも強い。万物に恵みを与え続けているのに威張ることなく低いほうへ低いほうへと流れていく。
謙虚だねぇ

なるほど、私はこういう人間になりたいのだな
「なんだか最近分かってきたぞ~

しかしこういうことを口に出すと、途端に分からなくなる・・・。だからこそっとしかいえない。
私だけかもしれないが、「これはきっと自分にとって何かいいことに違いない」と見越してやると、なぜか失敗に終わったりする。それと同じだ。
原理はわからないが、そういう思い上がりを抱いた瞬間に周りが変化し、また自分は振り出しに戻ってしまうのだ。いつまでたっても成長したかと思えば逆戻り・・・
皮肉なものだ。

謙虚であれ、素直であれ、
とは、真理なんだね。



自然と繋がることをテーマに…

2009年09月19日 | 自然

フード・マイレージ (food mileage) という言葉がある。
これは、「食料の ( = food) 輸送距離 ( = mileage) 」という意味。
食品の生産地と消費地が近ければフード・マイレージは小さくなり、遠くから食料を運んでくると大きくなる。基本的には「食料品は地産地消が望ましい」という考え方に基づく。生産地と消費地が遠くなると輸送にかかわるエネルギーがより多く必要になり、地球環境に大きな負荷を掛けることになるほか、生産地と消費地が異なる国で発展途上国先進国という組み合わせだった場合には特に顕著だが、生産地が消費地からの大きな経済的圧迫を受けるといった問題も指摘されている。フード・マイレージの数値が大きければ大きいほど、その消費地は食料に関して贅を尽くしているとされる。(wikipediaより)
ご存知のとおり、自給率の低い
日本のフード・マイレージは、群を抜いて世界一位・・・なのである
つまり、国産の、できるだけ近くの地域でとれたものを選ぶことで、エネルギー消費もCO2排出量も削減でき、それだけで大きな地球貢献ができるということだ。これからは環境破壊型の食品の消費をより少なくし、その分より品質の良いものを選ぶことがロハス(地球と健康のためによい生き方)には欠かせない。

もう何年になるだろうか。
我が家では毎年、契約農家から玄米を買い、それに黒豆を炊き込んで、毎日の主食としている。もちろん黒豆は無農薬の自家製・丹波黒である
今年の丹波黒も順調に成育し、収穫の時期となりました


乾燥させて、並べて、一つ一つ房を割って・・・



黒豆の登場



環境にいい暮らしは、いろいろと我慢することと思いがちだけど、実はより楽しく、美しく、安らかで、「美味しいこと」なのです

ついでに、本日の食事は~
庭からシシリアンルージュトマトとバジルとルッコラとサニーレタスを摘んできて、保存しておいたニンニクと紫タマネギを使った「パスタ」と「サラダ」でした
  

う~ん、幸せ
時にチョウチョが戯れ、小鳥が駆けまわる
人間の暮らしとはなんとつつましやかなものであるか・・・

もっと豊かに、もっと効率的と、次々にモノが生まれた。
日々の暮らしに「時間」を生み出すためにモノが作られた。

だけど、みんな口癖のように言っている。「忙しい。いそがしい。イソガシイ・・・

先日の講演会で倉本さんが言っていた。「富良野自然塾で、『子供のために死ねると言う人は手を挙げてください』と40~60代の母親たち60数人に問うたら、手を上げたのはたったの6人だった。これには驚いた。孫が可愛いとよく聞くから更に聞いてみた。3人だった・・・。今の親たちは、何か別の遊びとか、目新しいものに目が行って、子供のための愛の蓄えが少ないんじゃないか

ヒロシマで原爆にあった母親たちはみな同じ姿勢で被爆した。子供を守ろうと必死で子供に覆いかぶさり母親は背中から焼け焦げて亡くなった・・・。自分の命を分けた分身だから命を引き換えに出来る。ガイアシンフォニー第五番」は「誕生」がテーマである。リアルな出産シーンには何度も涙が出る



横着して、命を分けるような育て方をしていない今の母親には、自分の子供のために死ぬような覚悟は出来ないということ・・・。
でもなぜそうなったのか・・・
それは「便利」になったからに他ならない。なんとも皮肉なものである。
「昔の母親たちは家事が大変だ、育児が大変だ」とは言わなかった。それが今では何もかもが便利になり、それに慣れきってしまった親たちが、大変だ、大変だ、という。

今日はまた変わったところで、「ためしてガッテン」でおなじみの立川志の輔さんの落語を聴きにいった
モノにあふれた生活を笑いに変えた「志の輔らくご」の導入で、「本来、時間を作るためにモノをがある。それなのに一向に暇にならないのはなぜかそれは時間がないのではなく、充実感がないのが原因だ。かつて自分の母親が、かまどで炊いたご飯を自信たっぷりによそう時、何時間もかけて洗濯した大きなシーツを誇らしげに広げる時、あの、『どうだー』といわんばかりの姿には圧倒された。しかし母親からは一言も「忙しい」とは聞いたことがない。自分でやらないと何も起こらないのだ。携帯しながら掃除機かけて忙しい、忙しい。充実感などあるわけがない。」

山に登っていると、自分は生かされている存在だと気づかされる。
自然を相手にしては人間は無力だ。
山で出会うカモシカや野鳥となんら変わりはない。
これからは「自然と繋がる」ことをテーマとすべきだ。
自然と繋がるためには効率を優先させない、競争しない。そうすると時間はゆったりと流れる

とべ とべ クリキンディ
とべ とべ クリキンディ
とべ とべ
わたしは わたしに できること
あなたも あなたに できること
火を消すための ひとしずく
命のための ひとしずく ・・・
「とべ、クリキンディ~ハチドリの歌より」


未来を創造するエコロジー

2009年09月17日 | 自然

ハチドリのひとしずく-いま、私にできることというを知っていますか?
この物語は、南アメリカの先住民に伝わるお話です。

森が燃えていました
森の生きものたちは われ先にと 逃げて いきました
でもクリキンディという名の
ハチドリだけは いったりきたり
口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは
火の上に落としていきます
動物たちがそれを見て
「そんなことをして いったい何になるんだ」
といって笑います
クリキンディはこう答えました
「私は、私にできることをしているだけ」

明治学院大学国際学部教授で、環境=文化NGOナマケモノ倶楽部主宰の辻信一さんが訳した短い話である。
素直な私は、先日の
倉本聰さんの講演会以来、ハチドリが水を運んだように、倉本さんが木を植えたように「私ができることは一体何なのだろう・・・」と考え込んでいた。
「影響力のある人がやるから意味があるのか、小さな個人の行動は無力なのか。それあるならばすでにある組織に寄付を拠出すべきか。」いや、大事なのは、他人が考えた大きな事より、自分で考えた小さな事のはず。アーヴィンラズロ博士が言うように、私にも変化を起こす力があるのだろうか。自分が投じた一石がやがて大きな波紋となってバタフライ効果を起こすことがあるのだろうか

「認知とは、そこにある世界を表現するものではなく、むしろ生きるという過程そのものを通して世界を提案することである。とりわけ人間である私たちが持っている唯一の世界は言葉や相互作用を通して私たちが共に作り出していくものでもある。それを知って始めて『私たちの世界や地域社会や組織は私たちが変わってこそ変わる』と必然的に考えることになる。・・・そこから生きる未来を創造することになる」という「シンクロニシティ 未来をつくるリーダーシップ」のある一部分を思い出す。

また、ガイアシンフォニーの龍村仁監督は「魂の旅―地球交響曲第三番」の中で、
「一人ひとりの小さな「選択」の繋がりが、私たちを取り囲む大きな「現実」をつくっている。その「選択」の背後に、「自分の生命は、自分をはるかに超えた大きな生命の繋がりの中で生かされている」という気付きがあれば、日常の小さな選択の中で小さな変化が生まれる。その小さな変化の繋がりが、必ず大きな変化を生む。なぜなら、全てはあらかじめ繋がっており、さらに最近の技術文明の進歩がその繋がりを速く、より多様に、より緊密にしてゆくからだ。ひとりの人間の小さな選択の変化は、決して無力ではない。小さなひとりの人間の変化こそが大きな変化をつくる。」と言っている。

さて、燃えていたあの森は、その後、どうなったのだろう。
燃えてなくなってしまったのか、それとも・・・。
クリキンディの周りには、1羽、2羽と次第に仲間が集まり、100羽、1000羽とあっという間に火事を消しまったとさ・・・というエンディングであってほしい。

話はこれだけの短い民話なのだが、気になっていたので昨日書籍を手にとってみた。
後半には、坂本龍一さん、中嶋朋子さん、CW・ニコルさんなど16名の「私にできること」をしている人々が登場する。
私が思う、てい大事「知足」と「愛」彼らのインタビューを読んでいると、エコロジーの鍵は、幸福の源は「足るを知る」ことであるという思いが確信的になる。

まず、日々の暮らしの中で何気なく消費しているエネルギー、水、食べ物・・・それらを見直す必要があるのではないか。日本は、これまでの経済競争のレールから降りて、美しい三等国になればいい。食べ物が美味しくて、風景が綺麗で、自然が豊かで・・・古くて新しいライフスタイル。大自然に生かされているという意識を呼び戻そう。
「1本の木には千の鳥が住む」ということわざがあるが、今はあまりに小さく無力に見える種子も苗木も、やがては何千という虫や鳥の住処となるように、「あなたが育てているのはただの木ではない。小さな宇宙なのだ。」
「環境問題にしても、これからは問題を解決するのではなくて、問題を招かない生き方をすることである。」実は「今日もいい日」と感じられるだけで、感じるというだけで多くの事が解決されていくのかもしれない。

あるのは、やり方ではなく、あり方だ (老子)

さて、「金の鳥-クリキンディ」について語る辻信一さんの解説の中に、「あぁ、なるほど」とこれまでとは違う解釈で絵が見られるようになる「パラダイム転換」の教訓があった。

この小さな物語の中には、たくさんの教えがつまっています。たしかにクリキンディは、小さなからだに似合わぬ大きな勇気をもっているように見えます。
それにしてもなぜ、ほかの動物たちは山火事を消そうともしないで逃げ出してしまったのでしょうか。それは彼らが意気地なしで卑怯だからでしょうか。
大きくて力もちのクマは、しかし、幼い子グマたちを守るために避難したのかもしれません。脚の速いジャガーは、しかし、うしろ足で火に土をかけることに気がつかなかったのかもしれません。雨を呼ぶことができる雨ふり鳥たちは、しかし、水で火を消せるということを知らなかっただけなのかもしれません。
この本の絵を描いてくれたのは、ぼくの長年の友人であるカナダ人の先住民族ハイダのマイケルです。彼との打ち合わせの中でこんなやりとりがありました。ぼくの最初の英訳の中に「普段大威張りの大きな動物たちが・・・ハチドリをバカにして・・・」という表現があり、彼はそれにひっかかったのです。「これではハチドリが正義で、ほかの動物たちが悪だ、という話になってしまう」と、彼は感じたというのです。先住民に伝わる元々の話にそんな善悪の区別などなかったのではないか、という彼の意見にぼくは心を開かれる思いがしました。
また、マイケルはこうも言いました。
怒りや憎しみに身をまかせたり、他人を批判したりしている暇があったら、自分のできることを淡々とやっていこうよ。クリキンディはそう言っているような気がするんだ」

あまりに大きな問題にとりかこまれている私たちは、ともすれば無力感に押しつぶされそうになります。でもそんな時は、ハチドリのことを思い出してくださいね。
物語の続きを描くのはあなたです


変わり者が語る「原因と結果の法則」という真理

2009年09月16日 | 自己啓発


社会人になってから初の長期休暇に向けて密かに準備中
ドキドキ~ワクワク~
試験終了後、初の関門が有給願いでした。
もともと夏休みや冬休み、リフレッシュ休暇などのまとまった休みがない職場。
おまけに旅行好きの同僚もいないので「何?何連休!?」と数えられてしまった
そして「今度どこの山や~」「よく行くね~」「山なんか信じられない」と相変わらずの変わり者呼ばわり。
それは私にとっては大いに結構。 だって他の人にすべて分かってもらえるとは思っていないし、何とでもお好きに評価してくださいな、といったところ。
なんと小学生のときから「自分は自分、他人は他人」と発言していた私。
「変わっているね」の言葉でさえ今や褒め言葉である

先日、大学の先生と食事していて、読書から登山、仏教、成功哲学に至るまであれやこれやと話していたら、「やっぱり変わってるよね~、その年で普通いないよ」と言われてしまった。
私には普通なんだけどなぁ
そうなんです。みんな無意識に「あの人変わっている」というけれど、どこかで思っている、
「自分以外の他人はみ~んな変り者」だって・・・。
「変」「普通」の基準って何だろう。どこ?誰の?
それは間違いなく、自分の、でしょう。その枠から外れると「変わっている」ことになる。
そして自分パラダイムからは想像もつかない行動をする人を「変わり者」と一線を画するわけだ。
「あの人、理解できないわ・・・ブー

例えば何かにつけて原則やルールを盾にとって他人を避難する人っていないだろうか。
それは自分の考えやこれまで経験に照らしていえば「正しいこと」なので、相手を傷つけていることにも気付かない。
でも実は、これも自分の身を守る術だったりする。それに自分が指摘されることは気づきにも通じる。
だから必ずしも全てがマイナスとは限らない。
つまりは受け手の選択次第である。だからむやみに落ち込むこともない
どうぞどうぞ、何とでも言ってくださいな~
あまり言うとふてぶてしいが、自分を知っているとはいちいちぶれないということでもある。
ただし、ここで注意すべきはただ一つ
自分もどこかで同じように他人を違う人種だと決め付けて避難してはいないだろうかということ。
他人が犯す過ちは自分もやってしまう可能性があることを忘れてはいけない。
「賢い人とは、自分の心をコントロールしている人であり、愚かな人とは、逆にそれにコントロールされている人である。…自分の心をコントロールしていない人は、真の意味では生きていない人である。」
(「きっと!すべてがうまくいく」ジェームズ・アレン)

今年2月に読んだ際、「環境が人を作るのではない。環境は私たちに、私たちがどんな人間であるかを知らせてくれるだけ。…結局、私たちは、どんなときにも、自分が学び成長を遂げるために最適の場所にいる。そして、私たちがある環境で必要なことを学ぶと、その環境はまもなく、次の新しい環境に取って代わられることになる。」という言葉にも付箋をつけていた。
出会った瞬間、ズバリと言い当てられたことに衝撃を受けた
経験的にそうかもしれないと思い始めた矢先だったからだ。
これは人と人との出会いと別れを示唆しているだけではなく、人生には何一つ無駄なものはないというメッセージでもあり、ひいては人間は果たすべき使命を持ってこの世に誕生するという生きがい論でもあると思うのだ。
今日、会議の後片付けをしながら、現在妊娠中の同期に話した。
「赤ちゃんはあの世からこの世に来るとき既に自分の使命を持って、それを果たすため覚悟してあの男性とあの女性の間に生まれよう、エイっとお腹に入るんだってだからお腹の赤ちゃんはここを選んで来たんだね

「人はそれぞれ「自分らしく成長する」ためにこの世に生まれてくる。自らの魂を磨くために、それが喜びであれ、苦しみであれ、必要な出来事を、自分で自分に引き寄せる。つまり、自分に起こることがどんなことでも、自分の益になるように、自分で選択して、引き起こしているのである」(ベティー・イーディー)の言葉には、大きくうなずいてしまう。
私は時々本気でうちの両親を、この家族を、自ら選んだのだなぁと思うのである
それは例えばエニアグラムで私は「タイプ7」であると診断されたとき、「そっか~、だからこの両親の子供なんだなぁ。私にとって最高の場所に生まれてきたんじゃん」と逆に納得したくらいだ。
しかしその同期は、「え~っ、絶対自分はうちの親を選んできていないよ。ありえない」と言っていた。
どうやら小さいときから両親との関係がよくないらしい。特に母親とは一緒にいて半日が限界と言っていた。
実はそれも自分の果たすべき使命の一つかもしれないのだが…。

読んだ人の9割が涙した感動のストーリー、野口嘉則さんの鏡の法則 人生の問題を解決する魔法の知恵を思い出した。
SBC読書会の課題図書「7つの習慣」の副読書として推薦されたこの本はPDF「鏡の法則」でも読むこともできる。
確かに泣ける・・・非常に仲のいい家族に生まれ落ちた私でも泣けた 同期はこうも言っていた。
「こないだ性別を調べたらね、男の子だったの。それがさ、うちの母親、なんて言ったと思う『な~んだ、男の子か、女の子がよかった』だって。それってひどくない?初孫だしどっちでもいいじゃん。それなのにいつもいつも一言余計なんだよね。ホント頭にくる
なるほど、確かに言われたくないかも・・・。
なんて返したらいいかわからず「そっか~」と聞いていたが、その後、「もしかしたら、お母さんにとっては、娘がいたことが嬉しかったんじゃないのだからあなたにも女の子を産んでほしいなぁって思ったのかもよ」と言ってみた。
最初彼女は目を白黒させていたが、「いや、うちの母親はそういう人ではない。ホント私とは合わないんだよね。」とどこかに行ってしまった・・・。 ダメだこりゃ。それって、彼女とお母さんが似ているから頭にくるんだろうなぁ・・・と思ったけれど、本人には口が裂けてもいえません

「あなたの周りの人たちは、あなたを映し出す鏡にほかならない。」という「原因と結果の法則」は、その働きを永遠にやめることはない。そして何よりも、この単純な真理を忘れないことである
元気な男の子を産んで、慈しみ育ててね


内なる自分に還る

2009年09月15日 | 心=ハート

本日よりブログ復帰いたします
9/13のFP技能士1級試験を持ちまして、ついに今年の試験が全て終わったんです
「今年の」とは年頭に立てた目標の中でという意味ですが、それ以上に、民間資格・国家資格含めて現在日本にあるファイナンシャルプランナー試験が全て終了したという意味では非常に感慨深いものがあります。
シミジミ長かったなぁ~
その間本当にいろんなことがありました・・・。でも長い人生からすればほんの数年。初めて自分の意思で勉強した中身の濃い3年間でした。
そして「本当の自信は自分で築くしかない」と3年前に思ったことはそのとおりでした
見た目や若さでチヤホヤされるのは20代中ごろまで
それなのに私は生きる力を養ってこなかった。
何かあるとすぐにクシュンと萎んでしまう自分の弱さと、周りの人や何か一過性の楽しさに逃げ道を求める甘さにいい加減嫌気がさし、そんな自分も嫌いで、そこから自分は一体何を望んでいるのか、どういう人間なのか・・・考え悩んだ
自分のことを知らないと何がしたいのか、何をすべきなのかもわからないから・・・。
「食」「数学」が好きということを確信しFPに絞るまでも結構な時間を要したが、決心してからは2007年に2級・AFP、2008年に
CFPを取得し、2009年に1級 一直線で順調そうに見えるが、実はその間も随分悩んだ
私はわざわざ大変な道を自ら選んでいるのではないかと・・・。またこれが何になるだと不安になって・・・。
FPの金融・タックス・リスク管理・相続授業承継・不動産・ライフリタイアプランニングの試験内容のいずれもゼロ知識からのスタートだったから、時間がかかったし何より孤独だった
FP資格が何の役に立つのかは今でもわからない。職場には言っていないし、今の仕事では活かせないし、資格としてメジャーではないし、言ってしまえば3年前と日常は何ら変わらない。

ただ言えることは、「自分を好きになった」ということ、「今が幸せだ」と心から思えるようになったこと
FPを勉強したこの期間は自分を知るための精神修行だったように思う。
一人の時間が人間を最も成長させる」と言うが、それが腹落ちする今である

1級試験の勉強は3週間しかできなかった。
扉を開く前から勝負がついていたとさえ思える
社会保険労務士試験直後から始めたからだ。
CFPのテキストをひっぱりだしてきて六科目満遍なくやるのは至難の業だったが、すっかり忘れてしまった知識(笑)を2級の過去問で取り戻し、そこから今年の税制改正と論述対策、やっと1級過去問に入り、あっという間に当日。長い人生の中の、たった2時間の本番だった。

実は今回初めて感じられたことが2つあった。
1つは試験(勉強)が楽しかったこと。もう1つは孤独の辛さを感じなかったこと。
数日前にたまたま目にしてメモしていた
明鏡止水という熟語がしっくりくる心境であった。
これは
アルケミストの知恵かもしれないけれど、自分には応援してくれる家族、友人がいる。
さらに素粒子レベルのエネルギーも、つまりは大宇宙が後押ししてくれている。

「全ての存在は繋がっている」アーヴィン・ラズロ博士)
捉え方一つで、気持ちは変わるもの
実は一人で向かう試験会場は一人じゃないんだと思った。
持参した鉛筆も消しゴムも、3年間叩き続けた(笑)電卓も当日の勝負服も、見る暇はないのに安心料と携えるテキストも、全てを知っている仲間なのだ。

昨日、大リーグ史上初の9年連続200安打を達成したマリナーズのイチローは、道具を愛する選手としても有名だ
毎日スパイクやグラブを磨き、自らを愛するように道具に命を吹き込む。
すると道具は道具ではなく無二の親友のように呼応し、対話し、自分の一部と化すのだろう。
だからこそ本番で最高のパフォーマンスが披露できる

私は最終的に「試験とは満身創痍で自分が取り組んできたことの成果を発揮する最高のアウトプットの場だ」と思うことができた。
邪念なく、澄み切って落ち着いた心でそう思った。
そしてその心の正体は

やはり「感謝」という言葉に尽きるだろう。
(3年前にはオロオロしていたのに、強くなったなぁ私

道具に毎日「ありがとう」というのはちょっと気持ち悪けれど、そういう気持ちは大事にしたい。
せめて応援してくれた人には折りに触れて言葉にしたい。
「いつもありがとう

この試験が終わったら・・・の野望が膨大に膨らんでいた中、ついに自由を得た昨日はまず本屋さんへ
次に帰宅して真っ先に見たのは
ガイアシンフォニーのDVD 

地球交響曲第五番 予告

ラズロ博士は著名なピアニスト・物理学者・哲学者であるとともに、世界賢人会議「ブタペストクラブ」の会長を務め、原子・人間・宇宙に存在する一貫性のある原理・構造を探求する「システム哲学」を提唱し発展に努めている方だ。
ニューヨーク州立大学教授、ベルリン国際平和大学理事・教授、国連調査研究所所長、ユネスコ顧問など多様な役職を歴任し、04年と05年にはノーベル平和賞候補にも挙がった。著作も多数出版されているいので、ご存知の方も多いだろう。
「内なる自分に還る」も博士の言葉である


「広く、全人類のため、すべての自然のため、ガイアすべての命のため、そして未来のために生きることが大切なのです。自然は無限の叡智をもっています。自分の内なる直感を信じ、自然との一体感を取り戻したとき、自然の無限の叡智が自分自身のものとなります。ただ、自分自身に戻ればいいのです。・・・ほんの小さな力でも正しいときに、正しい場所で正しい方法で発揮されれば全地球規模の変化を起こしうるということなのです。一人一人の中に変化を起こす力がある。力があるからこそ責任もある。未来を開く鍵は、自分の中にその力があることを知ることです。自分自身が変わることによって世界を変えるのです。」

まだ書籍を手にとったことはないが、ラズロ博士の考え方は今後ますます重要な意味を持つはずだ。
これまでブログで書いてきた
レイチェル・カーソン星野道夫倉本聰にも通じる、つまり私の感性に触れる「智慧」であることは間違いない。
智慧ね、
智慧・・・真理を明らかにして悟りを開く働きのこと。
まだまだ一生、勉強ですなぁ

昨日、韓国の栞をお土産にいただいた。
役員の先生から「いつもお世話になっているから」と、なぜか課長と私の二人だけに
「それにあなたはきっと本を読むだろから」って。
私はただ仕事をしているだけなのに、そんな風に見ていてくれる人がいると思うと明日への活力になります。
命がイキイキしてきます。嬉しいなぁ、ありがとうございます

今日はたまたまアルピニスト・野口健さんのインタビューを目にしたたまたまというより、その雑誌に出ていることは知っていたので読みたいと思っていたところ、会社に届く献本の中に発見
そして昔読んだ植村直己さんの「
青春を山にかけてを思い出した。
野口さんが登山をするきっかけとなった本だが、私も大好きだ
植村さんは五大陸の最高峰登頂、アマゾン河6,000km単独筏下り、犬ゾリ単独行で北極点到達、そしてマッキンリーで消息を絶つまで数々の偉業を打ち立てた歴史的な冒険家にもかかわらず、謙虚で、素直で、明るく優しい。自分に対しては劣等感を抱き続け、それをバネに数々の冒険を成功させたといっても過言ではない。
何度でも読みたい一冊である
読みたい本いっぱ~い。
見たい映画もいっぱ~い。
旅行もして、登山もして、絵も描いて、野菜も作って、料理もして、食の勉強をして・・・、幸せだなぁ

これからはあまり頑張らないネタもさらさらっと書いていきますので、今後とも
コム・デ・カオリをよろしくお願いします


倉本聰さん講演会「当たり前の暮らしを求めて」~今、自分に出来ることを考える~

2009年09月04日 | 講演


北の国からファン必見!北海道富良野市を拠点に活動を続ける倉本聰さんの講演会に行ってきた(8/27・山形)私にとっては社労士試験が終了しFP1級試験へ向かう前の命の洗濯でもあった。冒頭、倉本さんは山形県上山市に学童疎開をしていたそうだ。

代表作に「前略おふくろ様」「北の国から」「優しい時間」「風のガーデン」など多数。昭和59年より若手俳優・脚本家養成の富良野塾を開設。また、富良野の大自然のフィールドの中で五感を鍛えることを通じて環境について考える富良野自然塾を主宰。→富良野塾・富良野GROUPホームページ
現在
、富良野演劇工場では「富良野塾」の出身者らが出演する「歸國」を上演している。倉本さんが7年ぶりに脚色した新作舞台である。物語の舞台は、先の大戦から60年あまり過ぎた現代の日本。終戦記念日の深夜の東京駅に1両の軍用列車が到着する。ダイヤには記されていない、その軍用列車には南洋で玉砕し、海に沈んだ英霊たちが乗っていた…

原作は棟田博さんの小説「サイパンから来た列車」であるが、大きく違うのは英霊たちが今の日本を見て愕然とするという点。「今の発展した日本を英霊たちが見たらどうだろう。安心するだろうか。僕はがっかりするのではないかという気がしてしようがなかった。英霊の側の視点に立ったとき、今の日本の何に腹を立てるのか、それを探っていった。」この作品の絞めは恥を知れである。恥を知ること、誇りを持つこと、倫理感を持つこと…日本の今のあり様を厳しく問うている。

来年3月に閉塾が決まっている富良野塾では、畑を作り一人1日280円で共同生活をしてきた。金がないから最も安い米を買い、捨てる野菜を拾い、やまべ山麓デパート(これでピンと方は立派な北ファン!’95秘密で純とシュウがデートしたゴミ捨て場)から家財を集めた。それがあるときから190円で暮らせるようになった。理由はコンビニの廃棄弁当を拾えるようになったから。東京のホームレスが糖尿病になるくらいだから、マイナス25度の北限のホームレスだって食うに困らない時代だ。
彼らに生活費需品を聞いてみたところ、?水?火?ナイフ?食べ物だったが、澁谷の若者の答えは、?携帯?金?テレビ?車だった…どっちが根本か、何が当たり前か、我々にとって本来の座標軸はどこなのか。
1.豊か
豊か
とは金がたくさんあるだけではなく、「リッチにして幸せなこと」である。戦後日本を振り返ると電化製品が普及するにつれて家庭の中の幸福感は減ってきたと感じる。ラジオしかなかった時代、テレビが家庭に1台だった時代は家族が感動を分かち合った。家族が炉端を囲んだ時代には父や祖父から倫理観を刷り込まれた。今でも時々俳人だった父の匂いを思い出すが、それは幸せの原点だ。最近は親の寝息、子供の寝息をしらない者が多すぎる。それは便利になったことの弊害でもある。
2.便利
幸せが便利に置き換わっているようだ。便利とは本来持っているエネルギーを使わずケチることのような気がする。テレビも5メートル歩けば付くのにそれをケチってリモコンを作った。「そうして筋力が衰え、金を払ってジムに行き、何の生産性も無い重い物を上げたり下げたり、どこへも行き着かない自転車をこいで…僕から言わせると、ホモサピエンスから抜けてホモサスペンスだね」便利さと引き換えに我々は何を失ったのか。
3.前年比
現代人はどこまで果てしない欲望を広げていかないと気がすまないのか。走り続けた先にゴールはあるのか。戦後瓦礫から這い上がり、三種の神器を手に入れ次に3C…いつまでゴールを設定し続けるのか。あるところで満足してはいけないのか。これは日本の国家に対する疑問である。
4.あたり前
ここ何年もあたり前を考えている。英語ではナチュラルだろう。つまりネイチャー自然のおきてに従うこと、自然に戻ることが最も重要でそれが漫然としている状態。大げさなことではない。
「富良野塾起草文」
あなたは文明に麻痺していませんか
石油と水はどっちが大事ですか
車と足はどっちが大事ですか
知識と知恵はどっちが大事ですか
批評と創造はどっちが大事ですか
理屈と行動はどっちが大事ですか
あなたは感動を忘れていませんか
あなたは結局何のかのと云いながら我が世の春を謳歌していませんか
現代社会は石油に頼っている。もともと2兆バーレルあった石油は今1兆2000億バーレルしか残っていない。これは琵琶湖の7杯分、富士山ではなんと17、3~4合目から頂上までの体積分しかないということ。このままでは漁業も農業も立ち行かなくなる。
NHK
と喧嘩して気付いたら富良野に来ていつの間にか住んでいたという倉本さん。まずがいると思い、近くに湧き水を発見した。市からも申し分ない水量と水質とのお墨付きをもらったが、数年前に突然枯れた。同時に一帯の井戸が枯れたので独自に調査したところ、原因は前富良野岳の開発に違いないと中止を求めたが却下されてしまう。そこから森と水との関係に興味を持ち、それがやがて富良野自然塾へと繋がる。
日本人は1日に300~400?の水を使う。東京都は1日に48億?の水を供給している。その水はもともと森で蓄えられる。なぜ森で蓄えられるかというと葉っぱがあるから。葉っぱが何層も重なっているお蔭で水が蓄えられ、夏は涼しく冬は暖かいのだ。その葉っぱは光合成で二酸化炭素から酸素を作り出す。動物と森との相互関係には葉っぱで成り立っている。それなのに人間は木ばかりを見て森を見ていなかった。木材のために葉っぱを捨て幹を切り出してきた。「文明の前に森林があり、文明の後に砂漠が残る」は誠に言い得て妙である。
3~4年前から富良野のゴルフ場跡地を森に返そうと木を植える活動をしている。それは幹を取るためではなく以前の森のように葉っぱを生やすため。15年で15万本を目指しているが、現在3万3千本。植林といってもただ植えるわけにはいかない。まず森から種を集め、畑で芽を出し、苗木にして1本1本植えて根を張らせる。そこまでに既に2、3年かかっている。15年もしたら今植えた木が自然に種を落としてくれるだろう。
環境先進国のドイツでは国民の意識を変えるのに30年かかったそうである。環境は学問では意味がない。身近な問題にちりばめて教えていくことだ。学者は自分が知っていることを難しく喋りすぎる。「だから何だってんだ!」と言いたくなるし、最近は何でもカタカナ語を使いたがる。もっと感覚的に演劇的に分かりやすく教えたらどうか。

富良野自然塾では数字の知識でなく、感性や感覚で宇宙と地球を捉えようと直径1メートルの石の地球を置き、人類は表面のどの程度の厚さで生存しているのか、宇宙ステーションの軌道はどれくらいの高さか、月はどのくらいの距離でどのくらいの大きさか、太陽はどうか…すると人類はその微妙な大きさと距離で偶然生かされているだけの脆い存在だということがわかる。
アメリカン・インディアンには「地球(自然)は子孫からの借り物」という諺がある。アイヌ民族の萱野茂先生は「昔、アイヌはその年の自然の利子の一部だけで、食う事も着る事も住む事もやっていた。だけど今の日本人は自然という元金にまで手をつけている。元金に手をつけたら、利子はどんどん減っていくという事を、これだけ経済観念が発達した日本人にどうして分からないのだろう。」と言っている。

「その答えは自分にはわからない、まだわからないからいいのか。だから僕は木を植えるしかない
木を植える活動を始めてから腰を痛めて杖をついて歩いておられたが、役者や演出家を育成する富良野塾、自然環境を考える富良野自然塾、著書やドラマの言葉に留まらず、現実の活動に結び付けている倉本さんの凛とした姿に感銘を覚えた。そしてこれからも私はもう一つのドラマとして、倉本さんの活動を注目していきます!
「社会貢献」というと、大きくて堅いテーマだが、山火事で獣達が逃げる中、「僕にできることはこれだけ」とハチドリが口ばしで水を運んだ南米の民話「ハチドリのひとしずく」のように「今、自分に出来ること」は何なのだろう。今は「ハチドリの一滴」に過ぎないけれど、きっとまだ間に合うはず。みんながやれば変わるはず。
真の文明社会はエコロジーカルチャーエコノミーの三本柱
がバランスよく保たれなければならない。しかし日本はすごいスピードで経済ばかりが発達し、が追いついていない。開高健
さんのエッセーに登場する旅行者のように、たまにはトランクに腰を下ろして、「心の到着」を待ってみてはいかがだろうか。