昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

私が生まれ育った昭和という時代3

2012-01-13 13:46:35 | 昭和の思い出
家族で出かけるのは下町だったから上野か浅草であった、それぞれ電車で30分ほどだった。
明治生まれの父親はそういう時帽子(カンカン帽)を被った。

動物園に行ったりもあったが、多くはデパートでの買い物であった。
両親のあとを4~5人の兄弟がゾロゾロ付いて回る、時に弟の行方が分からなくなる”迷子”事件もあったりした。
デパートの屋上には大体子どもの遊戯施設があってそこで暫し楽しんだ(浅草は松屋、上野は松坂屋)。

食事はデパート内の大食堂、父親はたいがい酢豚を頼んで生ビールを飲んでいた。我々は五目中華ソバ類であったのではないか。外食など滅多にしない時代、大食堂に入るのは嬉しかった。
後年、この松屋デパートにエスカレーターが設置された、初めて乗るときは足がすくんだ・・・・・・  
上野にでかけた時は西郷さんの銅像がある上野公園に必ず行くのだが、その階段脇には沢山の”傷痍軍人”がいて、アコーデオンで軍歌を奏でたり軍歌を歌って寄付を請うていた。
いずれもが白装束で松葉杖での義足、義手であったり、火傷の傷跡がひどい人もいたが当時は怖くて見ないように素早く通り過ぎた。
この人たちに加えて、もう一つ言えばこの頃には乞食も沢山いた、貧しい時代であった。

先ほど”外食”について触れた、たまのデパートがその唯一の機会でその他に外食をした記憶はあまりない。
勿論当時は”回転寿司”も”牛丼屋”もあるわけでないし、例えば家族で動物園なら弁当持参だ。外食は贅沢であったのであろう。
それでも時折、自宅にソバ屋の出前を頼むとかはあったし、後年余裕ができてからは寿司屋から「寄せ鍋」のセットを届けさせ食べたりはしていた。

寿司屋で思い出した。時々父が会合で夜出かけ、そこで出たであろう寿司を折りに詰めて持ち帰る。
そして寝ている子どもを全員起こして1~2貫づつ与えてくれるのだ。
当時寿司は高級品で滅多に口にはできなかったので親心であろうが、こちらは寝ぼけ眼で嬉しかった訳でもない。
そんな情景が度々あり忘れられなかった。

成長してから向田邦子の本をよく読んだのだが、その中の「父の詫び状」というエッセーの中に彼女自身の幼少の記憶として全く同じ場面が出てくるのだ。
寝てるのを起こされ「さ~寿司だ、食べれ」と言って父はにこやかに子どもが寿司を頬張るのを見ていた記事だ・・・・・我が家とまったく同じであった。
今は子どもが度々外食をし、寿司屋で好みを注文したりする。隔世の感がする。
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