昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

私が生まれ育った昭和という時代2

2012-01-13 13:45:49 | 昭和の思い出
この頃、周辺はどこも子沢山で「一人っ子」などまずいない。
二人兄弟でも少ない方で、我が家は五人兄弟(更に一人喪っている)であった。

当時の出産は産婆さんによる「自宅出産」が当たり前で、私は6・8歳年下の二人の妹の産湯の湯沸しを薪とお釜で手伝った記憶が残っている。という事は・・・・何と私自身がまだ10歳にもなっていないのだ。

この妹たちを今度は背負わせられた、親がこちらの背中に乗せて”おんぶひも”しばって「それで遊んで来い」と言うのだ。1~2歳の赤ん坊を10歳前後が負ぶって遊ぶ、当時は珍しいことではなかったが今思い返すと、とんでもないミスマッチな風景で思わず笑ってしまう。
後にも触れるがこの頃の子どもは本当によ~く家の仕事を手伝っていたものである。

町内で建設工事があると基礎がために「ヨイトマケ」がよく見られた、美輪明宏の唄った「ヨイトマケの唄」そのものだ。
当時これらの作業員を”ニコヨン”と呼んでいた。
 
 
これらの日雇い労働者、土木作業員をなぜ”ニコヨン”と呼んだのか・・・調べてみたら日当が百円玉(当時は札?)2個+10円玉4個、それでニコヨン(2個と4個)らしい。
この力仕事の中には女性の作業員もいた、美輪明宏の歌そのものだった。子どもの私はこうした作業を飽きもせず見学していた。

「おトッちゃんのためならエンヤコ~ラ」「おッカちゃんのためならエンヤコ~ラ」「もひとつおまけにエンヤコ~ラ」10人ほどの作業員が綱を引いて錘を落とす、それが基礎の木材を地中に打ち込む、建設機械などない人力だけの時代であった。

電話線を延長する工事が頻繁に行われていた、電柱(この頃は木製)に作業員が登って根元に切り落としのクズの電線が落ちてくる。これを拾って剥くと中に少量の銅線が残っている、これを拾って集めて・・・・とある場所に持ち込むと買い取ってくれる。多分5円10円の相場であったろうが、子どもには貴重な小遣いだ、この頃の子どもは逞しい。

これらの小遣いを持って行くのは「駄菓子屋」だ。
飴・のしイカの様な食べ物、メンコやビー玉の遊具、トコロテンを突いてすぐ食べさせてくれもしたし、下町だったから鉄板で”もんじゃ焼き”を食べさせるまであった。
クジを引いてうまく当たれば大型景品もあったが中々そうは当たらない。この時、はずれクジは「スカ」と言ったが・・・・・スカって何なんだろう?ALWAYSでもこの駄菓子屋、くじ引き、スカの場面があった。
   

ときたま物騒な事件もおきていた”ヒロポン”だ。
覚醒剤だが一時は疲れや眠気をとるのにこれを使用するのが認められ戦前は薬局で売っていたらしい、なにしろ疲労をポンと取るから「ヒロポン」なんだという。
「これさえあれば、食事も睡眠も必要なく働き続けることができる」夢の薬であると言われていたが、常習はやはり危険であった様で警察官と群集が集まっている所に出くわしたら”ヒロポン中毒者”の捕り物であったりした。
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