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祈りというより呪いか? その3

2006-08-28 21:53:51 | 宗教と思想
前回からの続き

結果の解釈
 祈祷のプラスの効果が見られなかったことに関しては、神の行動を引き合いに出せばプラスの効果は現れない、一方、神の行動が無効だったしてもプラスの効果は現れないとして、神に対する見方を問わず当然の結果だったといえる。このように反証不可能性というものは何の有益な結果ももたらさない。
 祈祷を受けていることを知らされたグループの悪影響をどう解釈するかという問題が意見の分かれるところである。患者の信心深さを測るための指標が確立しているかどうかは私は知らないが、仮にあったとして各段階でどんな反応を患者は示すであろうか。いろいろな場合を想定してみた。最大の問題はアドレナリンの分泌が増えれば、不整脈を誘発することである。つまり、患者の心の中身がどうあれ患者は興奮してはいけないということだ

A)全く信心深くなくて、そういえば教会のある病院だもんな程度にしか思わない患者。
B)信心深さが希薄で「祈祷」の効果はそれほど信じないが、自分が祈られているということは何か大変なことだと思って不安になる患者。
C)適度に信心深く、細かいことは気にせずに感謝の気持ちで満たされて穏やかな気持ちになる患者。
D)信心深いのだが、祈祷してもらうからには良くならなければと頑張ってしまう患者。
E)信心深いのだが、自分はそんなありがたい祈祷をしていただくほどの人間だろうかと内罰的になってしまう患者。
F)信心深すぎて、感謝の気持ちで一杯一杯で嬉しさのあまりついつい興奮してしまう患者。

 私自身が信心とは遠くかけ離れた存在(多分タイプA)であるため、私以外はみんな程度の差こそあれ信心深いはずだ。そのため祈祷を受けていることを気にするのは信心深いからなんだろうと漠然と思っていた。この研究者たちはBのタイプが結構いたと推測したようだ。「得られた結果」でも述べたように悪影響が出る人には大きく出たらしいことから、これは単なる推測ではなく医者の実体験だった可能性が高い。「先生、私はそんなに危ないんですかー!」と取り乱して自分で自分を危険に晒した患者がいて、統計の結果を正規分布から歪ませたのではないか。信心深さをどう捉えるかに関して当然異論があることだろうが、この場合AかCでないとアドレナリンが出てしまいそうだ
 日本における葬式仏教と揶揄されるものに対応して、アメリカのプロテスタントは葬式キリスト教でもあるが、それよりやや「拘束力」が高いようだ。信心を持たない私の視点では、子供のころに聖書等で神の恐ろしい振る舞いをたっぷり吹き込まれて育った人間が、同時に神の慈悲深さを如何に説かれても、その誰もが信心深ければ絶対安心だと心から思い込めるかは疑問だ。むしろ、少しでも自分の生き方に問題があれば、何か良からぬことが起こるのではないかという漠然とした不安が生じるのではないだろうか。カトリックではどうだか分からないが、プロテスタントでは万人救済論は否定されていて、仏教徒もヒンズー教徒も誰でも救済されるといった考え方の人間はバッシングされることになっているようだ(『教界ニュース:米週刊誌がビリー・グラハム氏特集、万人救済論がらみで批判も』参照)。知らないうちに仏教徒を人間として認めてはいないだろうか、いや人間として見る分はOKなんだっけなどと、自分の心のありようで救われない側に落ち込むのではないかという漠然とした不安を一切抱かず、興奮しない程度に強い確信を持っていないとマイナスの効果を与えるのかもしれない。


祈りの本質とはなんだろうか?
 私が何者であろうとも実験事実には影響を及ぼしようもないので、私の祈りに関する理解がそもそもこの実験の話において本質的に重要なのかという疑問はあるが、祈りとは何かを考えなければならないらしい。
 Excite エキサイト 辞書 : 国語辞典 : 「祈り」より
祈ること。神仏に加護・救済などを請い願うこと。祈願。祈祷(きとう)。祈念。

 「キャベツの祈りさんにも教えてあげたいくらいだ。人のために祈っては逆効果だ、自分のためにだけ祈りなさいと。」と私が書いたことに関してご批判が来たことから、修道士の「祈り」、つまりプロの「祈祷」は、自分のために祈る分は入っていないという理解でいいのだろう。それはそうだろう。
 逆に、平家物語 巻第一 那須与一に見られるように

~引用開始~
与一目をふさいで、「南無八幡大菩薩、わが国の神明、日光権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくはあの扇のまん中射させて賜はせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に再び面を向かふべからず。いま一度本国へ迎へんとおぼし召さば、この矢はづさせたまふな」と心の内に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなったりける。
~引用終了~

自分のために祈っているのは間違いかというとそうでもなく、庶民の「祈り」としてはそういうものもありだろう。那須与一の場合、聖職者の祈りとしては許されないとしても自分のために祈って精神統一として効果的に働き、いい結果を導き出した「祈り」の成功例だと考えられる。李舜臣を狙撃した我が先祖よりもかなり難しいことをやってのけたのだから立派である。
 とても聖職者には見えない(失礼)キャベツの祈りのHide様が(プロテスタントの賛美歌は素晴らしいと書いていらしたが、宗派は不明)聖職者であったら、または、神を信じていないのだったら(それは無いだろう)、私の「祈り」の使い方は間違いで、そうでなかったら「全く理解していない」と言われるほどは間違いではなかったという、人任せなおかしな状況が生じたようだ。ご本人に尋ねればいいのであるが、困ったことに、以前あの方にはtenjin95様のつらつら日暮らしをご紹介して、いろいろな宗派があるものを葬式仏教と一括りで片付けるのは良くないとコメントしたら、あまり好意的なコメントが返って来なかったので、今回の件も本来トラバでもするべきなのだが、どうも気が重い。不信心な私に対して、Hide様にとって異教徒のtenjin95様やjyakuzuregawa様がわざわざ反論なさっているのだから、今度は喜んでいただけるだろうか。
 それにしても、心臓バイパス手術に関して恐らくプロテスタントの赤の他人による祈りが患者に良い影響を与えられなかった以上、もはや自分の分は自分で祈るしかないというのがそんなに間違っているのだろうか。残念ながら自らの自律神経を落ち着かせるという、いくつかの宗教の中の技法が、宗教の数少ない明確な効用の割には注目されていないようだ。祈りとは違うといえば違うのだろうが、私は神は信じないが重宝している。
 恐らく宗派を超えた「祈りの本質」があるのだろうが、「祈り」に限らず、私は何の本質も確信を持っていえるものはない。しかしながら今回のデータは、解釈はどうあれ、「祈り」に関する重要な知見を我々に与えたことは間違いない。こんな大規模な宗教家と科学者が密接に連携を取り合って行われた素晴らしい実験は、未だかつて例を見ないものだ。結論としては「祈り」そのものが役に立たないのかは分からないが、こういう「祈り」は役に立たないのだということが分かったことは大きな前進である。


神を試すとはけしからんと神が思った場合の神の行動を考えてみよう。
 神がこの手の実験を無効にするにはどういう方法があるだろうか。本来なら患者の容態に影響を及ぼすのではなくて、研究者や聖職者やお金を出す財団にこそ天罰を下すべきなのだが、下った様子がないので、神は別な方法を取ったようである。
 そこで思考実験というものにお付き合いいただこう。とある病院に付属の教会があって入院患者にサービスで病状が良くなるように祈祷していたとする。○○号室の△△さんにとか、ちゃんと患者一人一人のことを考えながら祈祷していたとする。神としては、患者の信心深さ、罪深さ、牧師の能力等を勘案しながら患者に良い影響をいくらか与えなければならない。もちろん、神としては無視するのもありだが、その場合は最初から祈祷は無効である。祈祷する側も忙しいので、祈祷してもらえない患者もいくらか出るだろう。
 さて、たくさんの患者が神への祈りの効果を受けたり受けなかったりして退院して行った後、正常な病院の仕事として各患者の病状とその経過等がデータとして蓄積される。また、勤務である以上、牧師の祈祷の内容等もデータとして蓄積される。しかしある日、突如として、神をも畏れぬ邪悪な研究者が病院に現れて、その2つのデータをつき合わせてしまったらどうなるか。
 神としては普通に祈祷していた熱心な牧師たちに加勢していたつもりだったが、突如として神の力を試すけしからん試みを牧師たちはしていたのと同様になる。このまま放って置けば神の力が白日の下に晒される。白日の下に晒した方が信者が増えるのに、何故か神がそれを頑なに拒むとすれば、邪悪な研究者が見ようとした瞬間2つのデータを関係者の記憶とともに書き換えるか、それでもばれそうな時は、もはや時間を遡って何の罪もない患者へのプラスの効果を打ち消すしかない。しかも、ただ打ち消すだけではない。邪悪な研究者は悪魔的な統計的な手法を用いて多数の患者の状態を数値化して、有意な差が出たか有意ではないかと議論するため、個別の患者の効果を打ち消すだけではなくて統計的に不具合が生じないように、邪悪な研究者がどこに注目して統計を取るか予測して、全患者に対して辻褄があっているか綿密に確認する必要がある。これこそ神業だ。
 このように、本来ならば、現場の人間には一切何の邪悪な意図がなくても、しっかりとデータだけ取ってありさえすれば、後で邪悪な研究に使える状況が生じることはそれほど不自然ではなく、メイヨークリニック等でもそういうやり方だったほうが「祈祷」の効果が発見できたか、または、神を大慌てさせることができたかもしれない。全智全能の神ならば時間を遡らせたり邪悪な研究者の意図などお見通しであろうが、一瞬の隙をついて過去のデータを検証される危険がほぼ永遠にあるので、患者のためにデータをしっかり取ったり、患者のために祈ったりする人がいる病院には最初から何の影響も与えずに放って置くのが楽である。
 というわけで、適当に祈祷して、患者のデータの管理が杜撰なときの方が、患者に祈祷が効いたと言い易いかもしれない。几帳面な祈祷は返って効果が薄い可能性がある。効いたかどうか検証できない杜撰さこそが、効いたと胸を張るのには必要ではないか。しかし、それはそれで当たり前である。思い込みと何ら区別は出来ない。残念だ。


それにしても神は何故自分の偉大さを隠したがるのか。
 これは最大の謎である。神そのものだけでなく、神の言葉を書いたという聖書の類も神を試してはいけないと注意書きがあるものがある(仏教はどうだったか私は知らない。ごめんなさい)。「神がその偉大さを隠すことで偉大さを示した」というのは、神が偉大さを隠すために時間を反転させるくらいのすごい奇跡を行なって大忙しだったが、誰も気がつかないのか、それとも神は偉大で無かったのか、全然区別が付かないのが問題である。
 量子力学における観測すると波束の収束が起こって粒子の波の干渉が壊されるという話に似ていなくも無い。神は観測してはいけない。観測すると存在しないような結果が得られるという理論といえばいいだろうか。量子論で小さな粒子を観測しようとするときの現象のようなものが、おそらく巨大な神を観測しようとするときに生じるのは、かなり奇怪である。神は小さな粒子並みに小さな影響を与えるが、観測によってかき消されるという程度の不安定な存在なのだろうか。いや、それでは偉大さを隠すための偉大さを発揮できまい。
 率直に一般論を申し上げると、神の存在を信じると公言する何らかの宗教団体の幹部が、実は神は存在していないと確信していた場合、教団の教えの中に「神を試すのは罪である」と入れて、教団の安定した存続を謀るのは非常に合理的だと思う。これによって自分たちの教義を疑うものや検証しようとするものを一方的に悪者に決め付けることが出来て教団の結束力も高まり、幹部は自分たちに都合の良いいろいろな教義を含めることが出来るのである。もしそのような教団の言う神であった場合、何もしてはくれないはずだ。今回の結果は偶然それに似た結果になっただけであるとは私は断言できない。
 私はイスラム教の豚肉食禁止や、キリスト教の天動説などに示されるように、神の言葉とされるものは人の言葉の範疇を出ないのではないかと考えている。そのため、神が人間と同じような考えを持ち人間と同等というより、人がいろいろな神を作り上げたため、神は人間を超える存在であることをお話の中以外で示そうにも示せないのではないかという仮説を持つに至った。例えるなら、『金田一少年の事件簿』の作者の能力を超えて金田一少年が賢くなることは出来ないし、同じく作者の能力を超えたトリックを犯人が実行することは不可能なので、読者は何ともいえない不満を抱くようなものだ。神が人間の文化や環境ごときに何の左右もされず、どの民族も全く同じ神を誰から教わるまでもなく自然に信じて、宗派間の対立などが世界に一切無いというのが当たり前だったら、神は創造主であると万人を納得させられたかもしれないが、現実はあまりにもかけ離れているようだ。


付録:科学的な態度
(jyakuzuregawa 様のご批判)>科学的とは、本当にあることを知ってから意見を述べることではありませんか。

 常態文で書くと全く心が伝わらないが、信心深さについて真面目に考察しなかった点は謝罪する。ごめんなさい。しかし、科学的というものの理解は少し違っている。意見の述べ方に科学的という言葉をどう使うかはよく分からないが、科学的態度と捉えるならば、まずは最初に本当にあるかどうか分からないことに対して出来るだけ網羅的に何か仮説を立てることから始まると言える。この場合、「信心深いから悪影響があった」、「信心深くないから悪影響があった」、「信心深さとは関係なしに悪影響があった」の三通りが考えられる。今回の実験では信心深さの影響は各グループを比較することで相殺されるので、祈祷と信心深さとの関連はさっぱり分からなかったと言える。jyakuzuregawa 様のお言葉通り、信心深い患者が、祈祷されていると聞いて落ち着いていられるかも確かめることは出来なかった。
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神を利用するとは私は言っていないと思います。 (LiX(ここの人))
2012-01-20 19:29:08
わざわざ、コメントしていただきありがとうございます。
実は、当時『祈りというより呪いか? その4』を書きかけていたのですが、大作に成りそうになって面倒になって放り投げておりました。

神を利用すると書いたと誤解されたのは、「自らの自律神経を落ち着かせるという、いくつかの宗教の中の技法を重宝している。」という内容のことを私が書いたせいのようです。
神の存在も存在意義も微塵も私は信じてはいないので利用の使用がないことは明白です。
宗教の中の技法が利用できるかという疑問に関して議論していただけです。

早くその4を完成させたいです。
返信する
Unknown (Unknown)
2011-12-25 22:35:29
利用の意味がよくわからないんですが
例えば「無神論者の政治家が民衆を統治するのに神を利用する」というときの"利用"なら普通にあり得ますけど
返信する
祈りの効果 (jyakuzuregawa)
2006-09-02 01:20:26
Lixさん、詳細なブログ記事の作成をご苦労様でした。どうもありがとうございます。



私は日本語のニュースを読みましたが、何かよくわかりませんでした。

IT検索で、もう一度調べましたが、

Kumicitさんという方が、この実験をブログ記事に取り上げていらっしゃいました。

http://transact.seesaa.net/article/16063948.html



この方の記事を元に、Lixさんの「祈りというよりは呪いか2・3」をもう一度考えました。

 まず、実験に参加した医療機関は6箇所であって、メイヨークリニックだけではないようです。ですから、メイヨークリニックには牧師長という方がおられましたが、他の医療機関はキリスト教の団体の病院かどうかわかりませんし、他の医療機関に礼拝堂があるかどうかもわかりません。



>病院に付属している礼拝堂で祈祷を行なったと推測される。病室で祈ったら、患者に自分が祈られていると悟られないのは無理だろう。また、70人も入れないだろう。



というLixさんの推測は成り立たないかもしれません。メイヨークリニックでも、祈りをした人々がメイヨークリニック内で祈ったのか、どこか別の場所で祈ったのかもわかりません。



 祈りはカトリックの2団体とプロテスタントの1団体を募集したと書かれています。修道士という記述から私はカトリックの修道士が祈りを捧げる実験に参加したのかと思いました。プロテスタントの修道士とは、聞きませんので。



祈られた患者について引用しますが、

>3つのグループの患者の宗教プロファイルはほぼ同様。ほとんどがスピリチュアルな治療を信じていて、友人や家族がすべて自分のために祈ってくれると信じている。研究者は、患者の友人および家族に対して、祈りを差し控えるようには依頼していない。また、多くの患者は研究期間に自分自身のために祈ることを仮定した。



こうあります。これが真実だとするならばですが、

被験者である患者全員が、実験者以外の人から「祈りを受けた」可能性があります。加えて患者全員が、実験前の研究機関の説明に関わらず、「研究機関は患者のために祈ってくれていると思っていた」ことになります。

本当は実験の研究者が、患者の友人、家族、そして患者本人にも、14日間の実験中には祈らないようにと依頼するのが、実験の本筋ではなかったでしょうか。



「祈り」の本質とは何かですが、祈る人の宗教の教義が、祈りの本質を決めていると思います。

 キリスト教の教義と日本の神道の教義は同じでないので、神道をもってキリスト教の祈りの説明をされてもわかりません。

昨日Lixさんが丁寧に書かれた記事を読んで、もう一度「祈り」について勉強しなおしました。前の私のコメントと違う内容になってしまうので、大変申し訳ないですが、書いておきます。



 カトリックの「神」は、ご利益の神ではありません。ある人が奇跡が起こったからキリストを信じ、奇跡が起こらなければキリストを信じないとしたら、その人にとっては、キリスト教はただのご利益宗教です。

そして祈りに対しての神からの答えが、たった14日の実験で、必ずすぐに現れるかどうかもわかりません。神からの答えは数年後、数十年後にあらわれるかもしれません。

祈るほうもたったの14日間ではなく、たゆまず祈らなければなりません。祈る相手は人でなく「神」です。



最後にもうひとつ質問なのですが、Lixさんは神を信じていらっしゃらないのですね。

 それならなぜときどき神を利用されるのでしょうか。存在も信じていない神を、なぜ利用できますか?





 

 





















返信する
コメントありがとうございます (LiX(ここの人))
2006-08-30 21:51:33
 わざわざ私の駄文を読んでくださり、本当にありがとうございます。何かが噛み合っていない感じがしましたが、今分かりました。どう見てもtenjin95様の言う宗教性は私の考えている宗教性とそっくりです。お互い相手は自分の言うことを分かっていないに違いないと確信して平行線を辿るという妙な事が起こったようです。

 「ちょっと笑える記事をご紹介」と始めて、プロテスタントの修道士がお馬鹿な事をやったと笑い飛ばして、毎日お祈りを欠かさないHide様をからかおうかと思って、いや、やめておこうかというところで終わるだけのつもりでおりました。ちなみにあの方はお祈りをすることで「自分自身が前向きになってきました。神の導きを感じられるようになりました。」と言っておいでだったので役に立っているのだなと思ったら、「フィリピンの金持ちと、それにおもねる神父たちは、全員、地獄に落ちるでしょう。これは、間違いありません。聖書にはっきり書いてあります。」とか、書いたりするので少し心配しています。

 教団を維持していくために仕方なく宗教に付属してきた瑣末なもの(効果を歌う満員となる坐禅会、患者の容態が良くなるのに使えないかという実験のための祈祷など)は宗教性にとっては要らないものですね。社会に対してであれ個人に対してであれ、有益性、有効性、損得と言った次元の議論は宗教にとっては無意味ですが、どうしても人やお金を集めたり、社会と共存する上で多少の抱合せ販売は必要悪かと思っておりました。

 宗教性には無関係な付属物の中にさらに、「神を試すな」という教義や、創造主たる神が一創造物に過ぎない人間の願いを聞いてくれるという話を、付け加えると意見は一致しなくなるわけですね。信仰の中身ですから。信仰を持たない私は付け加えてしまいますが。

 「この実験は無駄ではないか」なら、私もそう思います。しかし、無駄であることを確認することは重要です。実際、実験というものは無駄であることの確認の連続のようなものです。きれいな求めていた結果など都合よく出てくるものではありません。ですから、「この実験は“無効”ではないか」と言われたら、この実験をやって色々分かった細かいことを説明して差し上げるしかないのか~となったわけです。宗教に関わっている方々には、まるで自分のやっていることが否定されたような気がして「この実験は無効ではないか」とどうしても言ってしまいたくなるかもしれませんが、対照実験に少し不備があったものの実験そのものは有効です。



>しかしながら、拙僧にはどうにも疑問がつきまといます。何故、宗教について本当に無知の管理人様が、このようなログを必死になって書かれるのかということです。



 「王様は裸ではないか」と誰かが言わなければ、たくさん見えない衣をまとった宗教から宗教性を引き出すのは無理だと考えています。宗教の皮をどんどん剥いていくと何が残るのかは興味深いところです。私の直感に過ぎませんが、宗教に詳しいとどうしても宗教(というより教団)をかばってしまう部分があるから、宗教についてどんな知識を手に入れても本当に無知であり続けなければならないような気がします。宗教家の方々に生活というものが無かったら、例えば坐禅をして心が落ち着いてもそんなに重要な事ではないですからと坐禅をしにやってきた客にいきなり語りかけられるんでしょうが、そうも行かないことは理解しているつもりです。宗教のことを嫌だ嫌だと言い続けますが、嫌がらせのつもりはありません。必死に見えましたか。長文をだらだら書いたからですね。



>もちろん、拙僧が科学などについて、一言でも申し上げることについて、管理人様はお許しにならないと思いますが、この両方は全く同じことの表裏です。



 遠慮なく、いくらでも仰って下さい。私で説明できそうなことは説明いたします。説明できないことは分からんと素直に言いますが。



>さて、何故無知だと申し上げたかについては、やはり祈りについて、根本的な説明の過ちを犯しているからです。まず、キリスト教の祈りについて、神道的な祈りを持ち出し、



 これは一本取られましたね。さすがに私も神道とキリスト教は違う宗教なんじゃないかなということは分かっているつもりです。私の冗談なんかよりもずっと面白かったです。キリスト教の聖書で誰かが自分のために祈って何かすごいことが起こった例を思いつかなかっただけです。

 ユダヤ教と重なっている部分の旧約聖書には、ある男がペリシテ人の畑に放火しまくった上にペリシテ人を千人殺して、のどが渇いたから何とかしろと神に祈って泉が湧いてきたという、えらく豪快でサービスのいい話がありましたが(士師記15章)、新約聖書の部分になると少なくとも自分のためには祈らなくなります。イエスの祈りは別格として除くとして、弟子のいくらかが病人を治したり地面を揺らしたり死人を蘇らせる程度で(使徒言行録)、祈って何かが起こる描写はほとんど無くなるようです。そのかわり、ただ祈りなさい祈りなさいと言い始めます。

 仏教者のtenjin95様が「祈りの本質を貴様は分かっていないのだ、愚か者め」とお怒りになった(イメージ)ことから、てっきり宗派の垣根を越えた祈りの本質があるのかと勘違いした分もあります。しかし、ユダヤ教とキリスト教で祈りの雰囲気が違い過ぎるので宗派はやはり重要なんですね。



>ましてや「残念ながら自らの自律神経を落ち着かせるという、いくつかの宗教の中の技法が、宗教の数少ない明確な効用の割には注目されていないようだ。」ということについて、ここでは結局「祈り」をただの自律神経を落ち着けるという効果しか見出していません。別にこれは「宗教でなくても可能」な事であり、甲子園のマウンド上で、なんとなく帽子のひさしに触ることで自らを落ち着けるような行為と全く変わりません。



 医学的効果についての話題だったので、自律神経の話をしたまでです。今回の実験に関して、患者への良い効果を求めるなら何で患者に祈らせる方をやらなかったのかということです。そんな効果はもちろん宗教性とは一切関係ありません。抱き合わせ販売の一種です。ちなみに自律神経訓練法は既に体系化され、なんとなく帽子のひさしに触るほどは単純ではなくなりました。



>このように、同じ宗教的と思われていることでも、容易に世俗的価値観にとらわれてしまう部分が多く、今回の実験はその辺の交錯を切り離せていない点がどうしても残ると思います。だからこそ、実験は成功ですという、世俗的発言に対して、拙僧は疑義を呈さざるを得ないということになります。



 実験にお金を出した財団からすれば、もちろん実験は大失敗ですね。「実験は成功です」とは私も言っていないようです。実験に限らず、我々の存在自体が世俗のものなので世俗的価値観に一切とらわれなかったとしても、我々は世俗からは逃れられないようです。創造主にとっては患者の命など何の興味も無いのですと牧師が説いたら、ある意味痛快ですが、それくらい世俗から外れていたら病院から叩き出されるでしょう。それにしても今回の実験は、事情を知らない患者側も、自分は元気な牧師側も神の恩恵とか試練とかを一切感じることなく終わっているので宗教性は皆無のやっぱり笑える実験だったようです。
返信する
失礼いたします。 (tenjin95)
2006-08-29 09:51:00
> 管理人様



まずは、拙僧のつたない質問などに、真摯にデータを並べていただいて、本当にありがとうございます。しかしながら、拙僧にはどうにも疑問がつきまといます。何故、宗教について本当に無知の管理人様が、このようなログを必死になって書かれるのかということです。もちろん、拙僧が科学などについて、一言でも申し上げることについて、管理人様はお許しにならないと思いますが、この両方は全く同じことの表裏です。



さて、何故無知だと申し上げたかについては、やはり祈りについて、根本的な説明の過ちを犯しているからです。まず、キリスト教の祈りについて、神道的な祈りを持ち出し、ましてや「残念ながら自らの自律神経を落ち着かせるという、いくつかの宗教の中の技法が、宗教の数少ない明確な効用の割には注目されていないようだ。」ということについて、ここでは結局「祈り」をただの自律神経を落ち着けるという効果しか見出していません。別にこれは「宗教でなくても可能」な事であり、甲子園のマウンド上で、なんとなく帽子のひさしに触ることで自らを落ち着けるような行為と全く変わりません。



宗教というのは、端的に信じるのです。そしてやや極端な物言いをすれば、(この辺は理解しなくて結構ですが)もし自分の身に良いことが起きれば、神の恩寵であり、身に悪いことが起きれば、神からの試練だ、と言うように、一切の価値判断を神に委ねてしまうようなことが行われます。これは正しく教条主義以外の何ものでもないですが、しかし、これこそ宗教の効果であると言えます。そして、試練まで与えてくださったのだから、私は神に認められている。死後には、その下に行けるだろう。と言う確信すら抱き従容として死を受容するというようなことまで行われます。



おそらく、ここから一般の方は「そうか宗教では死を受容できるのか」という効果を見出すことでしょうし、或いは宗教者もそういった効果を説法しますが、それは些末であり、神への信仰の結果そうなっただけです。そして、この結果だけを誇張したような宗教観のなれの果てが、今回の実験だったのではないか?と思います。



なお、拙僧の得意分野で話をすれば、最近坐禅はブームです。これは社会の統計上も現れていますし、いろんな禅寺では坐禅会をすると、多くは満員であることからも明らかであります。



そこで、坐禅については、それをすることで精神が統一されて、晴れやかな気持ちになるというような「効果」が謳われ、それは実際に様々な脳波計測の実験でも確認されていますが、それは宗教とは無縁です。ヨガ教室でも同じことは起こるでしょう。



では、同じように見える坐禅では何が宗教なのか?それは端的に坐禅している事実=仏であると信じることです。道元禅師はそれを「坐仏」と表現しましたが、ここまで到るには、効果を歌う坐禅とは全く別の回路が必要です(どうやって到るかについては省略)。



このように、同じ宗教的と思われていることでも、容易に世俗的価値観にとらわれてしまう部分が多く、今回の実験はその辺の交錯を切り離せていない点がどうしても残ると思います。だからこそ、実験は成功ですという、世俗的発言に対して、拙僧は疑義を呈さざるを得ないということになります。



以上、やや宗教性ということを極端にして書いてみましたが、ここまで書かないとご理解いただけないかと思ったためですので、ご容赦いただければ幸いです。
返信する

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