一人人海戦術

世界の3%くらいの人に納得してもらえばいいかなと考える、オメガ・ブロガーを目指してみようか。

祈りというより呪いか?

2006-07-27 00:30:56 | 宗教と思想
 日経サイエンス2006年8月号:NEWS SCANより(ネット上のソースは無し)、ちょっと笑える記事をご紹介。

~引用開始~
お祈りは処方外
自分自身の励ましにするのはよいが…

 第三者が患者の回復を祈ると、何らかの効果があるだろうか?調査の結果、神頼みの効力を示す証拠は得られなかった。むしろ、患者を悲観的にする悪影響がありそうだ。
 American Heart Journal誌4月4日号に報告された「祈りの治療効果調査(STEP)」は、祈りが他人の健康に及ぼす影響を科学的な方法で測定した3年がかりの研究で、この種のものとしては過去最大規模。心臓バイパス手術を受ける1800人の患者を対象に調べた。ある患者グループについては、手術前夜から2週間にわたって修道士たちが祈った。1人の患者につき約70人の修道士がお祈りしたが、患者と修道士に面識はない。
 調査の結果、お祈りを受けたグループも受けなかった患者も、生存率や合併症罹患率に差は認められなかった。唯一統計的に優位な差が現れたのは、祈りを受けて患者自身もその事実を知っていたグループで、手術後に不整脈を起こす割合が高かった(祈られていることを知らなかった患者では52%だったのに対し、知っていた患者では59%)。
 研究チーム(ハーバード大学医学部やメイヨークリニックなど6施設の医師や心理学者、聖職者で構成)は、神経過敏による悪影響ではないかと考えている。「不安を感じるとアドレナリンの分泌が増え、そのせいで心細動が悪化する場合がある」と、オクラホマシティーにあるインテグリス・パプテスト心臓病院の医師ベテア(Charles Bethea)は4月の記者会見で述べた。「患者は『自分の病気は祈祷を頼まなければならないほどひどいのか』と不安に思ったのかもしれない」。
ただし、メイヨークリニックの牧師長マレック(Dean Marek)は、調査の仕方が間違っていたのではないかとみる。「今回の調査では人と人とのつながりを無視していた。『人のための祈り』ではなく『人間味のない祈り』だったといえる」。
 友人や家族による祈りの“癒しパワー”が祈りそのものではなく、人間関係から生まれる――というのは確かめようがないので、研究チームは追跡調査の計画はないという。この研究は主にジョン・テンプルトン財団の支援で行なわれ、240万ドルが費やされた。
~引用終了~

 やることがいちいち豪快である。1800人の患者に一人当たり約70人の修道士がお祈りするし、3年がかりで240万ドルを注ぎ込むし。牧師長マレックが何か言っているが、これで、第三者による祈りは、少なくとも心臓バイパス手術には悪影響は与えてもいい影響は与えられないことが示された。祈りが効くと確信して始めた実験だったら、術前、術中、術後、どう効くか細かく分けるのが普通だが、効果がないのでまあ関係ないか。
「患者は『自分の病気は祈祷を頼まなければならないほどひどいのか』と不安に思っ」て不整脈を起こすところが、確かになるほどと思わせるところである。信心深い人ならきっとかえって不安になることだろう。不信心な人なら「ふざけるな!」と激昂するか、大笑いしすぎて、やっぱり不整脈を起こすだろう。手術の最中に手術室内で約70人の修道士がお祈りしていたら迫力があって、生存率にも影響が出ただろうが、さすがにそんな馬鹿なことはしなかった。
 キャベツの祈りさんにも教えてあげたいくらいだ。人のために祈っては逆効果だ、自分のためにだけ祈りなさいと。残念なのはAmerican Heart Journal誌のonline版には細かい数字が出てこないことだ。きっと概要だけで細かいことが知りたければ金を払って買えということなのろう

<訂正記事と補注>
Study of the Therapeutic Effects of Intercessory Prayer (STEP)の別な記事を引いていたのでリンクを修正。アブストラクトだけしか見られないが、数字ははっきり確認できた。ちなみに祈られていない患者の場合、不整脈を起こす割合は51%だった。有意な差とはいえないが、祈りが呪いとして効いているという可能性さえも見えてきたか。まじめに考えれば、恐らく、祈りの段取り等の慌しさが医療関係者を通じて患者に伝わったのかもしれない。医療は患者の利益に専念せよと言うことか。
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5 コメント

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失礼いたします。 (tenjin95)
2006-08-09 14:58:02
> 管理人様



> 人のために祈っては逆効果だ、自分のためにだけ祈りなさいと。



これは、管理人様の個人的見解ということでよろしいでしょうか?そして、これは、少なくとも修道士の「祈り」の本質を全く理解していないように思います。



それは「神は、このような人間界の戯けた実験にわざわざ力を見せませんでした。そうすることで自らの偉大さを明らかにしたのです」という解釈は全くもって可能ですから、むしろ不整脈を起こしたことは極めて信仰的に正しい事態と採ることが可能です。



だからこそポパーが反証理論においてこのような形而上学的領域を排除したことは、管理人様は拙僧ごときに云われなくてもご存じなんですよね?



http://www.ne.jp/asahi/shiga/home/MyRoom/popper.htm
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「祈り」は (jyakuzuregawa)
2006-08-09 22:49:58
LiXさん、はじめまして。カトリックの信徒です。

LiXさんは、「祈り」とはどういうものだと思っていらっしゃいますか?

「祈りの段取り」とはなんでしょうか?

 カトリックではまず神からの呼びかけに応え、神を知り、神を愛し、神に従うのが祈りの前提条件です。つまり神を信じるという信仰がなくては、祈りとはいえません。

 そしてカトリック信者は(司祭・修道士・修道女・彼ら以外の信徒)自分のためだけでなく、他人のためにも祈るのは当たり前です。祈ってあげたい人はひどい病気の人に限るとか、健康な人のためには祈らなくてもよいなどどいう区別もありません。

 もし「信心深い」信者ならば、他の信者から祈ってもらって嬉しいと感謝こそすれ、不安にはならないのです。

 

 

 

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コメントありがとうございます (LiX(管理人))
2006-08-19 11:51:09
 しばらく自分のブログを見ておりませんでした。すみませんでした。

tenjin95様

>少なくとも修道士の「祈り」の本質を全く理解していないように思います。

 今回「祈り」に関する貴重な情報が得られたようです。もちろん、修道士ではないので本質は存じ上げません。

>むしろ不整脈を起こしたことは極めて信仰的に正しい事態と採ることが可能です。

 仏教の加持祈祷と違い「呪い」としての機能はキリスト教の祈りには無いことになっているので、ここの部分はキリスト教者は受け入れられないでしょう。

 また、今回の実験規模は充分に統計的に信頼性の高いものであり、一つの真実であるということは結論の解釈を除いては誰も異論が差し挟めないものです。例えば、神というものが存在して、戯けた実験だから自らの偉大さを見せ付けようという、極めて不寛容な自尊心を理由にして、実験の全様を基本的に知らない罪のない患者の命を危険に晒す用意があるという解釈も、確かに可能ではあります。

 反証可能性とは、思い込みや解釈によって何とでもなるいい加減さを少しでも排除するために求められるものであり、「非科学は必ずしも反証を受け入れるシステムになっていない」とは宗教にとってはあまり喜ばしい事態ではないと思います。宗教に真に本質的な何かがあるとすれば、形而上学的な反証不可能な領域に収まりきれない何かがあるのではないかと期待してしまうのが、私のような凡人の性であります。



jyakuzuregawa様、はじめまして

 「祈りの段取り」と表現したのは、「○○号室に患者さんが待機しています」「修道士集合完了」「何年何月何時何分、祈りはじめっ!」といった裏方の人たちのドタバタのことです。祈りの中身の問題ではなくて、本当は患者に伝わってはいけないものです。

 患者個人の信心深さが重要なのではないかという見方が最も妥当な結論だと考えられます。結局、患者本人の精神状態が一番影響を与えたわけで、自分が祈られて感謝するという気持ちは、効果として事実上「自分のためだけの祈り」ではないかとはいえないでしょうか。聞こえと格好は悪いのですが。

 『キャベツの祈り』さんを引き合いに出したのは、(自分の)信仰の力で病気など克服するくらいの気持ちが必要だと説いていらっしゃったと思うので、それは正しいかもと思ったからです。
返信する
「祈り」は神を信じる人の行為です (jyakuzuregawa)
2006-08-20 20:30:50
Lixさん、お返事をありがとうございます。

「祈りの段取り」については、下になる記事にはどういうふうに紹介されていたのでしょうか?

Lixさんの仰る祈り段取りはわかりましたが、元の記事に修道士はどのような場所で祈っていたのかなどの記述がありましたか?なければなぜ段取りが悪かったから、結果が数値で引き出せたのだとわかるのですか?



Lixさんは、ブログ記事に

>信心深い人ならきっとかえって不安になることだろう。

と書かれました。失礼ですが、私はあなたが「信心深い人」の考え方をご存じないように思えました。

それで「信心深い人」の考え方をコメントしたのです。科学的とは、本当にあることを知ってから意見を述べることではありませんか。

 お返事では「患者が(祈られる側)信心深くなかったから、とのお答えです。でも今回の実験では引用の文章を読む限りですが、患者ひとりひとりがどのような宗教を信じているのか、信心深いのか、何も宗教を信じていないのかがはっきりわかりません。

そもそも祈られる側も信心深ければ、祈りが適うというあなたの意見の根拠は、どのデータにあるのでしょうか?

 

 誰かが自分のために祈った、そのときの感謝はその祈ってくれた人と、祈るように向けてくださった神に感謝します。祈りは常に神からのよびかけに応答しすます。神なしでの自分のためだけの祈りは、ありえないと思います。



Lixさん、この実験は、あくまでも神は人間と同等である、という前提がなければ実験が成り立たないのではないでしょうか。

 神が人間と同じような考えを持ち、人間と同等と仮定すれば、被験者1800人祈った修道士70人などの数値で、祈った人が多ければ祈りが通じるのかどうか、などがわかるかもしれません。

 しかしカトリックからすれば、神は創造主であり、人間は被造物にすぎません。人間は神の「似姿」であっても神と同等ではありません。

被造物がいくらお金と人をかけて実験をしても、創造主には何も関係のない実験かもしれないのです。

 また先のコメントでも書きましたが、「祈り」は

神を信じていないと「祈り」とはいえません。

もし人間が神をほんとうに信じているのでしたら、何も「祈りが効くか」という実験をする必要はまったくありません。

逆に修道士も含め、人間が神を信じずに神を試したともいえます。

 神を試すのは罪である、と神が受けとめたという考え方もできます。それならば「祈り」自体が、無効であり、したがって実験も無効といえるのではありませんか。



 

 

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実験は有効です (LiX(ここの人))
2006-08-28 22:06:56
私の回答をまとめて上げときました。

http://blog.goo.ne.jp/aqua_regia13/e/9563fa017c1d1a6be4206b42ddb913d2



http://blog.goo.ne.jp/aqua_regia13/e/631262f5fb7756fed0f8cd66eb58d88c

です。

お暇なときにでもどうぞ。
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