今日は 9月29日
いつになったら書く気になるかなぁ と思っていたのに
やっぱり 書くことが 大好きなのかも
公開するのかな 保存したままになるかな と思いながら書いている
書いたら 誰かに読んでほしいからブログ村に参加しているのだけれど 私の日常を書いても ランキングはベスト100に追いつくのがやっとなのに ある意味では不健全と言えることを書くとランクイン! を 手放しに喜んでいるのは恥じなのかもしれない
でも 私のブログライフでは重要なことだから もう少し最新記事に置きたい気持ちが根底にある
でももう いいかな
不健全な事柄が続きましたが 応援 本当にありがとうございました
これからは 主に花自慢ブログとなりますが ベスト100位以内を楽しめたら良いな と思います
よろしかったら 応援お願いします
耐寒温度は15℃という 洋ランの中でも とりわけ気難しいデンファレに 花芽を発見
右手首骨折により手入れが行き届かず 花が少なかった この夏
それ以上に これは凄い事
花期は6月から9月
既に デンファレの花期を過ぎた今になっての花芽です
日常で 朝食後はラジオが点いている
朝の家事をしながら これだけはと特に耳を傾けるのは テレフォン人生相談で三石由起子さんが担当する日
今日は お子さんの吃音により お友達との交流が順調でないことを心配する お母さんからの相談だった
いつものように 歯切れ良い口調で お悩みに応じる三石さん
相談内容が私とは縁のないことでも 三石さんの 私も頷いてしまう回答を聞くだけで 私の心も晴れ晴れする
回答の主旨は 私の個人的な印象かもしれないけれど お母さんが お子さんの吃音を病気として認識し過ぎているので そうではなく お子さんの吃音と言う体質を 個性として向き合うこと というアドバイスのように思った
それは 吃音に限らず あらゆるハンディキャップにも当てはまることのように 思う
その結論で 番組は終了かと思ったのでしたが
書く気も無かった 今日
書きたい気持ちに駆られて 書かずにいられなかったのが 最後に三石さんが話されたこと
三石さんが受け持たれた生徒さんに 指の一部が欠損している女の子がいたそうで ある日 そのことで周囲から からかわれるような状況があった
すると その女の子は
私の[無いところ]は あなたに見えるけど
あなたの [無いところ] は表から見えないから
良かったね
と 対抗したという
三石さんが言われるには
たぶん その女の子は そのような時には そのように言いなさいとママに教えられているのではないか と
無いところ
表からは見えない 人の[無いところ]を 負 に言い換えるとしたら 確かに生きていく上で その人の負の部分が表からは見えないなら それはラッキーであり 女の子が言うように それは良かった と言えることなのかもしれない
いつも 番組の終わりには 三石さんのアドバイスにより悩みが解決して 明るく [ありがとうございました] に 三石さんの [ガンバレ!] という声掛けで〆られることが多く そして私も頑張ろう と 元気を貰うのだけど
今日の私は ウルウル
そして 相談をなさった お母さんの [ありがとうございました] も 涙声だった
もちろん 嬉しい涙ね
よいお話を聴かせていただきました。
人生に大事なものは見えないもののほうですね。
水仙さんにとっては、[見えないところ] のハンディと言う事で、気になる話だったのでは、と思います。
おりしも、麦に中傷されたと言い続けている人の [見えないところ]についても、偶然でしたが考えさせられました。
ご本人のブログからは見えなくても、私のブログで、[あの人の見えないところ]が、しっかりと見えたのではないでしょうか。
コメント欄の使い方の怖さを、つくづく思い知らされています。
>人生に大事なものは見えないもののほうですね。
見えるものだけで判断してはならない、と言う事ですね。
かれんさんは、見えるところと見えないところに、180度の違いがあることが、私には見えたと思います。
かれんさんには、今、シニアのカテゴリ内で身震いするような感覚があり、折を見てカテゴリを離れます。
シニアカテで、びこさんと出会って、見えない部分は見えず、と言うか、見える部分も見えない部分も変わらない、と思っていましたが、びこさんを見失って、水仙さんと出会い、見えない部分は何だったんだろう、と模索しています。
こうしてコメントをいただき、かれんさんとは違う何かが見えたら良いなと思っています。
ありがとうございました。<(_ _)>
私の[無いところ]は あなたに見えるけど
あなたの[無いところ]は表から見えな いから良かったね
もしかしたら、そう言う様にと我が子に教えたかも知れないお母さんも、
教えられた通りに言える女の子も、
どちらも凄いというか立派というか、なかなか出来ることではありませんよね。
うるっと来ました。
多分私には真似出来ないです。
私ならきっと、きつい言葉で言い返してますわ^^;
本人(からかう方の子)は、自分のそういう”無いところ”は目に見えないと思っているかもですが、
実は誰の眼にも本当は見えているんですよ。
周囲にバレバレなんです。
そして一番、自分に見えているはずなんです。
仮に周りが解って無くても、少なくとも本人は解っているはず。邪悪な心が。
そういうことなんじゃないかなと思います。
小さな罪から大きな罪まで、バレなかったらそれで無かったことになると思う人居るかも知れませんが、
そんなはずはないのです。
よく言うでしょ?お天道様は見ていると。
自分史には、間違いなく記されることでしょう。
そういう意味では、表から見えなくても、本当はラッキーなんかじゃないのでは?
と思ったりします。
理解出来ていない分、不幸なんじゃないかと。人生損していると。
で、何となくこんなことを思い出しました。
結構昔の話で、誰に聞いたのかさえ思い出
せませんが、
友だちをいじめるとか、我が子を叱る時とかに、”つねる”人が居ると。
私は”つねる”という行為をしたことがないので、その心情は判らないのですが、
何故”つねる”なのかな?と。
それは・・・目立たないからだそうです。
叩けばアクション目立つ。パチン!と音もする。
だけど”つねる”という行為は目立たないし、人に隠れてこっそり出来る。
それでいて、痛い目には遭わせられる。
スッと近づいて身体のどこでも簡単につねられますものね。
そういうことらしい。
それを聞いた時、なんだかゾッとしたし、陰でコソコソみたいで、
陰湿なやり方だなと思った記憶があります。
ちょっと関連が無かった?かも知れませんが、要は見えようが見えなかろうが、
やっていることは事実だということを言いたかったのです^^;
隠しようがない。
”無いところは見えている”のです。
いじめるだとか貶めるだとか有り得ないし、
卑怯もズルいもキライです。
言いたいことがあるなら堂々と言えば良い。
それが出来ずに陰で悪いことするのは自信の無い可哀想な人ってことです。
その女の子の言葉で、そんなことを思いました。
改めて、いくつになっても心はキレイで居なくっちゃと思いましたよ。
長く生きて来て、色々垢も泥も付いていますが💧、
少なくともそういう思いは持っていたいなと。
そう思わせて下さってありがとうです(^^♪
でしょう~!
書く気も無く家事に励んでいた時に聞いて、ウルッとして、書かずにはいられなくなりました。
おそらく多くは、きつい言葉で言い返すか、悲しくて萎えてしまうのではないでしょうか。
>周囲にバレバレなんです。
>そして一番、自分に見えているはずなんです。
↑ 言われてみて、なるほどそう言うことですね。
そしてそれは、ラッキーではなく、本人にとっては不幸な事なんですね。
にもかかわらず、これが本人にも周囲にも 「良かったこと」 として、まかり通っている世界が存在することは無念です。
つねる、そう言う行為もありましたね。
見えないところでの悪意ある行為、その行為は、その場では見えないけれど、そう言う行為をする人間であることは、周囲には見えている、という結論ですね。
それが見えても、見えてないフリをして、そのような人間同士が快楽を得ている世界も存在するのですよね。
きれいな心で生きていたいと思えば、自然体で生きられるように思います。
狡い心で、見えないところを隠そうとして生きていると、ときには逃げたり隠れたりして生きなければならない、不安定さが見えるように思うのです!
はい!
良い休日を過ごされますように~(^^)/
真理眼を持っていれば良いのでしょけど…。
その点、植物はある程度予測できるのでしょうね?
人の心理なんぞは、十人十色、百人百様ですし、
そこに、妄想が膨らむと、自分流の観方でしか観れませんしね。
私は、あの時のコメントの応酬の中に、
今も、忘れられないコメントがあったんですよ。
HNは太郎。
私に対して揶揄したコメントでした。
それが、文面によってその人が丸見えになってしまったのです。
短文でしたが、色々書いた後の最後のフレーズが、
「あんたもかわいねえ」という言葉。
この文面での「立ち位置」でまるわかりでした。
多少の交流があった方でしたが、
第三者もいたので、めんどくさくなって離れたのでしたが、
太郎さんが、面白くなかったのは当然ですので、仕方ないのですね。
ただ、どさくさにまぎれ、こんなところに出没するんだと、
人間性を疑いました。
こでは、見えないはずの心の奥底が見えた典型でした…。
ネットでのメリットデメリット?
見えないと、なんでも書ける、言える?といったところですかね。
堂々と、通常使っているHNを書けば良いのに…
それが書けない人であることも分かっていました。
そろそろ、明日になりそう~!
水仙婆の書き込みがありますね...
〉見えないものの方が大事...
水仙婆は指の少ない子の視点での発言なのでしょうね。
爺は、麦さんと同じく、水仙婆の見えないところを考えました。
水仙婆の難聴というハンデは個性でしかないので、どうでも良い事と思っています。
ネットやブログで関係ないハンデですから。
かれんさんというのは、かれん桜さんですよね?
この話は爺がROMの方から以前聞いた話だから、真偽は分かりませんが、水仙婆はかれん桜さんにものすごく憧れを持っているという話を聞いたことがあります。
麦さんがかれん桜さんの見えないところが見えたというように...
爺も水仙婆の見えないところがとても良く見えました。
水仙婆には見えないところなのでしょうね。
だから、麦さんがかれん桜さんに戸惑うように、爺も水仙婆に困ることがあります。
そして、コメントの使い方の壊さ...
爺は、コメントの使い方の怖さも知りましたし、コメントの使い方のずるさも知りました。
水仙婆からはコメントの使い方のずるさです。
自身のブログでは、気に召さないコメントは全て無視して表に出さない...
他者のブログでは、爺に関して事実でないことを書くずるさ...
特に後者はそのブロガーさんだけでなく、そのブログを読むさらに先のブロガーさんにも伝染していく情報です。
そして...
水仙婆のコメント術はもうひとつあります。
今回の何気ないコメントがそうですね。
影響力や丁寧なコメントの回答をする人にこのような何気ないコメントを書いて、長くて酔い返事を引き出すことがあるのです。
麦さんは水仙婆に対して、公平な視点での回答をされました。
麦さんも、もう少し水仙婆に寄り添った返事を書いていたら...
水仙婆の思う壷でした。
麦さんのフォロワーさんの多くの方が、オセロで表現すると水仙婆の面を上にして、水仙婆の不正確なブログを読んでいたかも知れません。
びこさんの見えないところ
水仙婆の見えないところ
爺は、見えないところを全て見せていなかったのがびこさんだと思います。
そして、見せていなかったところを見せるようになったのですが、見えないところが全く見えていないのが水仙婆だと思います。
そのために、爺はとても大変なことになっていますが、水仙婆自身が見えないところを見る日は来ないのかも知れませんね。
植物は、手を掛けたら掛けたように、正直に応えてくれ目に見えて育っていますよ。
[愚か者の戯言]でのことですね。
ロムの方々の気持ちは分かりませんが、コメントをくださったかたは、全てと言えるほど、桜さんの行為を非とする指摘でしたが、1件だけ、明日葉(kanmo)さん宛てのコメントがあったことを鮮明に覚えています。
文面から、記事の主旨とは無関係に、明日葉さんへの個人的な感情であることは傍目にも分かりました。
偽名であること、そして、私のブログを利用して明日葉さんにダメージを与えると言う行為により、その人の公明正大でない心が透けて見えましたね。
表からは見えなくても、見える人には見えるのですよね、特に本人には。
そして、受けた側には、忘れられないのですね。
なつかしい思い出と言えばそれまで、でも、こうして話したくなるのは、心の傷跡が消えないからなのでしょう。
相手の方は、とっくに忘れているでしょうね。
この記事をリンクしたいというコメントを頂いていることからも、三石さんのお話は偉大だと、自己満足です! (*^-^*)
kogetagakuさんが爺と名乗られるので、それもアリかもしれませんが (*^^*)
水仙さんのお名前に、とうとう[婆]をつけるようになられたのですね。
実は私も、かれん桜さんに対して理性を失わないよう努力をして来ましたが、10年近い今となっても、相変わらず聞き苦しい日本語を羅列して、麦に誹謗中傷された被害者に成りすましてる姿には、もう、この人に配慮をする気持ちは消え失せ、敬称を省き伏字もしないで、
[今日が一番素敵]のブログ主 [かれん桜]を絶対に許すことはありません。
と、公開するような人間になりました。
煎じ詰めれば、かれんさんは、私を誹謗中傷した加害者なんですが、最近になって、kogetagakuさんも、私と同じように、加害者という冤罪を背負わされた被害者であると言う事を見聞きしました。
私の経験から、その心境が良く分かるので、ともかく応援をしたい、という気持ちをお伝えします。
かれんさんについては、直接、私に降りかかっていることなので、正々堂々と、かれんさんの嘘を暴露し、そこには微塵の負い目もありません。
でも、kogetagakuさんの周囲で起きたことは、私の目で確認してないので、水仙さんが非である、とする考えを公言することが出来ません。
それなら、なぜkogetagakuさんを応援できるのかと言えば、kogetagakuさんのブログから見えることを私の目で確かめ、私自身がkogetagakueさんが書いていらっしゃることを信じられるからです。
その最大の理由が、コメント欄を開放し、承認制でもなく、kogetagakuさんにとって不快だったり反論であったりするようなコメントも、全て表示なさってるからです。
かれんさんは、せめて承認制なら許せる余地もありますが、コメント欄そのものが閉ざされ、他人の声を遮断し、ひたすら、被害者としての辛さを一方的に蒸し返すだけです。
かれんさんが被害者であり、私が加害者であることは、かれんさんファンの目に見える、疑いのない事実なんですね。
私は、びこさんブログのファンでした。
たまたま、水仙さんのご縁で、kogetagakuさんを知りました。
びこさんを見失ってから、水仙さんに出会うまでの間の事は、私には分りません。
ですから、今、私の目で確認できてないことを、他から聞いたり想像したりして、水仙さんが加害者であるという確信をもって私のブログ上で公言することは、ブログ主として出来ないのですね。
私の経験から、コメント欄を設けず、一方的に、[被害者気取り]の、かれんさんから被る私の苦痛が、今のkogetagakuさんの苦痛と重なることから、出来る限り応援したいというのが、今の私に出来ることです。
かれんさんは、私のブログのコメント欄が開放していたころは、勝手な妄想だったり記事とは関係ない、ご自分の思いを幾度となく書き込みました。
それが、今は、ご自分のブログで、ご自分の正当性を公開しています。
私のコメント欄が承認制に変更されたので、公開されないことを予想してのことでしょう。
つまり、かれんさんの目的は、閲覧者に、[私が正しい、麦が悪い] が、目に見えればいいのです。
見えないところなら、何が嘘で何が事実なのか、あの人にとっては、どうでも良いことなんですね。
これは、水仙さんとの違いだと思うのですが、ご自分のブログは汚さず綺麗ごとで閲覧者を求めるような、かれんさんのブログには、まったく興味がありません。
水仙さんから、このスレッドのリンクの許可を得る旨、コメントを頂いています。
加害者が実は被害者、という点で共通しているかと思いますが、水仙さんと、かれんさんには、大きな違いがありますね。
ここには、kogetagakuさんから、水仙さんを非とするコメントがありますが、にもかかわらず、ご自分のブログでリンクすることの潔さに、私は、かれんさんとの違いを感じるのですね。
節々に、かれんさんとの、このような違いを考えるにつけ、ガッチリとコメント欄を閉じて被害者に成りすましている、かれんさんとは、何かが違って結論が出て欲しいと切に願っています。
承認制のコメント欄を設けている水仙さんが、被害者になってしまった原点はどこにあるのかを、私の目で確かめられたらと思います。
びこさんから水仙さんまでの間の、見えないところで何があったのか、それが分かるまで、kogetagakuさんの発言に注目し、その努力にエールを送ります。
リンクについて、了解です。
それはそれとして、リンクの公開はフライングだったようですね。
大好きな三石さんの言葉で、私の方からも拡散を願いたいくらいですから、無断でのリンクも構わないことでしたが、トラブルを避けるためには、返信を確認してからの方が、良かったかもしれませんね。
このようなことも、トラブルの元となりがちかな、と思って、余計な一言ですが添えさせていただきました。
ブログを拝見させていただいています。
リンクにつきましては、ありがとうございました <(_ _)>