安徳天皇御陵(阿彌陀寺陵)
赤間神宮
山口県下関市阿弥陀寺町
1180年 治承4年4月29日
後白河法皇の皇子、以仁王により、全国に雌伏する源氏へ平家への討伐を命じる令旨が発せられ三月あまり、伊豆で配流の身であった源氏嫡流の源頼朝が挙兵し、一度は敗れたものの、奢る平家に憤懣(ふんまん)を爆発させる寸前にあった関東の地侍〜いわゆる坂東武者たちを従えることに成功した頼朝は、討伐に遠征して来た平家軍を富士川の戦いで蹴散らし、そして、なにより後に戦で天才的な力を発揮する末弟の九郎義経をも従えて父祖伝来の地、鎌倉を本拠地に据えて力を蓄えます。
この時、頼朝 34歳。
頼朝の挙兵より遅れることひと月、信濃では、源氏の傍流にあたる源義仲(木曽義仲)が兵を挙げます。
関東の南で勢力を誇った頼朝の父、義朝。
一方で北関東で勢力を誇った義仲の父、義賢。
義仲の父(義賢)はかつて、頼朝の長兄〜義平に討たれ、いまだ源氏の力の及ばない信濃の森深い木曽の地へ逃れ潜伏しました。
義仲は以仁王の令旨をもって挙兵、父の思い出の地である北関東、上野を手中に収めると、頼朝の影響下にある南関東は避け、北陸へと目を向けて信濃に戻り、頼朝と同じ様に勢力を蓄えます。
1183年寿永寺2年5月
北陸からの豊富な資源を絶たれていた平家は鎌倉の頼朝よりも、義仲の討伐を優先して10万とも伝わる大軍勢を差し向けますが、倶利伽羅峠の戦いでまさかの大敗を喫します。
治承4年の富士川、寿永2年の倶利伽羅峠と、源氏に二度の大敗という失態を晒した平家の声望は たちまち地に落ち、なお、義仲は以仁王の遺児、北陸宮を擁していることと、両者にとって不気味な存在であった比叡山延暦寺の僧兵の勢力が源氏についたことで勝負あり、この勢いも後押しして義仲が京へ進軍します。
平家は京の守りを維持出来ないと判断し、幼帝〜安徳天皇を伴い、三種の神器を携えて西国に逃れます。
11に続きます。